お寺さんぽ Ver.03

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予言的中「安国寺恵瓊」 (中国大返し・山崎合戦)1

2008年10月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りいたします。
時代の覇者「織田信長」の死後に、いったい何があったのでしょう?


「高ころひにあをのけにころはれ候すると見え申候」

天正元年(1573)
こちらは「本能寺の変」から九年前のこと。
毛利家の外交僧「安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)」はそんな言葉を残しています。

”信長の代は数年もち、やがて公家にまで昇進するかもしれないが、やがて滅ぼされるだろう”

だいたいそんな事を予言していたのです。
なお、恵瓊はさらに続けてこうも言っておりました。

「藤吉郎さりとてハの者ニて候」


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
主君「織田信長」は毛利氏と対峙する「羽柴秀吉」救援のため、「本能寺」に宿泊。
この時、護衛は百名にも満たなかったと言います。
援軍を命ぜられていた「明智光秀」は突如中国への軍を返し、本能寺を襲ったのです。
ここで、信長は自害。
享年四十九。

なお、京都「妙覚寺」にあった嫡男「織田信忠」は報を聞いて駆けつけるも間に合わず、続いて襲いかかった明智勢と二条御所に入って戦い、そこで自刃。
こちらは享年二十六。

…その悲報から、十一日後の六月十三日。
当時は信長の一武将に過ぎなかった、後の太閤「羽柴秀吉」は驚異的なスピードで中国路を駆け戻り、巧みな智略によって後継者の座を手に入れるのでした。

その、京都府は乙訓群大山崎町で明智勢に挑んだ合戦こそ、「山崎合戦」なのです。
書かれた日付から分かると思いますが、こちらは日単位にてめまぐるしく事が運ぶという特徴があるのです。
それでは、順に両軍の動向を見てみましょう。


■六月三日 「秀吉、悲報に接する」
過去のブログでも書いておりますが、報が届いたのは夕刻でした。
暗さがため、毛利氏の陣所を目指していた伝令が誤って秀吉の陣中へ入ってしまったのです。
まさに、歴史を揺るがした世紀の大失敗です。
なお、「御運の開ける時がまいりました」とかなんとか、「黒田勘兵衛孝高」が余計な一言を言ったのもこの時。
ひでるさんも余計なひと言が多いですが、気をつけたいものです(笑)

ここで報を受けた秀吉は、信長の訃報を極秘扱いとしました。
その一方で、現在「高松城」を挟んで対峙する毛利氏との早期講和を決意したのです。
さっそく外交僧「安国寺恵瓊」を呼び出し、紆余曲折の末に和睦を結ぶのでした。

その毛利氏。
将軍「足利義昭」が追われ、支援していた本願寺が退去したことで、織田勢の矢面に立っていた毛利氏。
鳥取城が陥落するなど日々不利になる戦局、また難攻不落として知られる高松城が水没させられるという奇想天外な戦術を目の当たりにし、こちらも講和を模索していたのです。
耐え続けていた城将「清水宗治」の切腹だけは避けたかった毛利氏との交渉は難航。
しかし、当人が承諾したため、ここに和議が成立したのでした。


そうとは知らない「明智光秀」は京都「阿弥陀寺」にて、本能寺・二条城にて戦死した霊を弔うべく弔慰法要を行っています。
各寺院に多額の寄進をするなど、余裕のあるところを見せておりました。


さて、何度かこのブログで書いている通り、「本能寺の変」が起こった際には、織田家の重臣らは各地にて戦闘中でした。
筆頭家老「柴田勝家」は北陸らて上杉勢と対戦中。
家老「丹羽長秀」は堺にて「織田信孝」と共に四国攻めの準備中。
関東管領「滝川一益」は上野「厩橋城」にて足場固めの最中。(※当初北条家は協力体制にあった)
信長の盟友「徳川家康」は堺見物中。

そして前述しているように、中国方面司令官「羽柴秀吉」は毛利氏と対戦中でした。
この時点で、光秀の戦略は完璧だったのです。
あとは細川・筒井らの諸将と共に畿内を制圧し、各地の大名らと連携して織田家司令官らを各個撃破して葬る…。
それが短期間で崩されるとは、この時点では夢にも思わなかったことでしょう。

