お寺さんぽ Ver.03

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壬生寺 (京都)

2008年05月29日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、ちょっと読むのに戸惑いそうな「壬生寺(みぶでら)」です。

京都に住んでいた際は、某番組の影響もあってさながら新撰組フィーバー状態でした。
しかし、そんなんはどーでもよかったひでるさん。
なにせ江戸時代が嫌いなうえ、思想だのなんだのとややこしい幕末期も苦手だったため、詳しくないんですね。
当然、このお寺にも特別な思い入れはありませんでした。
そんな訳で、近所なので存在は知っていながら行かなかったのが、「壬生寺」だったのです。



こちらは律宗総本山「唐招提寺」の末寺。
本尊は重文「地蔵菩薩立像」、ほか水掛け地蔵や夜啼き地蔵などもあり、どちらかというと”お地蔵さんのお寺”として有名だったようです。

西暦二年(991)
平安時代で、藤原氏が摂関政治でブイブイ言わせている頃のこと。
(※ちょうど、漫画「暴れん坊少納言(下記↓)」の時代です。気軽に勉強したい方にはオススメ)
近江・三井寺(園城寺)の「快賢僧都(かいけん・そうず)」によって創建されました。
仏師「定朝(じょうちょう)」に「地蔵菩薩」を造らせ、それを本尊としたのが始まりなのだとか。
そんな訳か、昔は「地蔵院」、あるいは「宝憧三昧寺(ほうどうさんまいじ)」、「心浄光院」などと呼ばれていたようです。

正元元年(1259)鎌倉時代
火災によって堂宇を焼失しておりましたが、「平政平(たいらのまさひら)」によって再建されました。
しかし、「平政平」ってなんだか冗談みたいな、しつっこい名前ですね(笑)
かなり興味わいたので、彼は何者?…と思って調べてみましたが…………コレがまったくの不明。
ざーっと系図を見ていて、「政」「平」という字の方がほとんど不在であること(正、衡ならいるんですが…)だけ分かりました。
おそらくは、各地へ色々散らばっていた、マイナー系な平氏の方なのかもしれませんね。

ともかく、その「政平」によって再建され、「十一面観世音菩薩」がおさめられたことで”洛陽三十三所観音巡礼の第二八番札所”になったのです。

その後、正安二年(1300)には、大念仏会が「円覚上人」によって行われています。
その際に上演された、仏の教えを無言劇にした「壬生狂言(大念仏狂言)」(※重要無形文化財)が民衆の心をとらえ、大いに栄えていくこととなるのです。
ややこしい説法聞かされるより、確かにその方が効果的でしょうねぇ。
現代でも、道路の良さを伝えるためのミュージカルをやっていたようですし(笑)

さて、現在でも行われている「壬生狂言」は、声が届きにくかった昔、見にきた全員に分かりやすくするため大げさな身振り手振りで表現されたものなのだとか。
江戸時代になると娯楽性のほうが重視され、仏の教え~という色は薄まっていったようですが。

境内北門の隣にある舞台「大念仏堂」は安政三年(1856)のもの。こちらは重文。
本堂は昭和になって焼失したため、現在ものは昭和四十五年に再建されたものでした。
なお、本尊であった「地蔵菩薩半跏像」も本堂と共に焼失しており、現在は総本山「唐招提寺」にあったお地蔵様を移しているそうです。

前述のとおり、現在は”新撰組ゆかりの寺”として、やたら有名なお寺ですね。
私も友人の希望で連れられて行きました。

境内で大砲、剣術や馬術などの特訓をした記録があり、ミニパビリオンちっくな壬生塚には「近藤勇」の胸像(※↑写真)や「芹沢鴨」「平山五郎」などの墓があったり、資料室があったり、新撰組にまつわる逸話を紹介しておりました。
果ては「三橋美智也」さんまでいたりしますよー。



新撰組ファンか、地蔵ファン(そんなんいないか)なら、オススメなお寺ですね。
四条大宮駅からはそこそこ距離あり、道入ったやや見つけづらい場所なのでご注意を。


[住所]
 壬生寺 京都市中京区ボウ城通り仏光寺北入る


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※コレです、これ。
 平安時代を楽しく気軽に触れることができる、数少ない入門漫画です。
いきなり事柄だー、人物だー説明されても頭には入りません。
 まずはこんなんがオススメです。

時代の寵児・秀吉と忠棟くん 「伊集院忠棟」4

2008年05月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さま…の、悲しい最後についてお送りいたします。

