お寺さんぽ Ver.03

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革堂[行願寺] (京都)

2006年09月30日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は西国三十三ヶ所観音霊場の第十九番札所、「革堂(こうどう)」こと行願寺(ぎょうがんじ)です。


金閣寺とか清水寺が京都のイメージになっている皆様へ。
正直なところ、観光で行かれた場合はよほどの余裕がなければ厳しいと思われますが、ひでるさんの考える京都の最も楽しいポイントは、

” 現代的な街並みの中に、ふと歴史的遺産が存在するところ ”

…だと思うのです。
ここ「革堂」も中京区の市街地にぽつんとあるお寺なんですが、これがまた古くからある歴史的なお寺なんですね。

寛弘元年(1004) は平安時代の後期。源頼光・頼信らが活躍していた頃のことです。
開祖の行円上人(ぎょうえん・しょうにん)によって、場所は一条小川(上京区)に創建されたのが始まりです。

さて、この「行円上人」はもともと猟師でした。
しかし、山中にて射殺した鹿から小鹿が生まれた(!)のを見て、自分の行いを悔い、仏門に入ったそうです。
まぁ、猟師だから仕方ないんですが…いい人ですね~行円さま。
さぞ生まれた小鹿は可愛かったのでしょう。
バンビみたいな。

僧となった行円さまには、影響された摂政「藤原道長」の子が思わず出家してしまうなど、身分に関わら多くの信者を集めていたようです。
でね、常に鹿の皮で作った衣を身にまとっていたことから、革聖(かわひじり)と称されることとなるのです。
そんな関係から、こちら行願寺も「一条革堂」あるいは「革堂」と呼ばれるようになったそうなのでした。
鹿のエピソードと言い、庶民から貴族まで慕われたことといい、空也上人とダブるんですよねぇ。
あちらは市の聖(いちのひじり)でしたが。

民衆の熱烈な厚い信仰を受けた革堂。
以後より、親しみやすいお寺として民の間で大いに栄えますが、度々の戦火に遭って移転・再建を繰り返すこととなるのでした。
各地を転々とした革堂が現在の地に落ち着くのは、なんと宝永五年(1708)のこと。
江戸時代で将軍は五代「徳川綱吉」の頃です。犬の保護が有名ですが、魚とか鳥とかも食べれなかったんだって。
そんなドエライ時期がちょうど終わろうとしている頃。(※六代・家宣は次の年に将軍になります)

宝永五年の大火によって、この地へ移されたそうです。
現在のこじんまりとした本堂は文化十二年(1815)に建てられたもの。
こちら有形文化財なんで行かれた方は気をつけて(笑)

本尊は行円作と伝えられる「千手観世音菩薩像」です。
ほか、境内には七福神(※コンクリ仏以外に寿老人の像があります。暗がりでニヤケ顔の像は不気味ちっく)や不動堂、弁財天などもいる、楽しいお寺です。
皆さんもぜひ訪ねてみて下さい。


[住所] 革堂[行願寺] 京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17

[関連記事]
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 空也上人立像 (京都・六波羅蜜寺)

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※そんな訳で子犬。
 子犬ってーのはそれこそ「御犬様」ですよねー。


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謎の歴史資料館と氏照墓所 (八王子城址)3

2006年09月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本百名城の一つ、「八王子城址」についてのレポートの最後をお送り致します。
今回は北条氏照墓所のお話。

八王子命名の由来になった氏照さまの墓所は、先に紹介しました管理棟からだいぶ下の方で、城址よりも行きやすいです。
道には「北条氏照墓」としっかりペイントしてあり、目立っていました。
せっかくなんでこちらも御参りしたいですよね。
さして距離も離れていませんので、気軽に覗いてみて下さい。

さて、こちらへ入る道に「八王子城址歴史資料館」の看板を発見。
あら、そんなんあるんだー、って思うでしょ?

てくてく歩いて行って、建物見つけて二度びっくり。
単なる民家なんですよ。これが。
ちょっと入るのに勇気いります。

…………どんなんか知りたいでしょ?でしょ?
こんなん↓です。



うっひゃー入りづら!!
でもせっかく来たんだし、一応開催中って書いてあるし。
まぁ、ブログネタになればいいか、と思ったひでるさん、呼び鈴を鳴らして猛ダッシュ!!
…なんて子供のイタズラしませんが。
……待つこと数分。

し~ん。 

まるで音沙汰なし。
呼び鈴押す前のドキドキ感も無駄に終わってしまいました。
もしかしたら気づいてないのかなー、ってもう一度押したものの、やはり無反応。
不在のようでした。
しおしお。
ちょっと残念。


さて、そちらからさらに細い山道を行くと、ありました「氏照さま墓所」
彼は小田原で切腹させられているので、死後こちらへ戻ったのでしょうか。
看板の説明書きに「七月十一日小田原で自殺した」との誤りを、どなたかが必死に修正しておられるところが見物。
そうですね、切腹が正解なんです。

ほか、左右に「中山家範」「中山信治」の墓が、後方には城と命運を供にした家臣団の墓がぽつぽつと並んでいます。
訪れたのは正午でしたが、木々に覆われたここは薄暗く、石塔や石仏並ぶ光景はやや薄気味悪い。
ほら、掲載した入口付近の写真があの薄暗さですから。
昼間ですよ、アレで。

そして何より、前回レポでも書きましたがこちらも「  」が多い。
もの凄く多かったです。
あちこちかゆかゆです。
正直、行く時期を誤りました。皆様はお気をつけ下さい。


[住所] 八王子城址 元八王子町3ー2715ー2(管理棟)

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悲劇の城は最適なハイキングコース (八王子城址)2

2006年09月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本百名城の一つ、「八王子城址」についてのレポートをお送り致します。
長いのを避けるために全三回にて。
今回は八王子城址のお話。