⇒ つづく。
  次回は「家中を抑える小早川隆景」(2/6)


[関連記事] 【織田政権セット】
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⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」



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 もしかしたら、日本で最も有名なお寺かもしれません。

岩面大佛 (岩手・達谷窟毘沙門堂)

2008年10月26日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は岩手県の大仏さん、「達谷窟毘沙門堂」の「岩面大佛」です。

さてはて、平安時代に征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ)」さまによって創建されたという「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや・びしゃもんどう)」
こちらには、見てびっくり、聞いてびっくりな大仏があったのです。
…いや、これが本当。

「達谷窟毘沙門堂」が創建されたのは、延暦二十年(801)のこと。
その後、「後三年の役」が終わったのは寛治元年(1087)なんですが、戦勝祈願に訪れていた八幡太郎こと「源義家」が敵味方の霊を供養するために彫ったとされているのが「岩面大佛」です。

そうなんです、こちらは全国武士の憧れ「源義家」さま作なのですよ!
…信じるならば(笑)
しかも、さすがは武士の棟梁と言われた方。
彫り方だってそこらの仏師とは一味どころか二味以上違うのです。

「義家さま」はなんと、馬上より弓矢をもって約十六メートルほど上の岩面に顔を彫ったというのでした!

こりゃースゴイ!!

なんでわざわざ馬上なのか(笑)
しかも弓矢ですよ。
誰もが同じことを思うでしょうけれど…………うっそだぁ。



※これが弓矢で彫ったという仏像さま。

さて、冗談そんなんはさておき、こちらの「岩面大佛」
前述したように、高さ約十六メートル。
顔の長さは約四メートル。
現在は顔だけではありますが、全国でも五指に入るという磨崖仏は「北限の磨崖仏」として有名です。
(※胸から下は、残念ながら地震などで崩落しているとか)

江戸時代の記録(元禄九年(1696))では、「岩大日」「岩大佛」などと記されております。
そんな事柄から、彫られているのは「大日如来」という考えもありますが、昔からは「阿弥陀如来」と呼ばれており、実際に付近の石碑にはその凡児が刻まれているなど、「阿弥陀如来」が正解であるようでした。


[住所]
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16 達谷窟毘沙門堂

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⇒ 石仏っていいね (石仏・入門編)
⇒ 石仏の種類について (石仏・基本編)
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⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 清涼寺(京都)
⇒ 地蔵菩薩半跏像 (京都・石像寺)
⇒ 双体道祖神 (京都:道祖神社)



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※とりあえず、こういった本が入門としてオススメです。
 石仏の世界にひたりましょう。

達谷窟毘沙門堂 (岩手県)

2008年10月23日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は岩手県は平泉にある注目スポット「達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわや・びしゃもんどう)」です。

平泉と言えば「中尊寺」とか「毛越寺」が有名なんですが…この「達谷窟毘沙門堂」はなかなか捨て難い、注目の観光スポットです。
岩面にとっついたような建物が迫力満点なのですよ!

延暦二十年(801)
時は平安時代。
蝦夷征伐にて軍を率いて活躍した、征夷大将軍「坂上田村麻呂(さかのうえ・たむらまろ)」さま。
戦時にて、こちらを拠点としていた「田村麻呂」がその記念として創建したのが、正式名称「達谷窟毘沙門堂」、別名「達谷西光寺(たっこく・せいこうじ)」なのです。

縁起によりますと…
この洞穴に住み、民衆に悪逆非道の限りをつくしていたという蝦夷の「悪路王(あくろおう)」、「赤頭(あかがしら)」、「丸(たかまる)」…。

延暦二十年(801)
五十代「桓武天皇」の命によって出陣したのは、征夷大将軍「坂上田村麻呂」でした。
「悪路王」らは三千という兵を率いて駿河国まで進軍しましたが、大将軍出陣の報に接した彼らは恐れ、こちらの洞穴にまで引き返して守りを固めます。
そんな両者の間に起こった激戦の末に「田村麻呂」は打ち破り・勝利し、ついに蝦夷を平定したのでした。
この勝利を”毘沙門天のご加護である”と感じた彼が、創建したのです。

