お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

顕家出撃・最大の危機を回避 (楠木正成)13

2010年01月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

建武元年(1334)
「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
しかし、論功行賞では武士が無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたほか、その政治もトンデモなものだったのです。
建武二年(1335)七月には北条氏の残党が「中先代の乱」を起こし、「足利尊氏(※写真)」は討伐のため”征夷大将軍”へ任ぜられるよう要望しましたが、これは拒否されてしまったのです。
武士の期待を集める彼を警戒したんですね。
望みを断たれた尊氏は…。


建武二年(1335) 八月 
鎌倉を支配した北条氏鎮定のため、「足利尊氏」は許可を得ないまま関東へ下りました
三河で弟「足利直義」の軍勢と合流した尊氏は、北条勢を相模川合戦で破り、八月十九日には鎌倉を回復したのです。

鎮定後は鎌倉へ居座り、独自に恩賞を与えるなどしていました。
こうして鎌倉には、尊氏を慕う武士たちが各地から続々と集結していたようなのです。
尊氏は召還の勅使にも従わず、従二位という誘いにも乗りませんでした。
(※実際のところは、従おうとしたところ直義に止められた様子)
続いて足利兄弟は「新田義貞」討伐の檄文を発すると共に、「後醍醐天皇」には彼の討伐を要請したのです。
どっちを取るか、というところですね
こうして、両者は完全に敵対関係となったのです。

一方、「新田義貞」は逆に足利兄弟の討伐を命じられていました。
しかし、初戦に勝利したものの、尊氏率いる本軍との激突では十二月の箱根・竹ノ下合戦にて撃破され、慌てて京へ逃げ帰るような始末。
(※ちなみに、この時の尊氏は天皇と争うことを恐れ、なかなか歯切れの悪い行動をしていたようです。天皇というのはそうした存在だったんですが…ちとハッキリしない感じね)

勢いそのまま西へと進む足利の軍勢は、建武三年[延元元年](1336)一月。
宇治に戦った我らが「楠木正成」をも突破し、遂に京都を確保したのです。
そんな頃、奥州の軍勢を引き連れて彼の後を追って西上していたのが「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」さま。
足利勢が京を確保した二日後にはもうその付近まで進軍しており、「楠木正成」、「新田義貞」らも軍に加わりました。

建武三年[延元元年](1336) 二月
三条河原にて対峙する一方、顕家引きいる部隊は北から東までを包囲しつつ進み、加茂河原、神楽岡の合戦で次々と勝利。

正成ら三千の兵も、二条河原にあった尊氏の本陣を果敢に襲撃しております。
防戦する足利勢に、栗田口からは顕家率いる二万、続いて鴨川から義貞の三万という軍勢が重ねて襲いかかり、ついに京都から追い払うことに成功したのです。
追撃はさらに続けられ、正成は打出浜に足利勢を破り、また義貞も豊島河原でそれを撃破。
度々の敗戦で疲弊した足利勢は、播磨は「赤松円心」の策を入れ、遥か九州へと落ちて行ったのでした…。

こうして、尊氏は敗北し、「後醍醐」は最大の危機を回避したのです。
…が、しかし……。

⇒ つづく。
  次回は「新田義貞を捨て、足利尊氏と和せられ給え…」 (14/16)
 

[関連記事]  【 源平合戦 祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ リアル・なんちゃら無双の真実と虚実 (巴御前) 前編 後編
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編
⇒  頼朝の危機を救った忠義の武士 (土肥実平) [前編 中編 後編
⇒ 人呼んで”悪源太”こと「源義平」 「大蔵館合戦」[ 
⇒ 欲望渦巻く天皇家 (鳥羽院・平安時代末期)
⇒ 源平激突!白河殿 「保元の乱」[  
⇒ 源氏衰退、平家政権樹立 (平治の乱)[   
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[       ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


