のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代では”北条ファンクラブ”なひでるさん。
今回もひき続いて、北条家武将でも随一と言って過言でないだろう、武勇に秀でた名将「北条綱成(ほうじょう・つなしげ)」さまなのです。
今川家から北条家へ鞍替えした「北条綱成」さま。
二代目「北条氏綱」にその才を認められ、気に入られた綱成はその娘婿となりました。
源氏の氏神であった「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」を深く信仰していた綱成さまは旗指物にもその名を刻み、「地黄八幡(じきはちまん)」として周囲に恐れられていたのです。
天文十年(1541)
北条家武将となってから、およそ五年程度が過ぎたころ…。
当主「北条氏綱」の死去後もその信頼は揺るぐことなく、三代目「北条氏康」とよく連携しておりました。
ここは想像ですが、同い年であったこともあるのでしょう。
二人の関係は良好なものであったようです。
さて、北条家最大の危機として知られる、天文十五年(1546)の「川越城夜戦」では、武蔵国・川越城の城主となっておりました。
関東管領、山内「上杉憲政」や扇谷「上杉朝定」、さらには古河公方「足利晴氏」までもが加わった連合軍は圧倒的な兵数によって十重二十重に城を囲み、一時は城兵共々華々しい討死を覚悟していたという綱成。
しかし、当主「北条氏康」は”絶対に綱成を死なせてはならん”とそれを思い止まらせるため、わざわざ彼の弟「竹千世」を城中へ潜入させたと言われております。
「わが軍勢が到着するまで城兵が外へ打って出ないよう、くれぐれも自重するように…」
圧倒的に劣勢であった氏康ですが、その智略を遺憾なく発揮し、幾重にも巡らされた策はことごとく成功。
また綱成も本軍の到着まで辛抱強く城を守りきり、なんと約半年という長期戦を耐え続けたのです。
氏康率いる本軍の夜襲に合わせて城外へ打って出た綱成勢は、大将の一人である「上杉朝定」を討ち取るという大逆転勝利を呼ぶのでした。
合戦後、氏康は綱成を招き寄せるとその活躍を絶賛し、「東国無双の働きなり」という言葉をかけたといいます。
なお、綱成は武蔵国の所領を北条家へ身を寄せてきた旧「上杉憲政」の武士らに与えてその心を掴んでおり、圧倒的に不利であった「川越夜戦」の際には綱成と共に奮戦していたようです。
単に武辺一辺倒の武者ではなかったんですね。
永禄七年(1564)の「第二次国府台合戦」では夜陰に乗じて忍びの者を放ち、里見勢の状況を逐一探らせております。
さすがに歴戦の武将だけあって、情報の重要さについても理解していたのでしょう。
これがためか、地の利を活かして戦況を優位に運んでいた里見勢を背後からの奇襲によって、逆転勝利へ導いております。
元亀元年(1570)には駿河・深沢城主として武田勢の主力と激突。
後にはやむなく撤退しておりますが、一度はよく守って相手を退かせるほどの活躍を見せています。
このように、北条軍の主力として常に戦場にあった綱成。
氏康の死後には出家して、「上総入道道感」と称したのでした。
なお、嫡男「北条氏繁」も父と似て武勇に優れ、武田勢侵攻の際も相模・玉縄城をよく守って活躍しておりました。
元亀二年(1571)に家督を相続。
(※はじめは氏康の一字を拝領として「康成」との名乗りでしたが、相続後には「氏繁」と改めております)
永禄十年(1567)では武蔵国「太田氏資」討伐・岩槻領を支配、天正六年(1578)には対佐竹氏として下総・飯沼城に入り前線の指揮をとっておりましたが、父に先んじて同地で死去。
さらに氏繁の嫡男、孫にあたる「北条氏舜(ほうじょう・うじとし)」は相模・玉縄城から武蔵・岩槻城主として活躍しますが、後に氏勝へ家督を譲っております。氏繁の二男「北条氏勝」は秀吉の小田原攻めでは伊豆・山中城を守備。落城後は「徳川家康」に従い、下総で一万石を得て北条を存続させるのでした…。
【 戦国メーター★北条綱成 】
家柄: ■■□□□ もともとは付近の国人程度だったのでは?