こちら八王子城は小田原北条家、氏康の三男として生まれた「北条氏照」によって築城された規模の大きい山城です。
これより前に氏照は「滝山城」を居城としていましたが、永禄十二年(1569)の武田晴信による小田原侵攻の際に滝山城を攻められ、三の丸まで落とされるという危機に直面しております。
その反省があり、大軍の攻撃にも耐えうる城として「八王子城」の築城を考えたようなのです。

なお、完成後は太田氏房(※北条氏政の三男)の岩槻城、北条氏邦(※北条氏政・氏照の弟)鉢形城、らと北条氏の三大支城になっていました。
豊臣秀吉の軍勢が迫っていた際、氏照は主力を率いて小田原城へ入城しています。
そのため、留守は僅かな兵だけであったのです。


さて、秀吉は次々に支城陥落の報が届く中、あまりいい表情ではありませんでした。

戦というものは、片方は降伏させても、もう一方は攻め殺すようでないと示しがつかん

そう、これまでは包囲の末に降伏・開城ばかりだったんですね。
なるほど。
そんな秀吉の命を受けた「前田利家」・「上杉景勝」ら北陸勢はターゲットを八王子城に定め、強引な総攻撃を開始するのです。

これに対し、守将「横地監物(よこちけんもつ)」以下、三の丸の「狩野一庵」、二の丸の「中山勘解由」、山麓の「近藤家重」らは寄せ手を一度は退却させるなどよく善戦しますが、大軍相手に押しまくられて、全滅
天正十八年(1590) 八王子城は一日にして落城。

また、城内の御主殿には氏照の夫人らが籠もっていましたが、落城間近になると次々に滝へ身を投げてしまうのです。
このため、滝の水は三ヶ月もの間紅く染まったと伝えられてます。
ちなみに、最後まで踏みとどまっていた二の丸の「中山勘解由」の見事な奮戦ぶりに感激した「徳川家康」は、戦後に彼の息子らを召し出しているそうです。

そんなエピソードの残る、悲劇の城「八王子城」

メインの「御主殿跡」付近ならば、三十分もあれば行って帰ってこれます。
こちらは山坂ゆるく、ちょっとしたハイキングにもいいでしょう。
ただ、目的地となる館跡はだだっ広い野原だけで、ちょっとがっかり。せめて記念碑でもあれば良かったんですが…。
また、こちら山頂でないため、眺めは木々に囲まれているだけでした。
達成感を味わいたいなら、山頂の本丸跡、神社を目指しましょう。
ちなみに、ひでるさんは行きませんでした。
だって、山坂しんどそうなんだもん(笑)

ちなみに、行った時期が夏から秋に変わる九月であったので、 がものすごかったです。
あのねぇ、デジカメ構えるところを狙われるんですよ。
写真撮ろうとすると目前の指に蚊がとまるでしょ、慌ててそれを追っ払うから写真がブレる、撮れんと大騒ぎでした。
…そうこうしているうちに、他の箇所をしっかり刺されていました。ついでに、いつの間にか手も数カ所やられてしまいました。
かゆかゆです。虫よけスプレー必須。

また、前日が雨だったこともあり、つるりと滑りやすい山道はちょっと危険でした。
古道でない道の途中には石仏が複数あり、ひでるさんはそっちの面でも楽しめました。(田代寺?)
なんていうか、ちょっと不思議空間ちっくですよ。

⇒次回は「謎の歴史資料館と氏照墓所」

[住所] 八王子城址 元八王子町3ー2715ー2(管理棟)


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ひぐらしのなく頃に 鬼曝し編 (2)

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※紅く染まる…と言えば最近見たこちら。
 相変わらずひぐらしノイローゼがつづくひでるです。
 ラストシーンはなんだか色々な意味で納得。
 …びっくりするけどね。そんなんがひぐらしちっく。


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行こう!八王子城址ってこんなとこ (八王子城址)1

2006年09月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本百名城の一つ、「八王子城址」についてのレポートをお送り致します。
長いのを避けるために全三回にてゆっくりと。


日本百名城に認定されています、こちら「八王子城址」
都内では江戸城とこちらだけなんですって。
…まぁ、問題はどんな基準で選んだのかようわからんってことですけどね。
(※おそらく、状態がいいとかそんなんだと思います)

今回は交通とか設備とかそんな話。
京王線かJR中央線で「高尾駅」に下車。駅は北口へ行って下さい。
ちなみに、こちらで飲み物とかなんとか、あらかじめ買っておいた方がいいです。

そこからはバス(※1番乗場。霊園前下車)かタクシーで。
バスだと、だーいぶ前で降りなければなりません。そこからだいたい十五分程度ですね。
タクシーだと、管理棟のすぐ隣まで行ってくれました。
金額はだいたい千三百円くらいなので、複数人数ならタクシーのが早くてお得。
ちなみに、駅から歩くとなるとかなり距離あります。
おすすめしません。
やめたほうがいいです。

え、歩きたいですか?
…そうですね、四十から一時間程度でしたよ。
でしたよ、って、実はひでるさん帰りは歩いてみたんですね。
なんとなく。
歩けない距離でもないですが、けっこうしんどかったです。
阿呆ですね(笑)
特に真夏・真冬はやめましょう。

お車の方は、けっこう広めな駐車場がありましたんで、そちらご利用下さい。
ああ、そこの方ご心配なく。
無料ですから。

こちらは典型的な山城であるため、山のほとんどが城址です。
主な見所としては、中腹あたりのもと居住区であった「御主殿跡」、山頂で神社もある「本丸跡」、氏照さまの墓所、とだいたい三箇所。たぶん。
御主殿跡(ごしゅでんあと)への入口付近には管理棟があり、こちらには詳細な写真つきの説明があります。
これらを読めばほぼ理解できる、詳細な解説になってます。
パンフがあるのもこちらですね。

また、こちらにはトイレもあり、隣に管理棟があるためか、かなり奇麗です。
(※扉も閉めるようになってるので、虫がうようよ、ってのもなし)
この段階で花丸。
ただ、飲料販売機とかないのが残念でした。

⇒次回は「悲劇の城は最適なハイキングコース」


[住所] 八王子城址 元八王子町3ー2715ー2(管理棟)


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八王子城炎上―利家・景勝軍を迎え戦国の終わりを告げた合戦秘話

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※後でやりますが、悲しいエピソードが残るお城なんですよ。


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特別展 仏像 一木にこめられた祈り (東京上野)

2006年09月26日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はちょこっと特別編です。
最近歴史ネタばかりだったのでいいでしょ、たまには。

もーいーくつねーるーとー♪
と、いう訳でそろそろきますよ上野公園「特別展 仏像 一木にこめられた祈り」展!
(※写真参照)
どうですか、皆さん?