九州統一を目前としていた島津家。
天下統一に向けて動いていた「豊臣秀吉」からの停戦命令を無視して進軍を続けた結果、天正十五年(1587)にはついに九州征伐を招いてしまうのでした。
勢いそのまま初戦には勝利した島津勢でしたが、大軍を擁する本軍が到着すると状況は一変。
しだいに追い込まれていく島津家を救った者こそ、出兵以前から地道に和睦交渉を進めていたという、忠棟だったのです。
剃髪した彼は、自らの身を人質同然に差し出し、「羽柴秀長」の陣へと赴いたのでした…。

その行動によって許され、戦後処理には秀吉の秘書官「石田三成」に協力した忠棟。
頑固に豊臣勢へ抵抗し続ける、大隅・大口城の「新納忠元(いにろ・ただもと)」を三成と共に城へ赴き、彼を説得しております。
さらに、検地を行った際には主導的な役割を務め、所領の配置替えなども推し進めておりました。

こうした働きから、「豊臣秀吉」は忠棟を高く評価。
永禄四年(1595)には、北郷氏に代わって日向・都城八万石を与え、さらに伊集院氏には島津宗家と同等の待遇を与えるのでした。
これは、実際に彼の能力を評価したというのもあるでしょうが、「直江兼継」と越後・上杉家、「小早川隆景」と安芸・毛利氏などでも用いた、秀吉お得意の戦略でもあったのでしょう。
結果として、この作戦は見事に的中するのです。

九州討伐より、お家の大事を身を呈してまで救った忠棟。
しかし、家中では群を抜いて見識が広く、また独断での行動であったため、他の家臣からは疎まれる存在となっていくのです。
さらに、太閤検地の一件では慣れた土地より離された家臣から一方的な恨みを買う結果となりました。
秀吉から得た極端に高い待遇はまた、島津本家から危険視される切っ掛けとなってしまうのです。
こうしたところは、三河・徳川氏の「石川数正」とよく似て、自らの見識の広さ・それによる行動が忠義一辺倒というガンコな家臣団になかなか理解されない、ということがあるのだと思います。
そのあたりが悲劇を招くこととなってしまうのでした…。

慶長四年(1599)
朝鮮出兵から帰還した「島津忠恒(家久)」の招きで、山城伏見の屋敷に赴いた忠棟。
なんと、忠棟はそこで殺害されてしまうのです。
(※彼の後ろ盾たる「豊臣秀吉」はすでにこの世の人ではありませんでした)
島津宗家から独立を画策していたとも伝えられていますが、島津家にとって最も邪魔な存在になっていたのでしょう

忠棟の死後、家督を継いだ嫡男の「伊集院忠真」は慶長四年(1599)に「庄内の乱」を引き起こしております。
十三の砦を構える要塞日向・都城に籠り、六万といわれる大軍を集めたことから、彼もなかなかの武将であったようです。
しかし、「徳川家康」の仲介によってほどなく和睦。
島津家に帰参することとなりましたが、慶長七年(1602)には「島津忠恒(家久)」の命によって日向・野尻で狩りの最中に暗殺。
ほか、一族もまた皆殺しにされてしまうのでした…。


【 戦国メーター★伊集院忠棟 】
 家柄: ■■□□□ 島津氏一族ではありますが、まぁこんなものでしょう。
 実力: ■■■■□ 文武両道の名将でした。ただ、末路を考えると満点ではないかなぁ。
 地理: ■□□□□ 九州ですからね。船だと多少近いかもしれませんが。


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※資料が足りないことが多いので、ちょっとこんな本を買ってみました。
 …実家にはもっとあるんですが。

島津家の名将・義久と忠棟くん 「伊集院忠棟」3

2008年05月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さまについてお送りいたします。

九州統一を目前としていた島津勢。
筆頭家老「伊集院忠棟」もその陣中にあって、抵抗を続ける大友勢の諸城を攻略しておりました。
しかし、その胸中は複雑なものでした。
東海の「徳川家康」をおさえ、四国をも制圧した「豊臣秀吉」率いる大軍勢が間近まで迫っていたのです。

さて、前回書いたように、忠棟は政務・合戦の両面で活躍する名将でした。
さらに文芸の嗜みも深く、歌道にまで通じていたという、まさに文武両道な方だったのです。
その関係から文化人武将「細川藤孝」との親交があり、ほぼ日本の最南端というような土地にありながら、非常に見識の豊かな人物だったのです。

