お寺さんぽ Ver.03

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日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 <前編>

2006年05月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”日本三大奇襲戦”と三本の指に入りながらも抜群に知名度が低くて悲しい「河越城夜戦」についてです。


とりあえず日本三大奇襲戦、というくくり自体知らない方が多いんですね。
日本人は「四天王」だの「五大明王」だの「六歌仙」だの「七福神」だの「ハ部衆」だの「九重佑三子(コメットさん)」だのって、なにかとくくりたがりですから。
(※最後ちがうよ)

まず一つ、「桶狭間合戦」は織田信長が華々しくデビューした戦で、抜群の知名度がありますね。
さらに一つ、「厳島合戦」は中国の覇者毛利元就の飛躍の一戦です。舞台が日本三景で知られる宮島(厳島)であり、こちらも有名です。
そして、最後の一つが今回取り上げた「河越城夜戦」なのでした。

さて、なんで知名度が薄いのか?
それは、当事者であります名将「北条氏康」に原因があります。

例えば…先に上げた合戦の当事者三名で言いますと、「織田信長」は天下統一の直前で家臣に欺かれて死ぬという、運命から性格に至るまで強烈な個性があります。
そうですね、一言で言えばドラマチックなんですよ。
顔面蒼白の森蘭丸が信長のもとに来てですね、

「日向守(明智)の勢にございます!」
「光秀か…是非もなし」

と、火を放ってあっさり死んでしまう。
老衰で耄碌して、子供を頼むとさんざん泣きついた秀吉に比べ、潔くてなんだか格好いいんですね。
志し半ば、という点も日本人好みなのでしょう。

「毛利元就」は戦国時代でも屈指の権謀術数タイプで、本来は地味な人です。
しかし、情・非情の差が極端に激しく、あらゆる手段を使って一代にて中国地方の雄となった、マニア向けな魅力のある人です。
子供には三本の矢(※)でも知られるように”一致団結”を繰り返し説いている一方で、彼自身は一族や譜代・周辺の有力者と虚々実々の駆け引きを繰り広げ、逆らう者一切を根絶やしにする凄惨さを持ち合わせているのです。
(※自分がそうして拡大したので、本家守りなさいよ、一致団結しなさいよ、と訓戒したのです)

そんな彼らに比べ「北条氏康」は大変にバランスの取れた名将で、武田・上杉と互角の戦いをする実力と、早雲から続く安定した政治で領民をしっかり守り、配下にも慕われるという、目立つ欠点がない人なのです。
(※最後はさすがにバタバタしましたが、北条五代で家臣の誰も背くことがなかったという、抜群の安定感です)
氏康の戦略としても、強豪ひしめく関東にて代々の土地を守ることが第一目標であったようで、危険な冒険することなく、着実に成果を上げる方針でした。
まさに取った土地は渡さない、という感じですよ。

あまりに順調なので小説の題材にも大河ドラマにもならず、性格としてもやや問題児の上杉謙信・武田信玄と違って優等生タイプなので、ツッコミ所に欠けるんですよね。(※ちょっとは小説ありますけどね)
そんな訳で、当事者「北条氏康」の地味さを引き継ぎ、合戦自体の知名度もなんだか薄いという結果となるのでした。

…あ、これだけ文書いて単に「地味だよー」と伝えるだけになってしまいました。
(↑なんつーブログだ…)
次回はちゃんと合戦模様を書きますんで!では!


(※)三本の矢
 おそらく知らんことないと思うので、詳しい言葉の説明はしません。三本だと折れづらい、ってことですわ。ちなみに、これは史実でないですが、元就の遺言などには似たような言が見られます。
「兄弟力合わせて本家を守り立てなさいよ、じゃないと俺がやってようにやられるぞ」という雰囲気でした。たしか。

[関連記事]
⇒ 北条早雲 ( ・ 
⇒ 関東公方と関東管領

[住所] 小田原城  神奈川県小田原市城内6-1
   ※写真は代々北条家の居城「小田原城」です。


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※見つけました!
「北条氏康」マニア本ですよ!!価格七千円だって!!
 さすがに中みないと買えない値段ですよねー。高い??安い??

定本・北条氏康

高志書院

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座り方編 (お父さんのための仏像講座)

2006年05月30日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は久しぶりに仏像講座です。
前回やったのが三月末でしたから…ずいぶんこのネタほったらかしました。
(※実はねーけっこうめんどくさいのよ。画像いじくったり)


…なんて裏事情はさておき。
「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

如来、明王と紹介してきましたから、本日は座り方編です。
あれ、なんだか画面のむこうから突っ込みが聞こえてきそうですが…。
だってね、このまま仏像をずらーってやってっちゃうと、後々はこんな用語とかつまらん(←あっ!)のしか残らないので、バランスとってみたという訳。
うふふ。


さて、さっそくやってみましょう。
仏像をあちこちで見ていくと、実に様々な座り方してることに気付く筈です。たぶん。
おそらく、今後の人生では確実にまず間違いなく役に立たないことではありますが、その座り方の名称などについて勉強してみましょう。
ちなみに下の丸数字は写真と対応していますんで、見ながらどうぞ。


①結跏趺坐(けっかふざ)
とりあえず仏像の座り方と言われて、思い出すであろう座り方がこれでしょう。
座禅ですよ。簡単に書くと「あぐら」ですかね。
えっと、左右の足の甲をそれぞれのももの上に乗せて、かたく組んだものです。
各如来から座った菩薩の方々、さらには不動明王(坐像のタイプ)はたいていこんな座りかたをしておられます。実際にこの座り方をしていると足がバキバキに痛くなりますね。なにごとも修行ですよ。
でね、これにはややこしい点が一つ。
左右の足のどっちが上かで、細かい名称が変わるんです。
右足が上に(左もも上の足が目立つ)なっている場合は「吉祥坐(きちじょうざ)」といいます。で、逆の場合は「降魔坐(ごうまざ)」です。
ここまで覚えれたなら、ちょっとすごいですね。

②半跏坐(はんかざ)
地蔵菩薩の時にも軽く紹介しております、この座り方。
要するに、結跏趺坐を片足だけやって、もう一方の足を組まずに足の下に入れる形(半跏不坐)、あるいは片足を踏み下げた形(半跏踏下)を「半跏坐」と言います。
まぁ、半分だけ座ったものですね。
これは響きもいいので、結構覚えやすいと思います。(ちなみに、これはひでるさんが真っ先に覚えれた座り方名称)
有名なのは広隆寺の「考える人」みたいな弥勒菩薩像です。この頬杖ついたような形を含めたものを「半跏思惟(はんかしゆい)」と言います。それ以外だと、東大寺の帝釈天、延命地蔵は半跏坐。あとは…ごく一部の文殊菩薩や如意輪観音、不動明王、大黒天などがこの座り方をしています。
レアなんで要チェック!