さて見てください、「門外不出」ですよ、滅多に見られませんよ!
今回は奈良から江戸時代まで、全て一木彫(いちぼくちょう)の仏像が集合しております。
頭から胴まで一本の木でできているんですね。
これは平安から藤原時代に多い技法なんですが、やっぱり一本だと色々不都合があるらしく、後半からはプラモデルのように各パーツで組み立てる寄木が流行ったようです。
運搬が楽で、しかも干割れ(ひわ・れ)の心配がないためなんだそうです。
でもね、一本の迫力ってーのはなかなかのもんですよ。ええ。
そんな訳で、特別展には平安期の仏像が多いようです。

今回の見どころはなんといっても京都「西住寺」の「宝誌和尚立像(ほうし・おしょうりゅうぞう)」
いわゆる”脱皮仏”ですよ!!
これは名僧「宝誌和尚」が十一面観世音菩薩になるため、脱皮している姿を表現しているんだそうです!!
メチャ必見です!!すっごいですよ!!
小さい子見たら泣くかも。

とりあえず、子供時代のひでるさんは泣くと思います。
(※ひでるさんは幼少期、仏像見ると泣いてた。…当時から迫力を感じていたのでしょうか?)

他には京都「願徳寺」から目玉の「国宝 如意輪観世音菩薩半跏像(菩薩半跏像)」が出張してこられます。
綺麗な美形仏です。
こちらは、ひでるさん京都で直接見てきました。
…ってことは、展示される十月三日から十一月五日までは「願徳寺」へ行かないほうが良さそうですね。
うふふ…。
滋賀「向源寺(こうげんじ)」からは初公開の「国宝 十一面観音菩薩立像」も出張されるそうです。
(※十一月七日から十二月三日の公開)
わーわー、パチパチパチ。
すごいすごいー!

まだ始まっておりませんが、展示一覧を眺めるだけでわくわくしてきます。テンション上がります。
何があっても必ず行きますよー。
また例によって当ブログでは簡潔に潜入レポを書きますね。
お楽しみに!


場所: 東京国立博物館 平成館 [HP
期間: 10/3 ~ 12/3
料金: 一般1500円


みうらじゅん・いとうせいこう 仏像トーク

なんと十月七日(土)には「みうらじゅん・いとうせいこう 仏像トーク」があるそうです。
でも別途料金がかかるそうなんですね。ひどーいー。

この日は混みそうですね~。

[日時]  十月七日(土) 15:00~16:30
[会場]  東京国立博物館 平成館 大講堂
[入場料] 二千円
[出演者] みうらじゅん、いとうせいこう
[販売]  九月十一日(月)より (※電子チケットぴあにて独占販売)


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だれにでもできる 仏さまの彫り方入門

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※おもしろいDVD見つけました。
 これ見て丈六仏でも彫ってみたいですね。


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重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)

2006年09月25日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秦野「宝蓮寺」を紹介したついでに、そちらに安置されてる仏像の話題を軽く。
めずらしくちょっとだけ。


「宝蓮寺」のややこしい話は前回やったのを参照下さい。
記事読んだのを前提で気にせず進めますので。

もともと大日堂境内には別に「観音堂」というのがあり、そちらに安置されていたのが今回の主役「重文 木像聖観世音菩薩立像」です。
しかし、その観音堂が崩壊してしまうと、残っていた大日堂に移されるのでした。
現在もそちらに仲良くいらっしゃいます。

こちらは一木造(いちぼくづくり:木を一本そのまま使う彫り方。組み合わせたものは寄木造り)で、高さが二二八センチメートル(228cm)というかなり大きめな立像となっています。

大日さま以下、「五智如来」よりも若干古く、平安時代初期ごろの作なのです。
古いだけ表面には劣化が見られ、また現在までに何度か補修された跡もあるそうです。
お寺の看板によると、腰付近は制作当時のままの様子とか。また、補修の際に若干小さくしている、とのことでした。
縮んじゃっているんですね。あれま。

あ、そう「聖観音」はまだ当ブログで紹介していませんが、「~観音」の基本形とされる像です。
如来シリーズ(なんじゃそりゃ)の「釈迦如来」みたいなもんですね。

ちなみに、TV見仏記で「みうらじゅんさん」は「新幹線の0系」と例えていましたが、まさにそんなんです。
ガンダム好きな方なら「ザク」「ジム」のようなもの。
ゲームで言えばインベーダーゲームみたいなもんですかね。
お花片手に微笑んで立っている方です。
…そのうち、しっかり紹介させて頂きます。



[住所] 宝蓮寺 秦野市蓑毛674

[関連記事]
⇒ TV見仏記  京都編
⇒ TV見仏記2 滋賀/奈良編
⇒ TV見仏記3 南山城・宇治・伏見編
⇒ TV見仏記4 西山/高槻編
⇒ 秘仏開帳~特別拝観の古寺・名刹をゆく~
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (



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OSアイドルWinちゃんコンプリートファンブックSKY BLUE

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※キーワード「観音」で探してたら、今やケロロ軍曹でもお馴染みの
 「吉崎観音(よしざきみね)」センセにぶち当たりました。
 残念ながら「アーケードゲーマーふぶき」に画像がなかったので、
 こちらにしてみました。
 ミニゲームも収録されたお得なCDROM付きです。
 ……って詳しいひでるさんは所持してたりして。うふふ…。


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宝蓮寺 (神奈川県・秦野市)

2006年09月24日 | お寺
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本日は同県に住む人もその存在を知らない(かもしれない)、神奈川県は秦野市「宝蓮寺」です。
…知ってたらごめんなさい。
だって、ものすごくひっそりとしてたんだもん。


宝蓮寺(ほうれんじ)のもともとは古く、むかーし、むかしのそのまた昔。
なんと、平安時代よりさらに前のことなんです。
びっくりするでしょ?