…一方的な言い分よね。
悪逆非道は置いといて、単に朝廷に服さなかった地方政権を撃滅したのではないかなぁ。

まぁ、だいたいそんなのよ。

それから時代は進んで、前九年・後三年の役。
こちらでは、河内源氏「源頼義」、その子八幡太郎「源義家」が戦勝祈願に訪れ、さらにその後には奥州藤原氏の初代「藤原清衡」、二代「藤原基衡」らが代々七堂伽藍を建立するなど、当時は広大な寺領もあったようなのです。

奥州合戦の帰路では「源頼朝」も参拝。
室町時代の大火にて一度焼失しておりますが、後に葛西氏によって再建。
しかし、戦国時代に入ると、兵火によって毘沙門堂以外をことごとく焼失し、「伊達正宗」の手による再建を待つこととなるのでした。


※もうちょっと接近すると、こんな感じ。

さて、こちらの「達谷窟毘沙門堂」は、お名前そのまま百〇八体もの「毘沙門天」を祀ったお堂です。
「毘沙門天」好きにはたまらん世界が広がっておるのです。
マニアとしてよく知られる「上杉謙信」も大満足でしょう(笑)

メインの「毘沙門堂」は、京都「清水寺」の舞台を真似たという九間四面の寺院。
現在のものは、昭和になってから再建されたものです。

「慈覚大師」作と言われる「吉祥天」「ぜんにし童士」を秘仏としており、こちらの次の開帳は平成二十二年だそうです。
行く際には、そちらの時期を狙うのもいいでしょう。

ほか、「生けるが如し」と称されるほどの弁財天、一木彫りの「不動明王」、次回あたりに紹介予定であります「岩面大佛」などがおわします。

なお、境内は御神域。
古くから殺生禁断地とされており、動植物の採取から飲食などは厳禁。
さらに、ペットを伴っての参拝…なんて方はあんまりいないと思いますが、多くの寺院同様こちらも禁止事項です。


[住所]
 岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16 達谷窟毘沙門堂

[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
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⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
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⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編


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岩手県の歴史散歩 (歴史散歩)

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※同じ”さんぽ”繋がりということで、こちら。
 いいトコでしたよぅー。


出来た弟、「中富川合戦」に挑む (香宗我部親泰 後編)

2008年10月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、ほぼ四国を統一して”土佐の出来人”と称された「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の弟「香宗我部親泰(こうそかべ・ちかやす)」です。

「香宗我部親秀」の養子となり、香宗我部氏を名乗ることとなった親泰。
父国親の没後、後を継いだ兄「長宗我部元親」に従って、武勇の兄「吉良親貞」と共に各地を転戦するのです。
主に戦場での活躍著しい親貞とは異なり、彼の真価は外交交渉時にて発揮されるのでした…。

永禄十二年(1569)
香宗我部氏、長宗我部氏の仇敵、土佐安芸群の名将「安芸国虎(あき・くにとら)」
一時期は「岡豊城」を襲撃され、窮地に追い込まれたこともある安芸氏を一ヶ月という籠城戦の末、ついに攻め滅ぼしました。
その後、代わって土佐国安芸城主となったのが、親泰なのです。

天正三年(1575)
安芸氏と共に抵抗を続けていた土佐一条氏を追った元親は土佐を平定。
その後、「三好長治(みよし・ながはる)」による数々の暴挙によって大混乱となっていた、阿波国(徳島県)へ侵攻しました。

うち、阿波東部を担当した親泰は、まず弟「島親益(※四男)」の仇「海部宗寿(かいふ・むねとし)」の「海部城」を、続いて「新開道善(しんかい・どうぜん)」の「牛岐城(富岡城)」を次々と攻略しております。