③倚坐(いざ)
中国の影響が強かった白鳳・天平時代の仏像(特に如来像)によく見られる座り方です。
そのまま、台座や椅子(禅宗では曲ろくという)に腰掛け、両足を普通に下ろした感じのものを倚坐といいます。私らが椅子に腰掛けた、そのままの形ですね。
東京都は深大寺の釈迦如来像(重文)、とか…役行者像などがこの形ですね。

④跪坐(きざ)
宮内洋…ではなく(※)
両膝を地面につけて座る形が跪坐です。簡単に言うと正座になるんですが、これ正式には「大和座り」になります。
ちょっと違うんですね。
なにが違うかってーと、両足を揃えて座るんですが、やや腰を浮かせたようにしてるんですね。(※ため、ちょっと前傾姿勢)
べたっ、とお尻落とさないという、けっこうしんどい座り方です。
「京都ぉ~大原三千院♪」
で誰もが知っている(たぶん)、三千院の観音様らがこの座り方をしていて有名です。あるいは京都は紫式部邸の廬山寺の菩薩像がそれですね。他にもいるようですが、基本たいへん珍しい座り方なので見つけた方はラッキーですよ!!

⑤輪王坐(りんおうざ)
如意輪観世音菩薩の一般形態です。
あのね、片膝を立てて、両方の足の裏を合わせた形の座り方になります。(右足を立てるのがほとんど、のはず)
如意輪観音が結構な確率であちこちに見られるため、意外と目にする機会は多いと思います。
言葉で表現すると「かったりーなー」なんですけどねぇ。
もっともいい感じーな座り方です。


…どうでしたか?
今回はまた長いので…ちゃんと読んで頂けたでしょうか?
意外とおもしろかったのではないでしょうか?どう??

今後の人生ではまったく、確実に役に立たないであろう座り方特集。
しかし、こんなんをちょっと知っているだけで、お寺へ行った時の注目度は倍増するでしょう。たぶん。
まぁ、マメ知識ですよ。
「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)



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(※)宮内洋さん
 仮面ライダーV3とかゴレンジャーでお馴染み。有名なのでわざわざ解説する必要もないでしょう。
 本項目では「怪傑ズバット」での気障(きざ)を言ってます。
 …まぁ、あれは突っ込み所満載で、気障というより馬鹿かもしれませんが(笑)
 この人、ヒーローモノを数多くやっているためか、日常生活でも子供の夢を壊さないよう色々気を配っているそうです。
 常に背筋もぴーんとした、かっちょえーすごい方です。いいなぁ。
 詳しくはそれ↓


快傑ズバット大全

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鎌倉大仏・胎内参拝 (鎌倉市・高徳院)

2006年05月29日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、以前当ブログにて開催しておりました”阿弥陀祭り”の最後を飾った巨大建造物「鎌倉大仏」

せっかくなんで、その胎内へ潜入してみましょう、という企画。
ちょっと楽しみでしょ?

いきなりなんなんですが、こちらタダでは入れません。
そりゃーあなた、国宝の大仏の中へ入れるんですから、一千万円出しても安いくらいですよ。ええ。
それくらい、ケチケチしなさんな!
…と、まあ実際は十円だかなんだか、そんなんでいいんですけどね。(※先にしっかり拝観料とられてますし)

さて、こうして入った大仏さまの中。
巨大な大仏さまですが、内側は意外と狭く、こじんまりとした印象でした。
バス・トイレ共同のワンルームみたいな。

ちなみに、行ったのはまだコートもほしいという寒い時期でしたが、冷たいかなーと触った壁(というか大仏皮膚の内側)はほんのり暖かく、びっくりしました。
なんだか意外でしょ?
たぶん、空気の逃げ場が少ないから、それだけ熱も逃げにくいようなんです。

でね、上のあたり(※写真参照)が茶色になってるでしょ?
これが何かなーと思っていたら、昭和三十五年(1960)に強化プラスチックを張り重ねて、頭の支えを強化したものだそうです。
さすがに鎌倉時代からまともに残る国宝だけのことはありますね!
そりゃあ、下手すりゃ”ばきっ”とぶっ壊れる可能性も高いでしょうから…。

ちなみに大仏様自体(台座)は免震構造になっており、仏像が倒れることは絶対にない、そうです。
そう書いてありました。本当かな。

そして最後に一発ネタ↓を。



どうですか!安全は保障されていないようです!
危険なアトラクションですよ!!


[住所] 高徳院 鎌倉市長谷4-2-28

[関連記事] 

⇒ 鎌倉大仏(鎌倉市・高徳院) …普通の話はこっち。


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※ちょっといいっぽいDVDを発見しました。
 いいですねー奈良・京都・鎌倉だって。
 これで滋賀が入れば、ひでるさん的には完璧ですね。

古都 三都物語/花と寺 奈良・京都・鎌倉

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圓光寺 (京都・瑞巌山)

2006年05月28日 | お寺
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本日は京都洛北瑞巌山は「圓光寺」です。

さて、いきなり見かけない漢字が出てきました。
当然一発変換できません。
嫌ですねー。
えっと、これで「えんこうじ」と読んで下さい。


さて、ここはひでるさんの敵「徳川家康」によって建立されました。
(注:このブログでは何度か書いていますが、ひでるさんは家康が大嫌いです)
慶長六年(1601)
…というから、「関ヶ原合戦」の次の年です。
戦に勝ってうかれ気分な時期ですよ、きっと。

中世の高等教育機関「足利学校(※)」の第九代学頭「三要元佶(さんようげんきつ)」禅師は家康の要請で伏見へ赴き、圓光寺を建立して学校としました。

なんで学校??
国内教学の発展を図るため、とパンフにはありましたが…。
ちなみに、教学ってーのはここで「宗教」と「学問」を指すようです。
果たして家康にどんな思惑があるんでしょう?なにか胡散臭いです。
まぁ、いいか。
次ねー。

圓光寺学校(略して圓学ですかね?)は僧・俗問わず入学を許し、また「孔子家語(こうしけご)」「貞観政要(じょうがんせいよう)」などなど、多くの出版活動もしたようです。
これら書籍は伏見版、または圓光寺版と呼ばれているそうです。
そんな訳でこのお寺には重文指定された、現存する活字では日本最古(らしい)の木活字が残っています。
文字好きな方(いねーよ)はぜひ行ってみて下さい。
↑ちなみに、なんだかタイプライター分解したみたいなんです。

さて、ここで騙されてはいけない点が一つ。
”僧・俗問わず入学を許し”
なーんてパンフにはさらっと、いいように書いていますが、当然有料だったと思います。そりゃ、一般人はお呼びでない筈ですわ。
金持ち相手の施設ですよ、きっと。いやあねぇ。
(※ひでる説・ちょっとした冗談なので本気にしないで下さいね)

その後色々あって相国寺へ移り、更に寛文七年(1667)というから…開山して六十六年後には、またなんだかの理由で移転。
そこでようやく現在の位置(下住所参照)に来たという訳です。

明治以降は臨済宗の尼寺であったという、この圓光寺。
堂内にはぽつんと東照宮があったり、以前紹介した「水琴窟」もありますよ!


(※)足利学校
下野国…は今の栃木県ですね。
儒学や易学、兵学、医学などを教える高等教育機関だったようです。
ちなみに、学頭は現在の学長に相当する…と思うけど違うかな?
「あっしか・が、学校へ♪」

 ちなみに写真は東照宮。日光のでかーいのとは大違いですね。

[住所] 圓光寺 京都市左京区一乗寺小谷町13

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※内容とは無関係ながらしつこく紹介

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重文 ケロちゃん観世音菩薩坐像 (全国・薬局店頭)

2006年05月27日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は全国の薬局店頭にて圧倒的に数が多い(ような気がする)、薬局のアイドル「ケロちゃん観世音菩薩坐像」です。


以前サトウ製薬の「サトちゃん」、エスエス製薬「ピョンちゃん」などを紹介してきました、この珍妙なブログネタ。
いくつか写真を持っているのでお遊びで掲載してみたんですが…なんでだか好評なんでまたやります。
(gooのデータ見ると、通常の仏像やった時よりも来客が多くなるんですね(本当)
…皆仏像見たくないんでしょうか?)


