お寺さんぽ Ver.03

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吉祥天 (天部・仏像)

2009年05月31日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、ちょっと有名ながら一般的にはほとんど知られていないだろう、仏像界の悲劇なヒロイン「吉祥天(きしょうてん/きちじょうてん)」について、です。

いまいちメジャーではないんですよねー。
実は超人気グループ「七福神」のメンバーであった時期もあるんですが、知ってますか?
街頭インタビューとかした場合、果たして何名の方が名前言えるかなぁ…。

さて、そんな「吉祥天」さま。
梵名は「シュリーマハーデーヴィー」、あるいは「マハーシュリー」…って、こちらは最近流行りの短縮系?
(※ちがいます)
その「シュリーマハーデーヴィー」を音訳して、「室利摩訶提毘(しりまかだいび)」
「マハーシュリー」を音訳すると「摩訶室利(まかしり)」
で、これらを漢訳すると「吉祥天女(きっしょう・てんにょ)」とか、「吉祥功徳天(きっしょう・くどくてん)」となるようです。

古代インド神話では、「ヴィシュヌ神」の妃で福徳を司る「ラクシュミー」
また、愛欲神の美男子「カーマ」の母であるとも言われていますが…「カーマ」は「ヴィシュヌ神」の子であるようなので、結果的には同じ?
よく分かんないけど、とにかんくそんなん(笑)

かなり早い時期から仏教に取り入られ、美・福徳を司る女神として信仰を集めています。
多くの経典にも説かれているんだって。
日本では、奈良時代から登場。
”罪悪を懺悔して災禍を祓い、福徳と五穀豊穣を祈願する”という「吉祥悔過会(きっしょう・けかえ)」の本尊として、盛んに信仰されたそうなのです。
この「吉祥悔過会」というのは国家レベルの行事らしく、よく分かりませんが…だいたいのイメージ的に、歌謡曲の歌手が国家イベントで歌う、みたいなイメージなのでしょう。(たぶん)

美人さんなので個人レベルでも信仰を集めており、吉祥天を信仰していた修行者があまりの美しさに欲情をおさえられず~なんて、えっちな伝承もあるようです
美の女神たる面目躍如というところでしょう。
有名な「弁才天」よりも美しいとされる女神なんですよ。

”ヴィシュヌ神の妃”というのがどうやら”毘沙門天の妃”と転じた様子で、実は人妻キャラな彼女
ちなみに、父親は竜王「徳叉迦(とくしゃか)」、母親は「鬼子母神」となぜだか詳細に家族構成が決められているのも特徴です。
(※一説には、「毘沙門天」の妹なんていうのもあり、当時から恰好の妄想ネタになっていたみたい。わはは)
そのため「毘沙門天」の脇侍とされることもあるほか、「毘沙門天」、「ぜんにし童子」、そして「吉祥天」という”家族セット”みたいな組み合わせもあるのでした。

さらに、前述したように七福神の一人として数えられていた時期もあるのです。
現代ではほとんど見かけませんが、「福禄寿」・「寿老人」を一体に集め、彼女とか「猿田彦神」が入るパターンもあったそうです。
なにも老人二人とせず、最近の戦隊モノみたいに女性二人だったのが見栄え良いのに…。
靴に画びょうを入れられるなどの嫌がらせをうけ、「弁才天」との”ヒロイン枠争い”に敗れた彼女は、日陰な生活を送ることとなったのでした。
まぁ、やっぱり人妻イメージがついて回ったのが問題だったのではないかなぁ(笑)
…画びょうのあたりからうそですが。

長くなりましたが、見分け方について。
頭に宝冠をかぶり、唐の貴婦人な衣装の立像です。
左手には「如意宝珠」を持ち、右手は手の平を正面に向ける「施無畏印(せむいいん)」です。
よく「釈迦如来」が「やあ」とやっているのの、ちょうど天地逆になったパターンですね。
女性らしく(?)、アンダースローなのですよ。
こう考えると、覚えやすいでしょ?