これから七年余りの年月をかけ、徐々に周辺の城を攻略し、国人領主らを屈伏させていくのでした。

天正十年(1582) 「中富川合戦」
元々三管領の筆頭・細川氏の居城であった「勝瑞城(しょうずいじょう)」は、”天下の勝瑞”として知られていました。
こちらを守備していたのは、「三好義賢」の三男「十河存保(そごう・ながやす)」です。

二万三千といわれる軍勢を率い、侵攻する元親。
南からは、東条氏、牟岐氏、仁宇氏、四宮氏ら、阿波衆を率いる親泰の軍勢を向かわせ、中島表からは降伏した一宮氏、桑野氏らを加えた軍勢というように、全軍を二つに分けてそちらへ攻め込んだのです。

親泰の率いる先手勢は黒田川原へと布陣。
「勝瑞城」より出陣した十河勢は、勝興寺へ本陣を構えたのです。
中富川を最終防衛ラインと考えた存保は、選りすぐりの軍勢二千を向かわせました。
勝負に気負う十河勢は、中富川を渡河して突撃…

その刹那!
穏やかな流れであった中富川が突如激流となったのです!!

十河勢の武将「矢野隼人」は、水深の浅さに気付いて大声を張り上げましたが間に合わず、激流にのまれて溺れる者、待ち構えていた長宗我部勢に討ち取られる者、などが続出し、たちまち総崩れとなってしまうのです
先鋒の壊滅によって軍を支えることができなくなった存保は撤退。
こうして、十河勢の撃破に副将とし挑んだ親泰は大活躍したのでした。
続く天正十一年(1583)には、阿波国「木津城」を攻略しております。

こうして、兄の四国統一に大きく貢献した親泰。
前回書いた通り、信長死後の情勢を読み切れず、秀吉の四国征伐を招いてしまうのでした。
秀吉に従った後も兄を助け、副将・参謀と活躍した親泰ですが…
天正二十年(1592)
「文禄の役」に赴く途中、嫡男「香宗我部親氏」が急死。
(※跡は次男「香宗我部親貞親」が継いでおります。関ヶ原後には佐倉・堀田家へ仕えています)
さらに続いて、親泰自身も朝鮮半島へ赴く途中であった文禄二年(1593)長門国で病没。
享年五十一。

兄元親に先立つ死は、後継問題に揺れる長宗我部氏に暗い影をおとすこととなるのでした。



[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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※関ヶ原・大阪陣へと出撃した盛親くん。
 関ヶ原敗戦後は、寺小屋の先生になっていたりします。



出来人の出来た弟 (香宗我部親泰 前編)

2008年10月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、ほぼ四国を統一して”土佐の出来人”と称された「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の弟「香宗我部親泰(こうそかべ・ちかやす)」です。
一見すると、元親のバッタもんのような風情の親泰さま(←失礼)
ゲーム「信長の野望」でも高い能力を有しておりますが、果たして実際はどんな方だったんでしょう?


天文十二年(1543)
その父「長宗我部国親」は、土佐中村は一条氏の助力を得て滅亡しかかっていた長宗我部氏を再興した、なかなかの名将でした。
親泰はその三男として生まれました。
幼名は弥七郎。
嫡男の元親とは四歳違いの弟です。

弘治四年(1558)
親泰十五歳頃に、香美群香宗城主の国人「香宗我部親秀」の養子となりました。
(※ちなみに、元親の遅い初陣はこれから二年後のこと)

親秀の嫡男「香宗我部秀義」は大永六年(1526)に香美群南部へ侵攻してきた「安芸国虎」との戦いで討死しておりました。
実は、その後親秀の弟「香宗我部秀通」が養子となっていたんですね。
しかし、単独での抵抗を不利と判断した親秀は長宗我部氏との同盟を模索するんですが…弱気の兄に秀通は反発。
それがためか、親泰が養子となる二年前に秀通は何者かによって暗殺されてしまうのでした

…いかにも戦国ちっくですね。
よく人物解説に”●年に■■氏の養子となる”とかなんとか、比較的あっさりと書かれているのがほとんどなんですが、その裏では陰謀渦巻くドロドロ~っとしたものが必ずあるのです

