お寺さんぽ Ver.03

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迫る島津勢と「高橋紹運」 (岩屋城合戦・高橋紹運)7

2010年03月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。
ついに籠城戦が始まります。

一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられたのでした。
沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向けて怒涛の勢いで侵攻を開始したのです。
この危機的状況に、上洛した「大友宗麟」は「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従。
プライドを捨て、助けをもとめたのでした。


天正十三年(1585)
島津傘下となった諸勢は、こぞっていまだ服属しない大友家へと刃を向けてきました。
島津としては、上方の軍勢が到着するよりも早く、九州全土を支配下にしようと急いでいたのです。

天正十四年(1586)
この頃、筑後へ出陣していた「高橋紹運」の留守を狙って、「筑紫広門(ちくし・ひろかど)」は宝満城を奪取。
城内にあった夫人、次男の「立花直次(高橋統増)」らは助命され、岩屋城へと送られていました。
帰還した紹運はそちらへ入城し、広門とぎりぎりの交渉を進めるのです。
なんとこれは実を結び、広門の娘を「立花直次(高橋統増)」に迎えるという和睦に成功したのでした。

しかし、わざわざ攻めるべき大友方の縁戚となったこの一件は、島津勢の怒りを買ってしまうのです。
当然ですわね。
どんな交渉したのか知りませんが、紹運が凄いのか、広門が面白い人なのか…。

ともかく、これがため豊後への進軍を延期し、広門を粛清するため北上を開始。
「島津忠長(しまづ・ただなが)」、「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」らの指揮する三万という軍勢は、筑前へ侵攻したのでした。

勝尾城の「筑紫広門」への攻撃は、「島津家久」が担当しております。
ここでは千程度の守備側から激しい抵抗に遭って五日ほど費やしたほか、多くの死傷者を出しています。
あの家久が、ちょっと意外ではありませんか?

…というのも、宇土、赤星、隈部、有働など、この際の遠征軍には”にわか服従の他国衆が多かった”んですね。
そのため、戦意は相当に低かったようなのです。
なお、落城の際に広門は捕えられてしまったのでした。

続いて、その矛先は紹運へ。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂」が籠城。
島津勢は、わずか数日のうちに太宰府を占領。
続いて、紹運の岩屋城をぐるりと包囲してしまったのです。

⇒ つづく。
 次回は「嫡男「立花宗茂」と戦術」(8/10)


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※ちょっと気になる合戦ムックです。
 知っているようで…って、ぜんぜん知りませんよ。

倒れる道雪と「高橋紹運」 (岩屋城合戦・高橋紹運)6

2010年03月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられるのでした。


天正十二年(1584) [沖田畷合戦]
大友氏の混乱に乗じて、勢力を拡大させていた肥前「龍造寺隆信」
しかし、「沖田畷合戦」では天才的な戦術家「島津家久」の必殺「釣り野伏」によって、兵力で勝っていながらも敗北。
総大将である隆信自身が討ち取られるという、決定的な敗戦となってしまうのです。

この「龍造寺隆信」の混乱を好機とし、「立花道雪」、「高橋紹運」らは筑後奪回のため出陣していました。
しかし、龍造寺方の筑後・猫尾城を攻めていた七十歳を超える道雪は、この遠征中病に倒れてしまうのです。

天正十三年(1585)
高良山(こうらさん)の陣中で発病した「立花道雪」は一時持ち直したものの、北野への進軍に再び病が深まり、ここで没してしまうのでした。
享年七十二。

我が遺骸に甲冑を着せ、柳川に向けてこの地に埋めよ

必死に看病する紹運に、道雪は遺言としてそんなことを言ったそうです。
彼の棺を守って殿を務めたのは、紹運でした。
しかし、筑後・筑前の敵勢らは、この葬列を遮らなかったと伝えられています。

父というべき「立花道雪」の死後、大友氏の命運は紹運の肩にかかりました。
しかし、事態はより大友家にとって不利なものとなっていくのです…。


沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢に、もう対抗できる勢力はありませんでした。
唯一残った対抗馬たる大友家も「耳川合戦」の敗北後は混乱を続けており、緒豪族らはこぞって島津へと従う有様。
怒涛の勢いで侵攻を続けるそちらに、九州統一はほぼ時間の問題という気運だったのです。