実力: ■■■■□ 戦闘では無類の強さを発揮しておりました。
地理: ■■■□□ 大名ではないですが。京まではやや遠いかなぁ。
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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※そんな訳でこちらの本。
うーん、もうちょっと評価されてもいいと思うのだけれど。
戦国時代では”北条ファンクラブ”なひでるさん。
今回もひき続いて、北条家武将でも随一と言って過言でないだろう、武勇に秀でた名将「北条綱成(ほうじょう・つなしげ)」さまなのです。
今川家から北条家へ鞍替えした「北条綱成」さま。
二代目「北条氏綱」にその才を認められ、気に入られた綱成はその娘婿となりました。
源氏の氏神であった「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」を深く信仰していた綱成さまは旗指物にもその名を刻み、「地黄八幡(じきはちまん)」として周囲に恐れられていたのです。
天文十年(1541)
北条家武将となってから、およそ五年程度が過ぎたころ…。
当主「北条氏綱」の死去後もその信頼は揺るぐことなく、三代目「北条氏康」とよく連携しておりました。
ここは想像ですが、同い年であったこともあるのでしょう。
二人の関係は良好なものであったようです。
さて、北条家最大の危機として知られる、天文十五年(1546)の「川越城夜戦」では、武蔵国・川越城の城主となっておりました。
関東管領、山内「上杉憲政」や扇谷「上杉朝定」、さらには古河公方「足利晴氏」までもが加わった連合軍は圧倒的な兵数によって十重二十重に城を囲み、一時は城兵共々華々しい討死を覚悟していたという綱成。
しかし、当主「北条氏康」は”絶対に綱成を死なせてはならん”とそれを思い止まらせるため、わざわざ彼の弟「竹千世」を城中へ潜入させたと言われております。
「わが軍勢が到着するまで城兵が外へ打って出ないよう、くれぐれも自重するように…」
圧倒的に劣勢であった氏康ですが、その智略を遺憾なく発揮し、幾重にも巡らされた策はことごとく成功。
また綱成も本軍の到着まで辛抱強く城を守りきり、なんと約半年という長期戦を耐え続けたのです。
氏康率いる本軍の夜襲に合わせて城外へ打って出た綱成勢は、大将の一人である「上杉朝定」を討ち取るという大逆転勝利を呼ぶのでした。
合戦後、氏康は綱成を招き寄せるとその活躍を絶賛し、「東国無双の働きなり」という言葉をかけたといいます。
なお、綱成は武蔵国の所領を北条家へ身を寄せてきた旧「上杉憲政」の武士らに与えてその心を掴んでおり、圧倒的に不利であった「川越夜戦」の際には綱成と共に奮戦していたようです。
単に武辺一辺倒の武者ではなかったんですね。
永禄七年(1564)の「第二次国府台合戦」では夜陰に乗じて忍びの者を放ち、里見勢の状況を逐一探らせております。
さすがに歴戦の武将だけあって、情報の重要さについても理解していたのでしょう。
これがためか、地の利を活かして戦況を優位に運んでいた里見勢を背後からの奇襲によって、逆転勝利へ導いております。
元亀元年(1570)には駿河・深沢城主として武田勢の主力と激突。
後にはやむなく撤退しておりますが、一度はよく守って相手を退かせるほどの活躍を見せています。
このように、北条軍の主力として常に戦場にあった綱成。
氏康の死後には出家して、「上総入道道感」と称したのでした。
なお、嫡男「北条氏繁」も父と似て武勇に優れ、武田勢侵攻の際も相模・玉縄城をよく守って活躍しておりました。
元亀二年(1571)に家督を相続。
(※はじめは氏康の一字を拝領として「康成」との名乗りでしたが、相続後には「氏繁」と改めております)
永禄十年(1567)では武蔵国「太田氏資」討伐・岩槻領を支配、天正六年(1578)には対佐竹氏として下総・飯沼城に入り前線の指揮をとっておりましたが、父に先んじて同地で死去。
さらに氏繁の嫡男、孫にあたる「北条氏舜(ほうじょう・うじとし)」は相模・玉縄城から武蔵・岩槻城主として活躍しますが、後に氏勝へ家督を譲っております。氏繁の二男「北条氏勝」は秀吉の小田原攻めでは伊豆・山中城を守備。落城後は「徳川家康」に従い、下総で一万石を得て北条を存続させるのでした…。
【 戦国メーター★北条綱成 】
家柄: ■■□□□ もともとは付近の国人程度だったのでは?
実力: ■■■■□ 戦闘では無類の強さを発揮しておりました。
地理: ■■■□□ 大名ではないですが。京まではやや遠いかなぁ。
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戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡 (別冊歴史読本 (16))新人物往来社このアイテムの詳細を見る |
※そんな訳でこちらの本。
うーん、もうちょっと評価されてもいいと思うのだけれど。
じおうはちまん、のが確かに一般的かもしれませんね。
父の正成さんもかなりの方だったそうでまたまた好きです。
後北条がもう少し攻撃的な家であったならもっと活躍してた武将だと思います。
ただ資料が少ないのが残念ですよね・・・