そのため、豊臣勢を軽んじる家中には、相当に困惑しただろうと想像されます。
状況判断に優れる三男「島津歳久」は主戦論に傾く家中にて、ほぼ唯一反対を唱えたと伝えられております。

詳細までは不明ですが、筆頭家老たる立場もある忠棟が主戦派であったとは到底考えられません。
歳久の提案には深く賛同した、というか…あるいは、藤孝とのパイプなどを考慮すると、もともとの発案者は彼であったかもしれませんね。
東北・伊達家では、同様の状況から軍師「片倉景綱」が「伊達政宗」を説得して危機を乗り越えておりますが、こちらでは当主「島津義久」を口説ききれなかったようです。
さすがに、政宗らのような固い主従関係ではなかったようなんですねー。

天正十五年(1587) 「九州討伐」開始。

大友勢の救援に駆けつけた、長宗我部氏など四国勢を中心とした先発隊を初戦「戸次川合戦」に破り、さらに勢いづく島津勢。
しかし、秀吉の弟「豊臣秀長」率いる十万ともいわれる本軍が到着すると、しっかり統率された大軍勢の前で次第に不利な戦況となっていくのです。

なお、当主・家中を説得できなかった忠棟ですが、九州出兵の始まる以前から、密かに和睦交渉を進めていたと伝えられております。
関ヶ原合戦にて、毛利家は「吉川広家」が独断で根回ししていたのと同様ではないか、と想像します。
忠棟も筆頭家老として、万が一の事態に備えたのでしょう。
それが当主・義久の命であったのか、独断であったのか不明ですが、こうした家中とは逆の独自な行動をおこすというのは、たとえそれが島津宗家を救うための策であったとしても、なかなか理解されないものです。
先の「吉川広家」がその活躍とは裏腹に家中で孤立してしまったように、彼も苦しい立場になっていくこととなるのです。

九州入りした豊臣勢に対し、国人領主らはこぞって島津を見限って、豊臣家へ帰順を申し出ております。
圧倒的な兵力差と情勢の変化により、戦線の縮小を余儀なくされた島津勢。
支城は次々に落とされ、また寝返った領主から追撃を受けるなど、撤退すら困難であったのです。
どうにか体制を整えた島津勢は日向「根白坂合戦」にて奮戦するものの、豊臣勢によって総崩れにさせられてしまうのでした。

そんな中、豊臣家とのパイプを持つ忠棟は、いまだ徹底抗戦を主張する当主「島津義久」、次男「島津義弘(写真)」に降伏を説き、自らは剃髪して弟「羽柴秀長」の陣へ人質として赴いたのでした。

さすがに当主義久もこの時に至っては判断良く、合わせて秀吉に降伏。
結局、薩摩・大隅という二国を安堵されたのでした。
この、自らを人質同然に差し出した働きにより、島津氏は完全に討伐されることを免れたのです。

⇒ つづく
  次回は「時代の寵児・秀吉と忠棟くん」(4/4)

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※こんなん見つけました。
 あの旗印に皆は慌てふためいたことでしょう。

政務に長けた父・忠倉と忠棟くん 「伊集院忠棟」2

2008年05月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さまについてお送りいたします。

…島津一族の伊集院家は度々島津宗家と争ったり、また協調したりしておりました。
島津・伊作家の名将「島津忠良(日新斎)」に仕えた忠棟の祖父「伊集院忠朗(いじゅういん・ただあき)」は政治・軍事で活躍し、よく彼を補佐していたのでした。

天文十八年(1549)
忠棟の父「伊集院忠倉(いじゅういん・ただあお)」は続いて島津宗家を継いだ「島津貴久」に仕えました。
大隅・加治木領主「肝付兼演(きもつき・かねひろ)」が「入来院重朝」「東郷重治」らと共に吉田城を攻めたことから勃発した「黒川崎合戦」では父忠朗と共に活躍。

折からの暴風雨に乗じて肝付勢を奇襲し、さんざんに打ち破る活躍を見せて、その勝利に貢献しております。
永禄元年(1558)から五年間ほど筆頭老中を務めていた忠倉。
彼はどちらかというと、合戦よりも政務面などに長けた武将であったようなのでした。

さて、今回の主人公「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」はそんな「忠倉」の嫡男として誕生。
早くから貴久の嫡男「島津義久」に仕え、やはり非凡な才を発揮しておりました。
なによりの証拠として、永禄九年(1565)ですから…父の引退から二年後というその年には、もう筆頭家老となっているのです。
まるで世襲ですねー。