ケロちゃん観世音菩薩坐像(梵名:ケロチャンキャベジンコルゲンコーワ)は興和株式会社の医療・ヘルスケア部門での医療事業広告神にして蛙絵図の変化体。

医薬広告神しての登場は他のそれらよりも古く、昭和二十四年(1949)のこと。
創業は繊維問屋であった服部兼三郎商店。
ここが医薬品部門へ進出したのが六十年後の昭和二十二年(1947)であるから、その二年後にはもう広告神として活躍していた。

初出は新聞紙の絵図による。

「どうだ、調子は」
「ケロリ、ケロリ」

と、書かれていることから、蛙=鳴き声=ケロリ=完治、という発想から蛙と融合し、当初は新聞紙を中心に世に広められた。

この時は時代を反映しているのか、旧ミッキーのような漫画調で、手足がひょろりとした”のらくろ”のような風情である。しかし、絵師は複数存在するらしく、以後の昭和三十八年(1963)の店頭に観音像として登場するまでの間に、様々に姿を変化させている。

サトウ製薬、エスエス製薬などの広告神が正式名称(公募したりしていた)を持つのに対し、このケロちゃん観音には名前が無く、現在の興和HPでも「カエル」とぞんざいな呼び方をされているという、不幸な広告神でもある。

余談であるが、ひでるさんはその名前を「ケロリン」と認知していたが、これは内外薬品が発売している解熱鎮痛剤の名前であって別物らしい。
また、次に想像されやすい「ケロヨン」という名称は日本テレビのカエル着ぐるみの名前であった。要するに、このどちらもが誤りである。
今回執筆にあたって参照したネット辞書「ウィキペディア」では結論として「ケロちゃん」としており、カエルではどうにも寂しいので、当ブログでもその名を拝借した経緯である。
(参考:Wikipedia 興和製薬ページ)

ただ、この「ケロちゃん」という名称は前述したように、企業HPではどこにも書かれていなかったことを付け加えておく。
カエルという記述のみ確認した。(平成十八年五月二十一日現在)

昭和三十八年(1963)十月
店頭に観音像としてケロちゃん観音、正式名称「ケロちゃん観世音菩薩坐像」が設置。
これは前回紹介した「ピョンちゃん天立像」と同時期である。
当時の流行なのだろうか?
ともかく、各所での蛙信仰(金蛙や無事蛙など各地には多数存在)とも重なり、他の広告神よりもごく身近な生き物で、かつとぼけた風貌が庶民の信仰を大いに集めることとなる。

初代はややひょろ長で、中年男性のようなもっそりとした不気味な雰囲気であった(笑)が、二代目よりかなりSD化され、愛らしく洗練された姿となった。
坐像となったのもこれから。
この二代目にて像の基本形が確立したようである。登場は昭和五十三年(1978)の様子。

この時に、変化体である女性体も誕生している。
見分け方としては可愛らしい服装とまつげのみという安易な形。

調査が完全ではないが、添付写真の「ケロちゃん観世音菩薩坐像」は二代目である。
これが、映像広告などで活躍している、ちまちま動くケロちゃん観音となると、基本的には同じであるが飛び出た目がやや小さいものとなる。
(三代目か?)

像は一面二臂で色は緑。医薬広告神としては珍しく坐像であり、四面広告に騎乗する姿が一般的である。ちなみに、座り方は中国の影響が強かった天平時代の仏像によく見られる、倚坐(いざ※)であるように見える。

おしまい。
ちなみに、サトちゃんは修行中っぽいので菩薩、ピョンちゃんは珍しげなので天。今回のケロちゃんはあちこちよく見かけるので観音としてみました。
たはー。
はっきり言ってこのネタは色々調べないといけないので、通常の歴史・寺院ネタよりも神経使います。いま、ものすごい疲労感ですよー。

なお、上記の文面は一部冗談が含まれておりますが、だいたい本当です。



(※)倚坐(いざ)
 間違えないように。ちゃんとした解説。
 中国の影響が強かった白鳳・天平時代の仏像によく見られる座り方。
 椅子に腰掛け、両足をそのまま下ろした感じのもの。役行者像などによく見られる。

参考:
 興和グループ: 医薬品・ヘルスケア品 公式HP
 
※興和さま、無許可でリンクさせて頂きました。
 問題ある場合は即撤去しますんで御連絡下さい。
 いいですよね、キューピーコーワとか。(←フォロー)

[住所] 全国薬局店頭

[関連記事]
 ⇒ サトちゃん菩薩立像 (全国・薬局店頭)
 ⇒ 重文ピョンちゃん天立像 (全国・薬局店頭)
 

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※人形つながりでこんなん↓みつけました。
 超合金ってーのはマジンガーZの設定そのままなんですね。
 ロケットパンチもそれがためにお約束となるんですが…よくなくなるんだわ。

超合金・ポピニカ大図鑑

グリーンアロー出版社

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↑こちらもオススメ。

みうらじゅん・いとうせいこうのTV見仏記4 (DVD・CM)

2006年05月26日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺さんぽニストひでるさんのオススメDVD第四弾です。


みうらじゅん いとうせいこう TV見仏記4

ジェネオン エンタテインメント

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過去にと紹介してきておりますので、今回は当然「④」ですね。
この第四巻はシリーズ最高傑作だと思います!
(※現在出ている五・六をあわせても)


①②から映像・演出面に進化があり、格段に見やすくなった本作品。
今回は「西山/高槻編」ということで毎度のように色々寺院を回るんですが、大きな見所が二つ。

一つは「宇賀神」です。
ところで、宇賀神(うがじん)…って知ってますか?
たまに弁才天の頭で鳥居の向こうから覗いておられる方なんですが。
あの琵琶法師のような弾き語りやってる七福神タイプでなく、八臂とかのやや奇怪な感じのするタイプの方ですよ。

もし、どちらかのお寺でそんな像に遭遇したなら、ぜひ弁天様の頭を見てください。
何故か鳥居が立っていて、その奥にこの宇賀神がおられます。
いわゆる「宇賀弁才天」というやつですね。

その宇賀神さま”単体の像”がこの巻に収録されている「本山寺」で登場します。
はっきり言って物凄いです!

…このブログでは何度か「物凄い!」という単語が出てきますが、これはTV画面で見ても凄まじいです!!
必見です!!
(※ちなみにDVD中では「大きな蜂の巣みた感じ」という感想)
小さい子はおそらく夢にうなされる事でしょう(笑)


んでもう一つは、映像特典にて収録された「重文・佐渡おけさ人形」のおまけ。
休憩で入った店に飾られていた「佐渡おけさ人形」が気に入った「みうらじゅん」
できれば持って帰りたいんですが、どうしましょう??
…そんな話。

それをゲットするため、策をめぐらせた「いとうせいこう」さんの絶妙なトークが冴え渡ります!
ここの詳細を書いてしまうとつまんないので、残念ながらこれ以上は触れませんが、ある程度のしたたかな計算と、豊富な知識が垣間見えます。
実に見ごたえある、おもしろ映像となっています!
仏像とかお寺に興味ない人でも重文、もとい十分楽しめると思います。
こちらも必見です!!