さて、渡来人で機織りの技術に精通していた秦氏(はたの・し)。
秦氏が持参してきた、インドより伝来したという守り本尊の「不動明王像」を不動堂へ祀ったのがこちらの始まりとされています。
(※現在不動堂にあるのは江戸時代作のものです)
大変な歴史あるお寺なんですよ!

その後、第四十五代天皇「聖武天皇(しょうむてんのう)」の勅願所として、東大寺(奈良)の大仏制作にも活躍した行基(ぎょうき)によって大日堂が建立され、中興しました。
これが天平十四年(743)のこと。中興でもまだ三桁年代ですよ。

…どうですか?
かなりスゴイ歴史のあるお寺だ、ということがご理解頂けたのではないでしょうか。

その建立された大日堂には一木造の「重文 大日如来座像」があります。
こちらは結構な大きさで、しかも他に宝生、阿悶、阿弥陀、釈迦、の各坐像が存在し、「五智如来」の体となっているのでした。
これ皆平安時代の作ですよ?!
こんなん全国探してもごく僅かですよ!
たぶん。

さて、こちらが「宝蓮寺」となるのは中興からまた数年の後のことでして、時代はようやく鎌倉期。
臨済宗の僧「高峰顕日(※)」という方が開山し、大日堂の別当寺院で臨済宗・鎌倉建長寺の末寺「金剛山宝蓮寺」となるのでした。

その後は山岳修験信仰の霊場として、丹沢山の登山口、大山の参道入り口として栄えたようです。
近所の方は無論のこと、遠くにお住まいの方もこの歴史あるスゴイお寺をぜひご覧下さい。
…ひでるさん行った時は誰もおらず、えらく淋しげでありましたけどね。



※高峰顕日(こうほうけんにち)
 鎌倉時代後期の臨済宗の僧。後嵯峨天皇の第二皇子なんだって。
 諡号は仏国禅師・仏国応供広済国師です。

[住所] 宝蓮寺 秦野市蓑毛674


[関連記事] 如来系リンク
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来
⇒ 薬師如来 蛸薬師
⇒ 弥勒如来


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図説 大日如来と密教の仏たち

大法輪閣

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※大日如来です。ひでるさん如来系で最も好きな方です。


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耳川合戦と宗麟の最後 「大友宗麟」6

2006年09月23日 | 歴史
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本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。

だいぶ長くなりましたが、これで最後にします。
ちなみに「耳川合戦」の詳細はまた別にやりましたんでそちらをどうぞ。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯の結末をご堪能下さい。


天正六年(1578)
ついにキリスト教に帰依した宗麟。
島津より追われた伊東氏のため、宗麟は日向(宮崎県)へ侵攻を開始します。
実際は日向にキリシタン王国を造る心であったという宗麟。
城攻めなどで使用していた「国崩し」という大砲により、道々の神社・仏閣を破壊しながらの進軍は「仏罰」を恐れる兵の士気を下げるには絶大だったのです。
戦う前から勝敗は決していたのかもしれません
さらに悪いことには、宗麟に諫言できる「立花道雪」ら古参の名将は遠ざけられ、この時には留守番を命ぜられていました。

耳川(高城川)にて対峙した島津・大友軍。
しかし、全体指揮をする筈の宗麟の姿はそこにありませんでした。
……なんと、彼は遥か後方にて宣教師らと共に神に祈りを捧げていたのです(本当)
宗教好きもここまで来るともう異常です。

神の手が差し伸べられるか?!
はたまた祈りが空振りに終わるのか?!
…と、見方によっては非常に面白い合戦である、九州・覇権争いの「耳川合戦」
神の存在意義が問われる、重大な意味を含んだこの合戦。
島津方の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法によって序盤優位であった大友勢が完膚なきまで叩きのめされ、多くの家臣が討死するという、致命的な大敗北となるのでした。

有能な家臣を失った宗麟には島津の進軍を止めれられません。
各地の将は島津へと降り、大友家は衰退。
ここで勢いに押されていた宗麟は、大坂へ赴き「豊臣秀吉」に会見しました。
単独での抵抗を諦めて援軍を請うたのです。
これが天正十四年(1586)のこと。
ちなみに、秀吉・家康の「小牧・長久手合戦」は天正十二年です。その二年後なんですね。

日向から豊後へと侵入した島津勢の勢いは凄まじく、本拠地府内をも占領されてしまいます。
宗麟は「丹生島城」に籠城。
大砲「国崩し」を使い、丹生島城を死守します。

岩屋城の名将、「高橋紹運(たかはししょううん:旧・吉弘鎮種(よしひろしげたね))」は千名にも満たない兵で島津の五万とも言われる大軍を引き受け、徹底抗戦した後に玉砕。
なんと相手方に四千の死傷者を出すという、凄まじい奮戦をしたのです。
単純に考えて、一人で四名以上を道連れにしたのだから、ものスゴイのです。

立花山城に籠城する鎮西一の剛勇「立花宗茂(たちばなむねしげ)」もゲリラ戦を展開して島津勢を散々に苦しめます。
さらに、岩屋城で死んだ父・紹運の敵討ちにと島津本陣への奇襲を成功させると、撤退する軍勢をさらに追撃。
高鳥居城を攻略し、さらに岩屋城、宝満城らを逆に奪還するなど、目覚しい活躍をみせるのでした。

島津勢に九州制覇のあと一歩のところまで迫られながらも、残った家臣らの命を賭した活躍と太閤秀吉の援軍によって、宗麟は最後の危機もどうにか退けることに成功しました。

秀吉の大軍勢を受けた「島津義久」は天正十五年(1587)に降伏。
そして、これを見届けたように宗麟は降伏から約二ヵ月後、病によって死去しました。
享年五十八。

彼の心には平穏をもたらしたキリスト教ですが、結果としてそれ以外には和を乱す元凶となってしまったのです
数奇な運命を辿った宗麟に、果たして神の手は届いたのでしょうか?