ちなみに、よく聞かれるだろう「家老」という役職は、武士団での最高位でした。
通常は重臣と呼ばれる譜代家臣の中から選出され、複数人数いるのが一般的です。
忠棟については、その筆頭と言う訳でしたから、ほぼ一門衆に次ぐくらいの地位になっていたのです。

当初は主に政務を取り仕切っておりました。
しかし、彼は父よりも祖父忠朗に似ており、しだいに政治だけにとどまらず軍事面でも非凡な才を発揮し、重用されるようになっていくのです。
日向・肝付氏、肥後・有馬氏の救援などを成功させたほか、軍事でも活躍した忠棟は各地を転戦。
天正八年(1580)には肥後・筑後の制圧に着手し、志田城・阿蘇氏、肥後・龍造寺氏などと激しく戦っておりました。
まさに、政治・軍事の両面で島津家を支えた、エキスパートというべき武将なのです。

大友・龍造寺・島津という三つ巴の様相であった戦国時代の九州地方。
当初、最も勢力のあった大友家は当主「大友宗麟(写真右)」がキリスト教に傾倒するなど家中が混乱する中、日向「耳川合戦」にて島津勢に致命的な敗北を喫し、急激に衰退。

また、肥後から筑前・筑後などを制圧して”肥前の熊”と恐れられた「龍造寺隆信(写真左)」は、「沖田畷合戦」において戦術の四男「島津家久」に圧倒的な兵力差を覆され、当主隆信が討ち取られる大敗となるのです。

こうして、それぞれの主要合戦において強敵を次々と破った島津勢の勢力はすさまじく、九州統一は目前という状態でした。
出陣していた忠棟も、筑前・大友氏攻めに参加。
岩屋城、宝満城などの諸城を次々に攻略するなど、こちらでも多大な戦果を残しております。

矛先を「立花宗茂」の守備する立花城へと向け進軍しておりました…が、その胸中はおそらく複雑なものがあったと思われるのです。
そう、中央を統一していた「豊臣秀吉」が勢いある島津に「待った」をかけていたのです…。

⇒ つづく
  次回は「島津家の名将・義久と忠棟くん」(3/4)

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※こちらのシリーズはいいですね。今回は島津家です。

切れ者の祖父・忠朗と忠棟くん 「伊集院忠棟」1

2008年05月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さまについてお送りいたします。

それぞれ特徴を持った四兄弟が特に有名な島津家。
その家臣団にも魅力ある方がずらり揃っておりますが、中でも筆頭家老だった「伊集院忠棟」、その父・祖父などは際立って目立つ存在です。
果たして、祖先が叶わなかった”島津宗家を凌駕すること”はできるのでしょうか?


さて、とりあえずは「伊集院忠棟」さまの伊集院家の成り立ちから。
時代はだーいぶ昔のことで、武士が台東する鎌倉時代。

島津家二代当主「島津忠時」には多くの子がおりましたが、さらにその七男「島津忠経」の子「島津俊忠(四男)」は薩摩国・日置郡伊集院村の地頭職を与えられ、そちらに土着しております。
これが起こりとされているのでした。
以後より「伊集院」を名乗り(子、久兼より)、子に恵まれて各地へ散らばった一族支流は島津一族でも非常に多く、見逃せない勢力になっていくのです。

南北朝時代では、当初島津本家にならって北朝でしたが、後に南朝へ鞍替えをして島津家と争っております。
また、九州探題「今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)」と島津本家が対立した際には島津方につき、勝利に貢献。
しかし、その後から島津本家の家督相続にちょくちょく関与し、たびたび争いに巻き込まれているのです。
(※一時的には本家を凌ぐほどの権勢だった時もあったらしい)

七代「伊集院頼久(いじゅういん・よりひさ)」も島津本家とたびたび対立。
また、嫡男(八代)の「伊集院煕久(いじゅういん・ひろひさ)」も所領を巡って島津本家と激突したうえ、敗北して肥後へと逃亡するのでした。

一方、その弟「伊集院倍久」は伊作家(のち相州家)の名将「島津忠良(日新斎)」に従って、家名を存続しました。
さて、ここで島津家の家系図をご覧ください。


●島津家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)