京都「浄瑠璃寺」の吉祥天像は超有名な美形像です。
鎌倉時代の重文。
木彫りでよく彩色が残っており、当時からの艶やかな面影が伺えます。
なにしろ、むかしその美しさに魅せられた僧が”けしからぬ振る舞い”をした…(そんなんばっかし)という話も伝わっているほどなのでした。
うん、なるほど。
確かに豊かなスタイルの美人さんです。
一定期間のみ公開の秘仏なので、「よし、ちょっくら出かけようか!」と息巻いた人はご注意を。
(※公開は正月から春、秋と比較的パカパカ開いてますが。元日~15日、3月21日~5月20日、10月1日~11月30日という期間)

災厄から逃れ、大富豪になるという真言は、
おん、まかしりやえい、そわか
一万本以上蓮華の花が咲いている池で左手に香炉を持ち、それを一本づつ摘み取りながら唱える(要するに一万回ほど唱える)と願いが叶うそうです。
だれか、チャレンジして報告してー。


[関連記事] 【天部、その他】
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⇒ 訶梨帝母[鬼子母神](仏像)
⇒ 五百羅漢 (仏像・仏弟子)
 石仏・五百羅漢像 千二百羅漢像 びんずるさま


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※そんな訳で、美人の冠が似合う「吉永小百合」さんです。
 イメージ的にはこんな感じかなぁ。

激辛!わさびソフトクリーム (伊豆・修禅寺付近)

2009年05月28日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、静岡県伊豆市は修禅寺付近にありました「わさびソフトクリーム」です。

毎度のことですが…京都へ行ってからというもの、水の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん。
(※たんなる雨男とも言う)
つい先日、二代将軍「源頼家」さまに呼ばれ(うそ)、修禅寺へ行くこととしたのでした。
それまで暑いくらいだった日々でしたが、なぜか旅行前から微妙な空模様となり…

天気 大雨 (笑)  

…なんなんでしょう。
これが単なるブログネタでもなんでもなく、本当なので困りものです。
自ら言うのも変ですが、いい加減にしてほしいですねー。
「みずはちゃわん」も少しは手加減して。

ちなみに余談ですが、雨の上がった旅行二日目は強風に見舞われました。
電車は出発を見合わせ、通常十分程度の距離に二時間たっても動かない始末(本当)
風の女神「志那都比古神(しなつひこ・のかみ)」、通称「しなっちゃん」にも好かれてしまったようです。
ちなみに、「しなっちゃん」は実際は男神、女神と諸説あるようでしたが、どうせなら女子のがいいので女神表記にしてます。
以上、余談でした。

まぁ、そんな訳でばしゃばしゃと雨が降る中、傘を片手にずかずか進軍することとなりました。
気温も低く、肌寒い中に目に入ってきてしまったのがこちら。



わ、わざび!?

そう、付近の名物「禅寺そば」もわさびが目立つそばでしたが、ついにソフトクリームへ進出したのでした。
これは食べない訳にいきません。


※名物「禅寺そば」 わさびと山菜、とろろが特徴。

…ちなみに後で気付きましたが…………

そう、↓激辛ってちゃんと書いてあったんですね。
これを最初に確認できなかったことが、食べ歩きシリーズ史上”最悪の悲劇”となったのでした。



そんなこんなで、「わさびソフトクリーム」です。
薄いグリーンが綺麗ですね。
さっそく一口食べてみると…


※わさびソフトクリーム …ね、雨降ってるでしょ。


ほんのり口に広がるわさびの感覚。
その次に来るのは、ソフトクリームらしい甘さ。
これが、喉を通り過ぎて後味になると…辛い。
結構辛い
辛い。

なんというか、いままでのソフトには無い味です。
まずくはありませんが、辛い。
そんなんが続き、鼻にもつーんと来るほどでした。
食べていると、飽きます。
もう勘弁して下さい。

