お寺さんぽ Ver.03

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中世の名僧 (夢窓国師) <後編> 

2007年11月30日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は中世の名僧、臨済宗の黄金期を築いた名僧、夢窓国師(むそうこくし)です。

タイトルそのままお寺をさんぽしたり、ブログ書いたりしているとたまに見かける言葉、というか人。
この「夢窓国師」さま。
鎌倉時代から混乱の南北朝時代となる中、夢窓さまは幕府・天皇家の双方より尊敬され、五十という高齢ながら京都から鎌倉まで引っ張りダコな活躍をするのでした。

幕府滅亡後に親政を開始した「後醍醐天皇」に招かれた「夢窓国師」さま。
再び京都・南禅寺の住職となるのでした。
ちなみに今回よく出てくる「南禅寺」ってーのは、臨済宗・南禅寺派大本山の寺院です。
京都五山(※由緒あって格式高い寺院だよー、というくくり)の第一、さらに時の権力者らが禅宗を信仰としたため、別格とまでされた、最上位たるお寺なのでした。

さて、鎌倉幕府から「後醍醐天皇」だけでなく、足利氏とも深い縁のあった夢窓さま。
武士の尊敬を集める「足利尊氏」、そして弟「足利直義(あしかが・ただよし)」兄弟も夢窓の教えを受けております。
北朝方の内乱、「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」では調停役として活動したり、全国に安国寺を建立するよう献策したりと、その元でも活躍していました。
なお、「足利直義」に禅の奥義を説いたのが、有名な「夢中問答」です
これは直義の質問に答えた法話の記録で、仏教の協議を実にくだけた言葉で語っているんだって。
そう言ったところが、人気の秘訣かもしれませんね。
詳しくは知らんけど。
こうして、公武の権力者たちより信仰された「夢窓国師」の名声は天下にとどろき、臨済禅の黄金期を築くこととなるのでした。

生涯、深山幽谷(しんざんゆうこく:奥深く静かな山や谷。人があまり行かない奥深い自然)な地を好み、各地にて多くの禅寺院を開山。
また、多くの名園を残したことでも知られています。
代表として、京都の通称・苔寺こと「西芳寺」、世界遺産「天龍寺」。鎌倉では瑞泉寺、山梨では恵林寺など、夢窓作の名園があります。

なお、再興した山梨県は「古長禅寺」には、重文「夢窓国師像」があります。
この像がよく夢窓さまの特徴を捉えているそうなんですが…「夢窓国師」さまは頭頂が尖がっており、細面で両目の幅が狭く、撫で肩だったようなのです。余談ですが、「古長禅寺」の拝観は事前連絡が必要との事なので、気をつけてください。

正平六年(1351)
日本では南北朝がまだ統一されぬ中、多くの弟子を育てるなど大活躍を続けた「夢窓国師」さまは死去。
享年七十六。
この当時では信じられんくらいの長生きさんでした。


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※実は…京都に住んでいたのに送り火見てないひでるさんです。
 だって、仕事忙しかったんだもん。
 焼け跡は見ましたけれど。

中世の名僧 (夢窓国師) <前編> 

2007年11月30日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は中世の名僧、臨済宗の黄金期を築いた名僧、夢窓国師(むそうこくし)です。

タイトルそのままお寺をさんぽしたり、ブログ書いたりしているとたまに見かける言葉、というか人。
それが、この「夢窓国師」さま。
ひでるさん、この人になんとなく親近感があるのは、「等持院」で直接会っているからかもしれません。
…まぁ、木像なんですけどね。

えー、「夢窓国師」さま。
国師、ってのは僧侶の役職名でして、歴史で必ず勉強するであろう「後醍醐天皇」ほか七人の天皇から「国師」号を贈られた名僧なのです。
朝廷から諸国に遣わされ、寺院から僧・尼の監督、経典の講説などをするのが国師なんだって。
そんな訳で本当は「夢窓疎石(むそうそせき)」と言うのでした。
臨済宗の禅僧です。

建治元年(1275)
日本がモンゴルより襲撃を受け、大いに揺らいでいた次の年のこと。(※文永十一年(1274):文永の役)
そんな中、伊勢(三重県)に誕生しました。
両親とも武家ですが、何番目かの子だったのか、あるいは僧としての出世を期待されたのか、幼少時より出家しました。

正応五年(1292)
時代進んで、夢窓さん十七歳。
奈良の東大寺にて受戒しました。(※受戒(じゅかい):僧侶になるための儀式ね)
最初は天台・真言を学んだようですが、後に禅を志して「一山一寧(いっさんいちねい」)、「高峰顕日(こうほうけんにち)」らに師事しました。
その後、東は相模から西は土佐まで、各地の寺院に滞在するなど積極的に活動していたようです。