            ■伊作家(のち相州家) 
              忠良(日新斎)
■島津宗家        ↓
(14勝久)→[養子]→15貴久-忠将(相州家)-尚久(伊作家)
               ↓
             16義久-17義弘-歳久-家久
                     ↓        ↓
                     ↓       豊久
                    久保-18忠恒(家久)
                           ↓
                          つづく(江戸時代~明治~)
  
  
先の「倍久」の孫が「島津忠良」をよく補佐して領国統一に尽力した、忠棟の祖父「伊集院忠朗(いじゅういん・ただあき)」なのです。
彼をはじめ「伊集院忠倉(いじゅういん・ただあお)」、今回主人公の「伊集院忠棟」という三代はなかなかの切れ者揃いで、代々島津家の家老として活躍するのです。

祖父忠朗は主に政務を取り仕切る筆頭家老でした。
しかし、軍事面でも非凡な才を発揮して活躍し、守護・島津宗家「島津勝久」の伊集院城、谷山城などの攻略。薩摩・谷山苦辛城にては「平田宗秀」を下すなど、軍事面でもたびたび功を重ねております。

また、忠良の子「島津貴久」からの信頼も変わらず厚く、大隅・咲隈城の守備に任命されております。
そちらでは、代々日向伊東氏と対立していた豊州家「島津忠親」と共に伊東氏、肝付氏らと戦っております。
ここでも忠朗は数々の軍功をあげ、大隅経略の布石となるのでした。

なお、合戦での鉄砲(火縄銃)使用を強く推したのが忠朗といわれ、参加した岩剣城攻めは日本史上で初めて実戦で鉄砲が使われた合戦と言われているのです。

⇒ つづく
  次回は「政務に長けた父・忠倉と忠棟くん」(2/4)

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鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと
鈴木 真哉
洋泉社

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※小田原「北条五代まつり」にて火縄銃を見ましたが…。
 いや、実際目の当たりにすると、その音の大きさにびっくりしますよー。

仏像の種類 [後編] (お父さんのための仏像講座)

2008年05月11日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
前編に続いて、「仏像の種類」についてをお送りいたします。
まさか文字数オーバーになるとは思いませんでしたが、リンクいっぱいとっつけましたからねー(笑)
前置きはそれくらいにして、さっそく行きましょう。

お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

ちなみに、前編では「如来」「菩薩」「明王」というあたりまで終えております。
その続きでどうぞ。

に) 天
 ”提婆(だいば)とも書き、天人の住む諸楽豊かな世界”…という六道の一つな意味もありますが、仏像においては”人を超えた、優れた能力を持つ存在”となります。
 仏教に帰依した方々ですね。
 その多くはインド古来から信仰されてきた神々が仏教に取り入れられたもので、やや別格扱いになっております。
 そんな訳で、庶民にはより身近な、身近だった存在と言えるでしょう。
 基本としては貴族風な方々と、明王のような武人タイプの二系統ありますが、あちこち地域の神様を取り込んだため、鳥獣・鬼神からインド風に中華風と様々なのでした。
 


ほ) 羅漢
 なんちゃら羅漢、って良く聞きますよね。
 尊敬・供養を受けるに値する人、学びきった人のことです。
 「阿羅漢」とも言い、こちらは梵語「アルハン」の音訳。
 当初は仏弟子に対する尊称でしたが、後には修行者の全般を指すようになりました。
 十大弟子とか、各宗派の高僧、あるいは「役行者」などもこちらのグループ。
 


へ) その他
 北極星を神格化した「妙見菩薩」などの「宿曜(すくよう)」、日本固有の神道、山岳信仰などの「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」
 なんちゃら権現とか、「八幡さま」も「本地垂迹」のグループですね。
 ほかには、「天狗」とか、「夜叉」などもあります。
 ひでるさん的には、ウルトラマンとか大魔神ですね(笑)
 
 まぁ、だいたいこんな感じですか。
 いままで個別に紹介してきました仏像は、それぞれ所属のグループがあったんですね。
 ちなみに、各仏像のお姿について、あーだ、こーだと厳しく規定されているのは、日本ならではのことなんだって(笑) 
 ちょっと意味が違いますが、ガンダムみたいなもんでしょう。

「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)