今回写真は宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」の安勝軒です。
ちょっと物悲しい雰囲気漂っているでしょ?

[関連記事]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]


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今山合戦と宗教対立する家中 「大友宗麟」5

2006年09月22日 | 歴史
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本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。


仇敵尼子氏を滅ぼした毛利は再び九州へ進出の機会を窺っていました。
九州の緒将を反大友とすることに成功した毛利は、ついに九州へ上陸。
各地の反対威力と結託して宗麟を窮地に立たせるのです。
これに対し、逆に”周防へ兵を送るという奇策”をもって撃退した宗麟。
九州の地から完全に毛利勢を排除すことに成功したのでした…。


さて、頼みの毛利勢に撤退されると、二年間もの籠城に耐え続けた宝満城らは落城。
反対勢力はことごとく宗麟に降ることとなるのです。
こうして「大友宗麟」は九州九ヶ国のうち、なんと六ヶ国まで支配する大大名となりました。
(※支配は実際のところやや微妙ですが)

元亀元年(1570)
この年、最高潮であった大友家にを落とす大事件が起こります。
これが対「龍造寺隆信」の「今山合戦」です。

大友勢は宗麟の弟「大友親貞」を総大将とした三万という大軍を”肥前の熊”との異名をもつ「龍造寺隆信」討伐に向かいました。
これに対する龍造寺勢はわずか五千程度の兵力で、本拠である「佐嘉城」はたちまち包囲されてしまうのです。
龍造寺は大軍である大友の攻撃によく耐えますが、援軍の見込みがない籠城戦は悲壮感漂うものでした。

ここで、家老「鍋島直茂」が一か八かの”今山本陣奇襲”を進言します。
隆信はこの積極策を採用。
直茂は自ら精鋭を率い、今山にあった大友本陣に決死の夜襲をかけるのです。
この奇襲に完全に不意をつかれた大友勢は、乱戦のなか総大将「大友親貞」が討死
部隊は総崩れとなり、散々な敗北を喫するのです。
この戦いを機会として、龍造寺勢は大いに勢力を伸ばし、大友・龍造寺・島津の有力大名家が九州の覇権を競うこととなるのでした。
九州三国志の開幕です。

天正六年(1578)
ついにキリスト教に帰依した宗麟。
洗礼名は「ドン・フランシスコ」です。
(※ちなみに、天正四年(1576)には嫡男、大友義統(おおとも よしむね)に名目上ではありますが、家督を譲っています。この二頭政治も滅亡の原因と言われる)

ちなみに、珍しい年上の正妻「奈多夫人(なだふじん)」は宗麟と良くなかったようです。
宗麟は人の気持ちを分からない暴君として知られています。家臣の妻を略奪するとか、酒色に耽るなどなど、悪癖があったのです。
これらが、先にもあった家臣・一族が離反する最大の原因と言われております。
さらに、宗麟がキリスト教に傾倒してからは”信仰”を巡って家中が二分されてしまうのです。

この宗教対立に拍車をかけたのが、もともと奈多八幡宮の娘であった夫人の存在でした。
宣教師によって洗脳されていく夫・宗麟、それに従う家臣団。
(※洗脳されていくように見えたでしょう)
この異常事態を深刻に受け止めた夫人はキリスト教・宣教師に対して厳しく接したため、宣教師には悪妻・恐妻と恐れられ、そう喧伝されてしまうのです。
(※実際にそう記述があります)
また、そんな行動によって、もともと神道の象徴のようだった夫人はもう一方の旗頭とされ、大友家中は宗教争いの様相となってしまいました。

この頃になると、政務を拒否し、遊び惚ける、キリスト教に没頭する宗麟を見かねた「立花道雪」が戒めたこともあったようです。
もう、大友家に、宗麟に、家中をまとめるだけの力はなくなっていたのです。

次回は宗麟さまの最後。

⇒ つづく。

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またまた翻弄される毛利元就 「大友宗麟」4

2006年09月21日 | 歴史
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ポルトガル船の砲撃という仰天作戦によって序盤を有利に展開していた大友勢。
しかし、智将と名高い「小早川隆景」率いる毛利勢が上陸すると事態は急転。
毛利の戦術に翻弄され、なんと敗北してしまうのです。
こうして、一時期は追い詰められていた宗麟ですが、出雲の尼子氏と同盟を結ぶことに成功。
安芸の毛利領を東西より挟撃する体制をつくり、撃退に成功するのでした。
あの毛利元就を手玉にとったのです。
すごいですね!
今回はそんな毛利・大友の激突・第二回戦です。


永禄九年(1566)
門司城攻防戦から五年後のこと。
九州への侵攻を阻んだ宿命のライバル、尼子氏を月山富田城に滅ぼした元就は再び九州への上陸作戦を開始します。
策謀に長けた元就はここで先手を打ち、肥前「龍造寺隆信」、筑前「秋月種実」「高橋鑑種」と言った北九州の緒将に反大友の兵を挙げさせるのです。