HOBBIX かき氷屋さん 宇治金時 KYU-541

HOBBIX

このアイテムの詳細を見る

※宇治で検索したらこんなの発見。
 涼しげ(現在冬ですが)でなかなか良い感じです。

絶望した武士・尊氏を頼る (楠木正成)12

2010年01月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山、続いて吉野山を陥落させた幕府勢。
しかし、我らが「楠木正成」の守る千早城は落ちることなく耐え続け、倒幕の機運が盛り上がると各地の武士らが決起。
援軍であった「足利尊氏」が寝返り、逆に六波羅探題を攻略してしまったのです。
一方、関東でも彼の嫡男「足利義詮(千寿王)」ほか「新田義貞(※写真)」らが鎌倉を陥落させたのでした。
こうして「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
しかし、論功行賞では最大の功労者であった武士は無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたほか、政治もトンデモなものだったのです…。


そんな訳で、武士から公家にまで嫌われた新政府。
恩賞方、記録所の寄人となり、”雑訴決断所(ざつそけつだんしょ)”の奉行となっていた「楠木正成」
ここには、九州から奥州に至る武士の訴えが続いていたようです。
早くも政府に絶望した武士たちは、河内源氏の血統で人望・実力のある「足利尊氏」の元へと集まりつつありました。
倒幕に戦功のあった播磨「赤松円心(則村)」も、新政府を見捨てて尊氏勢についております。
(※彼は播磨守護を没されているので、それも当然のこと)

こうした状況もあり、政権下で”征夷大将軍”となっていた「後醍醐」の嫡男「護良親王」は、足利兄弟を大いに警戒しておりました。
しかし、これも尊氏の讒訴がため次第に父と反目するようになり、結果一年のうちに征夷大将軍の任を解かれ、捕えられてしまったのです。
しかも、なんと尊氏の弟「足利直義」に預けられてしまうのですよー、これが。
ああ…オバカさん。
幽閉された「護良親王」は、後に暗殺されることとなるのです。

こうした状況で、目をつけられたのが「新田義貞」でした。
本来は直系筋ながら、アピール不足もあって鎌倉幕府ではすっかり無視されていた彼。
”千載一遇というこの機会に家名を挽回せん”と意気込んでいた義貞を尊氏と競わせることによって、両者を抑えようと考えていたようなのです。
(※詳しくは「武士の棟梁「足利尊氏」の秘密 (北畠顕家)」を参照のこと http://blog.goo.ne.jp/hideru_a/e/d9f36793aa48c40f53208a475f711543)

建武二年(1335) 七月
北条氏の残党が遺児「北条時行」を擁立して挙兵。
「中先代の乱」を起こしました。
建武新政府は関東でもすこぶる人気は無く、各地で守護を破っていった北条勢は鎌倉から出撃した尊氏の弟「足利直義」をも撃破。
鎌倉の地を奪回・支配してしまったのです。

こうした緊急の情勢に、尊氏は北条勢討伐のため”征夷大将軍”へ任ぜられるよう要望しましたが、「後醍醐」はこれを認めません。
しかも、八月には「成良親王」を征夷大将軍にしてしまったのでした。
尊氏の期待はここでも裏切られてしまったんですね。

⇒ つづく。
  次回は「顕家出撃・最大の危機を回避」 (13/16)
  

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

新田義貞〈上巻〉 (1978年)
新田 次郎
新潮社

このアイテムの詳細を見る

※名前は格好良いんですが…イマイチさえないなぁ。
 何が原因なのか、また調べてみましょうか。

朕が新儀は未来の先例? (楠木正成)11

2010年01月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山、続いて吉野山を陥落させた幕府勢。
しかし、我らが「楠木正成」の守る千早城には翻弄され続け、それは容易に落ちることなく耐え続けたのです。
この意外な抵抗に、「後醍醐天皇(※写真)」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」が発していた令旨がその効果を発揮。
各地の武士らも次々に蜂起していったのでした。


元弘三年(1333) 四月二十七日
約二ヶ月もの間耐え続けていた千早城に、ようやく伯耆からの援軍が到着。
続いて、五月八日には援軍として差し向けられていた筈の「足利尊氏」が幕府勢から寝返り、「千種忠顕(ちぐさ・ただあき)」、「赤松円心」らの部隊と合流。
六波羅探題の「北条仲時」、「北条時益」らを追い払ってこれを攻略しました。

続いて五月二十一日には、鎌倉へと兵を進めていた「新田義貞」、尊氏の嫡男「足利義詮(千寿王)」らの軍勢が、ついにそちらを陥落させたのでした。
ちなみに、鎌倉幕府では無名だった義貞と違い、幕府で重用されていた足利氏の御曹司、当時は四歳だったという義詮の来援によって、武士らが自然と集合したそうなのです。
…なんだか悲しくなるようなエピソードですね。