登場寺/正法寺、勝持寺、願徳寺、宝積寺、安岡寺、本山寺


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※しつこく紹介。もうすぐ読み終わります。
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米のような必需人「丹羽長秀」 <後編>

2006年05月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”織田家の中核なのにあまり知られていない隠れた実力者”「丹羽長秀(にわながひで)」です。

にわにはにわながひで。
ということで長秀さまの後編です。
前回は、織田家中においては米のように欠くことのできない存在で、めだった戦績はないものの、柴田勝家に次ぐ二番家老の地位となっていました。
…という感じでした。


さて、この丹羽長秀さま。
前回、軍事はそれなりでした、と紹介しました。
それなりでいいんです。
なにしろ、長秀は軍事よりも政治的な面で重用されており、当人もそれを得意としていたようなのです。
目立つところでは、信長の居城となる「安土城」から、村上水軍を撃破した「燃えない船」までと、お城から鉄鋼船まで、幅広く作らされております。
(※もっとも、船製造のメインは水軍の「九鬼嘉隆」でしょうけどね)
京都の奉行みたいな仕事もやっています。
こんな風に適当に幅広く器用なところが、また地味目に写る理由なんですけどね。
河合奈保子みたいに。

当時訪れていた宣教師「ルイス・フロイス」によると、

「柴田・丹羽の両名は織田家の二本柱である」

というようなことを残しています。
第三者である外国人がそう言うのだから間違えありません。まあ、武の柴田に対し、文の丹羽という感じだったのではないでしょうか?

親子二代とも織田家と姻戚関係にあり、順調であった長秀の運命は信長の死後より、にわかに陰ります。
本能寺の変では信長の三男「神戸信孝」と共に四国攻めの準備中でした。(長秀は副将として参加)
中国毛利との陣から駆け戻ってきました秀吉に従い、共に山崎合戦にて「明智光秀」を討伐。その後も長秀は一貫して秀吉を支持し続け、結果五十万石の大身となります。
しかし、その後はすぅと歴史の表舞台から姿を隠し、そのまま死去してしまうのです。
それがね、病が原因で死去という説のほかに、主家を凌ぐ秀吉に憤慨して、割腹自殺をしたという説もあります。内蔵だかなんだかを送り付けたとか…。

そりゃ、織田家と親密であった長秀にしてみれば、
「織田家のために奴の味方についたが、俺はなにか間違えたかもしれない」
…という感じだったのでしょう。

これはちょうど関ヶ原合戦後の「福島正則」ら秀吉子飼の武将たちの心境と似ています。
「頼まれて味方をしたが、その後から家康はまるで天下をとったような振舞いになってきた。どこか間違ったかもしれん」
…そんな風に。そう思った時にはもうだいぶ手遅れなんですけどね。

信長にとって使い勝手のいいナンバーツーは、主がいるからこそ輝きを増すのであって、上が変われば同じようにはなりません。まして、新たな上司になった秀吉にしてみれば長秀は元の大先輩ですから、色々気を使うためやりづらいでしょう。
信長と同じようにはできっこないです。
このような点で、信長死後の「丹羽長秀」の運命は、ほぼ決していたのだと思います。

余談ですが…彼の嫡男「丹羽長重」は秀吉によって難癖をつけられ、改易。石高も十分の一程度に減らされ、体よくおっぱらわれております。
うふふふふふ…。

こんなんがあまり語られない、「豊臣秀吉」という人の暗黒面ですよ~。
こわい、こわい。



※と、いう訳で今回写真はちらりと裏の顔をのぞかせた「豊臣秀吉」です。
 だって、丹羽長秀の画像とか関連施設の写真ないんだもん。


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※残念ながらこちらも写真はないですが、今回内容にばっちり合致した書籍です。
 信長はともかく、秀吉には利用されちゃった感じですけどね。

丹羽長秀―信長と秀吉を補佐した「信義」の武将

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米のような必需人「丹羽長秀」 <前編>

2006年05月24日 | 歴史
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本日は”織田家の中核なのにあまり知られていない隠れた実力者”「丹羽長秀(にわながひで)」です。
誰が言い出しっぺだか知りませんが、織田四天王なんて言葉があり、その一人とも言われておりますね。


ちなみに、ひでるさんよく分かっていない時分では、ゲーム「信長の野望」で見かけたこの人を「たんばながひで」と間違って記憶してました。
恥ずかしいことです。


木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間 (※関連⇒松永久秀③

その「米五郎左」こそが今回の主役、丹羽長秀こと通称五郎左衛門です。
ちなみに「木綿藤吉」は後の太閤秀吉、当時は木下藤吉郎を指しています。
当時の「木綿」は様々な用途があり、かつ使いやすいものでした。
秀吉は信長に仕えてから様々な仕事をテキパキとやっておりまして、そんな様を木綿になぞらえて、「木綿藤吉」となったようです。

そして次の「米五郎左」ですが、米というものは食の中心で平時・戦時ともに欠かせない、生きる上で必須のものでした。
この丹羽長秀は大きく目立つことはありませんでしたが、どんな仕事も実直にそつなくこなす、織田家にとってまさに欠かせない存在の武将だったようです。
タイトルは取れませんが常に三割近く打って、ここぞという場面に強い、元巨人の岡崎選手のようなイメージでしょうか。

だから、時が経過した今ではあまり語られることありませんが、当時の信長や他の同僚からは大変心強い存在であったようです。

さて、名前が五郎左衛門ですから…単純に読むとこの人五男かもしれません。
…ほんとか?
(※名前と生まれ順にまったく関係ないことも多いので、聞き流して下さい)

幼少の頃より織田家、その嫡男の信長に仕えていたようですが、生まれとか、そのあたりは知りませんし、ちょっと調べましたがよく分かりませんでした。
はっきり言って。

えっと、この長秀は前述したように派手な実績こそないですが、各地の戦において万事順調に功を重ね、最終的には織田家中において柴田勝家に次ぐ家老となりました。
ナンバーツーですよ。
その人柄は穏やかで親しみやすい、いい人っぽい雰囲気(笑)だったようです。

秀吉が木下から「羽柴」に名を改める際に、ゴマする意味で柴田・丹羽の家老両名から一字ずつ拝借した。という有名なエピソードがありますが、長秀はこれを「おもろいやつ」というように好意的に受け取っています。また、秀吉の卓越した実績・能力もちゃんと認めていたようですね。
(※ちなみに、柴田勝家はどうにも秀吉を気に入らなかったようですが)


→後編に続く ちょっとながくなっちゃったので。

※と、いう訳で今回写真は「織田信長」です。まちがえないとは思いますが、「丹羽長秀」じゃーありません。
 だって丹羽くんの画像とか関連施設の写真もってないんだもん。

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※ようやく手に入れました!
 いま通勤電車の中で読んでいますが…目からウロコが落ちるようです!
 泣けます!!実にいい本です!
 特にお子様を持つ方に読んで欲しい一冊です!

