お寺さんぽ Ver.03

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宇喜多秀家 <前編> (神奈川・一夜城址)

2006年02月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回は神奈川の一夜城址、そこに参加した武将として看板がありました
五大老の一人従三位中納言、宇喜多秀家さまです。

石田三成好きなひでるさんは当然西軍派で、そこで奮戦した武将について
もお気に入りです。
もし、ひでるさんが当時に生きていたなら、三成さまのもとへ馳せ参じたでしょう。
……間違いなく、お呼びはかからんと思いますが。

この宇喜多秀家さま、豊臣政権では五大老の一人。
なんと秀吉の養子です。
一時期は「跡目を継ぐのでは?」とまで言われたプリンス(のようなもの)でした。

彼の父、宇喜多直家は希代の策略家で、謀略・暗殺にて備前(今の岡山県あたり)
を主家より奪い取った大名です。
なにしろ実の弟が、
「兄の前に出るときは必ず鎖帷子(くさりかたびら)を着ていた」
というくらい、何をしでかすか分からん、おっかない人なんですね。

そうしてライバルを次々に葬っていった直家ですが、織田信長の命を受けた秀吉が
進出してくると、当時同盟関係だった毛利氏と絶縁して信長に臣従。
その三年後あたりに病死。

その当時、嫡男の秀家(幼名八郎)はわずか九歳でした。
「くれぐれも息子のことを頼む」
そんなこと言って亡くなったと思うんですよ、なんのかんの言って彼も人の親
ですから。
だからそれを受けた秀吉は彼を実子同然に扱い、「秀」の一字を与えただけで
なく、養女として大変可愛がっていた豪姫をも与えました。
(※ちなみに豪姫は前田利家の娘)
そんなでしたから「後継者は秀家か?」なーんて噂も当時は飛んだことでしょう。

秀家としても実の父親ではありませんが、相手はあの”豊臣秀吉”でしたから。
そりゃあもう、単なる育ての親以上の、ふかーーーーーい愛情をもっていたと思う
んですよ。
ほら、ねねさんもいますし。
(血縁の養子共はどうも阿呆が多かったですしね)

そんなこんなで秀家は豊臣流の「純粋培養」で、親父とは逆のまじめで純な青年と
なったのです。
                         <後編に続きます>


[住所] 石垣山一夜城 神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪地内


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