こうした事態になり、千早城包囲軍もようやく囲みを解いて撤退。
六月五日になると、「後醍醐天皇」はめでたく京都へと迎えられたのです。

建武元年(1334)
こうして、「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始
当時は四十六歳。

しかし…武士を廃して天皇親政を目指した「後醍醐」でしたが、倒幕の原動力となっていたのはご存じのとおりその武士たちなのでした。
この時点で大きな矛盾がありますよね。
(※そもそも「後醍醐」という名も、「醍醐天皇」の平安時代[897年頃]を目指してつけたと言われてます)
時間を過去へ戻すというのは、非常に困難なことだと思います
だいたい武士らも北条氏の支配に不満を持っていただけで、天皇親政なんて望んでいないですからねー。

まず、論功行賞にていきなりそれが露呈しました。
簡単には、最大の功労者であった武士は無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたのです

いちおう勲功第一とされ、従四位下・鎮守府将軍となった「足利尊氏」ですが…”新政権に尊氏なし”と言われているように、役職は与えられなかったのです。
(※距離をおくためにわざと敬遠したという説もある)

武士らが代表者・代弁者と慕うようになっていた尊氏がそうした状態だったため、彼らの期待は完全に裏切られてしまったのでした。

「朕(ちん)が新儀は未来の先例」

…要するに、自らのやったことが未来の模範になるだろう、とか広言していたらしい「後醍醐」でしたが、その政治は独裁的なものでした。
武士から徹底的に嫌われましたが、その独善っぷりは公家らの間でも甚だ評判が悪かったようなのです。
政策も思い付きのようなものが多く、破綻しては変更するというトンデモなものだったみたい。
いったい、どこからあんな発言が出てくるんでしょうねー。

ちなみに、我らが「楠木正成」さまは従五位河内守、検非違使(けびいし)、左衛門尉(さえもんのじょう)を任官。
摂津守を拝領し、河内、摂津という二国の守護となっています。
当初の身分から考えれば大出世というべきものですが…幕府の大軍を釘付けにし、全国武士の決起を促した活躍にしては、やっぱり乏しい褒美ですね。

⇒ つづく。
  次回は「絶望した武士・尊氏を頼る」 (12/16)
  

[関連記事] 【歴史・その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 海賊大将・藤原純友「承平・天慶の乱」[   
⇒ 晴明神社 (京都) 
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
⇒ 河村城址 (神奈川)
⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都編)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都外地域編)


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

NHK「その時歴史が動いた」 武乱世を制するリーダーの条件~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~ [DVD]

NHKエンタープライズ

このアイテムの詳細を見る

※次回、苦悩する「尊氏くん」にご期待下さい。
 ひでるさんも調べていてちょっと意外なものでした。

落城しなかった千早城 (楠木正成)10

2010年01月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山に挙兵した「後醍醐天皇」は、捕えられて流罪となっていました。
続いて吉野山に挙兵した「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」でしたが、こちらも大軍を派兵した幕府勢によって陥落。
幕府の軍勢は、我らが「楠木正成」の守る赤坂・千早両城へと殺到したんですが…彼の奇策によって、幕府の大軍は翻弄され続けたのです。


当初は小城と侮っていた幕府勢。
しかし、正成の奇策によってすっかり戦意喪失し、幕府勢は遠巻きにするだけとなっていました。
こうして、だいたい一カ月が過ぎた、元弘三年(1333)三月末日頃。
もともと寄せ集めの部隊で統制はゆるく、長陣に退屈した兵たちがちらほら遊んでいるうち、口論など内輪揉めをするような始末。
二百名ほど規模の乱闘騒ぎまであったようなのです。

さらに大和国では、宇智、葛城の地侍らが楠木勢に味方してこちらも奮戦。
高野山、比叡山の僧兵らも活発に活動したほか、各地の反幕府という武士らも抵抗を続ける正成に触発され、次々に蜂起したのでした。
これらは、「護良親王」の指揮・令旨という影響が強かったようです。

