お寺さんぽ Ver.03

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権謀術数の策士 (宇喜多直家)1

2007年11月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。
ひでるさん多少歴史に詳しいつもりなんですが、この人の詳細についてあまり聞かないので、ちょっと調べてみました。
たいていの人が名前くらいしか知らないのでは?どうですか?
(※写真は息子さん秀家くんです。雰囲気的にはけっこうイイ男っぽいですよね。)

えー、簡単に「宇喜多直家」さまをまとめると、
・生涯を策謀と暗殺に生き、堂々たる合戦ってーのは少ない様子。
・わずか一代にして大大名へとのし上がった、下克上の典型的な人物。
…そんな感じでしょうか。
詳しい出自については、この方諸説あってはっきりしていません。
なお、名前については「浮田」でも、「宇喜田」でもいいようです。

とりあえず、地頭職にあった児島氏が備前(岡山県)の宇喜多に住んだことで、そのまま「宇喜多」姓を名乗ったらしいの。
この不確かさがまさに戦国ちっくですね。
正確な記録があるのは室町時代の中期頃からで、赤松氏の守護代「浦上氏」の被官として名が見えるようになります。
大いに家名を興すのは、今回の主人公の祖父、「宇喜多和泉守能家(うきた・いずみのかみ・よしいえ)」なのでした…。

時代は大永から享禄(1521~1532)あたりの頃です。
宇喜多家当主は直家の祖父、「和泉守能家」でした。
備前「砥石城」を居城とし、知勇に優れた好人物だった様子。
主君は四職の一角、守護大名・赤松氏の守護代である「浦上村宗(うらがみ・むらむね)」です。
「能家」はその「浦上村宗」に仕え、かなりの功績がある重臣でありました。

大永元年(1521)
四職家である名門守護大名・赤松氏は嘉吉元年(1441)に「赤松満祐(あかまつ・みつすけ)」が将軍を殺害するという、「嘉吉の乱」で滅亡しておりました。
しかし、赤松遺臣らの活躍によって、生き残りの「赤松政則」を擁して、見事再興を果たすのでした。
実子に恵まれなかった「赤松政則」は一門から養子「赤松義村(あかまつ・よしむら)」を迎え、これに家督を譲りました。
幼少だった「赤松義村」は「浦上則宗」、子「浦上村宗」らの補佐を受けますが、成長するに従ってその存在が疎ましくなってしまうのです。
…どっちが当主か分かんないぞ、というやつでしょう。よくある話です。
そこで「赤松義村」は自らの権威を拡大させるべく動きますが、これに「浦上村宗」は反発。
怒った主君「赤松義村」の備前侵攻を受けると、国人らと連合して対抗。
「浦上村宗」に仕える名将「和泉守能家」も主君に従い、逆に「赤松義村」を捕らえるという事態となるのでした。
下克上というやつですよ。
以後より、「和泉守能家」は浦上家にて度々功績を重ねることとなるのです。

⇒ つづく。
  次回は「祖父、宇喜多能家の死」


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