こうして各地を転々としている頃、世の中では鎌倉幕府が衰退・滅亡し、混乱の南北朝時代へ移行しようとしていました。
激動する時代の真っ只中です。

正中二年(1325)
後醍醐天皇の倒幕計画が発覚してしまった大事件「正中の変」の頃。
夢窓さんはもう五十歳となっていました。
このあたりで即位した「後醍醐天皇」に招かれ、京都・南禅寺の住職となりました。
忙しいことに、その翌年には鎌倉幕府より招かれて鎌倉へ。
十四代執権「北条高時」、十五代執権「北条貞顕(ほうじょうさだあき)」らの信仰を受けております。
このように、幕府から「後醍醐天皇」など、双方からの帰依を受け、崇敬されていたのです。
なお、幕府滅亡後には親政を開始した「後醍醐天皇」に招かれ、再び京都・南禅寺の住職となっています。



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※そんなこんなでコチラ。
「夢中問答集」のお話は次回登場します。

まけるな伊勢平氏 (平正盛) 後編

2007年11月29日 | 歴史
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源氏については戦国時代でもよく名前も出てくるので先にやりましたが、今回は源氏のライバル、平氏について。

天皇政治を復活を目指す「白河上皇」は”院政”を開始。
源氏を手駒とする藤原氏に対して、上皇は平氏を手駒として対立したのです。
時代は源氏から平氏へ移り変わろうとしていました。
(※今回写真はおじいちゃん「平正盛」の代わりに「平清盛」さんです。)

前九年・後三年の役などによる朝廷の対応を不服とした「八幡太郎義家」の嫡男(実際は次男)、「源義親」は九州にて叛旗を翻していました。
ここで、朝廷は意地悪くもその追討命令を親の「源義家」へと下すのです。
悩んだ「源義家」ですが、やむなくその任に就きます。
しかし、高齢もあって準備中に病を発し、病死。
任務は子で四男の「源義忠」へ引き継がれました。

後を継いだ「源義忠」ですが、彼も父同様に悩んでおりました。
討伐すべき「源義親」は当然ながら兄なのです。
お父さんを見た感じからすると、兄弟それぞれ肉親の情も厚かったと思うんですよ。
実際どうかわかんないけど。
(※ちなみに、「源義親」は自らの討伐に赴いた武者たちを説得して、自軍へ吸収してます。スゴイです。カリスマ性もあった様子)
泣く泣く任務に臣従した父とは違い、「源義忠」には兄を討てませんでした。
そこで、代わりに九州へ赴いたのが「平正盛」だったのです。

この正念場で正盛は見事乱の討伐に成功し、その功績によって但馬守へと就任しました。
こうして出世を果たしたのです、が。
この討伐は当時から疑問の声が多くあったようなのです。

第一に、討伐後にも「源義親」を名乗る人物が出現していること。

第二に、源家の棟梁たる血筋であり、悪対馬守と呼ばれていた猛将「源義親」に対し、「平正盛」の名がマイナーで実力に大きく開きがあるとされていたこと。

…などです。
当時の資料、右大臣「藤原宗忠」の日記にもそんな記述があるようです。
あるいは、「白河上皇」が彼の地位を引き上げる意味での宣伝・パフォーマンスに過ぎなかったのかもしれませんね。
政治的なドロドロしたもんですよ。

また、彼は河内源氏を継いだ「源義忠」へ娘を嫁がせていたことから、こちらにも外父として発言権が強まっていたのです。
(※こうした可能性もあるので、やっぱり武家の娘ってのは悲劇の対象でなく、両家をとりもつ外交官的な性格が強かったと思うのですよ)

なにはともあれ、「源義忠」以後、内乱(⇒「源義光」参照)などもあって急速に衰退し始めた河内源家に対し、「白河上皇」の知遇を得た「平正盛」、その息子「平忠盛」、孫「平清盛」らへと引き継がれた伊勢平家は逆に勢力を増強させていくこととなるのでした。


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⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
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⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」

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実は平家が好き。―目からウロコの「源平」、その真実 (ダ・ヴィンチ特別編集 (8))
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※華々しい英雄に欠け、
 なんとなく悪役っぽいイメージの強い平氏なのでした。

がんばれ伊勢平氏 (平正盛) 前編

2007年11月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
源氏については戦国時代でもよく名前も出てくるので先にやりましたが、今回は源氏のライバル、平氏について。

平安時代後期あたりのこと。
源氏は清和天皇の支流である「清和源氏」が当時の摂関家、いわゆる”摂関政治”で権力を握っていた「藤原氏」と深く結び付いたこと、「八幡太郎義家」を代表とする英雄が登場したことで、武家の棟梁たる地位を確立していきました。
さて、それではライバルとされているもう一方の平氏はどんなだったのか?

源氏と同様で、各天皇からの支流には「なんちゃら平氏」という方々が各地におりました。
そのうち、こちらは「桓武平氏」の血筋で関東を本拠としていた「坂東八平氏」の一員だったのです。
当初は関東におりましたが、そのうち伊勢(三重県)に土着したのが、後に「平清盛」を輩出する伊勢平氏なのでした。

伊勢平氏の祖とされる「平維衡(たいらの・これひら)」は鬼退治で名高い「源頼光」の弟、河内源氏「源頼信」と共に”藤原道長四天王”の一人として知られていた優秀な武士でした。
(※ちなみに、残りの四天王メンバーは藤原保昌、平致頼です)