元弘三年(1333) 一月
播磨では、後にも活躍する「赤松円心(則村)」が挙兵。
九州では「阿蘇惟直(あそ・これなお)」、四国では伊予国の河野一族「土居通増」、「得能通綱」らが各地で幕府勢に反旗を翻していったのです。

こうした反幕府の動きは全国的に活発化し、千早城を囲んでいた攻撃軍の一部も地元が不安になり、勝手に撤退する者が出るような始末でした。
さらに二月二十五日頃には、隠岐から「後醍醐天皇」が脱出して伯耆国の「名和長年」に迎えられています。
続いて播磨国で挙兵していた「赤松則村」が播磨・摂津を平定するのです。

こうした一連の効果こそが、正成の期待したものだったのでした。

事態を憂慮した六波羅探題。
反勢力のシンボルというべき千早城を早々に陥落させるべく、鎌倉より援軍を招いて四月頃から再び総攻撃を開始しました。
大手、搦手、側面という三方向から遮二無二突撃をかけた幕府勢に一進一退という攻防を続け…しかし次第に兵力差によって追い詰められた楠木勢は、四月二十日頃になると本城だけを残して孤立させられてしまったのです。

それでも城壁を登る幕府勢には巨石・大木をもって撃退。
また、地下からトンネルを掘って突入した兵は直接切り伏せ、猛攻にも耐え続けたのです

結局千早城は落城することなく、正成はこれを守り通しました
彼の奮戦によって倒幕の機運はいっそう高まり、幕府崩壊の大きな一要因となっていくのでした。

⇒ つづく。
  次回は「朕が新儀は未来の先例?」 (11/16)

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 姫若子、ついに初陣! 「長浜合戦」 [   ]
⇒ 伊東侵攻・義弘、不利な戦況に挑む「木崎原合戦」[  
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[    
⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

NHK大河ドラマ 太平記 完全版 第一巻 [DVD]

ジェネオン エンタテインメント

このアイテムの詳細を見る

※とっつき易いのはコレかなぁ。
 出来れば完全版でどうぞ。

大いに翻弄される幕府勢 (楠木正成)9

2010年01月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山に挙兵した「後醍醐天皇」は捕えられて流罪となっていました。
我らが「楠木正成」は赤坂城を奪還して大修復をほどこし、逆に和泉・河内などを制圧したほか、天王寺合戦では幕府勢を正面から叩き潰したのでした。
「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」は吉野山に挙兵。
しかし、大軍を派兵した幕府勢によく戦ったものの、吉野山も陥落してしまったのでした…。


元弘三年(1333) 二月二十三日。
こちらには「阿曾時治(あそ・ときはる)」の率いる軍勢一万が包囲。
軍を五分割して突撃を繰り返す一方、正面に集中していた軍勢の側面を崩して水の手を断ち、守備隊「平野将監」らを生け捕っています。
わずか十日ほどで、前線を陥落させられてしまった正成。
じわじわと抵抗していた十七の砦も次々に攻略され、最終的に千早城へ籠りました

「太平記」によると、正成勢は千から二千程度。
この頃の幕府軍には吉野山の攻撃部隊であった「二階堂」率いる軍勢も加わり、およそ十万近いという大軍勢によって、千早城は包囲されてしまうのです
もはや風前の灯か。
…といった危機的状況なんですが、正成はここで巧みな戦術をもって、圧倒的だと思われた幕府勢を翻弄し続けるのでした。
さっそく、その戦術を見てみましょう。

まず、千早城は金剛山の中腹あたりに位置する山城です。
高さ一町(約109.09メートル)、周囲一里(=五町)ほどという、これまた小城でした。
何ほどのことがあろうか!
やはり小城と侮った幕府勢は、闇雲に突撃を開始しました。

しかし、こちらは山地での戦いを周到に考え・計算された、正成自慢の城だったのです…。

まず、兵らが城へ取りついた頃合いを見計らって、高櫓よりつぎつぎに巨石・土木を投げ落としました。
これによって、寄せ手の幕府勢はどっと谷底へ転落。
”書記十二名が三昼夜をかけて記録した”というほど、おびただしい数の死傷者を出してしまうのです。

思わぬ事態で慎重になった幕府勢。
今度は、水の手を断って苦しめようと、谷川へ密かに伏兵を配置しておきました。
しかし、城内には十分の用意があったため水を汲みにはなかなか現れず、また次第に警戒が緩んだところを逆に襲撃され、討ち取れてしまったのです。

