お寺さんぽ Ver.03

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追放された巨星の父 「武田信虎」 <前編>

2006年08月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国最強軍団と恐れられた武田軍の頭目、武田晴信こと信玄の父、「武田信虎」です。
ここで信玄をやらないとこがひでるさんらしいでしょ?


…実はですね、本当のところここで「長篠合戦」のネタをやりたいんですが、これをやるためには当時の当主、「武田勝頼」とその祖父にあたる「武田信虎」の説明が必要なんですよ。たぶん。
事前知識としてね。
あ、晴信くんは私嫌いなんで無視します。大河ドラマとかで皆知ってるでしょ?
そんな理由で、まずはやけに不人気で気の毒なおやじさんから。


甲斐(山梨県)の守護、武田家はこの信虎の代に頭角を現わし、分裂していた国を統一するなど、勢力を拡大しています。

この頃の情勢は、東の相模では二代目「北条氏綱」が台頭し、南の駿河では家督相続に勝利した「今川義元」が勢力を築いておりました。
(※余談ですが、義元の正室は信虎の娘だったりする)
室町の末期(戦国時代)でして、各地にておこった下克上の風潮からしだいに勢力差が出初め、時は旧態勢から新態勢へと移行しつつあったのです。

ここで後を継いだ十八代「武田信虎」は近隣の北条・今川と戦ったり、管領上杉家と北条家の争いに介入するなど、広い視野をもって積極的に活動していました。
また、近隣の諏訪家とは誼みを通じ、先の今川とも後には和平を結んで侵攻先を信濃(※北方の佐久より侵攻)に定めるなど、戦略・戦術としては平均点以上で十分な素質があったようです。

当時の信濃は農地・収穫量で言えば単純に甲斐の数倍もあり、また相模・駿河と違ってまだ小勢力が競う群雄割拠の様相でした。
後に信玄も同様に信濃へのルートを取っています(※西方の諏訪より侵攻)が、戦略としては後顧の憂いをなくして、さらに侵攻先を絞るという、実に真っ当なものなのです。
武田家の基礎を築いたのは、間違いなくこの信虎なのでした。

天文五年(1536)
佐久より侵入した信虎勢は海ノ口城を囲みます。
城主の「平賀源心入道」は豪傑で知られ、こちらでも良く防戦したため、攻めあぐねた信虎はいったん引き上げることとしました。
この戦に初陣であった晴信は自ら殿軍(しんがり)を強く申し出、引くと見せて兵を反転。引いたとみて油断していた城を急襲して、これをを奪うという大功を立てるのです。
この報に信虎は不快感を示したようですが、果たして家臣団はどう見たのでしょう?

⇒つづく

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (kiyojun)
2006-08-15 08:30:30
待ってました!

この辺りの話は大好きです。



自分、長野県出身者ですし…



ひでるさんの莫大な知識に期待!です。(^o^)丿
これから… (ひでる)
2006-08-16 00:28:42
ありがとうございます。

とりあえず「長篠合戦」がやりたかったんですよー。

私あの合戦大好きなんですね、詳細はあとで書きますが…。



これから歴史関連ネタは武田家が続きますよー。



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