特に「高橋鑑種(たかはし・あきたね)」は元々大友一族(支流)で、知勇兼備の将「一万田鑑実(いちまだ・あきざね)」の弟なのです。
要するに、宗麟の譜代家臣に反乱を起こさせているのです。

筑前の豪族、高橋氏には子がなかったため、新たな当主として宗麟が送ったのが「高橋鑑種」でした。
この際には宝満城・岩屋城などを与えられていますから、なかなか信頼が厚かったことが伺えます。
しかし、鑑種にしてみれば、宗麟は”単なる暴君”として映っていたのかもしれません。(※この性格面については後で記述します)
おそらく、毛利方はそういった情報を得ていたのでしょう。
誘いに乗った鑑種は反旗を翻し、宝満城・岩屋城など各城に籠城するのでした。

また、「秋月種実(あきづき・たねざね)」は弟を鑑種へ養子に出すなど、日ごろより絆を深めており、また以前から毛利の支援を受けていた縁もあって、これに同調。
共に出陣した高橋・秋月の連合軍は大友勢を叩き、大いに打ち破ったのです。

さらに、博多港を見下ろす重要拠点「立花城」を守っていた「立花鑑載(たちばな・あきとし)」も鑑種に同調しています。
領内火だらけです。

宗麟は火のついた足元を鎮火するため、それら反旗を翻した豪族・大名の征伐にあちこち翻弄されるのです。
これを好機とみた毛利方はすかさず出陣。
大軍を上陸させた毛利の勢いは凄まじく、「戸次鑑連(へつぎ・あきつら:後の立花道雪)」の活躍で反乱を鎮圧、奪回していた立花城などは再び奪い取られてしまうのです。
勢いそのまま豊後の南へと動きを見せた毛利勢はどうにか撃退したものの、各地で猛威をふるう反乱軍と、大軍を率いる毛利勢によって窮地に立たされてしまうのです。

宗麟、再び大ピンチです!!
しかし、ここでおめおめ引っ込まないのがいい所。

永禄十一年(1568)
どうにも対応に窮した宗麟はここで策を練ります。
以前より庇護していた大内一族の「大内輝弘」に兵を与えると、”大内家再興”を名分に彼らを毛利領・周防国へ密かに逆上陸させたのです。
この動きに、行き場を失っていた大内の遺臣が呼応して一大勢力となり、一時期は周防国を完全に制圧するほどの勢いでした。
また、永禄十二年(1569)には尼子家臣「山中鹿之助」が山陰に攻め込むなど、領内情勢が急激に悪化。

宗麟の奇策と尼子旧臣に仰天した毛利方は、結局九州へ送っていた兵を総撤退させるのでした。

またしても、宗麟はぎりぎりまで追い詰められながら、毛利勢を九州から退けることに成功しました。
以後は二度と九州の地へ踏み込ませなかったのです。

イカスぜ!宗麟さまっ!!
という訳で、次回は大友家の衰退です。

⇒ つづく。

[関連記事]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]



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翻弄される毛利元就 「大友宗麟」3

2006年09月20日 | 歴史
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「毛利元就」によって拠点「門司城」を落とされた大友宗麟。
宗麟は幕府に手を回して「九州探題」の職に任ぜられると、その権限を利用して奪回に挑みます。
今回はそんな毛利・大友の激突第一回戦です。


永禄四年(1561)
門司城陥落から二年後のこと。
大友宗麟は遂にこちらの奪回作戦を開始します。

豊後に停泊していたポルトガル船の協力をとりつけた宗麟は一万五千の兵を率いて出陣。
それと同時に、船からは海上砲撃を開始しました。

時代は鉄砲が伝来し、ようやく国内生産されてきた程度の頃です。
見慣れぬ大砲による砲撃は、守備側にとって想像を絶するほどに激しいものだったでしょう。
毛利方は多大な被害を出し、戦意喪失してしまうのです。
(※でも、ただ援護砲撃をしただけ)
大友勢は思惑通りに序盤戦を有利に進めていました。

一方、門司城危機!の報告を受けた毛利元就は、嫡男「毛利隆元」と三男「小早川隆景」を救援のため出陣させます。
兵を率いて前線に赴く「小早川隆景」は豊後の守護代・杉氏や堀立氏を援軍に向け、同時に「厳島合戦」でも協力した「村上武吉」ら水軍勢に依頼して豊前・筑前の沿岸を襲撃・かく乱させています。

大友勢は救援に布陣していた毛利勢を蹴散らし、門司城へと迫ります。
しかし、上陸した「小早川隆景」は急ぎ主力部隊を入城させると、全軍を指揮して大友勢に対しました。
また、防府の本営にあった総大将格の「毛利隆元」は、追加の援軍を渡海させ、対峙していた大友勢の側面を襲わせるのです。
次々に繰り出される兵に圧倒され、大友勢はここで大打撃を受けてしまいます。
また、後方をかく乱する村上水軍の影響もあり、さすがの宗麟も退却を余儀無くされました。
大友軍、敗退です。

しかし、ここでシオシオ引っ込まないのがいい所。
領国を毛利勢に蹂躙されて窮地に陥っていた宗麟は、ここで得意の外交戦術に切り替えるのです。
当時、毛利は出雲の大大名尼子氏と敵対しておりました。
宗麟はその尼子と同盟を結ぶことに成功するんですね。いわゆる遠交近攻というやつですよ。
これで、北九州から中国地方にかけて、ちょうど毛利領を挟撃するような形をとることができました。

東から進軍する尼子勢を重くみた毛利は東西の二面作戦を避け、九州へ上陸させていた兵をやむなく撤退させるのです。

こうして、第一回戦はぎりぎり追い詰められながらも、毛利を九州より退けることに成功しました。
戦術より、戦略に優れた宗麟の面目躍如です。
厳島合戦では「陶晴賢」を手玉にとった老練な元就ですが、この時は宗麟にしてやられてしまうのでした。