親日アジア街道を行く―日本近代史の真実

扶桑社

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せっかくなので、大きい画像で紹介しました。



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西明寺 (京都)

2006年05月23日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は三尾の名刹の一つとして知られる槇尾山は「西明寺」です。
へーそうなんだ。
…って、これはパンフそのままで、毎度のことながらひでるさんの知識ではありません。


さて、「西明寺」です。
そうですね、思い出すことと言えば、山奥で遠かったことでしょうか。

ひでるさんここには真夏に自転車で行きましたが(※ひやしあめの回参照)……実に暑くてしんどかったです。
自転車で行こうと思う人はそうそういないと思いますが、車をオススメしますよ。
紅葉の名所として知られているので、いい季節は秋ですか。
もし、「ひやしあめ」を美味しく飲みたいと思うなら、ひでるさんのように真夏にどうぞ。
止めませんよ。
うふふ。


天長元年(824)…そのあたりの頃。
前に紹介しました弘法大師さまの高弟「智泉大徳(ちせんだいとく)」が神護寺の別院としてここを建立しました。
という訳で、当然ながら「真言宗」のお寺です。
智泉大徳はその弘法大師より「密教の事は智泉に任す」と言われたほどの人です。
すごいんですよ~。
この人は亡くなったのが天長二年だそうなんで、なんとぎりぎり完成なんですね!

その後、平安末期頃には神護寺と共に荒廃してしまいますが、「我宝自性上人」が中興。この時に本堂やら宝塔やらが色々豪華絢爛に建てられたようです。
この方、一応パンフに説明がさらりと書いてあるんですが……その読み方から、なんでそれだけ資金があったのか、よく分かりません。げしょしょ。

さらに正応三年(1290)時は鎌倉時代。
「平等心王院」の名を後宇多天皇(ごうだてんのう)より賜り、神護寺から独立。
それからそれから時代は進んで戦国期になると、永禄年間(1558~1570)の間に兵火で焼失してしまいます。
ここも軽く調べてみましたが、よくわかりませんでした。
ちなみに「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)、武田信玄が小田原城を囲んだのが永禄十二年(1569)、同じときに信長が京都へ上洛でした。要はそのくらいの時期ってことらしい。
もしかして…焼いたのは信長とか三好とか、そのへんの方でしょうか?

そんな風に度々荒廃・焼失を繰り返した「西明寺」
慶弔七年(1602)
…というから、これは「関ヶ原合戦」の次の次の年。
明忍律師(みょうにんりつし)というお坊さんによって、めでたく再興されました。
ちなみに、再興後に徳川綱吉の母「桂昌院」さまの寄進で本堂が建てられたということなので、徳川将軍家もバックアップしたこととなります。それで考えると、明忍さまが再興した時も、おそらくそのあたりがスポンサーではないのかなー、とか思います。

こうして、復活した「西明寺」は兵火をどうにか免れた平安・鎌倉の仏像(釈迦と千手は重文ですよっ!)と共に現代まで残ったのでした。
ああ、よかった・よかった、ということでおしまい。

えー、最後にここのお寺のパンフレットについて一言。
掲載された四季の風景写真が実に綺麗で、由来・仏像・建造物から、関係した人物の説明までさらりと書いてありまして、それは非常にいいんです。カラーでいい紙質ですし。金かけてんなーという感じでした。
ただね、このパンフレットにはルビがほとんど存在しないんですよ。

ジャミラが水で衰弱するが如く、漢字が弱点のひでるさん…。  (※ちなみに、それ以外にも弱点や天敵がたくさんおります)

はっきり言って読めませんよ!!
上の説明文↑がいつもよりパッとしないのは、それが原因であります。たぶん。 (←いや、そう変わらんと思う)

誰もが詳しい訳ではありませんし、専門家ばかりが訪れるとも限りません。
あれはパンフレットとして不親切だと思いますよ。ええ。
なーんとかしてぇー。


[関連記事]
⇒ 弘法大師 () 


※ちなみに写真は「西明寺・表門」です。
 本堂と同じ元禄十三年モノで京都市指定有形文化財です。

[住所] 西明寺 京都市右京区梅ヶ畑槙尾町1


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※たまには漫画でなく、こんなんで心穏やかにしてみては如何でしょうか?
 「そうだ、京都行こう」
 …って感じになると思いますよん。

京都紅葉名所

光村推古書院

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寺の裏山から古銭11万5000枚 (お寺さんぽニュース)

2006年05月22日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、いまだ「ひぐらしノイローゼ」が抜けないひでるさんがお届けする、時事ネタ情報ブログコーナーです。

気になる情報をピックアップ!ネタがたまりしだいお届けするのんびり企画。
こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。

…そんな挨拶を恒例にしようかと、さっき風呂場で考えました。
なんかそういうのが欲しかったのですよ。

さて、最近…というかこのブログのために気にしているからなのか、意外と寺院のニュースってのがちょこちょこ目につくんですね。
ちなみに靖国神社関連のニュースはよく出ますが、こちらは取り扱いません。議論の必要もないので。
できるのなら、毎日参拝すべきです(笑)
さて、この↑話題でひっぱるとロクなことにならないので、止めますね。
のんびり本編に行きましょう。


●山口組、延暦寺で歴代組長法要…寺「今後は断る」 [読売新聞] 2006年5月16日
天台宗総本山の比叡山延暦寺(大津市)に先月下旬、指定暴力団山口組の最高幹部ら約90人が集まって、歴代組長の法要を行っていたことがわかった。
同寺など7万の寺が所属する全日本仏教会は、約30年前に暴力団排除を決議しており、滋賀県警も法要直前に中止を要請していた。
警察当局は、香典名目で数千万円が上納されたとみており、「明らかに威力誇示と資金集めが目的」と分析。
延暦寺は「配慮が足りなかった。今後、暴力団の法要は拒否したい」と話している。 警察当局や延暦寺などによると、法要は先月21日、山口組の初代から4代目組長の供養を目的に同寺の阿弥陀堂で開催された。
銃刀法違反罪で服役中の6代目組長を除く、全国の直系組長ら約90人が、7台のマイクロバスに分乗して同寺に集結。
午後5時から約40分間にわたって、「特別永代回向」と呼ばれる最高級の儀式を行った。滋賀県警は約50人態勢で警戒しトラブルはなかったという。
3月下旬ごろ、第三者を介して山口組側から申し込みがあったといい、前日の20日に法要の開催を知った県警は、延暦寺に「やめられないか。社会的影響を考慮してほしい」と口頭で中止を申し入れたが、寺側は「宗教の行事だから断れない」などと答えたという。
天台宗など58宗派が加盟する財団法人「全日本仏教会」(東京都)は1976年、全日本仏教徒会議で、「威力誇示、資金集めに利用するような葬儀、法要は拒否しよう」という暴力団排除の決議を行っており、仏教会は「法要が(暴力団に)利用されたことに関しては、大変遺憾に思う」としている。
---------------------------------- 。。。

規模としては雲泥の差の話ではありますが、ひでるさんが販売の仕事をやっていた時。
「たとえ盗まれた金でも、ここで普通に買い物してくれるのなら構わない」
そんなことを考えていました。
なにしろ、売るこちらは必死ですから。日の目標到達のために躍起になっていましたから。
自らの生活のため、来た人がどんなであろうと、そのお金の出所がどこであろうと、こちらで買ってくれる人は皆「お客様」なんですよ。はっきり言って。

ただね。
例えばその相手が北○鮮だった場合。散々他所の国に対して犯罪行為を繰り返している相手ですよ。それがああしてなんちゃら船が来て、ゴルフのクラブだか中古自転車だかを大量に買い付ける訳だ。
その瞬間はいいんです。少なくとも盗んでいるのではなく、ちゃんとお金払って持っていくんですから。販売している人もそれで生活しているのでしょう。たぶん。
で、そうした鉄くずがいつしかミサイルに生まれ変わって自らの頭上に飛んでくるのよ。