【おすすめ★メーター】 わさびソフトクリーム
■□□□□ 1Point …ネタに食べてみるのもいいでしょうが、二度と食べないでしょうね。

いかがでしょう?
この微妙な感覚、そしてソフトクリームをひーひー言いながら食べる辛さをぜひ一度試してほしいものです。
修禅寺を訪れた方は、ぜひこちらもどうぞ。



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※そんな訳で「わさび」本です。
 ちょっと本気に栽培してみたいですねー。

五百羅漢寺 (東京・目黒区)

2009年05月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだ「五百羅漢」をやったので…本日は、「目黒のらかんさん」と親しまれている目黒は「五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)」です。


正式名称は「天恩山五百羅漢寺」です。
東京のお寺というのはやっぱり江戸時代からのものが多いですが、こちらも同様。

時は元禄元年(1688)
…えっと、関ヶ原合戦から約八十五年後のこと。

当時四十歳であった「松雲元慶(しょううん・げんけい)」禅師は、江戸の町を托鉢すること数年。
集めたお金によって十数年に渡る歳月をかけ、コツコツと自ら造りあげた仏像なのでした。
凄いですね!
他の羅漢像を見て、自ら造ることを考えた…とのことらしいですが、大したものです。

お寺の創建は元禄八年(1695)
本所五ツ目(※江東区大島付近)にあり、「本所のらかんさん」と呼ばれていたそうです。

五代将軍「徳川綱吉」、さらに八代「徳川吉宗」など、時の支配者であった徳川家の援助を得て、一時は大伽藍が建立されるなど大いに繁栄しましたが、明治維新とともに没落。

二度の移転から現在の目黒の地に移ったのは、明治四十一年のことでした。
それ以降も衰退し続け、昭和五十四年になってようやく境内が整備され、現在の近代的なお堂が完成したのです。

…ちょっと風情に欠けるくらいなのは、そうした切実な理由からなのでした。

そんな歴史の目黒「五百羅漢寺」
松雲禅師が相当に頑張ったらしく、当時は五百体以上の羅漢さんがおりました。
正式には五百三十六体とのことでしたから…勢い余って造りすぎちゃったんですね(笑)

そうした羅漢さまが、ずらりと横に並んだ「羅漢堂」は圧巻。
また本尊「釈迦如来」を飾る本堂の両脇にも整列しておられます。
結構な大きさあるのでなかなか迫力があり、仏像ファンなら一見の価値ありでしょう。

ちなみに…現存している羅漢像は三百五体なのだとか。
誰か突っ込みましたか?
そう、五百羅漢という名ではありますが、実際は五百羅漢ではないのです(笑)


[住所]
 五百羅漢寺 東京都目黒区下目黒3-20-11

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※実は、このあたりは色々と楽しいです。
 これぞ、お寺さんぽですね。

土産限定・ミニ戦国武将 (マイスター★ジャパン)

2009年05月21日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…まぁ、とりあえず↑写真をご覧くださいませ。

「 土産限定・ミニ戦国武将 」 

…だって。

こちらは先日、高尾山へ出掛けた際に駅の売店で発見してしまいました。
歴史大好きひでるさん。
こんなんを目前にしたら、そりゃー買うしかありません

大きさは携帯電話の約半分程度。
基本プラスチック製(たぶん)で、細い兜の飾り部分はしっかりと金属(たぶん)
台座からフィギア部分は取り外し可能なのでした。
顔も左右に動きますね。
(※↓サンプル参照)
それぞれストラップ付きなので、とっつければ持ち歩くこともできます。
…ただ、鞄とかにつけたら即バキバキになるかもしれませんが(笑)
携帯ストラップとしては、やや大き過ぎるかなぁ。
デスク脇とかにちょこんと置いとくのがいいでしょう。