すごいぜ!宗麟さま!!
そんな訳で、次回は第二回戦です。

⇒ つづく。
 今回写真は海イメージですが、九州ではありません。ごめんね。

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⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]


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戦雲!北九州!! 「大友宗麟」2

2006年09月19日 | 歴史
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前回のあらすじー。
どうやら、親・弟を殺害したっぽい「大友宗麟」さまは無事家督を相続し、大内氏を倒した「毛利元就」と対立するようになっていくのです。
今回はその激突第一回戦に至る経緯をば。


天文二十年(1551)
名門守護大名・大内家の当主「大内義隆」は一度の敗戦から政務より遠ざかるようになり、行く末を案じる家臣団と対立。
家臣団の中心的存在だった「陶晴賢」はついに謀反を起こし、義隆を討ってしまうのです。
その晴賢は大内家の養子であった宗麟の弟「大友晴英」を迎え、これを「大内義長」と改名させて当主としました。
(※無論、実権は自らが握っています。とりあえずお飾りが必要だったのです)
…ここがポイント。

ちなみに、宣教師「フランシスコ・ザビエル」が宗麟のもとを訪れるのがちょうどこの頃。
彼の運命を大きく左右することとなる、キリスト教との出会いです。
宗麟は南蛮・明などと積極的な貿易を行っていました。ザビエルとの出会いは、それがもたらした偶然だったのです。
後にキリスト教に帰依することとなる宗麟は、ザビエルのことを「心の友」と評していたようです。

弘治三年(1557)
謀反から六年後のこと。
「陶晴賢」、「大内義長」の両名を奇策をもって倒したのが、皆さんご存知な中国の雄「毛利元就」なのでした。
(※このあたりは別にブログ記事を書いていますんで、興味のある方はどうぞ)

そんなこんなで大内氏の領地を併合した元就。
領地が九州北部まで及んでいたため、弟を倒された宗麟と元就は北九州の覇権を巡って、激しく対立することとなるのです。
九州の最北端あたりには、豊前・門司城(※もじじょう:福岡県北九州市門司区大字門司)があり、国境たるこちらの城は自然と激戦地になりました。

永禄二年(1559)
当時大友方だった門司城が毛利の手におちます。
それに対抗したい宗麟は必死に運動した結果が実り、同年幕府より「九州探題」に任ぜられています

この「九州探題」ってーのは、鎌倉時代後期あたりより幕府が九州統治のために設置した官職なのです。
戦国時代には実のない名誉職的なもので、”九州の治安維持”という名目を利用することが最大の目的であったと思われます。
(※ちなみに、関東の場合は関東公方(鎌倉)となります。関東管領はその補佐役で、上杉謙信が継いでいます)
宗麟はこの役職を手に入れるため、名ばかりの足利幕府に対してしきりに運動していたのでした。

次回、宗麟は仰天な方策による門司城奪回作戦を展開します。

⇒ つづく。
  今回写真も宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」のお庭です。


[関連記事]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)


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キリシタン大名と言えば… 「大友宗麟」1

2006年09月18日 | 歴史
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本日はキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯をご堪能下さい。

たぶん歴史とかで…やったよね?よね?
一般的にはまるで知られていない(笑)か、単にキリシタン大名って認識か、ちょっと詳しい人であれば、そこそこ領地があったのに島津・龍造寺にやられちゃう暴君、って認識でしょう。
そんなもんでしょ?

この人、実際には中国の雄「毛利元就」を手玉に取っている、ものスゴイ策士なのです。
単なる宗教キ●ガイでも、暴君でも阿呆でもないのです。
と、いう訳で、今回ブログはどちらかというと悪玉な「大友宗麟」さまのイメージアップ大作戦なのでした。
ほら、選挙の応援演説みたいなもんよ。
「わが息子ですっ!」 (※タケベ)
…てな感じ。
まぁ、息子ではないんですが。


キリシタン大名として必ず名が出る「大友義鎮(おおとも・よししげ)」さま。
九州は豊後国(大分県)の大名で、有名な「宗麟(そうりん)」は法名なのでした。
(※ややこしいので、以後は宗麟で統一)
ちなみに、享禄三年(1530)生まれというのは、越後「上杉謙信」、毛利元就の次男「吉川元春」らと同級生です。

天文十九年(1550)
宗麟とその父「大友義鑑(よしあき)」の仲はうまくなく、それもあって義鑑は三男・塩市丸に家督を譲ろうとしておりました。

実際、義鑑は反対する家臣を粛清までしていますが、これに重臣らが反発。
宗麟派の家臣団は大友館の二階にいた親子を突如襲撃
当主、義鑑ほか塩市丸とその母(※宗麟の母とは別)らが死去する内乱「二階崩れの変」となるのです。

この時、宗麟自身は湯治に出かけていて、その場には不在でした。間違いなく。
そんな事実から、この乱に宗麟は無関係であるという見方もあるんですね。
…しかし、後の彼を見ていると、どうやら無関係とは言えないと思うんです。

ひでるさんは裏で糸引いていたのではないか、と考えています。先手を打たなければ、下手すると自分が殺されるかもしれませんからね。
血の繋がりある親子でも、当時はそれくらいシビアな世界だったのです。
前に当ブログでやりました「武田晴信」も怪しげに引き継いでいました。

ともかく、宗麟もこうして胡散臭さを残したまま、後を継ぐこととなるのです。
二十一代当主「大友宗麟」がこの瞬間に誕生しました。
当時は宗麟二十歳のことです。

家督相続後は菊池氏を滅ぼしてその守護職を奪い、弟のいる大内家の内戦に介入して、それを滅ぼした毛利家と対立。
宗麟は毛利の二度の侵攻にもよく耐え、窮地に陥っても巧みな外交戦略をもって撃退。
九州北部を有する大大名となるのです。