どうですか?
延暦寺はただ頼まれた法要をやっただけです。お金の支払いもちゃんとされていたでしょう。
でも、それ「威力誇示と資金集め」という、やらしい目的がありそうだ、と。

ひでるさんは延暦寺の立場がなんとなく分かるので、そちらを責めれません。悪いのは暴力団を完全に取り締まれない国家・警察でしょうか?
これは難しい問題だと思います。



●寺の裏山から古銭11万5000枚と梵字木簡…福井 [読売新聞] 2006年5月19日
福井県福井市田ノ谷町、大安禅寺の裏山から、高さ67センチのかめに入った約11万5000枚の古銭と、明応9年(1500年)の年号や梵字(ぼんじ)が記された木簡が出土した。福井市教委が19日、発表した。
中世に流通していた明の「永楽通宝」など20種以上の渡来銭で、現代なら約700万円分の米が買えるという。10万枚以上の出土は全国で十数例あるが、梵字の木簡が一緒の例はないという。
梵字は五大明王を表す5文字に、財をもたらす毘沙門天の1文字を加えた珍しい取り合わせ。埋蔵の理由は備蓄や祈願など諸説があるが、担当者は「強い仏を集め、盗難を防いだのでは」と話している。
---------------------------------- 。。。

「永楽通宝」は前に当ブログで紹介しました、「寛永通宝」の前に流通していたお金です。
これは貨幣を製造する技術(採掘、精錬、銭造)が未熟だった時代に、中国から大量輸入していたそうですよ。

でもいいですねー。
単純に計算すると、二十八両くらいですか。 (※1150000÷4000:四千文で一両になるため)
こうすると、「あれ、たいしたことないのかな」って感じになりますね(笑)
下女の給金が江戸時代は「年三両」とのことなので、だいたい九年分くらいです。
うわ、微妙。

おまけに「梵字木簡」ってのがくせモノ。
五大明王に毘沙門でしょ?!こんなのが一緒に入っていたら、なんだか神罰くだされそうで、気軽にもらっちゃうことできません。
盗難防止ですか。…うまい方法だと思います。

実はひでるさんは丑年なので「虚空蔵菩薩」を持ち歩いているんですが(本当)、これキーホルダーの中に入れてあるんですよねー。
サイフだとほら、小銭とかとわちゃくちゃになりそうだったので。
…でも、やっぱりサイフのがいいんでしょうか。


[関連記事]
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 五大明王


●最後にひでるさんの一発ネタ写真。 タイトルは「亀が気の毒」



寺院であちこち見かける「亀が気の毒」シリーズ。(※ちなみに全部写真に撮ってます)
これにどんな意味があるのか知りませんが、なんだか亀がかわいそうですよ。
そう思いませんか?



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※ひでるさん「ひぐらしノイローゼ」真っ只中です。
 こちらは番外編という位置付けなんですが……前半と後半のギャップが物凄いです。
 目を背けたくなるシーンが次から次へと…うわあああああああああ!!

ひぐらしのなく頃に 鬼曝し編 (1)

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大威徳明王 (仏像・明王)

2006年05月21日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は五大明王のメンバーとして知られる大威徳明王です。
稲垣メンバー。

さて、このグループは中央のやったらあちこちで見かける不動様以外、どなたも単独信仰は(おそらく)ないんですね。
あれですよ、GS(グループサウンズ)でメインのボーカルの人だけやたら突出して売れちゃうみたいな感じ。
沢田研二みたいな。

そんな訳で、この方も壇上に単独でおられる、ってことはなく、たいてい五人そろっての登場です。横並びの際には左端が定位置になっていますので、しっかり見てあげて下さい。

「おん、しゅちり、きゃらろは、うん、けん、そわかー」
「おん、しゅちり、きゃらろは、うん、けん、そわかー」
「おん、しゅちり、きゃらろは、うん、けん、そわかー」

この真言で「怨敵降伏」の御利益があるそうです。当ブログ来訪の方々の敵を降伏してみましたがいかがでしょうか?

そうですね…目下ひでるさんの敵と言えば「眠気」と「散財」でしょうか。
実にやっかいな相手です。

…って言うのも、最近はアニメでもやっている「ひぐらしのく頃に」というサスペンス話の漫画版を、まーたよせばいいのにひでるさん購入したんですが、あまりの衝撃に発売されてた他のコミックスも全て一気に揃えてしまいました。てへへ。

これのせいで、
①謎と推理とおっかなさにより、それ以後は熟睡できなくなった(本当)
②結末を読まないと落ち着かないので、続きも当然買う予定。

…という有り様です。
ひでるさん、すっかり「ひぐらしノイローゼ」です。
一時期はこのブログもまともに書けなくなるほどでしたんで…。重症ですね。
(※今回の文もなんだか変になっていますが…)

と、まあそんくらい↑のモノでした。少なくとも私にとっては。
ゲーム版はどうにも絵が受け付けませんでした(やる暇もないし)が、漫画は絵も奇麗で読みやすいのでオススメ……あ。
ひでるさんと同じ症状になりやすい方、おっかないのが苦手な方はやめた方がいいかもしれません。
どうなっても知りませんよ~。
うふふふ…。

……………。
……あああ、仏像紹介がいつしか漫画紹介になっている!!
ね、やっかいな敵でしょ。

梵名はヤマーンタカです。
響きは「イヤーン」という感じ(笑)
あんまりかっこよくないですね。
これで死神「ヤマ」を倒す者、という意味になるそうです。名前のネタ的には「ドラゴンスレイヤー」と同じそのまんまですね。英雄伝説ですよ、日本ファルコムですよ。
あるいはその↑直訳で「降閻魔尊(ごうえんまそん)」とか、足が六本あるので六足尊とも呼ばれるそうです。
どっちにしろそのまんまですが。

そんな古代インド神話の死神「ヤマ」をも降伏するくらいすごいんだよー、物凄い徳があるんですよー、朝ご飯食べて学校に行くよー(※)、ということで、大いなる威徳を持つ神、「大威徳」とついたそうです。
平安時代以降には戦勝を祈る本尊ともされたようですよ。
…あれ、ってことはどこかで単独信仰もあるんでしょうかね?

さて、ここからは皆さんお待ちかねの見分け方です。
この方の仏像はメチャ分かりやすいので、ぜひ軽く覚えていって下さい。

水牛に乗る方です。
おしまい。

と、これだと先の「仏像講座」となんら変わらないので詳しく書きますと、六面六臂六足の仏像です。
要は全部六つなんですよ。ボリューム満点です。
さらに、胸の前で「浣腸」するような印を結んでいる作例が多い(基本形態ではないそうです。注意!)ので、こちらは注意深く見て見て下さい。
ちなみにそれを「壇陀印(だんだいん)」といいます。
「ダンバイン」ではありません。

…なんだか今回は人を選ぶネタばかりですみません。ちょっと頭おかしいんです。 (←いつもと大して変わんないよ)


[関連記事]
⇒ 五大明王
⇒ 降三世明王
⇒ 金剛夜叉明王
⇒ 孔雀明王


(※)朝ご飯食べて学校に行くよー
   本来ならこのブログで使うようなネタではないですが、流れで思い出したので書いてみました。
   まぁ、分かる人だけ喜んで下さい。なんだか知りたい方は個別にどうぞ。