それでは、大きな梯子によって城中へ侵入する策を採用しました。
こちらに対しては、油を注いで松明を投げつけて燃やし、やはり転落した兵は数千という有様だったのです。

こうして、方針を兵糧攻めに変えた幕府勢。
これに対して正成は、夜半に甲冑をつけた人形を城の下にずらりと並べておき、その目前に盾を配置しておきました。
(※図参照のこと)
そして、夜明けと共に一斉に鬨の声をあげたのです。
城中より討って出たか?!
チャンスとばかりにあわてて矢を射かけ、どっと攻め寄せた幕府勢。
城兵は敵を頃合いまで引き付けておいて城中へと撤退しましたが、残った人形を本当の兵だと勘違いした幕府勢はそのまま突撃を敢行。
そこを狙って、四十から五十の大石が落とされ、三百あまりが死亡、五百あまりの兵が大怪我をしたというのです。
しかもこの作戦は単純に敵の殲滅だけでなく、”矢を浪費させると共にその確保をする”という、三つの意味があったのでした。

…ちょっと出来過ぎな気もしますが、ともかくこうした奇策によって抵抗し続けたのですね。

⇒ つづく。
  次回は「落城しなかった千早城」 (10/16)
  

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

戦術 名将たちの戦場 (Truth In History)
中里 融司
新紀元社

このアイテムの詳細を見る

※ちょっと本格的にこうした戦術を学んでみたいですねー。
 こんなんはどうかなぁ。

信濃源氏・村上親子の奮戦 (楠木正成)8

2010年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

笠置山に挙兵した「後醍醐天皇」は捕えられ、流罪となっていました。
その嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)※写真」は潜伏したまま各地の武士らに令旨を発して決起を促し、自身もまた吉野山に挙兵したのでした。
我らが「楠木正成」は陥落寸前の赤坂城より密かに脱出。
城をあっさり奪還すると大修復をほどこし、逆に和泉・河内などを制圧したほか、天王寺合戦では幕府勢を正面から叩き潰したのでした。
この勝利は、発していた令旨の効果をより確かなものとしていったのです。


「護良親王」の挙兵、そして河内にて暴れる「楠木正成」…。
こうした事態を重くみた幕府は、集結させた軍勢を吉野山、そして金剛山へと向けて南下させたのでした。

「太平記」によると、総勢八十万から百万という大軍勢だったとされています。
…うっそだー(笑)
まぁ、話半分に考えたとしても、四十から五十万という大部隊。
相当に幕府が焦っていただろうことが想像されますね。

元弘三年(1333) 二月十六日。
こちら吉野山には「二階堂道蘊(にかいどう・どううん)」率いる、六万という幕府勢が侵攻しました。
小勢ながらも自然の要害に守られた「護良親王」勢は、期待された武力を発揮。
昼夜七日にわたって神出鬼没のゲリラ戦を続け、幕府勢を悩ませ続けるのです
「護良親王」勢は三百、幕府勢は八百という兵が討死しております。

戦況としては膠着状態だったなか、「護良親王」勢に寝返りがあって事態は一変。
(※先の笠置山と同じく、身軽な寄せ手の一部が忍びこんだという書き方もありました)
合わせて山内へとなだれ込んだ幕府勢によって次第に討ち取られていき、「護良親王」自ら甲冑を着て、薙刀を片手に奮戦することとなったのです。

しかし、圧倒的な兵数差に押され、いよいよ追い詰められてしまった親王勢。
ここで従っていた信濃源氏「村上義光」は、その時は返り血塗れで自決をも覚悟していたという「護良親王」に脱出を進言。

その鎧を拝領して自ら「尊仁(たかひと:護良親王ね)」と名乗り、
汝ら逆臣どもが武運つきたるときの手本にせよ!
そう叫び、身代わりとなって幕府勢の前にて壮絶な自刃をしています。

さらに、山中から逃れた「護良親王」ら一行も幕府勢に囲まれてしまいました。
ここでは、先の義光から護衛を任されていた息子「村上義隆」がただ一人踏み止まり、なんと一時間もの間持ちこたえたのです
全身に傷を受けた義隆は、壮絶な討死をしたそうです
こうした村上親子の命と引き換えの奮戦によって、「護良親王」は見事吉野山から脱出を果たして高野山へ隠れ、後に「楠木正成」の籠る千早城へと向かったのでした。
吉野山はおおよそ半月くらいで陥落。