ただし、勢力・官位共に源氏よりは下でして、いつからか時代の英雄「八幡太郎義家」を輩出して武家の棟梁たる地位を築いた「河内源氏」配下の一武士となってしまうのです。
地位も勢力も、この時点ではそう大したものではなかったんですね。

さて、ここに伊勢平氏当主となった「平正盛(たいらの・まさもり)」という人がおりました。
正盛が後を継いだあたりは、主家である「河内源氏」が多大な戦功で名声を集めていたことから逆に朝廷より警戒され、ちょうど下り坂に差しかかっていた微妙な時期だったのです。

朝廷では”摂関政治”を行っていた藤原氏に対し、天皇政治を復活を目指す「白河上皇」が”院政”を開始。
権力を自らのもとへと引き寄せます。
そんな上皇に、自らの領土であった伊賀の地を差し出したのが伊勢平氏であり、「平正盛」だったのです。
この切っ掛けから、上皇の身辺警護を担当するという「北面武士」へと任ぜられました。

こうして、源氏を手駒とする藤原氏、平氏を手駒にする「白河上皇」という対立構図ができあがったのでした。


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※虚像を剥ぐ、だって。暴露本ですよ。
 まぁ、だいぶ昔のことですからねぇ…。

ほうじ茶そふとくりーむ (滋賀・石山寺)

2007年11月28日 | ネタ
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本日はひでる食べ歩きシリーズ(そんなのない)滋賀は石山寺付近での「ほうじ茶ソフトクリーム」です。

なんだか京都へ行ってから、雨の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん(※たんなる雨男とも言う)

あのね、嘘みたいだけどこれが本当のこと。
彼女はひでるが外へ(遊びに)出たら、大そう喜んで雨を降らせてくるんですが…

「天気  (大笑)」

そうなんですよ、今回も冗談みたいに雨でした。(※初日は晴れでしたよ、念のため)
雪こそ降っていませんでしたが、寒いわ雨だわでエラいこととなっていました。
体育祭とか、都合悪い外の行事を控えている方。
桶狭間のように大軍への奇襲をお考えの貴方。(←そんな奴ァいねえ)
ぜひ、ひでるまでご一報下さい。

馬鹿馬鹿しい話はそこまでにして。
石山寺に喜んでいたひでるさんの目に飛び込んできたのが↓コチラ。



「ほうじ茶のそふとくりーむ?!」

なんだかコレ見よがしに雑誌記事まで掛けられたりしてんの。
ちょっと名物とは違う気もしますが、とりあえず珍しいんで食べてみることとしました。
…寒いんですけどね。

とりあえず、薄い茶色がいかにもお茶っぽい風情です。
ごく薄味でべっとりとしたくどい甘さはなく、あっさり・すっきりでした。
舌には「ほうじ茶」な感じがじんわり残ります。
食べませんが、二、三個は連続でいけそう。
おお、結構うまいですよ、コレは!

……あ、やば。
ソフトクリーム来た時に写真撮るのをすっっかり忘れてましたよ!
(※上↑写真参照のこと)
ショック!!
だって、凄い山盛りで出てきたんだもん。

【おすすめ★メーター】 ほうじ茶そふとくりーむ
■■■■■ 5Point …はっきり言って、今まで食べた中では最も美味かったです。
               暑ければよりいいかも。

どうでしょうか?
こりゃー一度は食べてみるのがいいかもしれないシロモノですよ。
目指せ!グルメレポーター!!


[関連記事] 【ひでるグルメレポート特集】
⇒ そうめん 仁和寺(京都)
⇒ ひやしあめ (神護寺・売店)
⇒ 続・ひやしあめ (柴又・題経寺周辺)
⇒ 八つ橋ソフト(京都・おたべ)
⇒ ゆばソフトクリーム (日光)
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⇒ 紫いもソフトクリーム (神奈川・鎌倉)
⇒ 浅草もんじゃまん (東京・浅草寺)

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しろくまパパのソフトクリーム しろくまパパのソフトクリーム
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※そんな訳でこんな本。
 貼っといてなんですが、ひでるは”絵本好き”と言い放つ大人が大嫌いです。
 なんだかいい人・純粋な人ぶっているような気がしてねぇ。
 ひねくれ者です。漫画好きでいいじゃないか。

不動明王 第三回・信仰  (仏像・明王)

2007年11月27日 | 仏像
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本日は明王の代表格、五大明王でも唯一単独でフィーバーしている「不動明王」です。
まとめてしまうと長くなるので、三回に分けてみました。
第三回目、最終回は、信仰的なことをちょっとばかり。

信仰は平安時代末期以降に盛んとなります。
遣唐使で「唐」へ渡っていた空海の守護仏が「大日如来」であり、真済(しんぜい)、文覚(もんがく)などの僧が信仰していたことから、真言密教(東密)に深く浸透。
また、空海の姪の子、「円珍」(※滋賀県大津市・園城寺にある国宝・黄不動の作者)が真言密教とはやや異なる「不動明王」を作成するなど不動信仰で知られ、そのまま弟子へ継承。
他にも、相応(そうおう)が不動明王法を感得したことで、天台山門派にも浸透しました。
山岳信仰と密教が融合した「修験道」でも、最も尊崇されるのが不動明王であるなど、真言密教(東密)、天台密教(台密)、修験道などで深く信仰された結果、多大な影響力を持つこととなったのです。