まぁ、他から養子を迎えるというのは、そのまま他家に吸収されることを意味してますからね。
ため、誰かしらが反発するのは当然のこと。

例えば「毛利元就」は次男元春を養子とする際に、吉川氏の前当主・一族を皆殺しにしておりますし、小早川氏に対しては得意の謀略で家中を分裂させたりしています。
また、「織田信長」は次男・信雄を養子とさせることで決着がついていたはずの「北畠具教」を、後にきっちり殺害しているのです。
(※戦に負けた具教は降伏し、隠居していた)
長宗我部氏の場合は、誰が暗殺を実行したか不明ですが、やはり何かしらがあったようなのでした。

さて、父国親の没後、親泰は後を継いだ兄「長宗我部元親」に従って、武勇の兄「吉良親貞(きら・ちかさだ)」と共に各地を転戦。
親貞の死後は、副将として戦場にも出ております。
また、合戦場での活躍もさることながら、彼の真価は主に交渉時で発揮されていました。

天正七年の阿波「牛岐城(富岡城)」はその巧みな交渉力によって開城させたほか、混乱する阿波の国人らを次々に調略し、傘下としております。
さらに、土佐国(高知県)を統一した天正三年(1575)頃には、織田氏との同盟を締結させているのです。
元親の嫡男「長宗我部信親」の烏帽子親を「織田信長」に依頼したほか、続く天正八年(1580)には近江にて「織田信長」に拝謁するのでした。

なお、この上洛時には紀州の雑賀衆、淡路島の菅氏などにも調略を仕掛け、きっちり成果を上げております。
信長死後も四国統一のため、「柴田勝家」「徳川家康」「織田信雄」らと連絡・交渉にその手腕を発揮しております。

…が、急速に台頭する「羽柴秀吉」については結局読み切れず、「徳川家康」らと協調して対決姿勢を見せていたことから四国征伐を招いてしまうのです。
ここで「安国寺恵瓊」のように実力を見誤らなかったなら、より凄かったんですけどねー。

⇒ 後編につづく。


[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
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⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将「伊集院忠棟」 [   




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※これね。
 「香宗我部親泰」さまは軍師になれます。


秘仏・拳印開運大黒天 (滋賀・石山寺)

2008年10月12日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「源氏物語千年紀in湖都大津」を開催中の石山寺です。

笑顔で近づいてくる奴には注意しろ!!

かつて、友好的な様を装って、「北斗星司」や子供たちの前に現れた「サイモン星人」
実は、最強超獣「ジャンボキング」をこっそり操っていた「ヤプール人」だったのです!
…という例(←どんな例えだ)にもあるように、やたら親しげな奴っていうのは、まず疑ってかかるべきなのです
ここ、重要なポイントですよ!将来役立ちますよ!

とまぁ、そんな訳で、”笑みの下に極悪非道な素顔”のある「大黒天」さま。
こちらは、ちょっとブラックな本性が出てしまったらしい、珍しい「大黒天」さまなのですよ。

万寿元年(1024)
平安時代頃のことで、ひでるさん的にはお馴染み「中宮・彰子」の子「後一条天皇」の時代です。
三名の僧が見たという”夢のお告げ”そのまま、湖水から出現したのが、こちら「拳印開運大黒天」なのです!

そう、湖から”出現した”のです。
「弘法大師」が彫ったという噂もあるようなんですが、そちらのが楽しいので採用してみました。

そんな「拳印開運大黒天」は丈六の立像。
ぶっちゃけ、実物見てないから大きさの方はわかんない。
そう書かれていました(笑)
丈六の大黒天というだけで心躍りますね。
そんなんが湖から出てきたなら、その驚きは計り知れません。



通常は右手に打出の小槌、神仏習合前あたりの憤怒相な方の場合は宝剣・宝棒を持つんですが、この方はなんと握り拳なのです
こちらがいわゆる拳印ですね。
なんか、腹に据えかねることでもあったんでしょうか?