…次回はそんな宗麟の実力が炸裂する、対毛利戦の模様を詳しくご紹介します。

⇒ つづく。
  今回写真は宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」です。

[関連記事]
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 閉眠庭 瑞峯院(京都)


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広徳山慈受院門跡・薄雲御所 (京都)

2006年09月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は皇女ゆかりの品々が多く残されているという「広徳山慈受院門跡・薄雲御所」です。


四代将軍「足利義持(あしかがよしもち)」の菩提を弔うため、その妻「日野栄子」が創建したのが、こちら「広徳山慈受院門跡」
三代将軍は有名な「義満」でして、室町時代でもっとも安定していたという時期です。
その父との関係は円満ではなかったようで、なんと九歳という若さで将軍職に就いておりますが、義満の存命中は実権がありませんでした。
そんな微妙な苦労してきた方なのです。
義持の時代もいくつか問題はあったものの、室町時代では比較的穏やかであったようです。

正妻の「日野栄子」は将軍家と結縁し続けた名門公家の一族です。
(※例えば、三代義満の正妻「日野業子」、八代義政の正妻「日野富子」など)
まぁ、寄生虫みたい(笑)な一族ですよ。

その「日野栄子」さんが建立したのがこちら「広徳山慈受院門跡(こうとくざん・じじゅいんもんぜき)」です。

室町時代では将軍家血族の女性や宮(天皇・皇女)から入寺し、住むのが習慣となっていたようです。
当然ながら皇室ゆかりのお宝が数多く現存しているそうです。
そういった比丘尼御所なんですね。
別名の「薄雲御所」以外にも、「竹之御所」「烏丸御所」とも呼ばれていたそうです。

さて、ここで重大な問題が一つ。
こちらは非公開です。
拝観謝絶なんです。
ネットを検索してみたところ、旅行会社が特別に入山を許されたことがあるようなんですが、

慈受院門跡は今まで一度も公開されず。今後も公開される事はありません
(※小西観光グループHPより)
 
…だって。
ここまで書かれると逆に行きたくないような感じさえします。
なんか怖そうですよ。
ひでるさんみたいなえーかげんなのが行くと、ぶっ叩かれそうですね。

ちなみに、こちらには「日本三体随一毘沙門天王」が祀られています。
こちらは拝観できた毘沙門堂でいいのだと思うんですが…さして大きさある訳でもなく、もの珍しいのでもなく。
何が日本三体?
そう、三大ではなく、三体なんですよ。(※写真参照)
なんなんでしょう。
見たのとは違うんでしょうか?


[関連記事]
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


[住所] 広徳山慈受院門跡・薄雲御所 京都市上京区百々町 (※拝観できません)


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オウム・松本被告、死刑が確定 (お寺さんぽニュース)

2006年09月16日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回はちょっと迷いましたが、「お寺さんぽ」というタイトルから見逃せないと思いました。
やります。
ネタ的にふざけるべきではないので、いつもの文言は書きません。
さっそくですが、こちら↓の記事をどうぞ。


●オウム・松本被告、死刑が確定 [読売新聞] 2006年9月15日

 地下鉄・松本両サリン事件や坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われ、1審で死刑判決を受けたオウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫被告(51)について、最高裁第3小法廷(堀籠幸男裁判長)は15日、控訴趣意書の未提出を理由に控訴を棄却した東京高裁決定を支持、弁護側の特別抗告を棄却する決定をした。
 これにより、初公判から10年5か月に及んだ松本裁判は、控訴審で一度も公判が開かれないまま終結し、松本被告の死刑が確定した

 松本被告の裁判は、1996年4月に東京地裁で初公判が開かれ、2004年2月、死刑判決が言い渡された。控訴審では、弁護人が「被告に訴訟能力はない」と主張して控訴趣意書を提出期限(昨年8月末)までに提出しなかったため、東京高裁は訴訟能力を判断するための精神鑑定を行った上で、今年3月、控訴棄却を決定。弁護側の異議申し立ても同高裁が退けたため、弁護側が最高裁に特別抗告していた。

 教団による一連の事件では189人が起訴され、松本被告を含め13人が死刑判決を受けた。これまでに、坂本弁護士一家殺害事件などに関与した岡崎(宮前に改姓)一明元幹部(45)の死刑が確定している。
---------------------------------- 。。。


初公判から10年ですか。
時間かかり過ぎです。
ひでるさんは犯罪を犯した人間は許せないので、死刑容認派です。
反対している方、すみません。
私はそれを許せるほど心の広い人間ではありません。
確かに、やむなき事情があって、仕方なくやってしまった、という方も中にはいるでしょうが、基本的に法を犯した者に人権なんてもっての外だと思います。
守るべきは被害者の人権ではないでしょうか?
まぁ、こちらについては最近よく言われるようになりました。ちょっと安心しています。

…極端な話、江戸時代のように、市中引き回しの上に公開処刑でもいいと思ってます。
それくらいリスクがあるんだと、悪い事したんだと、本人は無論、周囲にもそれを大々的に宣伝すべきだと考えます。

やや話が逸れました。
こうした宗教家の犯罪は大小ありますが、ちょこちょこ見かけますね。
宗教というのは人を救います。
これは間違いありません。
私は信仰心カケラもないですが、あちこちの歴史を見ていてそう感じます。

ただ、以前よくニュースになっていたイスラム教の方々もそうですが、”自分を見失ってまでのめり込むべきではない”のです。
神さまが「自分を信仰しない者を根絶やしにしろ」なんて言うと思いますか?
もしそう明言している神がいるならば、それは黒い神ですよ。きっと。

どちらか信仰されている方、団体に所属されている方。
純粋な信仰心で利を得ようとする、悪質な輩が存在する可能性に気付くべきです。
何がなんでもそれが絶対、とならないことです。

自分を見失ってはいけません。
何事も「過ぎる」というのは危険なことなんです。



[お寺さんぽニュース・過去記事]
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