加持祈祷(かじきとう)では本尊とされ、毘沙門天(多聞天)と共に観音の脇侍として広く伝わっています。
特に関東での信仰は盛んでして、現在も地名として残る、目青・目赤・目白・目黒・目黄などの各不動は江戸を守る意味で江戸時代に造営されたのだとか。
他に日野の高幡不動、成田山・新勝寺の成田不動が有名ですね。
この「なんちゃら不動」ってーのは、だいたい各地で見られると思います。

空海が帰国する際、不動さまに祈ると荒れた海が静まったとか、荒行する文覚上人が不動さまによって二度も命を救われたとか、蒙古襲来の時は不動さまへの外敵退散の祈願によって撃退できた(…よく言われることですが)など、多くのエピソードが残っています。

余談ですが、鎌倉時代以降にこの恐い不動さんを泣かせてみよういう試みがあったそうな。
…ある僧侶が師匠の病の身代わりとなったが、あまりの苦しさに耐えかねて不動明王に祈りました。
すると、その憤怒相からほろほろと落涙し、その病苦の代わりを申し出たのです、という説話。
これが「泣き不動縁起絵巻」となり、文学から絵画まで発展したんだって。


[関連記事] 【明王のいろいろ】
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※実はシティーボーイズのコントにまで登場したりします。
 しかも歌つき。

不動明王 第二回・容貌  (仏像・明王)

2007年11月27日 | 仏像
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本日は明王の代表格、五大明王でも唯一単独でフィーバーしている「不動明王」です。
まとめてしまうと長くなるので、三回に分けてみました。
第二回目の今回は、容貌的なことをちょっとばかり。
見分け方編ですよ。

各時代にわたって名品が多い不動さま。
石仏でもよく見かけたりしますが、なんとインド・中国での作例はわずかで、各時代を通じて非常に作例が多いのは日本だけなんだって。
ちょっと意外でしょ?

お姿はだいたい共通しており、非常に見分けやすい、特徴ある仏像です。
一面二臂が主ですが、一部で四面多臂のような異形もあります。
(※醍醐寺に図像としてあるらしい)

右手に宝剣(降魔の剣)、左手に羂索(けんざく:綱のようなもの。衆生を救いとる意味だって)を所持。
光背は「火焔光背(かえん・こうはい)」で、仏教を守護する「八部衆」の一人、金色で鷲(わし)に似た「迦楼羅(かるら)」の口から吐き出された”迦楼羅炎”であるそうです。
この時点で、ほぼ見分けることができるでしょう。

他には、左肩には弁髪、ようするに束ねた髪を下げ、牙を出しています。
眼は前方をにらみつけた正眼(しょうがん)、あるいは「天地眼(てんちがん)」となっています。
その「天地眼」というのは、右眼で天を見上げ、左眼は下を見ており、「不動十九観」という特徴マニュアルのようなものに従っているのでした。
平安時代以降の不動さまはたいていこの「天地眼」で、スタイルの主流となっています。
なお、坐像と立像があり、座ると半跏座です。
五人揃うときは座っている…はず。

眷属(けんぞく:従者のこと)では「こんがら童子※1」、「せいたか童子※2」がよく知られ、「不動三尊」を形成しています。
この童子チョイスも先の「不動十九観」という特徴マニュアルによるものなんだって。
ほか八童子、全員揃うと三十六童子、ほか四十八使者などを従えることもあります。

京都・東寺の講堂にある「不動明王」が現存する最古のもの。
静岡県「願成就院」には、奥州藤原氏討伐の際に作られた、鎌倉時代・運慶作の「重文・不動三尊」があります。
また、国宝・黄不動(※滋賀県大津市・園城寺)、重文・赤不動(※高野山・明王院)、国宝・青不動(※京都市東山区・青蓮院)は特に”三不動”と呼ばれます。


※1「こんがら童子」
合掌して指の間に独鈷杵(とっこしょ)を挟んでいる。不動明王の手足となって働き、主に修行者のためにその力に発揮する。
画像・彫像とも数多く残されている。
※2「せいたか童子」
左手に金剛杵(こんごうしょ)、右手に金剛棒(こんごうぼう)を持つ。性悪をあらわすものとされる。
全体的に「こんがら童子」より動きある表現をされている。


[関連記事] 【明王のいろいろ】
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※こちらは「捨て童子」
 徳川家康の六男、松平忠輝…って、うわぁ。
 この方もなんというか可愛そうな人ですよね。


不動明王 第一回・由来  (仏像・明王)

2007年11月27日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は明王の代表格、五大明王でも唯一単独でフィーバーしている「不動明王」です。
まとめてしまうと長くなるので、三回に分けてみました。
さて、第一回目の今回は、由来的なことをちょっとばかり…。

色々あって書くの大変そうなので、五大明王で唯一ほったらかし(笑)にした、「不動明王」さま。
八大明王の一人であり、五大明王では中心な存在。さらに単独でもよく信仰されております。
密教では代表的な憤怒尊となっています。