なお、ちょっぴり後日談。
幕府勢の「二階堂道蘊」は、先の義光の首を「護良親王」の首として六波羅へ送ったんですが…そこで初めて偽物と分かったそうなのです
うっかりさんですね。

⇒ つづく。
  次回は「大いに翻弄される幕府勢」 (9/16)


[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     

  

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

太平記〈4〉 (角川文庫)
森村 誠一
角川書店

このアイテムの詳細を見る

※太平記ですね。
 やっぱりこんなんのがとっつき易いと思います。 


大打撃を与えた天王寺合戦 (楠木正成)7

2010年01月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)※写真」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

「後醍醐天皇」の笠置山、続いて「楠木正成」の赤坂城も大軍の幕府勢によって陥落。
山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられ、正成も城と運命を共にしたかと思われたんですが…落城間際で脱出していた彼は付近に潜伏。
一方、「後醍醐」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」は各地の武士らに令旨を発して決起を促し、自身もまた吉野山にて挙兵したのでした。
さあ、ここから反撃です!


元弘二年(1332)二月。
突如再起した正成勢は、幕府方「湯浅成仏」という者が守備していた赤坂城をあっさり奪還
(※後に守備していた「湯浅成仏」は正成の家臣になっています)
正成は奪還した赤坂城に半年という時間をかけて大修復を加えたほか、千早城までに十七という砦を築いていったのです。
前回はさぞ無念だったことでしょう。
そのため今度は、考えられる万全な態勢に仕上げ、手ぐすね引いて幕府軍を待ち構えるのです

またその一方で、十二月頃には積極的に兵を出しており、大和、和泉、河内といった付近の諸勢力を討伐しております。
和泉を制圧した正成勢は、摂津天王寺に陣していた幕府勢を、真っ向勝負で撃破
この頃は兵力も五千を超え、まさに破竹の勢いで進軍していたようなのです。

この華々しい戦勝は「護良親王」が各地にばらまいていた令旨にも効果を発揮し、全国的にくすぶっていた幕府への不満は各地武士の決起を促していったのでした。
正成の勝利が最後の背中ひと押しとなったんですね。

当然、こうした事態を幕府が黙って見過ごす訳にはいきません。
「隅田次郎左衛門」、「高橋又四郎」に七千という兵を与え、京都を出発させたのでした。
これが天王寺合戦。
淀川を挟んで対峙した両軍。
少数であった渡辺橋の守備隊を攻撃した幕府勢に対し、すぐさま撤退に移りました。
勢いに乗じた幕府勢は、ここぞとばかりに天王寺へ向かって突撃。
雪崩のように殺到し、まだ陣を整えていなかったその刹那、本隊を三分割していた正成勢が三方より猛攻を加えるのでした。。
ちょうど戦国時代の島津家が得意とする、”釣り野伏せ”と同じような形になったんですね。

普段は兵を大事にする正成でしたが、この時は犠牲をいとわず果敢に挑み、結果討伐で進軍してきた幕府勢に大打撃を与えたのです。
これが元弘三年(1333)一月のこと。
存在感を発揮した正成は、こうして赤坂城へと籠ったのでした。

なお、予想外の大敗に驚いた幕府勢が直ちに送った武勇の将「宇都宮公綱(うつのみや・きんつな)」
彼には正成も慎重で、直接対決を避けて”松火の計略”をもって、追撃を断念させたそうなのです。

…この計略がどんなものだか、いまいち正確に分からなかったんですが…両軍勢は直接戦っていないので、松火(しょうか:たいまつのことね)によって兵数を惑わしたのかなぁ。

⇒ つづく。
  次回は「信濃源氏・村上親子の奮戦」 (8/16)


[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 姫若子、ついに初陣! 「長浜合戦」 [   ]
⇒ 伊東侵攻・義弘、不利な戦況に挑む「木崎原合戦」[  
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[    
⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)

