のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしてきましたが、これが最後となりました。
”鬼義重”と恐れられた「佐竹義重」の嫡男、十九代当主の「佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)」
(※ちなみに彼の母は「伊達晴宗」の娘なので、政宗とは従兄弟という関係)
義宣が後継者となった際には北の「伊達政宗」、南の「北条氏直」という両軍勢の挟撃を受ける危機的状況でしたが、関白「豊臣秀吉」に頼った佐竹氏は無事に領国を維持。
小田原征伐にも加わり、常陸・下野という約二十一万七千石を安堵されました。
さらに国人衆三十三家を謀殺し、まんまと常陸国の支配を強化を成功したのです。
文禄元年(1592)には第一次朝鮮出兵に従軍。
名護屋に参陣した義宣は、その翌年には朝鮮へと渡海しております。
文禄四年(1595)
ここで与力大名として蘆名氏、岩城氏らをつけられた佐竹氏は結果五十五万石を有する、立派な大大名となりました。
豊臣政権下で順調だった佐竹氏。
その律儀な性格からか、佐竹氏の取次役であった奉行「石田三成(※写真)」との仲は大変良かったようなのです。
慶長二年(1597)に起こった下野「宇都宮国綱」の改易事件でも、佐竹家は改易を免れているんですが…
「三成の取り成しで自家は安泰」
義宣は京都の父義重に、そう書き送っています。
いわゆる武断派らに三成が襲撃された慶長四年(1599)
こちらの際には、わざわざ伏見から大坂に駆けつけ、彼の窮地を救っています。
「今彼(三成)が危うきを見るに忍びず、身命を棄てて之を救ひたるのみ」
伏見まで護衛して送った行為は旧恩に感じるとして、「律儀者」との評判を受けています。
なお、後にこのことを尋ねられた義宣は…
「これまで公命に背いたことのない治部少輔を諸将が討たんとするのは私怨ゆえ、かつて恩をうけた彼を救援した」
と答えたそうです。
カッコいいなぁ。
慶長五年(1600) 上杉征伐
秀吉死後に勃発した上杉征伐では、義宣は陸奥棚倉まで出陣しております。
おそらくは専横を強める「徳川家康」に彼も不満を持っており、家康の呼びかけには参加せず、逆に父の代から同盟関係にあった「上杉景勝」に味方したのです。
ここで義宣は関東への侵攻を企てています。
(※なお、上杉征伐の報を受けた父・義重は上洛して家康と会い、出馬見合わせを懇願したらしい)
しかし、この動きは徳川派だった父義重によって、実現しませんでした。
外交や家政を補佐した一族の実力者、東家「佐竹義久」は徳川方への参陣を義重に進言。
結局義宣はこれに逆らえず、やむなく義久を家康の陣へ送っています。
慶長六年(1601)
続く関ヶ原合戦では、ほぼ動かないまま合戦が終結。
義宣個人としては三成に味方したかったようですが、父義重、そして家臣団は東軍を選んで猛反発したようなのです。
こうして板ばさみとなってしまった義宣は、思うような行動が取れなかったのでした。
これが残念ですねー。
彼が動いていれば、情勢は大きく変わっていたかもしれないのに…。
(…あ、伊達がいるか)
戦後、義重は義久と共に上洛。
家康に釈明したものの大幅の厳封処分は免れず、秋田藩二十万石へ移封。
慶長十七年(1612)
父義重は死去。
享年六十六。
慶長十九年(1614)
大阪冬の陣にも参加した義宣は寛永十年(1633)に江戸藩邸にて死去。
こちらは享年六十四。
遺言では、殉死を禁じた義宣。
子はおらず、跡目は弟「岩城貞隆」の子「義隆」が二代藩主となるのでした。
[関連記事] 【豊臣政権セット】
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⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
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⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [1 2 3 4 5 6 7]
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⇒ 豊臣秀次公菩提寺 瑞泉寺(京都)
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※森繁さんが家康役です。