梵名、サンスクリット語では「アチュラナータ」
これはインド神話における、「シヴァ神」の異名でして、そのまま仏教に取り入れられたものなのです。
意味としては「動かない守護者」、それが「不動」、あるいは「無動」と訳されました。
他に「不動威怒明王」と訳されることもあるそうな。
密教においては「常住金剛(じょうじゅうこんごう)」とも呼ばれています。

明王というのは、”如来の教えを守り、仏教に敵対するものを排除し、さらに随順させる”という働きがあります。

漢字の「明」は明呪(みょうじゅ:まじない)、すなわち「真言」を意味。
密教において、「真言」を唱えることの威力は絶大でして、”真言の威力を体現する仏”すなわち明王ってことなようです。

国の定めた法令を守らぬ者に処罰をあたえるのと同じことで、火焔(かえん)によって世の汚れを焚き清め、衆生を守っています。
また、単に悪を罰するだけでなく、修行者を加護・達成させる慈悲の存在でもあるんですね。

「大日如来」が一切の悪を降すため、憤怒相に化身したお姿と言われ、「大日教(だいにちきょう)」曰く、”仏教の守護神として最高の存在である”ということで主尊としての地位を確立していきました。

真言は「なうまく・さまんだ・ばざらなん・せんだまかろしゃな・そわたや・うんたらた・かんまん」
これで、
①怨敵調伏(おんてきちょうふく)
②勝負必勝(しょうぶひっしょう)
③立身出世(りっしんしゅっせ)
④商売繁盛(しょうばいはんじょう)
などなど、大変に霊験あらたかであります。
たいていのことにはオッケーなんだって(笑)
ちなみに、「不動」の漢字そのまま、「金縛り術」もこの不動の力とされています。


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※「金縛り術」と聞いて思いだすのは…やっぱりコチラでしょう。
 不動さまもビックリ!


等持院 (京都)

2007年11月26日 | お寺
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本日は京都北区の注目寺院、「等持院(とうじいん)」です。

京都の京福北野線、名前そのまま「等持院駅」から徒歩十分のこちら。
等持院でボクと握手!
と、言うことで、あの有名な歴史人物「足利尊氏」と会えるのが「等持院」なのです。
まぁ、実際は握手なんてできませんけれど。
(※触ったら怒られると思うので、やらんように)
はっきり言って、お寺というよりは歴史施設でして、室町時代ファン(…いるのかな)には欠かせない場所なのでした。

暦応四年(1341)
時は南北朝時代な頃。南朝の「後村上天皇」が即位されたあたりです。
「足利尊氏」は足利家と縁深い「夢窓国師(むそう・こくし)」に依頼して、衣笠山の南に「等持院」を創建しました。
実は現在の場所にあるこちらは別院で、幕府付近に「等持寺」というのがありました。
尊氏はその別院(※当時は等持寺別院)を墓所と定めたため、それから別院の方が足利将軍歴代の菩提寺となるのです。
そうこうしているうちに「等持寺」は悪名高き「応仁の乱」にて焼失。
この別院がそのまま本寺となったのでした。

ちなみに別院の方も被害があったらしく、再建したのは「豊臣秀頼」です。
大阪合戦前、「徳川家康」は大阪方の資金を減らすため、全国寺社の再建を淀さまに囁くんですが、ここも見事その再建ラインナップに引っかかったという訳なのです。

庭園は「夢窓国師」作の三大名園のひとつ。
北の庭には「尊氏の墓」もありますが、何と言ってもメインは「霊光殿」でしょう。
尊氏が信仰した「地蔵菩薩」を本尊に、「達磨大師」・「夢窓国師」の像が左右に。
その前にずらりと並ぶのは、歴代室町幕府将軍の面々…。
多少でも歴史と将軍の名前が分かれば、「はー、こんな顔だったのかー」と感慨深いものでしょう。

ちょっと言葉にし難い、微妙な迫力があります。
是非、その目で見て下さいませ。

なお、なぜかちゃっかり共にいる、「徳川家康」像はもともと石清水八幡宮にあったものを移したそうなんだって。
へー…アンタ邪魔だよ。(←ひでるは家康が嫌いです)


[住所]
 等持院「尊氏の墓(※写真)」 京都市北区等持院北町63

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NHK「その時歴史が動いた」 武乱世を制するリーダーの条件~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~ NHK「その時歴史が動いた」 武乱世を制するリーダーの条件~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~
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※よく知られる武者絵は別人とか言われてますね。
 こちらのお顔は…足利尊氏でしょうか?ちょっとファンもがっかりしそうね。

最後の出撃・石津合戦 (北畠顕家)5

2007年11月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
日本に三つの朝廷が乱立する混乱の中、再び時代は顕家さまの力を必要としていました。
これが最後の出撃となるのです。

三つの朝廷が乱立するという情勢の中、我らが「北畠顕家」さまは蜂起した足利方を掃討するため、再び奥州へ戻っていました。
なお、権中納言となっております。

延元二年(1337)
過去に「足利尊氏」を西へ追い落とした南朝の頼みの綱、「北畠顕家」は霊山城(りょうぜんじょう:福島県)にて奥羽の足利方と戦っておりました。
期待できる者はもはや顕家しかおらぬ
そんな「後醍醐天皇」の命により、再び上洛の兵を起こすこととなるのです。
京都奪還は顕家に託されました。