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⇒ 双体道祖神 (京都:道祖神社)
⇒  ちょっと特殊な仏像 「鉈彫仏」
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⇒ 本地垂迹ってなんだ? (仏教・神道)
⇒ 本地垂迹のややこしい話 (仏教・神道)
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⇒ 稲荷神社 (前編 ・ 後編
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⇒ 三猿について (日光東照宮) (庚申信仰)
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⇒ サトちゃん菩薩立像 (全国・薬局店頭)
⇒ 重文 ピョンちゃん天立像 (全国・薬局店頭)
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⇒ 国宝 オノデン坊や権現立像 (東京秋葉原)
⇒ 僧侶と官位・階級 (ひでる仏教講座)
⇒ イケてる仏師「運慶」(※金沢文庫で48年ぶり真作)
⇒ 密教と言えばこの人「弘法大師」 () 
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⇒ 踊り念仏「空也上人」(京都・六波羅蜜寺)
⇒ ゲゲゲの「小野篁」 (前編 ・ 後編
⇒ 中世の名僧 「夢窓国師」 (前編 ・ 後編


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グループ別ですんなりわかる はじめての仏像
宮澤 やすみ
河出書房新社

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※本当にすんなりわかる、そうです。
 難しい本は本当にややこしく書かれてますが、とっつくにはこうしたのがオススメ。

仏像の種類 [前編] (お父さんのための仏像講座)

2008年05月08日 | 仏像
注>今回はやや縦長です。ごめんなさい。 

のんびり気軽にさんぽがてら。
いまさらで申し訳ないんですが、よくよく考えたら仏像とは~という基本をまだやっていないことに気付きました(笑)
そんな訳で、だいぶ久し振りにこちらの企画をば。

お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

さて、仏像と一口に言っても、様々な種類がありますね。
もともとは像を造るという習慣はなく、「ストゥーパ(卒塔婆)」、「仏舎利(ぶっしゃり)」などを信仰対象としておりました。
(※如来を人の姿で表現するのはおそれ多い)
釈迦が入滅した後は、言葉だけでなく”目に見えるもの”があった方が分かり易かったのでしょう。
しかし、色々な他教・文化などの影響を受けてか、紀元前一世紀頃インドのどちらか(※ガンダーラ、マトゥーラ)で「釈迦如来」が造られるようになりました。
当初はそれに「弥勒菩薩」が造られる程度だったようですが、仏教の普及・展開によって次第に広がったようなのです。
簡単にざーっと流すとだいたいそんなん。
深く突っ込まないで下さい。

い) 如来
 サンスクリット語では「タターガタ」
 修行を完成した人の総称で、諸仏の最高位。
 ”真理によって来れる”を訳して「如来」となるのだそうです。
 …わかんないよね。
 えー、「悟りを開いたもの」でもいいでしょう。そんなんですよ。
 ちなみに釈迦は初転法輪の際に、
「如来は完全な悟りの境地に達した人だから、人々の尊敬に値する」
 とか言ったらしい。入滅後は当人がその「如来」になるんですけどね。
 基本的には、肉髻(にくけい:頭の上がポコンとなってる)、螺髪(らはつ:巻き毛)で、装飾なく衲衣をまとっている姿です。
 密教での「大日如来」が例外。


 
ろ) 菩薩
 サンスクリット語では「ボーディサットヴァ」、音訳「菩提薩埵(ぼだいさった)」の略。
 ”悟りを求めて精進努力す者”という意味。おお、これは分かり易いですね。
  「弥勒菩薩」などが代表ですが、悟りを開いた「如来」と人との間に位置するという、身近な存在として広く信仰されるのでした。
 アイドル、ではなく近所お姉ちゃん、みたいなもんですよ。
 だいたい貴人の姿であり、色々と装飾されているのが特徴。例外は僧形で表現される「地蔵菩薩」さま。
 なお、先の「如来」が簡素な出で立ちであるのに対し、「菩薩」が豪華絢爛なのは、もともと釈迦が王子様だったことに由来するそうです。
 見た目でそれぞれの働き・徳を表現するため、印相やアイテムを所持しています。
 ちなみに観音さまも本来は「観世音菩薩」なので、このグループに所属なのです。
   


は) 明王
 皆の憧れ(うそ)
 サンスクリット語の「ヴィドヤーラージャ」が語源。
 ”持明者(じみょうしゃ)の王”、という意味で、簡単に言うと…えー、よく仏教を理解したスゴイ人のさらに偉い人、みたいなん(笑)
 密教の最高位「大日如来」が悪を討つため変化した姿とか、その命に従って動く戦闘部隊な方々。
 要するに、密教特有の仏像です。
 だいたい憤怒相で常に怒っており、複数の目や手を持つお姿になっております。