ちなみに、皆さんが気になって仕方ない(かもしれない)ラインアップは…



【 土産限定・ミニ戦国武将 】
・織田信長
・武田信玄
・伊達政宗  …購入。
・直江兼続  …これは大河ドラマの影響かなぁ。「愛」が格好いいです。
・徳川家康
・豊臣秀吉  …やっぱりこの兜は派手派手ですねー。
・上杉謙信
・真田幸村
・今川義元  …実力としては順当でしょうけれど、なにゆえ!?
・前田慶次郎 …漫画、パチンコの影響でしょうね。
・石田三成  …購入。 
・毛利元就  …よかった、中国の覇者もおりました。

…という12種類。
ああ、やっぱり「北条氏康」さまはいないか。
あるいは「早雲」さまでもいいんですが…。るるる。
それに、各地の有力大名「三好長慶」、「長宗我部元親」、「島津義久」あたりはいても良いと思いますねー。
個人的には「蒲生氏郷」とかほしいなぁ。


※横向き、取り外しサンプルです。

そうしたなか、今回ひでるさんが手にしたのは「石田三成」さま。
これはファン(?)なので、当然です。
できれば「直江兼続」、「真田幸村」の2名で西軍セットとしたかったんですが、それは店頭になく。
そうした訳で、残っていた在庫の中から「伊達政宗」としました。
過去にした本人の要望とは裏腹に、やっぱり独眼にされてます。
現在のこうした状況を、あの世でどう考えているのかなぁ…。
派手好きだから、案外満足してるかもしれませんけど。
武田、上杉、今川などもあったんですけどねー。

先ほど、販売元である「マイスター★ジャパン」さんのHPを見てきました。
甲冑がプチ五月人形ちっくな「土産限定 戦国武将 ARMOR SERIES」もこちらのものでした。
ああ、見たことありますよ!!
なにげに京都限定シリーズ「新撰組羽織セット」は持っておりました。
結構お世話になってますね

とりあえず、旅行の際には注意して探すこととします。
第二段とか出ないかな。



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マイスタージャパン 戦国武将 ARMOR SERIES フィギュア 直江兼続 Aタイプ

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※こんなんもそうですね。
 いやー、甲冑というのはいつ見てもイイものです。

”恍惚の人”となった三好長慶 (三好長慶とその一族)10

2009年05月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、戦国時代に”三好政権”を築き上げた長慶。
まさに順風満帆であった三好家ですが、その前途にはじわじわと暗雲が立ち込めるのでした。
今回はそのラストです。


実権を握り、近畿を支配した長慶。
広大な領国で軍事・経済ともに他を圧倒し、後継者である嫡男「三好義興」もなかなかの器量人でした。
しかし、”鬼十河”と称される弟「十河一存」は突然死。
続く「久米田合戦」では有能な弟「三好義賢」が戦死し、反三好勢によって一時は窮地に陥るなど三好家は予想外なトラブルに悩まされ続けることとなるのです。


永禄六年(1563)
悪い事は続くもの。
突如重い病を得た嫡男「三好義興」は、そのまま謎の死を遂げました。
享年二十二。

急なことであり、世間では当時から「久秀の毒殺である」との風評があったようです。
政治・軍事と才を発揮した長慶ですが、弟一存の遺児に送った書状など、肉親を大切にする、心根の温かい人であったと想像されます。
そんな彼であるため、こちらの事件は、長慶にとって相当に堪えたようです。

こうした一連の事件を切っ掛けとして、”恍惚の人”と言われるほどになっていくのです

永禄七年(1564)
兄弟の死、長慶の老耄によって、期待を一身に集めていた名将「安宅冬康」
しかし、そんな彼も「松永久秀」の讒訴によって、”逆臣悪行”として長慶自ら誅殺してしまうのでした