延元三年(1338)
再び西上した「北畠顕家」は足利方と戦い、「後村上天皇」を奉じて鎌倉を攻略。
続く美濃「青野原合戦」では「高師冬(こうのもろふゆ)」、「土岐頼遠」らの連合軍に勝利しました。
しかし、兵力の減少により、京攻略を諦めて伊勢へ後退。
伊勢・伊賀を経て、顕家は奈良へと入りました。

なにしろ奥州から従軍・転戦を繰り返してきたのです。
いかに精鋭部隊とは言え、怪我や疲労が重なって、疲労困憊としていたのでしょう。
奈良の「般若坂合戦」ではついに足利方に敗北してしまうのです。
しかし、三月から五月にかけては再起し、摂津、和泉などに転戦しました。

これに対して、遂に北朝方は「高師直」を総大将とした軍勢を堺まで進出させます。
それを防がんとする「北畠顕家」との間で起こったのが、和泉の「石津合戦」でした。
顕家率いる奥羽精鋭の働きは凄まじく、緒戦は優勢であったものの消耗が激しく、戦闘が長引くにつれて苦戦を強いられました。
やむなく顕家は二十騎ばかりで突破を試みたものの、ここで力尽き、討死。
顕家わずか二十一歳のことでした。

この彼の死は吉野・南朝方にとって衝撃であり、大きな痛手となりました。
さらにその三ヵ月後には「新田義貞」討死の悲報がもたらされ、南朝方は日に日に衰退していくこととなるのです。

【 武士メーター★北畠顕家 】
 家柄: ■■■■■ 超名門・村上源氏です。最強・最高です。
 実力: ■■■■□ 若いながら、軍を率いての戦闘はなかなかのものです。
 地理: ■□□□□ 遠くて雪国ですからねぇ。


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北畠顕家―足利尊氏が最も恐れた人物
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※そんなこんなで「北畠顕家」さまです。
 確かに、楠木くんと並んで強敵だったでしょう。

中期日本三国志 (北畠顕家)4

2007年11月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
新田勢を破って京へと進軍した「足利尊氏」勢。
若き大将顕家さまは奥羽の兵を率いてそれを追い、楠木・新田らと協力して尊氏を九州へと追い落とすのでした。
さすがです!
どっかの誰か(N田義貞くん)とは大違いですね(笑)

建武三年(1336)
九州まで逃げた「足利尊氏」は「少弐頼尚(しょうに・よりひさ)」に迎えられます。
兵数にて不利であった「多々良浜合戦」にて菊池氏の軍勢を破ると、なんと二ヶ月もしないうちに九州をまとめあげるのでした。
ちなみに、「楠木正成」はこの頃、九州へ追い落とした「足利尊氏」と同盟を結ぶよう献策しています。
当然ながら不採用となるんですが、敗れてなお武士たちの声望が尊氏に向いていることをよく知っていたのです。
(※ちなみに、新田を切り捨てろ、とまで言っていたらしい)

さて、九州の諸勢力を併合した「足利尊氏」は二十万とも言われる大軍で京へと進軍。
不利を悟った「楠木正成」は持久戦を献策しますが、またしてもその策は退けられてしまうのです。
こうして出撃した「楠木正成」は湊川にて討死。
さらに、退却した「新田義貞」を追って、足利勢はついに京へと上洛を果たすのでした。

なお、京を脱出した「後醍醐天皇」らは比叡山延暦寺へ逃げ込み、こちらで激しく抵抗していました。
「足利尊氏」はその顔を立てる意味を含めて和議を申し入れ、こうして持明院統の「光明天皇」が即位。
(※なお「光明天皇」は「光厳上皇」の弟です)

足利との和睦を進め下山をしようとした「後醍醐天皇」ですが、これに怒った「新田義貞」が激しく抵抗。
皇位を「恒良親王」へと譲位し、「新田義貞」と共に北陸道へ。
その後に京を脱出した「後醍醐天皇」は自らが正統であると主張し、吉野に新朝廷を開きました。

①吉野「後醍醐天皇」の南朝。
②京都「足利尊氏」擁する「光明天皇」が北朝。 
③さらに「新田義貞」擁する「恒良親王」が…言ってみれば北陸朝。
…当時の日本は、そんな感じで三分割されていたのです。

⇒ つづく。
  次回は「最後の出撃・石津合戦」

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ついに西上、鎮守大将軍 (北畠顕家)3

2007年11月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
ついに「後醍醐天皇」の新政治が始まりますが、あまりに時代錯誤なそれに愛想をつかした武士たちは棟梁たる家柄の「足利尊氏」の元へ集合していたのです。