 …と、すべて書いて貼り付けたら文字数オーバー(笑)になったので、前後編にしました。
 単にリンクが多いだけなんですけどね。
 とりあえず、後編をお楽しみに。

「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

[関連記事] 【仏像のいろいろ】 
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀
⇒ 薬師如来 蛸薬師 飛鳥・薬師三尊像
⇒ 弥勒如来
⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 不動明王 (由来 容貌 信仰
⇒  不動明王坐像 (東京・金剛寺)
⇒ 降三世明王
⇒ 大威徳明王
⇒ 金剛夜叉明王
⇒ 軍荼利明王
⇒ 太元帥明王 (前編 後編
⇒ 孔雀明王
⇒ 愛染明王
⇒ 烏枢沙摩明王
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 般若菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂)
⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千手観音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
⇒ 楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)
⇒ 如意輪観音
⇒ 馬頭観音
⇒ 不空絹索観音
⇒ 執金剛神・仁王像
⇒ 日光菩薩・月光菩薩
⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像


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仏像鑑賞ハンドブック―種類・見分け方・拝観完全ガイド
瓜生 中
PHP研究所

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※仏像鑑賞に、やっぱり本が一冊でもあると分かり易いです。

超ヒーロー「マブリットキバ」  (岩手県・遠野市)

2008年05月04日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
……で合ってるよね、ニュース記事ではないから。

さて、こちらのブログによく来られる方はご存じのとおり、実写ヒーロー好きなひでるさん。
さすがに今は見なくなりましたが…あたり前か。
幼少期はアニメとかぬいぐるみとかスーパーカーより、「ウルトラマン」や「超神ビビューン」などに強い興味を示していたのでした。
だからもう、頸文社さんの「全怪獣怪人大百科」とかは眺めているだけで幸せだったんですよー。

全怪獣怪人大事典〈下巻〉各社篇
竹内 博
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さて、そんな前置きからお届けする今回は『超ヒーロー「マブリットキバ」  (岩手県・遠野市)』ということで、地域限定ヒーローなのでした。

ふと思い立ったひでるさんは、奥州藤原氏の平泉を見るため岩手まで行ってきたのです。
メインはそちらだったんですが”どーせ行くなら「遠野」へも行きたいなー”ということで、そちらにも立ち寄ってきました。
そこでふと見つけたのが、こちら↓




めざめよ郷土 ゴンゲン降臨! マブリットキバ!

うおお、なんだこりゃ!?
か、かっちょえー!



…当初は、今の仮面ライダーとかなんとか…えっと電王だっけか、そんなんがこうした感じだったじゃないですか(←よくわからん)、それだと思っていたんですよ。
しかし、ふと休憩した横にあったポスターから「めざめよ郷土~」という文句が見えたのです。
そんな訳で、戻ってきてからちょいと調べてみました。
(※以下、HP「マブリットキバ公式ページ」からの引用含む)

まず、「マブリットキバ」は郷土を守っている人々や先人の思いを大切に伝える為に現れた超ヒーロー、なのだそうです。
「マブリット」とはアイヌ語で「守る人」…「まぶるひと」…「マブリット」ということらしい。
なにゆえアイヌ語?彼ら岩手とは関係ないと思ったんだけれど…違うのかな。
まぁいいか。
続いて「キバ」は、動物が大切なときに使う「牙」と、降臨した際には馬に乗っているので、「騎馬」という二つの意味があるのだとか。
いろいろ考えてますね。
ダイアモンドの5倍の郷土、もとい強度があるらしい、守人らが開発した「ハイパー・カグラアーマー」、さらに頭部にある「ゴンゲン様」は魔除けや厄除けの効果…って、お守り!?
なんだかよく知らんけど、なかなか凄そうです。

全怪獣怪人大事典〈上巻〉東映篇
竹内 博
インフォレスト

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要は遠野市の各イベントに出現する、地元マスコットみたいなものだったのでした。
こないだの「せんとくん」とはまた異なるアプローチですね。いいんじゃないでしょうか。
ひでるさんは当然、こういった類のが好みです。
なお、HPの姿がなんだか違うなーって思っていたら、

「遠野産業まつり」での逢魔一族との決戦で、大きな損傷を受けたハイパーカグラアーマー。
新たな力である「早池峰の風」の力をハイパーカグラアーマーに降臨させ、年明けとともに、新たな姿の「マブリットキバ」になったんだ!