それがまずかったのか、珍しいからそうされたのか、こちらの仏像は秘仏。
甲子(きのえね)が大黒天の祭日とされることにちなんで、子年の十月一日から七日までに御開扉されているのでした。
子年はちょうど今年のこと。
そんな訳で十二年きざみという秘仏開扉の法要があったんですが…ひでるさんらが訪れたのが、ちょうどその一日前(笑)


我がことながら、さすがにやってくれます。
しかも、この日が旅行の最終日だったりして(←要するに、どう転んでも見れない)

たはー。
あまりの馬鹿さ加減にヘドが出ますね
ちなみに、前回は室町時代というお前立ちの大黒天が見れたんですが、その日は主役の登場前とあってか、退場後なのでした。

ひでるさん、不幸!




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⇒ 開催中!源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
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⇒ 大天狗像
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※冒頭のよー分からんかもしれない文面はこちらですね。
 明日のエースは君だ!




お米から生まれた清涼飲料「ビアンラルク」 (岩手県遠野市)

2008年10月09日 | ネタ
いっぱい・いっぱいです。
そんな訳で、本日は余裕がないため、ごく簡単に食べ物シリーズとさせて頂きます。

あちこち旅行へ出かけるひでるさんには、ご当地なソフトクリームを食べる目標があるんですね。
(※↓リンク参照)
こないだからぼちぼちと記事にしているように、岩手県は遠野へ行ってきました。
民話の地ということで、河童ソフトとかキュウリソフトとかがあるのかなぁ…とか思っていたんですが…見つけられなかったですね
あちこちにあっても良いものだと思うんですが。

…で、そのままというのはとても残念なので、色々他を探していた際に見つけたのがコチラ。

「遠野紀行 お米から生まれた清涼飲料 ビアンラルク

これだ、と(笑)
初めて目に飛び込んできたのは、「伝承園(※上写真)」という農村を再現した施設だったんですが、あとからよくよく見渡すと遠野のあちこちには置いてありましたねー。
ちなみに「伝承園」の方は親切で、ついでの用事もあったそうですが、そちらから「たかむろ水光園」まで車で送っていただきました。
あの際は大変お世話になりました、ありがとうございました。



そんなこんなで、「ビアンラルク」
うん、ちょっと不思議な味です。
ヨーグルトのような味なんですが、あれほどしつこくなく、サラサラ・さっぱりしておりました。
特にお米っぽさは感じません。
酒好きな友人曰く、「あまざけみたい」、とのことでした。
なるほど。


【おすすめ★メーター】 お米から生まれた清涼飲料「ビアンラルク」 
■■■■■ 5Point …乳酸飲料が好きならばオススメ。


いかがでしょう?
ふらふらと歩き回って喉が乾いていたので、美味く感じるだろう状態になっていたんですが、なかなか美味い飲み物でした。
乳酸飲料で健康にも良さそうですし、ぜひ遠野へ行った方はお試し下さいませ。

なお、ひでるさんが動くと、たいてい水の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」が雨を降らすというシリーズがあったんですが、この際は無事でした。
(※いままで”雨の女神”と書いていましたが、正確には水なので訂正してます)
降らなければそれで、なんだかモノ寂しいですね(笑)



■遠野商工会 (※ビアンラルクの情報もあります)
 HP: http://www.shokokai.com/tohno/0198kigyou/html/62-0541.html
 
■伝承園 (※付近には「カッパ淵」もあります)
 岩手県遠野市土淵町土淵6-5-1
(TEL 0198-62-8655)

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日本一おいしい米の秘密 (講談社プラスアルファ新書)
大坪 研一,食味研究会
講談社

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※そんな訳でこちらを。
 色々話題になること多いですが、こんな本を読んでみてはいかがでしょうか?