なお、中央では…
天正十年(1582)が本能寺の変。
「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」は、主君の仇である「明智光秀」、続いてライバル「柴田勝家」を賤ヶ岳に討って、天下人たる地位を固めてました。
難敵「徳川家康」を天正十四年(1586)に帰順させると、ついに四国・九州討伐へ乗り出したのです。
…ちなみに、「大友宗麟※写真」がこの危機的状況に上洛し、秀吉に助けをもとめたのはその頃です。
大友家は、秀吉の直参となったのでした。

⇒ つづく。
 次回は「迫る島津勢と「高橋紹運」」(7/10)


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※こうしたゲームで、九州メインにしても面白いのでは。
 嘘か本当か、宗麟の奥様はおっかない人だと聞きますので。

「高橋紹運」と養子の件 (岩屋城合戦・高橋紹運)5

2010年03月21日 | 歴史
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本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

一時は九州全土を席捲する勢いであった大友家。
しかし、元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、孤立した紹運らはぎりぎりの戦いを強いられるのでした。
そんな頃、以前から「立花道雪」に請われていた嫡男「立花宗茂(高橋統虎)※写真」は、婿養子として差し出されることとなったのです。

この宗茂とも実に興味深いエピソードがあるので、紹介しておきます。
養子として、立花城へ行くこととなった宗茂。
息子と別れの盃を交わした紹運は、
今後はわれを夢にも親と思うでない
…そんな事を言い出しました。

明日にもそちの義父鑑連(道雪)殿と敵になるやもしれぬ。
 敵味方となれば、立花勢の先鋒となって、間違いなくこのわしを討ち取るがよい

 
戦国な親子関係です。
実家は関係なく、養子先である立花の人間になりなさいと言っているのですね。
ここで思い出すのは、ひでるさんが好きな「斎藤道三」と娘「濃姫(帰蝶)」の話。
「織田信長」へ嫁ぐ彼女に、「うつけなら殺せ」と父が渡した短刀を受け取った「濃姫」は…
あるいはこの刀がお父様に向くかもしれません
そんな返事をしたというのです。
史実かどうかは別にして、いいですねー。
こちらとは逆のパターンですが、返事を聞いた道三が喜んだというのが印象的です。
紹運から息子への続き。
 
鑑連殿は常日頃から未練な振舞いを非常に嫌う。
 もしも不覚の行跡でもあろうものなら、間違いなく義絶されよう。
 その時はこの岩屋城におめおめ帰ろうなど思わず、ただちにその場で自害して果てよ


そう言って、刀を与えたのでした。
受け取った宗茂はその刀を形見とし、終始離さなかったそうです。
なお、この時の宗茂は十一歳(十三?)
実父もそうした人でしたが義父道雪も紹運が言い含めたそのままで、
「大変厳しい教育だった」
後にそんな事を言っております。

成果は着実にあらわれており、立花城へ入った翌年のこと。
野外で遊んでいた宗茂は、突然猛犬に襲われました。
それを見事嶺打ちにしたのです。
話を聞いた紹運が「なぜ斬らなかったのか」と訪ねたところ、
刀は敵を斬るものと聞いております
宗茂はそう答えたのでした。
こうした息子の成長に嬉し涙を浮かべた紹運は、
我が子ながら器量と雄才ともに抜群だ
というように誉めたのです。
(※ちなみに、その才を自慢するな、と戒めてます)

⇒ つづく。
 次回は「倒れる道雪と「高橋紹運」」(6/10)

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※「立花宗茂」さまは小説もいっぱいですね。
 見応えも十分だと思います。

嫡男「立花宗茂」と気に入る道雪 (岩屋城合戦・高橋紹運)4

2010年03月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

”雷神”という異名をもつ「立花道雪(戸次鑑連)※写真」と共に、筑前を守っていた「高橋紹運」
岩屋城で反逆していた「高橋鑑種」ですが、毛利氏の撤退によって降伏。
空いた宝満・岩屋の両城は、紹運に与えられ、また大蔵(おおくら)氏からの名家・高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(たかはし・しげたね)」となったのでした。
(※ちなみに、号の「紹運(しょううん)」を名乗るのは、天正七年(1579)です)
さらに、嫡男「立花宗茂(高橋統虎)」も誕生するなど、紹運自身は順風満帆だったんですが…。


元亀元年(1570) [今山合戦]
肥前に侵攻した大友勢約三万。
寡兵であった肥前の熊「龍造寺隆信」に対して大軍を擁する大友勢は圧倒的でしたが、なんとこれに敗北。
総大将であった宗麟の弟「大友親貞」が討死するという、手痛い敗戦を喫するのです。

