お寺さんぽ Ver.03

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後を継ぐ勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」3

2006年08月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。
厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。

武田軍団の一員として頑張る勝頼くん。長男である良将「義信」は作戦の違いから父と対立し、幽閉された末にそこで死亡してしまうのです。

後継者の筆頭であった「太郎義信」の死でにわかに世継ぎ問題が発生した武田家。
さて、ここで歴史が語る事実は不鮮明なのでした。
勝頼くんが正式に父晴信から後継者指名を受けたとか、孫にあたる「信勝」をひとつ飛んで後継者に指名したのだ、などと色々言われています。

家臣と普通に肩を並べていた四郎勝頼。
諏訪家を継いでいた彼は、武田とはみなされていなかったのでしょう。…晴信も彼を特に息子として遇してはいないようですし。(たぶん)

…余談ですが、晴信が色々勝頼に対して訓戒したという話もありますが、どれも胡散臭い雰囲気が漂っています。なんというか、晴信の言うことをことごとく守らなかったから滅亡した、みたいに書いてあるのね。
実に具合良いエピソードばかりなので、それらは創作ではないか、と思うのです。

また晴信の遺言、山県昌景に言ったという「明日は瀬田(※京へ至る地名)に旗を立てよ」に反して、「三年間自重」してしまった武田家の動きを見ると、後継者指名されたのはやはり「信勝」ではなかったのか…と思うのです。
(※実際は三年を待たず、活動してます。当時は信長包囲網の真っ最中でしたから、戦略的には攻め続けなければ織田方に余裕を与えてしまうのです)


さて、「信長包囲網」は晴信存命中に越前朝倉が突然撤兵したことでほぼ瓦解。おまけに盟主である「武田晴信」の死によってこれが完全に崩壊すると、窮地に追い込まれていた「織田信長」はその機会を逃さず、各勢力を各個撃破するのです。

…そんな状況下で実質後を継いだ武田勝頼。
幼少期(小姓)から晴信に仕えてきた重臣「高坂昌信」より「強すぎる大将」とまで評されるほどの活躍をするのです。
よく言われる、徳川方の「高天神城」は父晴信がどうしても落とせなかった難攻不落の名城ですが、勝頼はこれを支配下に置くなど、上々の戦果を上げているのです。
おそらく、戦においては滅法強く、評した高坂など老臣たちは”頼もしい”と感じると同時に、どこか微妙な危うさを察知していたのではないでしょうか?

勝頼は、越後上杉家の内乱「御館の乱」に介入して相模北条家を敵に回すなど、自ら不利になるような戦略を後にやってしまいます。
(※ちなみに、この↑戦略間違いは、長篠合戦と並んで滅亡の切っ掛けであります)
思うに、戦術(局地戦)には強く、戦略(大局的見地)にはやはり劣っていたのだろうと思うのですよ。
このひとは。

⇒ つづく

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