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※上で書いてた、ひでるさんを「ひぐらしノイローゼ」に追い込んだ漫画がこれ↓
 「~編」というように複数出ていますが、とりあえず基本らしいコレを。
 可愛らしい雰囲気にだまされないように。
 …どん底へ叩き落とされます。

ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編(1)

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (6)そして誰もいなくなった編

2006年05月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

さて、長かったこの「応仁の乱」の記事も今回で遂に最終回となります。
もうややこしい事はありません(たぶん)
戦いの顛末がどんなだったのか、気軽にお読み下さい。
のんびりとどうぞ。


■応仁の乱・後編

応仁二年(1468)
東軍・西軍の小競り合いはなおも続いておりました。
寺院から民家までことごとくが焼け落ち、まさに京都は”焼け野原”と化してしまいました。

戦は持久戦の様相となり、不足した兵を補うため、どちらの陣営も市中の浪人をかき集め、にわか軍兵としました。
…これが、戦国期では主役となる「足軽」の起こりとされています。

彼らはいわゆる雇われ兵であるため、軍規・軍律とは無関係でした。たんなる荒くれモノがこともあろうに集団となったのですから、そりゃあもう好き勝手に暴れまわるなど、その存在が混乱にいっそう拍車をかける原因の一つとなりました。


「なれや知る都は野辺の夕ひばり あがるをみても落つる涙は」 (※飯尾彦六左衛門)


単なる、自己の利を求める大義のない戦いは離合集散を繰り返し、延々と長引く戦乱で京都は荒廃。
そして、中央の混乱は地方へと伝わり、各守護大名の領国まで拡大。自らの領土を守るため、参陣していた大名らは京都に居続けることができなくなってしまうのです。

また、守護大名の長期不在は守護代などの配下武将が地元にて着実に力をつける要因ともなりました。
これが、”なんちゃら国守護”という、幕府より頂いた名目ではなく、実際に力を持った者が、その領土・領民の心をがっちり掴んだ者が台頭する「下克上の基礎」となるのです。


■応仁の乱の終結

文明五年(1473)
東西の総大将であった「山名宗全」「細川勝元」の両名が戦の終わらぬまま相次いで死去。
両者の子供「山名政豊」「細川政元」はついに矛を収め、ようやく東西の間にて和睦が成立しました。
各大名は自領へと引きあげていきます。

無責任将軍「足利義政」は結局子の「足利義尚」に将軍職を譲って隠居します。
西軍に担がれていた弟「足利義視」は二年後の文明七年に兄「足利義政」に恭順。ここで、将軍家の家督争いについても決着するのでした。

文明九年(1477)
ここでめでたし・めでたし、とならないのが「応仁の乱」
東西両大将(その子供ですけどね)
分裂した将軍家。

…それがひと段落したものの、まだしつこく戦い続けていたのが東軍「畠山政長」と西軍「畠山義就」でした。
まだいたんかい!
という感じですが、彼ら畠山家の家督争いはまだ決着しないままだったんですね。

しかし、それも西軍の実力者「大内政弘」が撤退すると、ようやく争いは完全収束となるのでした。
(※余談ですが、「畠山政長」が結果として家督を相続。その後「細川政元」と争って敗北・自害)


世にも珍しい、

「そして戦場に誰もいなくなった」

…という、勝ち負けもない、なんだか分かんないけど終わったらしい。
なーんていうような、くだらない幕切れとなるのです。

十一年にも及ぶ長い長い戦いは、結局誰に何の実利をも与えることなく、主だった将の戦死もなく、ただ室町幕府の権威をひたすらに失墜させ、また京都の文化財をことごとく焼失させただけの、無意味なものでした。

もし、京都に行く機会があったなら、お寺などで説明書きの看板(今回の写真みたいなやつ)をご覧下さい。
まー「応仁の乱にて焼失」という記述の多いこと、多いこと……。
ひどいものです。


ちなみに、九代将軍「足利義尚」は二十四歳の若さで死去。
その後、十代将軍は不幸の代名詞「足利義視」の子である「足利義稙」が継ぐこととなるのです。
歴史って面白いですね。
(※またまた余談ですが、その将軍後継を巡って暗躍する日野富子に義視・義稙親子が対立するなど、彼らは相変わらずなことをやっています。懲りない面々です)


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 山名宗全邸   京都市上京区の堀川の西付近

   ※今回写真は再び「山名宗全邸」、そこの看板です。
    今回の文を引用させて頂きました。


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※やっぱりとっつくには漫画が楽ですよねー。
 と、いう訳で最後はひでるさんは読んだことないですが、初心者にはオススメな漫画としてみました。
 いいよね、まんがって 

マンガ 日本の歴史〈22〉王法・仏法の破滅―応仁の乱

中央公論社

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (5)応仁の乱編

2006年05月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。
またかよー、なんて文句も聞こえてきそうですが、ここからがクライマックスなので、ぜひご覧下さいませ。
ちなみに、登場人物が多いので、一部を除き、括弧くくりのフルネームとしております。
読みづらいとは思いますが、ご勘弁を。

さて、これまでは事の成り行きでしたが、遂に「応仁の乱」直接の説明となります。
両軍激突ですよ!
まぁ、のんびりとどうぞ。


■東西・軍勢のまとめ

●東軍
将軍家: 足利義政(八代将軍)
      日野富子(義政正妻)
      足利義尚(義政の子。のちの九代将軍)
      足利義視(義政の実弟。のちに出奔して↓西軍へ)
総大将: 細川勝元
参加大名:
      畠山政長(御霊合戦にて逃走していた)
      斯波義敏(追放されてた)
      赤松政則(播磨)

…など総勢十六万。(応仁記より)
ちょっと大げさだと思います。実際は半数以下ではないでしょうか?
      
●西軍
将軍家: ※足利義視(義政の実弟。のちに東軍から出奔してくる)
総大将: 山名宗全
参加大名:
      畠山義就
      斯波義廉
      大内政弘(北九州から中国地方を領有する実力者)

…など総勢十一万(応仁記より)
こちらも大げさです。実質四、五万ってところでは?


■応仁の乱・前編

京都市街地を舞台とし、両軍の争いが始まります。
当初は将軍「義政」を確保し、官軍となっていた東軍が有利に進めていました。

しかし、西軍に「大内政弘」を筆頭とする中国・四国の援軍が続々と加わると、西軍は体勢を持ち直し、戦況を五分としました。

…中央で権勢を誇っていた「細川勝元」は地方では人気が薄かったようなのです。
「いけすかんヤツ」
と、いうところでしょうか?

東は百万遍、西は船岡山、南は二条付近まで…という、京都北部一帯での争いは激烈を極め、付近の建物は次々と炎上。中でも細川方の拠点「相国寺」の戦いは大激戦となりました。     
ちなみに、その相国寺の南には将軍「義政」の御所がありましたが、彼は炎上する相国寺の火の粉を眺めながら近臣・侍女らとどんちゃん宴会をしていたそうです。

またまたでました!
将軍「義政」のいい加減・適当・どうでもいーや、モード炸裂です!!
この人やる気ゼロ…というか、もう人間として最低ですよっ!!