建武元年(1334)
奥州の北条氏旧領は倒幕の褒美として”鎮守府将軍”となっていた「足利尊氏」が支配していました。
顕家の父「北畠親房」らは各地方の支配強化、さらには足利氏の牽制を狙い、鎌倉幕府の体制を真似た小幕府構想を企画。
嫡男の「顕家」を従三位陸奥守・鎮守大将軍とし、「後醍醐天皇」の皇子「義良親王(のりよし・しんのう)」を奉じて親子揃って奥州へと下りました。
こうして、陸奥国は多賀城(宮城県多賀城市)にて、東北地方経営を始めるのです。
同年、従二位に叙任された顕家は、南部、伊達、結城ら地頭勢力を併合して、父の期待通りに奥羽武士たちを自らの支配下としました。

建武二年(1335)
北条氏残党が起こした「中先代の乱(なかせんだいのらん)」鎮定のため、鎌倉へ赴いた尊氏ですが、討伐後もこちらに留まっていました。
すると、尊氏を慕う諸将が続々と鎌倉へと集合し、危険な一大勢力となっていくのです。
この事態を重く見た朝廷は「新田義貞」を大将に、その追討を命じました。
こうして「足利尊氏」は朝廷に対して完全に叛旗を翻し、独立の動きを見せるのです。

さて、討伐に赴いた新田勢ですが、なんと箱根・竹ノ下にて足利勢に敗北してしまいました。
新田さまは人望微妙ですが、戦も下手ですね。
討伐軍を蹴散らした「足利尊氏」は勢いそのまま進軍し、京へと迫りました。
十二月、奥州の精鋭を率いた「北畠顕家」は、その尊氏軍を追って西上。

建武三年(1336)
一月、上京した「北畠顕家」は頼れる「楠木正成」、軍を立て直した「新田義貞」らと共に「足利尊氏」と摂津にて対決。
彼等を京より追い出し、確保に成功するのでした。
逃亡する尊氏は領国の丹波、播磨を経て、九州は筑前まで逃亡しました。
これが二月のこと。月末には年号が延元となるのです。

なお、「足利尊氏」は京より脱出する際、持明院統の「光厳上皇」から院宣(※天皇の公式文章ね)を受け取っていました。
「光厳上皇」としては、「後醍醐天皇」の大覚寺統と対抗するため、尊氏の力に頼るしかなかったのです。
(※当時の天皇家はその二派が交互に即位する、ややこしいこととなっていました)
しかし、これによって南朝・北朝が両立するという、「南北朝時代」に突入していく切っ掛けとなるのでした…。

⇒ つづく。
  次回は「中期日本三国志」


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武士の棟梁「足利尊氏」の秘密 (北畠顕家)2

2007年11月25日 | 歴史
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本日は南北朝時代の英雄、若き大将「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」です。

村上源氏を祖とする名門家に生まれた顕家さま。
父「北畠親房」は「後醍醐天皇」の信任を受け、その軍事参謀として活躍していたのです。


元弘三年(1333)
「北畠顕家」は十五歳の青年となっていました。
それまでの間はまさに激動の時代でして、長く日本を支配していた鎌倉幕府が倒され、討幕軍に迎えられた「後醍醐天皇」が新たに政治を行うこととなるんですが…。
これが当人の名前にもあるように(※後醍醐って、本来は天皇死後に贈られるもの)、平安時代の天皇政治再現を目指した時代錯誤なもので、倒幕の中心となって働いた武士層にはきわめて不評だったのです。
さすがに鎌倉幕府約百五十年ほどの体制が深く日本に根付いており、いまさら過去に戻ることは不可能なんですよ。
これは現代の私らが昭和の体制に戻されるのと似たようなことでしょうから、そりゃーおかしなもんだったでしょう。
さらに増税もしており、武士だけでなく民心にもしっかり見放されていたようです。
なお、「北畠顕家」は死の前に「後醍醐天皇」へ、新政の失敗を諌める奏上文(顕家諫奏)を残しています。

そして、倒幕の力となった後の宿敵「足利尊氏」
足利家は「八幡太義家」を祖先とした、武士の棟梁たる清和源氏な家柄です。
↓ざっと簡単にはこんな感じ。(↓が子供、-が兄弟)

源頼光(摂津源氏)-源頼親(大和源氏)-源頼信(河内源氏)
                              ↓
                             源頼義
                              ↓
               源義家(八幡太郎)-源義綱-源義光(新羅三郎)
                ↓
         源義親-源義国-源義忠
          ↓     ↓
          ↓    義重(新田氏)-義康(足利氏)
          ↓
         源頼朝(征夷大将軍)


長男「義親」の家系が鎌倉幕府「源頼朝」、次男「義国」の家系が南北朝時代にて活躍する新田氏、足利氏となるのです。
ちなみに、新田氏祖先の方がもともとは長男の家系で、家柄としては上でした。
しかし、手柄を上げて政権と接近したことにより、いつしか立場は逆転。新田氏は足利氏の一支流的までに扱われていたのです。
まぁ、足利氏祖先の方が営業努力を続けていた、ということなんでしょう。今風に言えば。
こうして、源家嫡流が途絶えた(※頼朝の息子は暗殺などで全て死去)後より、足利氏が武家の棟梁たる家柄となっていました。

そんな、トップに立つべき家柄の「足利尊氏」は新政府でほとんど無視に近いほど冷遇され、いつしか不満をもった武士たちがその元に続々と集合していたのです。

⇒ つづく。
  次回は「ついに西上、鎮守大将軍」

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※そんなこんなで「太平記」
 よく見たら、「北畠親房」が「近藤正臣」、「北畠顕家」が「後藤久美子」でした!
 うわ、ちょっと見たいかも。



