のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…涙なくしては見られない、こちらの合戦をば。
九州にて勢力を拡大させる島津家。
先の合戦で当主「龍造寺隆信」を失っていた龍造寺家は動きがとれず防戦一方となり、また最盛期には九州の七ヶ国を有していた大友家は支配力の低下から離反が相次ぎ、お互いが疑心暗鬼となって統率が取れぬ有り様でした。
なお、筑前では「高橋紹運」、「立花宗茂」の両名によって激しい抵抗を受けた島津勢はその軍勢を豊後へと向けたのです。
もはや、どちら勢力も独力での対抗が困難であり、不利を悟った「大友宗麟」は単独上洛し、急ピッチで勢力を拡大させていた「羽柴秀吉」に臣従することで援軍を請うのでした。
天正十四年(1586)
四月頃。
上洛した「大友宗麟」は当時”関白太政大臣”となっていた「羽柴秀吉」に面会しました。
(※豊臣姓になるのは同年十二月のこと)
一方の「羽柴秀吉」は「小牧合戦」を終え、畿内での足固めを着々と進めている状態でした。
九州への進出を考えていた秀吉はその申し出を快諾し、当面の援軍として中国・四国勢を九州へと差し向けるのです。
なお、その主な顔触れは秀吉に降伏したばかりな四国の雄「長宗我部元親」とその嫡男「信親」の四国勢。
中国の覇者「毛利元就」の孫「毛利輝元」と叔父「吉川元春」「小早川隆景」という中国勢。
さらに軍監として四国勢には「仙石秀久」、中国勢には「黒田官兵衛孝高」がついていたようです。
九月には中国の毛利隊が豊前入り。
さらに、十月には四国の長宗我部隊らが豊後へ入り、大友勢と合流しております。
対する島津方は関白・秀吉に対する認識がだいぶ欠如していたようなのです。
関白就任では挨拶もせず、停戦命令は無視。
「羽柴のことは由来無き人」
家臣の一人がそんな日記を残しているように、島津家中では徹底抗戦論が圧倒的だったのです。
こんなんは後の「小田原合戦」での伊達家も同様でして、当時の人々は歴史を知る現代の我々が考えるよりも遥かに「羽柴秀吉」のことを過小評価していたのでした。
これが、当時から根強い血統への信仰。
それがため、家柄というものが大変に重要だったのですよ。
ちなみに、主戦論で占められた家中でただ一人。
三男「島津歳久」だけは慎重で、どちらかと言うと和平論者だったと伝えられています。
この「歳久」は祖父「日新斎」から、「終始の利害を察する知計が並びない」と称された兄弟でも屈指の知将でした。
彼は秀吉に対し、”卑賤の身から関白にまで出世した只者ではない男”と冷静な分析をしていたようなのです。
ちなみにもう一人。
当主「島津義久」もそんな「歳久」の言に動かされたのか、次男「義弘(※写真)」が苛立つほどに珍しく進軍を逡巡していたのでした。
さすがに”並びない大将”と称されただけのことはあるのです。
何か嫌な予感でもあったのかもしれません。
⇒ つづく。
次回は「焦る秀久、島津家久に挑む」
[関連記事]
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [前 中 後]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [前 中 後]
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※きゃー義久さまー、ってな訳でこちら。
そう言えば大河ドラマで島津家やっても面白そうですね。
本日は…涙なくしては見られない、こちらの合戦をば。
九州にて勢力を拡大させる島津家。
先の合戦で当主「龍造寺隆信」を失っていた龍造寺家は動きがとれず防戦一方となり、また最盛期には九州の七ヶ国を有していた大友家は支配力の低下から離反が相次ぎ、お互いが疑心暗鬼となって統率が取れぬ有り様でした。
なお、筑前では「高橋紹運」、「立花宗茂」の両名によって激しい抵抗を受けた島津勢はその軍勢を豊後へと向けたのです。
もはや、どちら勢力も独力での対抗が困難であり、不利を悟った「大友宗麟」は単独上洛し、急ピッチで勢力を拡大させていた「羽柴秀吉」に臣従することで援軍を請うのでした。
天正十四年(1586)
四月頃。
上洛した「大友宗麟」は当時”関白太政大臣”となっていた「羽柴秀吉」に面会しました。
(※豊臣姓になるのは同年十二月のこと)
一方の「羽柴秀吉」は「小牧合戦」を終え、畿内での足固めを着々と進めている状態でした。
九州への進出を考えていた秀吉はその申し出を快諾し、当面の援軍として中国・四国勢を九州へと差し向けるのです。
なお、その主な顔触れは秀吉に降伏したばかりな四国の雄「長宗我部元親」とその嫡男「信親」の四国勢。
中国の覇者「毛利元就」の孫「毛利輝元」と叔父「吉川元春」「小早川隆景」という中国勢。
さらに軍監として四国勢には「仙石秀久」、中国勢には「黒田官兵衛孝高」がついていたようです。
九月には中国の毛利隊が豊前入り。
さらに、十月には四国の長宗我部隊らが豊後へ入り、大友勢と合流しております。
対する島津方は関白・秀吉に対する認識がだいぶ欠如していたようなのです。
関白就任では挨拶もせず、停戦命令は無視。
「羽柴のことは由来無き人」
家臣の一人がそんな日記を残しているように、島津家中では徹底抗戦論が圧倒的だったのです。
こんなんは後の「小田原合戦」での伊達家も同様でして、当時の人々は歴史を知る現代の我々が考えるよりも遥かに「羽柴秀吉」のことを過小評価していたのでした。
これが、当時から根強い血統への信仰。
それがため、家柄というものが大変に重要だったのですよ。
ちなみに、主戦論で占められた家中でただ一人。
三男「島津歳久」だけは慎重で、どちらかと言うと和平論者だったと伝えられています。
この「歳久」は祖父「日新斎」から、「終始の利害を察する知計が並びない」と称された兄弟でも屈指の知将でした。
彼は秀吉に対し、”卑賤の身から関白にまで出世した只者ではない男”と冷静な分析をしていたようなのです。
ちなみにもう一人。
当主「島津義久」もそんな「歳久」の言に動かされたのか、次男「義弘(※写真)」が苛立つほどに珍しく進軍を逡巡していたのでした。
さすがに”並びない大将”と称されただけのことはあるのです。
何か嫌な予感でもあったのかもしれません。
⇒ つづく。
次回は「焦る秀久、島津家久に挑む」
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※きゃー義久さまー、ってな訳でこちら。
そう言えば大河ドラマで島津家やっても面白そうですね。