学習研究社

このアイテムの詳細を見る

※そんな訳で、城を見に行きましょう!
 …まぁ、城址のが断然風情あるんですけどねー。

護良親王・吉野山に挙兵 (楠木正成)6

2010年01月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

遂に笠置山にて挙兵した「後醍醐天皇」
しかし、幕府勢の猛攻を受けて一カ月ほどで陥落し、山中をさ迷った「後醍醐」は捕えられてしまったのです。
その予想以上に早い陥落から、不完全なまま赤坂城にて幕府の大軍勢を受けた「楠木正成」
得意とする奇策によって一週間ほど粘ったものの、こちらも陥落してしまうのでした。


十月に落城してしまった赤坂城。
この際にも、実に正成らしいエピソードがありました。
当初から脱出を考えていたらしい彼は戦死者を一カ所に集めて焼き、”あたかも全員が自害したように見せかけた”というのです。
その焼死体を見た老人(下男?)に、わざわざ死体にとりすがって泣かせるという、細かい芸まで披露していたんですねー。

こうして、すっかり幕府騙した正成。
落城はもともと予期していたことであり、実は陥落より先にとっとと姿を消していたのです。
正成はその身を隠すのでした。
 
 ・
 ・
 ・
 
ちょっと時間を戻して、九月のこと。
笠置山で捕えられた「後醍醐天皇」は神器を譲り、持明院統の「光厳天皇(量仁親王)」が即位。
謀反人とされた「後醍醐」は、元弘二年(1332)の三月に隠岐島へと流されたのでした。
戦後処理は終わり、若干懸念材料は残っているものの、とりあえず一安心だったかもしれませんが…。

元弘二年(1332)
吉野・熊野あたりに潜伏していたという、「後醍醐天皇」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)※写真」
京都に潜入しているとの情報もあった彼は、ここで各地の武士らに令旨(※命令書ですね)を発し続けていたと言われています。
六月頃には、その指揮下にあった吉野山の門徒らが伊勢の守護代を襲うなど、不穏な情勢であったのです。

こうして、遂に吉野山に姿を見せた「護良親王」
こちらにある金峯山寺も、数百といわれる堂塔・僧坊が群立するという大寺院でした。
”吉野大衆”と呼ばれる僧兵を有し、かなりの勢力でブイブイ言わせていたのです。
後には南朝方の拠点となっていますが、天嶮の要塞という大寺院はそのまま強力な山城でもあったのでした。

さらに、赤坂城にて一度は死んだはずの男「楠木正成」
彼も再び歴史の表舞台へゆっくりと姿を見せるのでした…。

⇒ つづく。
  次回は「大打撃を与えた天王寺合戦」 (7/16)

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

楠木正成アクリルストラップ【菊水】

歴史城

このアイテムの詳細を見る

※効果てきめん、っぽい雰囲気のあるストラップですね。
 やっぱり正成さまはいいなぁ。

戦国武将バスボール (サンタン・関連商品)

2010年01月01日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
現在は「楠木正成」さまの真っ最中。
ですが…やっぱり新年一発目ということで、軽いものを。

06年から始めたこのブログも4年目に突入しました。
ちらほら来て頂ける皆さま、ありがとうございます。
更新頻度を落としていますが正直なところそれでもぎりぎりなので、どこまで続けれるか分かりません。
だいたい書きたかったことも出せましたからねー。
どこまで続くかなぁ。

さて、去年は「金箔ソフトクリーム」ってお正月に相応しいネタ(?)でした。
今年はどうしようかと迷っていたんですが…08年は普通に更新(※織田信行の5回目)、07年は「素甘(すあま)」なんてどーでもいいことやっていたので、特に気を使わず適当なものをチョイスしてみました。

先日行きました、お台場の温泉テーマパーク「大江戸温泉物語」
そちらをぼへーと堪能していたひでるさんが、ふと見つけたのがコチラ。



「戦国武将バスボール」

~入浴料の中からマスコットが出てくるよ!~


…だって。
”癒しをテーマとしたグッズ販売”をしているという株式会社サンタン
そちらには「バスボール」という入浴剤とキャラクターフィギュアが組み合った商品があるようなんですが、その戦国武将バージョンなのでした。
ちょっと気になりませんか?
一時期流行したチョコエッグの入浴剤版みたいなもので、球型の中に戦国武将の入ったカプセルがあるのです。

