お寺さんぽ Ver.03

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出撃!本能寺の変と戸木城合戦 (蒲生氏郷)4

2007年12月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。

蒲生家居城であった「日野城」は落城。
氏郷は人質として織田家に差し出されてしまうのですが…なんと当主信長の寵愛を受け、小姓として取り立てられるのでした。
なんだかいい具合に出世コースですよ。

永禄十二年(1569) [伊勢・大河内城攻め]
大河内城は村上源氏を祖先にもつ名門、北畠氏でした。
氏郷はこちらの合戦にて初陣をしています。

この際には果敢に敵軍を攻めて敵の兜首をあげ、手柄を立てて信長を喜ばせております。
子飼武将の活躍はやはり嬉しいものだったでしょう。
その褒美かもしれません、同年の冬に氏郷は懐かしい日野城へと帰され、信長から娘を与えられるのでした。
こうして、単に信長の一武将というだけでなく、新進気鋭な織田家と姻戚関係となったのです。
血が重視される世の中でしたから、信長の期待の高さが伺えます。
織田家に重用され、父と共に順調に経験を重ねていた氏郷ですが、彼の元に衝撃の報が届くのです。

天正十年(1582) [本能寺の変]
初陣から十三年後のこと。
日野城にあった氏郷に驚愕の悲報が届きました。

織田信長、明智光秀の謀反により本能寺にて横死

この時はまだ父「蒲生賢秀」が健在でした。
父に従って直ちに安土城へと駆けつけた氏郷は、信長の婦人らを保護して日野城へ帰還しています。
素早い決断で最悪の事態を防いだこの行動はもっぱら称賛の的とされました。
なお、石高は江州(ごうしゅう)で六万石。

天正十二年(1584)
家督を相続した氏郷は伊勢の松ヶ崎で十二万石を領しています。

伊勢松ヶ崎に本拠を移した氏郷に対し、「織田信雄」に仕えていた「木造具康・具政」親子が反抗しました。
(※なお、木造具政(こづくり・ともまさ)は過去に伊勢を領していた「北畠具教」の弟です)
ちょうど小牧合戦の時でして、権力を握った秀吉に「織田信雄」が叛旗を翻していたのです。

木造親子は小倭(おやまと)七人衆といった国人領主らと共同し、木造城・戸木城へ籠もって抵抗。
これに氏郷は隣国であった「織田信包」と共同し、付近の城から遠巻きに包囲・挟撃する作戦を立てました。
ここで、木造勢は「刈働き」という作戦を実施したと伝えられています。
これは敵領へこっそり侵入して、勝手に田畑を刈り取って食料を奪う作戦です。
なんのこたぁない、要するに単なる略奪なんです(笑)
しかし、こちらが富んで敵軍が疲弊するという、単純明快・効果的な作戦でもあるのでした。

この奇襲の報に接した氏郷はすぐさま出陣し、これを包囲・攻撃。
数にも勝っていた氏郷勢に、木造親子はなすすべもなく降伏した。
…というのです。
どうかなー。

実際のところは、小牧陣で「織田信雄」降伏に合わせて城を退去したというのが本当なようです。
まぁ、小競り合いもあったでしょうから、その中のエピソードの一つかもしれませんけれど。
(※ちなみに、きっちり戸木城以外の支城は陥落させてます。もう少し時間あれば落とせていたでしょう)
ともかく、こうして氏郷は家督相続後の危機も乗り越えたのでした。

⇒ つづく
  次回は「陣頭指揮・鯰尾の兜の武者」

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※当時の衝撃事件だった「本能寺の変」
 残念ではありますが、あそこでぱっと散ったからこそ、信長は今でも人気あるのだと思います。


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