歌をよくし、鈴虫を贈って長慶に進言するなど、風流・仁慈な性格であった冬康。
四国の軍勢を畿内にて縦横無尽に駆使できたのは、淡路水軍をよく統率していた彼のためであると言われております。
率いる水軍は相当に凄かったのですよ。

ちなみに、この冬康との一件だけは、確実に久秀の仕業であると言われています。
…まぁ、当時の長慶はこれまでの荒波を乗り越えてきた彼ではありませんでしたから、自らの勢力維持のため強硬な手段に出るのも仕方ないことかもしれませんが…。
やり方は汚いけどね。


こうして、長慶はわずか数年のうち、次々と血縁を失ってしまったのです。

冬康の誅殺は五月のことでした。
…その直後である七月。
長慶は失意のまま、飯盛山城の屋敷にてその後を追うように病死してしまうのでした。
享年四十二歳。
死は秘され、葬儀が行われたのは三年後のことです。


足利将軍家の直臣となり、畿内に三好政権を築いた。
ここが、彼の限界だったのでしょう。
育ちが京・幕府に近かったことが影響しているのか、旧権威を重んじ、自ら覇を唱えるような発想はありませんでした。
特に連歌に優れ、一級の教養があった長慶はこんな言葉を残しています。

若いころから苦労を求め、努力をしなければ幸福も神の加護も得られない

天才肌でなく、努力するタイプだったんですね。

嫡男「三好義興」の死後、後継者として実弟「十河一存」の子である「熊大丸」こと「三好義継」を養子として迎えました。
彼は後見した三好三人衆、「松永久秀」の傀儡とされ、「織田信長」によって滅ぼされております。

なお、「安宅冬康」の後を継いだ嫡男「安宅信康」は最終的に信長へ臣従。
織田水軍の一翼として活躍。
長宗我部に追われた「十河存保」は「豊臣秀吉」に従って大名として復帰しますが、九州征伐で討死。

父元長の弟「三好康長(笑岩)」は「織田信長」、続いて「豊臣秀吉」に従い、秀吉の甥を養子に迎えるのでした。
こちらが、「三好信吉」こと「羽柴秀次」なのです。



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※下剋上に成功した長慶ですが…なんと、自らも下剋上されてしまうんですね。
 その晩年はあまりにのもの悲しいのです。

突然死する一存、討死の義賢 (三好長慶とその一族)9

2009年05月14日 | 歴史
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本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、”三好政権”を築き上げた長慶。
まさに順風満帆であった三好家ですが…このあたりから、じわじわと暗雲が立ち込めるのでした。

実権を握り、近畿を支配した長慶。
広大な領国で軍事・経済ともに他国から足利将軍までを圧倒し、後継者である嫡男「三好義興」もなかなかの器量人なのでした。
が、しかし…。


永禄四年(1561)
この年、弟「十河一存」が突然死するのです。
”その存命中には、敵対勢力を寄せ付けなかった”という彼は、”鬼十河”と称された勇猛な武将でした。
しかし、有馬温泉への湯治の途中、なんと落馬して死去した、と伝えられています。
有馬温泉権現は葦毛を不吉とされる…
という、「松永久秀」の忠告を無視した結果であったとされていますが、詳細は不明。
三好家中にてしだいに台頭してきた久秀とは、不仲であったようなのです。
…そうでしょうねぇ(笑)
おそらく、なんらか感じていたのでしょう。

なお、長慶は彼の遺児、そして乳母に対し、
あなたがたのことは、一存の存命中と同じように遇することを一族の者に申し聞かせた。心配はない
という、非常に優しい書状を送っています。
下剋上を果たした彼の別の一面ですね。

こうして十河家を継いだ「十河存保」は、兄義賢の次男です。
彼の嫡男「義継」が長慶の死後に宗家を継いだため、若くして十河の家督を相続することとなったのでした。
これはまた別の話。