せっけんのかおり、ということでパッケージを開けるとそんな香りが。
同会社の別製品では「ソープの香り」というのもあったんですが、それって同じでは??
…というような、細かいツッコミは置いといて。
ひでるさんとしては、せっかく戦国武将なら…なんかそれっぽい香りのが良かったかなぁと思いました。
どんなんだ、と言われたら困るんですけど。
えー、味噌?
(↑それは冷凍麺だ)
あるいは竹とかそんなんかなぁ。
それぞれ武将でイメージな香りというのは素敵ですが、どうやらそこまで力は入れてない様子です。
製造ライン・コストを考えたら仕方ないですか。
現在はちょっとしたブームですが、これもいつまで続くか分かんないですもんねー。

さて、香りは一定ですが、マスコットの種類は全部で6つ。
誰もが気になるラインアップは…

・織田信長
・豊臣秀吉
・伊達政宗
・直江兼続
・上杉謙信
・武田信玄



誰もが気になるだろう方が一人。
ううーん、「兼続くん」大出世ですねー。
各キャラクターが鎧姿になっているので、分かり易いというのも当然あるでしょう。
しかし、ちょっと前は誰も知らなかった方だと思うんですが、大河の力というのはスゴイですわ。
なにげに彼が参加したため、本来ならば信長・秀吉と共に必ず加わるであろう「徳川家康」がモレてしまいました。
わはは。




お湯に投入してぶくぶくと数分。
香りがするだけで色などはつかず、やがてポコンとカプセルが…。

ふと見えた黒い姿で確信しました。
これは「伊達政宗」ですね。
…ほら。



ハニワのようなお顔が格好良い(?)です。
足が小さいためやや自立が厳しい感じ。
いわゆるゴム人形でした。
かなり小さいので飾りやすいですが、下手するとすぐ無くなりそうです。
比較のため、携帯電話を置いてみました。
こんな感じです。



可愛いでしょ。
実はもう1つ買っているので、何が登場するか楽しみ。
ダブらないことを祈りましょう。

ちなみに、↓こんなマグカップも発見しました。
(※お茶が好きな方には湯のみもありましたよ)



こちらがまた実に意外なメンバーとなっており、「直江兼続」、「前田利家」、「上杉景勝」、「山本勘助」、「竹中半兵衛」、「山内一豊」、「黒田如水」、「加藤清正」、「柴田勝家」、「本多忠勝」、「島津義弘」、「大谷吉継」…だって。
旗と甲冑・人物画がイイ感じなんですが…。
そう、ちょっと武将に詳しい方は分かると思いますが、彼らまったく共通するものないんですね。
なにゆえあーしたメンバーなのか、まるで理解できません。
単に好きな人を並べたのかなぁ。



[関連記事] 【オススメ・アイテム】
⇒ イカス戦国グッズの店「もののふ 天守」 (新宿・販売店)
⇒ 着よう、戦国Tシャツ! (広島・歴史城、ほか)
⇒ 信長の野望DS2 プレイレビュー (ゲーム・光栄)
⇒ オススメ!信長の野望DS2 (ゲーム・光栄)
⇒ SENGOKU―戦国 (書籍・CM)
⇒ かみあり/染屋カイコ (漫画)
⇒ 城郭コレクション「日本の名城」第一章 (関連商品)
⇒ 城郭コレクション「日本の名城」第三章 (関連商品)
⇒ 天下の覇城 其の壱 (関連商品)
⇒ 鬼神伝承 眷属十二神将 (関連商品)
⇒ 土産限定・ミニ戦国武将 (マイスター★ジャパン)
⇒ TV見仏記  京都編
⇒ TV見仏記2 滋賀/奈良編
⇒ TV見仏記3 南山城・宇治・伏見編
⇒ TV見仏記4 西山/高槻編
⇒ TV見仏記5 湖東/湖北/南河内編
⇒ 秘仏開帳~特別拝観の古寺・名刹をゆく~
⇒ EM・ONE[S01SH]について (シャープ・EMOBILE)
⇒ 携帯電話[SH-04A]について (シャープ・docomoPRO)


★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


和ごころ おでん入浴玉

ノルコーポレーション

このアイテムの詳細を見る

※検索していたら色々とありました。(サンタンさんの商品ではないですが)
 これはちょっと気になりますね(笑)