天正六年(1578) [耳川合戦]
さらに、日向へと侵攻した「耳川合戦」
こちらでも、島津得意の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法によって、「島津義久」の率いる軍勢に大敗。
出陣していた多くの家臣が討死することとなるのです。
ちなみに、紹運の兄「吉弘鎮信」もここで戦死しています。

重なる敗戦で、大友家には以前のような勢いはすっかりなくなっていました。
筑後の「筑紫広門(つくし・ひろかど)」、筑前の「秋月種実(あきつき・たねざね)」らは、さっそく付近の諸将らと共に大友氏に反抗を開始しています。
有能な将を失い、敗戦処理に追われる宗麟らにはそれを止める余裕なく、ほぼ孤立したような紹運らはぎりぎりの戦いをすることとなるのでした。
肥前「龍造寺隆信」と結んだ筑紫・秋月ら軍勢は活発に活動。
天正八年(1580)あたりでは、宝満・岩屋城へ迫るほどの勢いがありました。
しかし、翌天正九年(1581)の戦いには「立花道雪」・「高橋紹運」らの軍勢に敗れ、また岩屋城へと迫った天正十一年(1583)でも、紹運の奇策によって敗れるのです。


そなたの嫡男統虎をわしにくれぬか

紹運にとって父親というべき「立花道雪」からそんな事を言われたのは、天正九年(1581)のことでした。
(※まぁ、実際にはそれ以前からちょくちょく言われていた様子ですが)
道雪には、実際に城持ち(※正式な手順で城督として登録されている)となっていた娘「立花千代」が一人いるだけで、男子に恵まれなかったのです。
また、もともとの戸次家を継いでいた一人目の養子「戸次鎮連」は、立花家の後継者としては力不足と見られていたみたい。

その点、優れた資質の持ち主として知られていた紹運の嫡男「立花宗茂(高橋統虎)」は、おそらく身近でも見たことのある道雪の眼鏡にかなったのでしょう。
嫡男で才もあった彼を他家へ出すことはなかなか承知し難いことでしたが、結局は道雪の熱意に折れて婿養子として差し出したのです。
(※ちなみに、前述しておりますが紹運には宗茂のほか「立花直次(高橋統増)」という男子がいます)

⇒ つづく。
 次回は「「高橋紹運」と養子の件」(5/10)

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※こんなん発見しました。
 もうなんでもアリですね(笑)

戦功をあげる「高橋紹運」と婚約者 (岩屋城合戦・高橋紹運)3

2010年03月14日 | 歴史
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本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。

永禄十年(1567)
父「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」、”雷神”という異名をもつ「立花道雪(戸次鑑連)」らと共に、筑前を守り、筑後へ侵攻。
大友家りの勢力拡大に貢献していました。
しかし、お家再興を目指す「秋月種実」が古処山城を回復。
さらに、彼を支援する「毛利元就」は得意の調略によって、岩屋城の「高橋鑑種(たかはし・あきたね)」、立花城にあった「立花鑑載」らを離反させたのです。
この危機的状況で総大将へ任ぜられた「立花道雪」は、筑前・肥前を転戦して毛利勢を破るなど活躍し、九州からその脅威を完全に排除したのでした。

永禄十二年(1569)
毛利氏の撤退によって、岩屋城で粘っていた「高橋鑑種」もついに降伏・追放。
こうして空いた宝満・岩屋の両城は、なんと今回の主役「高橋紹運」に与えられたのです。
さらに、大蔵(おおくら)氏から続く名家・高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(たかはし・しげたね)」となったのでした。
(※ややこしいですが、この直前まで「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」という名乗りだったのですよ)
ちなみに、号の「紹運(じょううん)」を名乗るのは、天正七年(1579)のこと。

なお、この頃に「千熊丸」こと嫡男「高橋統虎」が誕生しました。
その統虎こそが、後に「豊臣秀吉」から鎮西一と評されることとなる、「立花宗茂」です。
(※誕生年は永禄十年(1567)ほか諸説あります)

…と、うっかり息子が誕生してしまいました。
その前に、紹運の結婚にはちょっとしたエピソードがあるので、ここで紹介します。

彼には、父の「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」が勇将「斎藤鎮実(さいとう・しげざね)」とすすめた婚約者がいました。
鎮実の妹(娘?)「仁志姫(にしひめ)」との婚義は、各地を転戦していた紹運がため、延び延びになっていたのです。
ようやく落ち着いたある日、嫁にと申し出た紹運に意外な返答がありました。