永禄五年(1562) 「久米田合戦」「教興寺合戦」
台頭する三好家に対し、畿内の大名らは反三好で結束しておりました。
飯盛・高屋での合戦に敗れた元河内守護「畠山高政」は、紀伊へ逃れて根来衆を味方とすることに成功しました。

勇猛な「十河一存」の死を切っ掛けとして、高政・根来衆の連合軍は、一万五千という兵を率いて、岸和田へと攻め込んだのです。
一方、彼らの動きに呼応した近江・六角氏も、東から三好勢を攻撃。
これらに対し、頼れる弟「三好義賢」は八千という兵で岸和田へ布陣。
なお、東の六角氏には、嫡男義興らが対応しておりました。

激しく争った三好・連合軍。
義賢より三好軍の大半を任されていた重臣「篠原長房」の活躍によって、ここでは三好勢が優勢でした。
しかし、総攻撃で本陣が手薄になったところ、兵力で勝っていた根来衆も果敢に突撃を開始。
なんと、総大将である義賢は僧兵がはなった鉄砲に直撃し、戦死してしまうのです
(※著名な戦国武将が鉄砲で討ち取られた、最初の例であるとの説も)

こうして、総大将を失った三好勢は総崩れになってしまいました。
西が崩れたことで、東を受け持っていた嫡男義興も撤退。
六角氏は京へ入り、反三好勢は大いに勢いづきました。
しかし、ここで敗れた三好勢ですが、弟「安宅冬康」を中心に軍勢を素早く立て直し、飯盛山城に五万という兵を終結。

続く「教興寺合戦」では、長慶を中心にまとまった三好勢が寄せ集めだった畠山勢らを圧倒し、見事勝利したのでした。

戦後、父元長の弟「三好康長(笑岩)」が高屋城主として河内・和泉を支配。
義賢の後は、その嫡男「三好長治」が継ぎました。
この長治は文武に優れて豊かな教養人でもあった父と似ず凡庸で、自制のできない性格でした。
後に暴政によって国人から見放され、阿波を混乱させていくのです。

⇒ つづく。
  次回はラスト「”恍惚の人”となった三好長慶」(10/10)


[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 姫若子、ついに初陣! 「長浜合戦」 [   ]
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⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[    
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図説・戦国合戦図屏風―決定版 (歴史群像シリーズ)
高橋 修
学研

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※合戦屏風は見てて楽しいですよねー。
 誰がどこにいるとか…なんちゃら探せ、みたいな。

優秀な嫡男と絶頂期の長慶 (三好長慶とその一族)8

2009年05月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げた、その手腕をご覧ください。

実権を握り、近畿を支配する長慶に逆らえる者はおりませんでした。
それは将軍「足利義輝」も例外でなく、戦に敗北した義輝は彼に許されることでようやく京へ復帰できる有様だったのです。
続いて弟「三好義賢」は計略をもって讃岐の完全支配に成功し、大和へ侵攻した重臣「松永久秀」もほどなくそちらを平定するのでした…。


永禄四年(1561)
三好氏の支援を受けていた畠山氏ですが、もともと相容れない存在だった両者はやがて対立することとなりました。
畠山氏が勢力を持っている、河内国へと三好勢は侵攻。

河内国・飯盛城(大阪府大東市)は「畠山高政」の家臣「安見美作守宗房」が城主でした。
これを手際よく攻略した長慶は続けて高屋城へ侵攻し、高政を堺へと敗走させるのでした。
なお、この合戦には兄を助けるべく義賢も出陣。
阿波・讃岐・淡路らの兵をまとめ、両城の攻略に活躍しております。

ほどなく河内を平定した三好勢は攻略した飯盛城に大規模な修復を施し、強固な要塞となったこちらを本拠としたのです。
なお、高屋城は義賢に与えられ、その城主となりました。

敗れた高政はそれ以降も何度か奪回のため攻め寄せますが、結局は攻略はできず、紀伊へ逃れたのでした。
そこで彼は根来衆を味方に引き入れるんですが…これが後に大きな影響を及ぼすこととなるのです。