…とのこと。
やられてんじゃん(笑)

あのー、遠野駅となりの観光施設にあったポスターがまだ古いもののままでしたよー。
「ふるさと岩手を風のように縦横無尽に駆け抜けるぞ!」
って、駆け抜ける前に貼り変えることオススメしますが。

なにはともあれ、新スーツを作れるくらいに活躍していたようで安心でした。
その後、平泉にて「キバ」のストラップを見つけたので購入したんですが…「岩鉄拳チャグマオー」ってこれまた別のヒーロー?!
(※岩鉄拳チャグマオー・ファンサイト




受けてみよ!!南部鉄拳大沸騰パンチ!
鉄の拳で岩手を守る!



だって。
片手の南部鉄瓶が素敵です。
岩手には、一体何名のヒーローがいるんでしょうか??
次はぜひイベントで実物、どっちでもいいので見たいですねー。



[関連記事] 
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全怪獣怪人大事典〈中巻〉東映・円谷プロ篇
竹内 博
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宝泉院 (京都・大原)

2008年05月01日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は大原の「宝泉院(ほうせんいん)」です。

京都の北のさらに奥
緑溢れる庭園とお抹茶で心と身体を癒す寺院があるという…
その名も「宝泉院」


…ということで。
長和二年(1012)とは、平安時代後期頃のこと。
ときの「寂源」は、過去「円仁」によって創建されたという「大原寺(勝林院)」を再興しました。
そちらの住職の坊(居所ね)として、構えられたのが「宝泉院」なのでした。

江戸時代頃には4箇所ほどあったそうですが、現在に至っているのはこちら「宝泉院」と「実光院」だけなんだとか。

長い時代を生き抜いてきたということで、「三千院」参拝のおまけにしては色々見どころの多いお寺になっております。
とりあえず目につくのが、京都市内にある著名な松の一つであるという「五葉の松」
こちらは市指定の天然記念物で、樹齢七百年という見事なもの。

立ち去り難いという意味をもつ「盤桓園(ばんかんえん)」こと「額縁庭園」、江戸時代の中期頃の「鶴亀庭園」など、どちらかと言うと庭系なお寺になっております。
確かに風情のある、癒しな空間が広がっておりました。

…が。
やっぱり庭とかはよく分かりませんね~。
また、平成十七年に作られたという新スポット、「宝楽園(ほうらくえん)」は緑と石で順路も複雑で、どことなくアスレチックな風情でした。
遊び場として最適、みたいな感覚よ。
パンフレットには”仏神岩組霊海流水回遊花庭”を趣向し…とか書いてありましたが、なんのこっちゃよくわからん(笑)

まぁ、あたりをふらふらしたひでるさんが感じた、何倍ものややこしい意思が詰め込まれたものであるようです。

そんなんですね。
前述しているように、もともとの起源が居住スぺースであったためか、三千院付近の探索を一時中断し、ほっと一息つくような存在になっております。
拝観料は大人八百円とやや高めではありますが、お菓子・お抹茶付。
出されるお菓子は「若狭屋」さん手作りの和菓子らしく、お抹茶とよく合って美味しく頂きました。
(※若狭屋末則:〒606-8174 京都府京都市左京区一乗寺染殿町15-2 075-722-4048 →HPはないみたい)



…なお、その当日はまったく気付きもしませんでしたが、実はこちら”血天井シリーズ”の一つでもありました。
後でパンフ見て気付いたんですよ。

慶長五年(1600)
関ヶ原合戦前、徳川の武将「鳥居元忠」以下数百名が西軍の大軍と戦い、伏見城で自刃しました。
そんな死者たちの霊をなぐさめ、供養のため自刃した場所のものを天井として祀ったもの…
それこそが「血天井」

こんなほんわか空間でありながら、ずいぶん物騒なもの天井にしていたんですねー。
夜とか行きたくない感じですよ。
(↑行きませんが。…ちなみに、ライトアップされるイベントなどもあり、その時期なら夜に拝観できます。こわそう)


[関連記事] ※血天井シリーズ
⇒ 正伝寺 (京都)
⇒ 養源院 (京都)

[住所]
 宝泉院 京都府京都市左京区大原勝林院町187


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植治七代目小川治兵衞―手を加えた自然にこそ自然がある (シリーズ京の庭の巨匠たち 2)

京都通信社

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※こんなんかなぁ…。
 いずれは、庭を見て何かを感じ取れるようになりたいものですが…相当先のことかなぁ。