その話はなかったことにしてほしい

なんと、彼が戦場で活躍していた間、「仁志姫」は痘瘡にかかっていたのです。

※痘瘡(とうそう):天然痘(てんねんとう)のこと。戦国時代は伝染力あり、死亡することもありました。有名なところでは、「伊達政宗」、「春日局」などがこの病にかかっています)

どうにか命だけは長らえたものの、姫の顔にはあばたが残ってしまったのでした。
鎮実が縁組を断わってきたのは、そのためだったのです。

しかし、当の紹運は…
斎藤家の祖先は大友家にて武勇のたくましい弓取りにごさりますれば、兄(父?)がそれがしの嫁にと約束したのです。
 それを辞退とは承知できませぬ。
 それがしは色を好む心で妻を迎えるのではありません


そう言って、構わず彼女を妻に迎えたのでした。
どこまで本当か分かりませんが、かっちょえーですね。
事実として、後に出家して「宋雲尼(そううんに)」と名乗る彼女との夫婦仲はいたって円満であったらしく、先の嫡男「立花宗茂」ほか二男四女をもうけているのです。

⇒ つづく。
 次回は「嫡男「立花宗茂」と気に入る道雪」(4/10)

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※これはオススメ。
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コンビニ限定 戦国騎馬武将 (サントリー・コーヒーボス)

2010年03月11日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
そうか、こないだのアレは「ジョージア」 だったんですねー。
コーヒー飲料業界に、
戦国ブームに便乗したら、そこそこ売れた
そんな噂が流れたのか知りませんが、今回はコーヒー「BOSS」にとっつけられて販売されていました。

こんなんはぜひ記事にして、こちらも便乗しなければ!
ということで、

『 コンビニ限定 戦国騎馬武将 (サントリー・コーヒーボス) 』 です。



缶コーヒー好きなひでるさん。
”おまけ”というものも、スポロガムの昔から大好きなので、さしてほしくもない「車」とかなんとか、とりあえず何かしらのおまけが付いている場合は、まとめ買いしているのでした。

んでつい先日のこと。
ああ、また何かついてるんだなーって思ったら、「戦国」という文字を発見。
戦国騎馬武将 ゼンマイで走る暴れ馬!
(※専用HP
…だって。

これはちょっと見逃せませんよね。
さっそく何本か買ってみました。
前回もそうでしたが、すっかりメーカーの思うがままです。
手のひら・ひでるさんなのでした。

こちらは馬の前足がゼンマイによって上下に震え、それによって前に進むというもの。
なかなか良く出来ていて、ゼンマイ回した時点ではそのままになっており、地面に置くとカタカタと進みます。

カタカタと音を立てつつ進む様は、暴れ馬というよりは遊園地の乗り物という風情で、なかなかに可愛らしいのです。
前足の位置が多少ズレているためか、だいたい左右どっちかへ曲がりますね。
レースさせようと思い、 並べて走らせたところ…どちらもコースアウトしていました(笑)

その馬は体色・飾り部分の色違いでそれぞれ武将毎に異なっています。
全10種類でした。
この馬に兜やポーズ、色などが異なる武将と、それぞれの旗がついているのです。
…どんなラインアップか、気になるでしょ?



・伊達政宗
・直江兼続
・前田慶次郎
・上杉謙信
・山本勘助
・織田信長
・豊臣秀吉
・武田信玄
・徳川家康
・真田幸村

うわわ、もの凄くフツー。
唯一、なんで「山本勘助」なんだろうって思いましたが、そうか大河であったのか。
全然見てないので、よくは知りませんが。
「直江くん」もなんだかあたり前のようにランクインです。
ちょっと前はほとんど知名度なかった(と思う)のに、大した出世ぶりですね。
「幸村」は実際のところ活躍時期はごく僅かなんですが、さすがは昔から続く人気モノという感じ。
ポーズとしても最も前傾姿勢っぽく、徳川勢へ向けて突撃をした夏の陣を彷彿とさせます。
あまり好きな人ではありませんが、付属の旗も考えると良さそうなのは「武田信玄」かな。
全身を金色の甲冑にしている「織田信長」もやはり見てみたいところです。



今回ひでるさんが引き当てたのは…「真田幸村」、「前田慶次郎」、「上杉謙信」の3タイプ。
その際は気付きませんでしたが、コレ中に誰が入っているのか、分かるのでした。
親切設計です。
…で、当然(?)のように、それに気付かなかったひでるさん。
4本購入のうち、最もどーでも良い「前田慶次郎」をダブらせてしまいました。
(※ひでるさんはこの男あまり好きでない)



