お寺さんぽ Ver.03

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信濃に攻め入った若き大将 (村上義清2)

2011年02月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

”戦国最強軍団”と恐れられていた甲斐の大将「武田晴信(※写真)」
その生涯で敗北を味あわせたのは、鎌倉時代から続く名門・村上家の末裔「村上義清」でした。
国人層の反乱に悩まされていた信濃守護小笠原氏の隙をつき、北信濃にて高梨氏・井上氏らと争って勢力を拡大。
埴科(はにしな)郡を中心に、六郡(佐久・小県・更級、高井、水内)を領有する王者となっていたのでした。

天文十年(1541)
義清は甲斐「武田晴信」の父「武田信虎」とも争っていましたが、後に盟約。
共に謀って、小県(ちいがた)群の海野氏を追放し、そちらを支配することとなりました。
なお、武田氏の下で辣腕をふるうこととなる真田氏は、この際に主家である海野氏と共に追放されています
義清は後にその真田によって信濃から追われてしまうのが運命的ですね。

ちょうどその後に、とある歴史的事件が勃発しています。
海野氏を駆逐し、信濃から凱旋した「武田信虎」
娘婿である「今川義元」に会うため、ふと駿河へ赴いておりました。
これが六月から九月頃のこと。
すると、甲斐に残っていた嫡男「武田晴信」は突如国境を封鎖。
父・信虎を帰国できないようにしてしまうのです。

譜代家臣であった「板垣信方」、「甘利虎泰」なども晴信を支持し、晴信は国主となったのでした。
これには父子で共謀していたなど出来過ぎな説もあるようですが、暴政を行っていた信虎のこと。
個人的には、父子不和、国人層の訴えなどのが原因としてしっくりきますね。

天文十一年(1542)
そうした経緯で家督を継いだ晴信は、肥沃な土地である信濃への侵攻を決意しました。
父・信虎の戦略方針を無視し、当時は同盟関係にあった諏訪氏へ出陣。
こちらの上原城・桑原城などを次々に攻略していったのです。
さらに、大井氏、高遠氏などを次々に下し、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十四年(1545)
守護「小笠原長時」は武田勢に囲まれていた妹婿「藤沢頼親」の救援に出陣。
しかし、桔梗ヶ原での対決にて、小笠原勢は惨敗してしまうのです。
なお、佐久郡を拠点にしていた海野氏の一族(※「海野棟綱」の娘の子と言われる)である「真田幸隆」が武田氏に臣従したのが、天文十五年(1546)頃。
付近の道案内を切っ掛けとして、武田家へ身を寄せています。
さらに、後に上杉家で活躍をすることとなる義清の嫡男「村上国清(幼名源五)」が坂本館にて誕生したのも、この頃でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「ついに激突・上田原合戦」(3/6)


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