開催中!源氏夢回廊にびっくり (滋賀・石山寺)

2008年10月05日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
えー早速ですが、先日は滋賀へ行ってまいりました。
そちらでは「源氏物語」の生誕千年記念ということで各地にてイベントをやっておったんですね。
まぁ、ぶっちゃけ、さしてそちらに興味ないどころか、話すらよくわかっていないひでるさん。
平安貴族の成年漫画みたいなもんなんでしょ?
…失礼しました。

そんな訳で、「源氏物語千年紀in湖都大津」を開催中の石山寺へ行ってきました。
ひでるさん二度目の訪問です。
こちらは「源氏物語」執筆の地ということで、イベントの中心的役割をになっておりました。
確か前回行った際も着物だかなんだか展示会みたいなのをやっておりましたが、敷地の広い観光地であるためか、イベントちっくなお寺なんですね。



仁王門から入った光景は、なかなか圧巻。
素敵ですね。
当日は雨にも関わらず、多くの方が来られていました。

敷地内の「世尊院」、「明王院」、「密蔵院」、「吉祥院」、「公風園」にて、イベントスペース”源氏夢回廊”があります。
ひでるさんが行った時は、


千年の恋 ひかる源氏物語

TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)

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■映画「千年の恋 ひかる源氏物語」 衣裳展
 きらびやかでした。「紫式部」を演じた「吉永小百合」さんの十二単を間近で見ましたよー。
 他はほぼスルー(笑)
 

新源氏物語 (上) (新潮文庫)
田辺 聖子
新潮社

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■田辺聖子「源氏物語」 文学館
 文学は置いといて、挿絵の白目の怖さが印象的でした。
 あれはいいのかなぁ…。
 小さい頃のひでるさんなら、絶対に直視できなかったと思います。


超合金魂GX-01R マジンガーZ

バンダイ

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■オリジナルロボット「MURASAKI」誕生

そう、最後の↑ソレですね。
会場入り口にて、
ロボットのデモンストレーションが十一時からです
とか不意に言われたんですね。

…は?
「石山寺」でロボット??
「源氏物語」でロボットとは???



どうやら、有名な方がこのイベントのために制作したロボットがあるらしいのです。
そのデモンストレーションがだいたい三十分後の十一時から行われるらしく、まるで夜の横浜のように散々に声をかけられるのでした。
なにしろ、途中の衣裳展を見ようとしたら、「もうすぐ始まるから」という理由で追い出される始末。

ごめんなさい、「源氏物語」と同様に、「ロボット」にもまるで興味ないひでるさんなのです。
「マジンガーZ」の等身大ロボが動くなら別なんですけどね。
そんな訳でどうにも逃げられず、見てきました。

ちとちと踊りながら歌うその様は、まるで「静御前」が目前に舞い降りたようでした。
…うそですが。
ちまちまっとした女性形体で可愛らしく、大したもんだなぁという感じ。
小さいお子さんは、目をキラキラさせて眺めていましたよ。

そんなんより、気になったのはマスコットキャラクター「おおつ光ルくん」
これまた、思わず脱毛、いや脱帽しそうなキャラですねー。
残念ながらその日はキャラ来ないということで、その代わりにショップへ行きましたが…あと一歩のところで踏み止まりました(笑)
ぬいぐるみどうしようか迷ってたんですけど。
野郎だしねぇ。



以上、こちらには二度目の訪問でしたが、なかなか楽しいこととなっておりました。
「源氏物語」が好きな方、あるいは「ロボット」好きな方、年末くらいまで続くようなので、紅葉素敵な時期に行ってみてはいかがでしょうか?


おまけ。
実は、最も衝撃だったもの。



……か、かふぇど げんじ って……………………。




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決着!軍神の後継者 (御館の乱)6

2008年10月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しておりますが、これがラストです。

生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男という二人の養子がおりました。
利害打算、入り組んだ人間関係がため、それぞれ養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまったのでした。


天正六年(1578)三月、軍神「上杉謙信」死去。
素早く行動を開始した養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)」は「春日山城」の本丸を占拠。
内外へ”謙信の後継者”であることを宣言し、約三万両といわれる遺産をも手中にしたのです。
一方、養子「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」は前関東管領「上杉憲政」の屋敷「御館」へ向かって対抗。
”血統”を最大限に利用し、武田、蘆名、そして実家である北条家の支援を受けた景虎勢によって、逆に景勝勢は危機に陥ってしまったのです。