ともかく、こうして河内国をも支配した長慶。
三好氏の勢力は山城、大和、摂津、河内、和泉、丹波、播磨、そして淡路、讃岐、阿波…など、最大版図となりました。
近畿で一大勢力を形成し、長慶の絶頂期と言える時代です。

戦ばかり目立っておりますが、もともと教養の高い彼は朝廷と懇意であるほか公家や寺社には寛大でした。
それだけでなく、なんとキリスト教の布教をも許可しているのです。
さらに経済にも明るく、和泉堺は軍港化しただけでなく流通ルートも確保し、その経済力を活用しておりました。

後継者の育成も怠ることなく、嫡男「三好義興」はほぼ父と同じ地位である御供衆、相伴衆へと任ぜられ、居城であった芥川城を譲られております。
父に劣らぬ器量優れ、天下の乱を相慎む人なり
と称され、まさに着々とその地位を固めていたのでした。

まさに順風満帆であった三好家、長慶。
しかし、その晩年は相次ぐ弟たちの死、愛する息子の死によって、急速に政治に対する意欲を失っていくこととなるのです。
これには「松永久秀」の暗躍があったと伝えられますが…実際のところは不明です。
歴史ミステリーですね。

⇒ つづく。
  次回は「突然死する一存、討死の義賢」(9/10)


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※目立つ久秀くんです。
 たぶん、「三好長慶」より本は多いと思います。

危険な重臣、松永久秀 (三好長慶とその一族)7

2009年05月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。

大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げたその手腕をご覧ください。


各地の合戦にて、その名声を天下に轟かせていた長慶。
「三好政長」との戦いに勝利して主君「細川晴元」を追放し、ついに実権を握ったのです。
長慶に敵対した阿波守護の「細川持隆」は弟義賢が謀殺。
さらに晴元と共に抵抗した将軍「足利義輝」らは「霊山合戦」にて散々に打ち破ったのでした…。


天文二十四年(1555)
当時、西讃岐の守護代は香川氏でした。(※東は三好派である安富氏)
この頃に毛利氏と通じて三好勢に反旗を翻した「香川之景」ほか香川一族は、天霧山城にて抵抗していました。
讃岐の完全支配を計画する一存は、兄・義賢と八万という大軍を率いてそれを包囲。

しかし、ここでは力攻めを避け、彼と親しい「香西元成」を送ってやんわりと降伏を勧告し、見事これを降したのでした。
力押し一辺倒ではなく、戦術の妙も心得ているのです

こうして、讃岐全域を支配地とすることにも成功しております。
後に弟「十河一存」が岸和田城へ移ると、「三好義賢」は阿波に続いて讃岐をも統治するようになりました。

なお、もう一人の弟、紀伊国から発祥した国人・安宅氏を継いでいた「安宅冬康」
この天文年間(1532~1554)にて阿波から淡路国へと入り、有力な水軍勢を完全に支配下としております。

由良、州本両城を拠点とする冬康の淡路水軍は、戦闘から運搬に至るまで三好政権では強大な戦力となっておりました
また、和泉堺を兵站基地として、軍港化していたようなのです。

永禄二年(1558)
完全勝利だった長慶は「六角義賢」の仲介によって再び「足利義輝」と和睦。
京を明け渡しました。
二度ほど京から追われていたため、ここは完全に長慶が譲った形だったのです。

権力は全て長慶に集中し、傀儡になることを期待された義輝。
畿内領国は長慶が確保しており、幕府の権威が及ぶのはぎりぎり京都周辺のみだったようなのです。
しかし限られた範囲でも、義輝は不屈の闘志で復権を目指し画策を続けるのでした…。

永禄三年(1560)
”裏切りと暗殺はお手のもの”、という重臣「松永久秀」がついに登場です。

天文九年(1540)頃から、長慶の祐筆として仕えていた久秀。
この「祐筆(ゆうひつ)」という役職は”書記・文官”という感覚でした。
出自不明である久秀ですが、とりあえず教養ある人物であったことを証明しております。