がっかりです。
武将のつくりとしては、まぁこんなもんでしょう。
半跏状態で座っている「前田慶次」など、頑張って個性を出そうとしている感じが伺えます。
あと、何と言っても旗ですね。
シール状になっており、組み立てる必要があるんですけど…超ぶきっちょなひでるさんには酷な作業でした。



対象商品は「レインボーマウンテンブレンド」だけ。
これがちょっと残念ね。
だって、同じ味ばっかというのはつまんないんだもん。
だから4本しか買わなかったんですが。

しかし、「毛利」、「長宗我部」、「島津」と言ったあたりは、なかなかラインアップに加われませんねー。
そう、ファンクラブとしては「北条」がたいてい削られてしまうのが悲しいところ。
あるいは「今川」、より突っ込んで「佐竹」、「三好」といったあたりは、引っ掛かることすらほとんど稀。
悲しいです。



…とは言え、ブームに便乗してあちこちで関連商品が発売され、ショップができるというのはなかなか嬉しいこと。
ゲームからの一時的なもので終わらず、じんわりとでも続いてほしいです。
鎌倉とか、南北朝に広がって…くれないかなぁ。



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※武将グッズも増えてきました。
 ガチャピンもこんなんになってます。

侵攻する「毛利元就」と岩屋城 (岩屋城合戦・高橋紹運)2

2010年03月07日 | 歴史
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本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

天文十七年(1548)
吉弘氏の次男として誕生した、「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」こと「高橋紹運」
(※ややこしいので、後は「高橋紹運」で統一します)
その父「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」は初期の大友家を支え、「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」、「吉岡長増」らとともに”大友家の三老”と呼ばれたほどの武将でした。
主家である大友家も六ヶ国という守護職になったほか、九州探題へと任ぜられていたのです。
まさに、順風満帆な大友家だったのです。


さて、今回の主役・紹運ですが、この頃は父・兄らと共に筑前を担当。
優秀な彼らと共に、”雷神”という異名をもつ戦国武将「立花道雪(戸次鑑連)※写真」もおり、おそらくは彼らの背中を見て育っていたと想像されます。
(※おまけ。道雪[1513]と紹運[1548]は、三十五歳ほど年齢の開きがあります)

天正年間では、父・鑑理、道雪らの補佐として度重なる侵攻を退け続け、またその一方で筑後へと侵攻。
付近の「筑紫広門(つくし・ひろかど)」、「秋月種実(あきつき・たねざね)」らと戦って、その勢力拡大に貢献するのでした。

永禄十年(1567)
紹運の父「吉弘鑑理」らの活躍によって、一時は滅亡していた筑前の名門・秋月氏。
古処山城の落城直前に脱出していた子「秋月種実」は、中国地方へ逃れて安芸は「毛利元就」に身を寄せていたのです。
再興を目指す種実は、旧大内家の所領奪還を目指す毛利氏の九州出兵に協力して帰国。
休松(やすみまつ)合戦では大友の軍勢を破り、本拠である古処山城を回復したのでした。

さらに、元就は得意の調略によって、岩屋城の「高橋鑑種(たかはし・あきたね)」、立花城にあった「立花鑑載」らの離反に成功。
本拠を奪還した秋月氏に呼応し、なんと大友家に反逆してしまうのでした。

毛利氏の九州侵攻に同調して有力国人・家臣らが離反するという、危機的状況になってしまうのです
ううん、さすがは元就ですねー。

なお、ここで登場した、今回のメイン舞台である岩屋城。
こちらは筑前国御笠群の山城で、大友家の武将であった高橋氏が築いた城です。
筑前国での拠点として機能し、付近には「菅原道真」で有名な太宰府天満宮があります。
種実の父「秋月文種」討伐の戦功によって、筑前三笠郡を与えられていた「高橋鑑種」は太宰府の天満山へ天満城、その支城として岩屋城を築城。
筑前では、守護代的な地位を得ていました。
才を認められていた彼がなぜ毛利氏の誘いを受けたのかは不明ですが、「秋月種実」に呼応して岩屋城に籠城し、結局毛利の退陣まで抵抗し続けることとなります。

さて、ここで総大将に任ぜられた「立花道雪」は、筑前・肥前を転戦。
永禄十二年(1569)には筑前へ侵攻した「小早川隆景」率いる毛利勢を多々良浜合戦にて破るなど活躍し、また宗麟の奇策も当たって毛利勢を九州から完全に退けることに成功するのでした。

⇒ つづく。
 次回は「戦功をあげる「高橋紹運」と婚約者」(3/10)


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