南北朝時代の若き英雄 (北畠顕家)1

2007年11月25日 | 歴史
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やっぱりややこしいのが中期、南北朝時代付近。
これは朝廷・公家が中心であった政治が、幕府・武士への移行によって社会構造が二重、三重となっていたのが原因でしょう。
あちこちで時代の主役となるため、大小様々な権力闘争をしていたんですよ。
権利だの過去がどうの、ってやたら複雑なので「イヤー!!」となるのだと思います。たぶん。

その厄介な中期の理解を少しでも深めるため、ひでるさんが好きな「北畠顕家」さまについてちょろっと調べてみました。
…手元にさして資料がないので、ごく簡単に。

普通は足利くん以下、北朝方のが主役っぽいんですよ。
結果的には勝利する側ですから。
でも、何故だか「足利尊氏」とか「高師直(こうの・もろなお)」って好きになれないんですよ~。
赤坂城・千早城などの攻防戦などで知られる「楠木正成」さまとか、奥羽の大軍を率いて転戦した「北畠顕家」さまのが憧れます。
と言うのも、彼らが上司に恵まれなかったにもかかわらず、”オー人事”ってやらずに最後まで、それこそ命懸けで戦ったところが悲劇的で涙を誘うためなんでしょうかね。
(※画像ないので近い感じのイメージです。若武者出陣の図。)

さて、この北畠家は村上源氏を祖とする、立派な名門家でした。
六十二代「村上天皇」からの支流です。
しかも官位だけで言えば、源氏一族ではあの有名な「清和源氏」よりも高いのです。
これが、戦国時代には強力な瀬戸内海の水軍となった「村上氏」、伊勢にて織田氏と戦った「北畠氏」となっていくのでした。
ちょっと格が落ちてますけどね(笑)

文保二年(1318)
「北畠親房(きたばたけ・ちかふさ)」の嫡男として「北畠顕家」は誕生しました。
これはちょうど「後醍醐天皇」が即位した年です。
父「北畠親房」はその「後醍醐天皇」に登用されて信任厚く、「吉田定房(よしだ・さだふさ)」、「万里小路宣房(までのこうじ・のぶふさ)」らと共に「後の三房(のちのさんぼう)」と呼ばれていました。
彼らは「後醍醐天皇」の側近として重用され、通常では考えられないような出世・昇進をしています。理想を追って政治に積極的だった彼は家柄に関係なく、能力ある人物を登用したのです
この「北畠親房」は検非違使別当(※平安時代の警察長官みたいなもの)から大納言に任命され、後の南朝では軍事参謀というべき立場になっていくのです。

⇒ つづく。
  次回は「武士の棟梁”足利尊氏”の秘密」


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浅草もんじゃまん (東京・浅草寺)

2007年11月25日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ(そんなのない)東京のポピュラー観光地、浅草「もんじゃまん」です。

なんだか京都へ行ってから、雨の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん

(※たんなる雨男とも言う)
彼女、ひでるが外へ(遊びに)出たら、喜んで雨を降らせてくれるのです。
そんな訳で、過去の食べ歩きシリーズは雨の話題とセットなのでした。
で、今回は浅草。
家を出る段階から天気はどんより曇りだったんですが、浅草についたら…

「天気  (大笑)」

本当に冗談のようですが、コレが脚色でもなんでもなく。
ぱらぱら弱い雨でしたけれど。
本当に時代が邪馬台国な頃であれば、「卑弥呼」亡き後「壱与」ではなく「ひでる」が治めれるかもしれませんね(笑)

そんなひでるの目に飛び込んできたのが↓コチラ。




浅草もんじゃまん!?

浅草もんじゃ奉行プロデュース、だって。
怪しさ満点ですよ。
やたら寒かったことも手伝って、さっそく食べてみることとしました。
なにしろ「浅草名物・ソフトクリーム」ってのもなかったので。

早速注文したら、こんな感じ(↑写真参照)で出てきました。
店で食べるお客さんには、せめてフィルムとってほしいですよ。ええ。



気になる中身はこんなん。
ちょっと肉まんちっくでしょ?
でも、味は肉まんではありません。(←そりゃそうだ)
やや薄味で…ウスターソースのような感じ。
最近は風変わりな「~まん」も多く、それらと比較するとややインパクトには欠けるかな。
決してまずい訳ではないですが、何個もほしくなるようなものでもなく。
…微妙。ごめん。



ごちそうさまでした。

【おすすめ★メーター】 浅草もんじゃまん
■■□□□ 2Point …寒いとそれだけ美味く感じるタイプ(笑)

どうでしょうか?
居並ぶ店でお祭り気分になっていれば、より楽しめるでしょう。
…よくよく考えたら、ひでるさんは元になった「もんじゃ」をほとんど食べた経験ないので、そっちの味をよく知りませんでした。
ちゃんちゃん。
目指せ!グルメレポーター!!


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※どーですか、こっちは見ると食べたくなるでしょー!!