切羽詰まった景勝勢。
ここで、武田家の内部事情を察する景勝勢は、誰のアイデアか”一か八か武田勢に和議を申し入れる”こととしたのです。
この和平・買収に活躍したのが、”越後の鍾馗”と呼ばれる武勇の重臣「斎藤朝信」でした。

「赤田城」の朝信は「長尾政景」に次ぐ地位とも言われてる越後国人衆の一人で、早くから景勝を支持しておりました。
「武田勝頼」の陣へと赴き、見事和睦をまとめてくるのです。
その際に提案した条件は、
「一万両と言われる黄金の提供」、さらに「領土の割譲(上野)」でした。

これがよくお話とかにあるそのまま、「直江兼続」の発想だったらスゴイんですけど…当時はまだ景勝の参謀っぽくはなかった様子なので違うかなぁ。

なにはともあれ、度重なる遠征で国力疲弊していた「武田勝頼」にとって、この提案は大変に魅力的でした。
心を動かされた武田勢は八月頃には景勝勢と和議を結び、さらにその異母妹「菊姫」を正室に迎えることを約束したのです。
(※輿入れは十二月のこと)

大金と領土を得たこの判断は、一時的に武田家を潤したかもしれません。
しかし、これで北条家を敵に回してしまった武田勢は、北条・徳川・織田と四方を敵に囲まれることとなり、結果的に滅亡の直接原因となっております。
戦術はともかくとして、どうしても戦略眼には欠ける勝頼なのです。
まぁ、彼も完全に後継者として遇されておりませんので、視野が狭いのは仕方ないことなのかもしれませんが。

ともかく、こうして景勝は武田勢の脅威を除くことに成功したのでした。
続いて冬が近づく九月末になると、「北条氏照」は「北条高広」、その嫡男「北条景広」、「河田重親」ら景虎勢を「樺沢城」などに配置し、あっさり帰国してしまうのです。

じわじわと戦況を覆しつつあった景勝はその隙を逃さず、大軍を率いて反撃に転じ、「御館」を包囲・攻撃。
その総攻撃に一ヶ月間は耐え続けたものの、遂に落城してしまうのでした。
これは、乱の勃発から一年後のこと。

落城からはどうにか逃れた景虎ですが、景虎派であった「堀江宗親」の「鮫ヶ尾城(新井市)」へ立ち寄って謀反に遭い、そこで追い詰められて自害。
享年二十八。


なお、和睦を模索し、景虎の嫡男「道満丸」と共に脱出していた前関東管領「上杉憲政」ですが、その途中「四ツ屋砦(上越市)」にて惨殺されております。

また、影響力のあった一門衆の景信が六月居多浜の合戦にて「村上国清」に討ち取られ、最大の支援者であった「北条景広」も天正七年二月の合戦にて討死するなど、核となる将が次々と脱落していったことが、敗北原因の一つであるかもしれません。

こうして、景虎以下有力者の死によって決着したように見えますが…実は、各地に残っていた景虎勢残党はその死後も抵抗を続けているのです。
交戦を続けていた「本庄秀綱」の「栃尾城」は天正八年四月に敗走。
前述しましたが、「北条城」の北条親子は、天正七年二月の合戦にて嫡男景広が討死、父高広は武田家へ逃亡しております。
(※上野から越後へ入った景広は「上条政繁」の家臣によってあっさり殺害されたという説もありました)
越後旗本衆「神余親綱(かなまり・ちかつな)」も抵抗し続けていたようです。

乱が完全に終結するのは、三年後の天正九年(1581)二月でした。
長きに渡った越後の内乱は景勝勢に勝利をもたらしましたが、同盟者武田氏は追い詰められ、能登・越中の地には「柴田勝家」を総大将とした織田勢北陸方面軍が侵攻。
さらに南からは北条勢というように、各地にて大苦戦を強いられるのでした。
はっきり言って、滅亡の危機を迎えていたのです。
それを救ったのは…………。


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