三好氏が京都支配したあたりからめきめきと頭角を現し、やがて家宰に抜擢されるのでした。
要するに、単なる書記程度であった人物が長慶の政治・軍事の補佐役にまでなっているのです
これは久秀が持ち合わせる教養ほか才覚面に、優れた武将であった彼の弟「松永長頼」の武辺が大いに役立っていました。
丹波・八木城を攻略して領国化に活躍したのも長頼であったらしく、松永勢は文武両面において三好家中で存在感を発揮していたのです。

軍事面でも信頼のあった久秀は、長慶の命によって大和へと侵攻。
信貴山城を拠点に、三好の軍事力を見せつけるのでした…。

⇒ つづく。
  次回は「優秀な嫡男と絶頂期の長慶」(8/10)


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※こんなんあるんですねー。さっすが大河の主役!
 長慶さまは…最後があんなんでは無理か。

ディッピンドッツ・アイスクリーム (東京ジョイポリス)

2009年05月03日 | ネタ
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本日はひでる食べ歩きシリーズ、お台場は海浜公園駅から徒歩2分。
東京ジョイポリスにあるフレーバー「ディッピンドッツ・アイスクリーム(dippin’ dots)」です。

さて、お寺大好きひでるさん。
紆余曲折あって、お台場なんて明らかに若向きで場違いな場所(笑)へ行ったのです。
そこに「ジョイポリス」という電脳遊園地みたいな施設があるんですが…その中で最も目を引かれたのが、様々なアトラクションではなくこちら。




『 -40℃のつぶつぶ・サラサラ 不思議なアイスクリーム 』

…だって!
よく当ブログではお寺さんぽのオマケ的に、地方限定ソフトクリーム食べ歩きネタを書いていたんですが…これは独特だ!変わってる!
これは珍しい…でいいんですよね?
あるいは、「もうそんなん珍しくねーよ」とか言う方がいるかもしれませんが、ひでるさん的には非常に新鮮だったので、この感動(うそ)が残っている間にやろうと思いました。

…と、ずるずる書きましたが、おおむねそんな感じ。
問題なければ、この先もお付き合い下さい。

見つけたひでるさんは早速注文。
色々と種類があるなか、カラフルな小粒で目立っていたフルーツミックスを退け、チョコミント味をセレクト。
お店側でも小粒状態のまま管理されており、盛り付けとしてもスコップですくってカップによそうだけ。
おお、こりゃー簡単だ!




コロコロとした、小さい粒状態のアイス。
雰囲気・食感としては、冷凍チャーハンをそのまま口にしているような風情でした

小さい塊を粒状に維持し続けるということは…-40℃って、相当に冷やされ・固められているのでした。
そんな訳で、がっつくとかき氷のように頭がぴきゅーんとします。
これが冷たいですよ、って当たり前か。

なお、ソフトクリームが溶けるのと同様に、こちら当然も溶けます。
もたくた食べていると粒状態ではなくなるため、最大の魅力が半減してしまうのです。
ジレンマですね(笑)
冷たい・ぴきゅーんとなるのを我慢しながら、無理矢理にでも食べるのがオススメでしょう。
とかく面白いのは食感ですからね。

【おすすめ★メーター】 東京ジョイポリス名物『 ディッピンドッツ・アイスクリーム 』
■■■■□ 4Point …おもろいアイデアだと思います。一度は食べたいでしょ?


ちなみに、ひと盛り350円でした。
いかがでしょう?
なんとHPでは通販もやっていたので、どちらの方でもその食感を味わえます。
こちらは8カップセット、送料・税込で5,000円でした。
…ちと高いかな(笑)



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※全自動だそうです。
 これで風変わりなアイスを作ってみるのもいかもしれません。