さて、そんな両陣営の激烈な争いで忘れ去られていた人がひとり。

……そうです、兄からの指名で”次期将軍候補”とか言われながら、まっったく職を譲られないまま日が過ぎていた不幸の弟「足利義視」です。

「日野富子」が子を生したため、浮いた存在となっていた「足利義視」
これにいじけた「足利義視」は突如東軍から出奔してしまいます。

細かく説明しますと、妻「日野富子」が自らの子を次期将軍に!と、強く要望したことでその旦那で父の「足利義政」は態度を一変。
さらには、「足利義視」の後見役であった「細川勝元」すらもそれに同調して態度を変化させてしまったのです。
…まぁ、そりゃそうでしょうね。

ちなみに、”いい加減”の代名詞「足利義政」は弟の「足利義視」に対し、「子供ができても将軍職は弟に譲る」なーんて証文も交わしているんですけどねー。
所詮は紙切れ。なんの拘束力もありませんよ。


伊勢へ出奔していた「足利義視」は説得されて一時東軍へと戻りますが、結局彼が邪魔な存在になってしまったことは変わらず、戻って間もなく「細川勝元」は「足利義視」を正式に比叡山へと追放処分にしました。
要するに、中途半端なままでなく、事務手続きをすっかり済ませ、身ぐるみ剥いで追い出した、という感じです。
酷いですね。

そんな不遇な彼を賊軍扱いとされていた西軍が見逃す訳はなく、追放されていた「足利義視」を説得して自軍へ囲い、彼を奉じて東軍に対抗しました。

結局のところ、「足利義視」もあまーく魅力的な将軍職が諦められなくなっていたのでしょう。
これで、市街地を巻き込む戦争はドロ沼と化していくのです。


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 相国寺  京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町701

   ※今回写真は激戦のあった「相国寺」です。
    あんまりいい写真ではないですけどねぇ。
    ちなみに、この建物の天井には有名な龍の絵がありますよ!

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※戦国時代付近の合戦話集…となると、たいていはこの「応仁の乱」からですね。
 この本ではないですが、ひでるさんは二、三これと似たような本を持っています。
 なんというか、ドラマティックですよね?!

戦国合戦事典―応仁の乱から大坂夏の陣まで

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (4)御霊合戦編

2006年05月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
一日お休みしましたが、本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

ついに戦となってしまいます。
応仁の乱の発端と言われる畠山家の家督相続争い「御霊合戦」です。
ややこしくて長いので、細かく切り分けております。
まぁ、ゆっくりどうぞ。


■畠山・家督争い「御霊合戦」

畠山の家督争いに敗れ、追放されてしまった「畠山義就」

応仁元年(1467)
その「畠山義就」を擁立していた室町幕府の実力者「山名宗全」は彼の復権のため、将軍「義政」に働きかけ、その懐柔に成功。

将軍「義政」は当事者のもう片割れ、「細川勝元・畠山政長」チームに断ることなく彼を許し、さらに「畠山政長」には総領の明け渡しを迫りました。

事態に仰天した「細川勝元」は画策をしていた「畠山義就」の追討を出させようとしますが、これを察知した将軍「義政」の正妻「日野富子」に阻まれ、失敗してしまいます。

「日野富子」はさらに事を「山名宗全」へ伝えると、逆に「畠山政長」の追討を出させることに成功しました。

でました、暗躍大好き「日野富子」。
伊達に悪妻の異名をとっていませんね。

逆に将軍家からの討伐令を出されてしまった「畠山政長」は再び「細川勝元」を頼ります。
しかし、追討指示によって、もはや賊軍となっていた「畠山政長」に加担することを避けるため、この要請を徹底的に無視します。

これで完全に追い詰められた「畠山政長」は兵を率いて上御霊社に陣を敷き、「畠山義就・山名宗全」らの軍と激突となりました。
(※ちなみに、上御霊社には「応仁の乱勃発地」の碑があります)

みぞれまじりの寒い日。
軍を率いた「畠山義就」が上御霊社へと押し寄せます。
大軍に包囲され、敗れた「畠山政長」は社に火を放ち、命からがら逃走するのでした。
これが「応仁の乱」の発端となった戦いです。


■東西・軍勢集結、応仁の乱へ

「御霊合戦」にて勝利した「山名宗全」派閥。
その「山名宗全」らに対抗するため、ライバル「細川勝元」は自国領にて兵を集めます。
そのほか、勝元派の「赤松政則」は山名領へ、「武田信賢・細川成之」らが若狭の一色領へ侵攻するなど、軍事行動を活発化させました。

ここで追放されていた「斯波義敏」も同調し、挙兵。侵攻を開始します。
「細川勝元」は宇治や淀の橋を焼き落とし、京都の東西南北の四門を自軍で固めると、逃走していた「畠山政長」など諸将を京都へ結集し、戦火から保護するという名目で素早く将軍「義政」を確保しました。
このあたりはさすが政争の申し子というべき行動ですね。

「細川勝元」は京都今出川の自邸に本陣を置き、諸将を集結させました。
これがいわゆる東軍です。

対して「山名宗全」は現在の京都市上京区の堀川の西にあった自邸に本陣を置きました。
これがいわゆる西軍です。

これにより、双方の陣地跡をそれぞれ東陣、西陣と呼ぶようになります。そう、西陣の地名だけが今でも残っていますね。
両軍が布陣しました。ついに合戦ですよっ!


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 嘉祥寺  伏見区深草坊町71番地

   ※今回写真は応仁の乱で被害にあった寺院の一つ「嘉祥寺」です。
    他にもいっぱいありますがとりあえずここ。
    別名、深草聖天(ふかくさしょうてん)です。


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緊急企画 本能寺 (京都)

2006年05月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦……。
あれ、タイトルがなんかおかしいですね?


そうなんですよ。
えー、当ブログは今週「応仁の乱」強化週間(なんじゃそりゃ)だったんですが、ここでひと休憩です。
そう、緊急企画ですよ!!

ひでるさんも登録しておりますブログランキング(↓下にあります。クリックしてね)の上位におられ、コメントもして下さる「京都検定暗記帖」さまの記事で本能寺の話があったんですが、何年かぶりに衝撃を受けました。(本当)

その注目内容については、ぜひ「京都検定暗記帖」さまの五月十五日の記事を見てもらうとしまして、ひでるさんが衝撃を受けて急いで確認しました写真の数々↓をご覧下さい。

■本能寺・つぎはぎ写真 「そこのお母さん!みてみてみてみてみて…」  (※マーフィー岡田風)




「本能寺」と言えば、天下へと突き進む「織田信長」が襲われた場所として、数ある寺院の中でも一、二を争う有名寺です。
以前このブログでも、昔はここにあったんだよーという記事を掲載しておりました。
(※参照:本能寺跡地

……それがこんなことなっていたとは。
はー。

実は京都にいた時には五回以上本能寺を訪ねており、うち一回は友人らを連れて三人で観光していたんですが…。
誰も気付かねーでやんの(笑)

その中でもひでるさんは看板を指差して「本能寺でーす」とかガイドしてましたからね?!
鈍感です。
愚鈍です。
グドン…は帰ってきたウルトラマン。
うふふ…。

以上っス!
明日は元に戻って「応仁の乱」をやりますねー。



[住所] 本能寺 京都市中京区寺町御池下ル下本能寺前町

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※正確な情報を求めるなら、やっぱり第三者の目がいいでしょう。
 …と、言う訳で、「フロイスくんの不思議の国ニッポン」 (←元ネタはえのあきらセンセです。知ってる?)

完訳フロイス日本史〈3〉安土城と本能寺の変―織田信長篇(3)

中央公論新社

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