佐竹氏は…そんな訳でこちらにも出番ありません。るるる。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしてきましたが、これが最後となりました。
”鬼義重”と恐れられた「佐竹義重」の嫡男、十九代当主の「佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)」
(※ちなみに彼の母は「伊達晴宗」の娘なので、政宗とは従兄弟という関係)
義宣が後継者となった際には北の「伊達政宗」、南の「北条氏直」という両軍勢の挟撃を受ける危機的状況でしたが、関白「豊臣秀吉」に頼った佐竹氏は無事に領国を維持。
小田原征伐にも加わり、常陸・下野という約二十一万七千石を安堵されました。
さらに国人衆三十三家を謀殺し、まんまと常陸国の支配を強化を成功したのです。
文禄元年(1592)には第一次朝鮮出兵に従軍。
名護屋に参陣した義宣は、その翌年には朝鮮へと渡海しております。
文禄四年(1595)
ここで与力大名として蘆名氏、岩城氏らをつけられた佐竹氏は結果五十五万石を有する、立派な大大名となりました。
豊臣政権下で順調だった佐竹氏。
その律儀な性格からか、佐竹氏の取次役であった奉行「石田三成(※写真)」との仲は大変良かったようなのです。
慶長二年(1597)に起こった下野「宇都宮国綱」の改易事件でも、佐竹家は改易を免れているんですが…
「三成の取り成しで自家は安泰」
義宣は京都の父義重に、そう書き送っています。
いわゆる武断派らに三成が襲撃された慶長四年(1599)
こちらの際には、わざわざ伏見から大坂に駆けつけ、彼の窮地を救っています。
「今彼(三成)が危うきを見るに忍びず、身命を棄てて之を救ひたるのみ」
伏見まで護衛して送った行為は旧恩に感じるとして、「律儀者」との評判を受けています。
なお、後にこのことを尋ねられた義宣は…
「これまで公命に背いたことのない治部少輔を諸将が討たんとするのは私怨ゆえ、かつて恩をうけた彼を救援した」
と答えたそうです。
カッコいいなぁ。
慶長五年(1600) 上杉征伐
秀吉死後に勃発した上杉征伐では、義宣は陸奥棚倉まで出陣しております。
おそらくは専横を強める「徳川家康」に彼も不満を持っており、家康の呼びかけには参加せず、逆に父の代から同盟関係にあった「上杉景勝」に味方したのです。
ここで義宣は関東への侵攻を企てています。
(※なお、上杉征伐の報を受けた父・義重は上洛して家康と会い、出馬見合わせを懇願したらしい)
しかし、この動きは徳川派だった父義重によって、実現しませんでした。
外交や家政を補佐した一族の実力者、東家「佐竹義久」は徳川方への参陣を義重に進言。
結局義宣はこれに逆らえず、やむなく義久を家康の陣へ送っています。
慶長六年(1601)
続く関ヶ原合戦では、ほぼ動かないまま合戦が終結。
義宣個人としては三成に味方したかったようですが、父義重、そして家臣団は東軍を選んで猛反発したようなのです。
こうして板ばさみとなってしまった義宣は、思うような行動が取れなかったのでした。
これが残念ですねー。
彼が動いていれば、情勢は大きく変わっていたかもしれないのに…。
(…あ、伊達がいるか)
戦後、義重は義久と共に上洛。
家康に釈明したものの大幅の厳封処分は免れず、秋田藩二十万石へ移封。
慶長十七年(1612)
父義重は死去。
享年六十六。
慶長十九年(1614)
大阪冬の陣にも参加した義宣は寛永十年(1633)に江戸藩邸にて死去。
こちらは享年六十四。
遺言では、殉死を禁じた義宣。
子はおらず、跡目は弟「岩城貞隆」の子「義隆」が二代藩主となるのでした。
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⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
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⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※森繁さんが家康役です。
佐竹氏は…そんな訳でこちらにも出番ありません。るるる。
上杉討伐の時、上杉景勝・兼続と共に、白河(会津)で家康軍を待ち伏せして討とうとした事はあります。(途中、家康は小山で引き返してしまい実現しませんでしたが)
そして、その後の減封も引き受ける。
本当に偉いと思います。
義理を重んじるのですね。
それでは感想まで
そんな事態になったら、義宣も参戦したりして…。
残念ですよねー。