のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。
生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男という二人の養子がおりました。
利害打算、入り組んだ人間関係がため、それぞれ養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。
天正六年(1578)三月、軍神「上杉謙信」死去。
素早く行動を開始した養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)」は「春日山城」の本丸を占拠。
内外へ”謙信の後継者”であることを宣言し、約三万両といわれる遺産をも手中にしたのです。
一方、養子「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」は前関東管領「上杉憲政」の屋敷「御館」へ向かって対抗するのでした。
先手を取られてしまった景虎ですが、最大の武器である”血統”を最大限に利用。
関東に巨大な勢力を有する兄「北条氏政」へ救援を依頼したのです。
弟からのSOSを受けた氏政は、同盟者「武田勝頼(※写真)」に救援を要請。
これに応じた「武田勝頼」は景虎勢を救援するため、五月には越後国境付近まで軍を進め、景勝勢を牽制するのでした。
(※余談ですが「長篠合戦」は天正三年(1575)のことなので、武田家はすでに敗戦後のぎりぎりな状態なのです)
さらに氏政は、当時同盟を結んでいた会津「蘆名盛氏」にも救援を要請。
盛氏も兵を繰り出し、景虎を支援するのでした。
(※再び余談ですが、嫡男「蘆名盛興」の早世によって実は蘆名家もこの時期は混乱していました)
それら同盟軍に続き、関東勢を編成した兄「北条氏照」、「北条氏邦」ら北条勢も出陣準備を開始。
だいぶ遅れてはいるものの九月頃には救援のため、上杉領へと侵攻を開始するのです。
遠征軍は「樺沢城(新潟県南魚沼市)」を拠点とし、上田長尾氏の拠点・山城の「坂戸城(同じく南魚沼市)」ほか諸城を攻撃しております。
特に、北条氏に通じて背き、越相同盟の際に帰参した経緯のある「北条高広」「北条景広」親子。
彼らは当然ながら早くから景虎支持を表明し、その中心勢力となっていたのです。
北条家の支援も受けた「北条高広」率いる関東衆は、上野方面にて景虎勢を圧倒的優位な情勢に導いていたのでした。
武田、蘆名、そして実家である北条家の支援を受けた景虎勢。
それら周辺大名によって、逆に景勝勢は危機に陥ってしまうのです。
…が。
ここで唯一の疑問が実家の北条家。
今回は一年の間に目まぐるしく情勢が変化するので月単位で表示をしているんですが、武田勢が出陣したのは五月ですよね。
蘆名勢の出陣時期についてはいまいち不明なんですが、盛氏の死去を考えるとやはり五月頃だと思われます。
で、北条家と言えば、九月頃。
……九月頃??
これが遅すぎると思うのです。
ちなみに、六月に勃発した「本能寺の変」後に北条氏は上野へと侵攻しているんですが、「滝川一益」との合戦で大勝利を収めているのは七月くらいのこと。
情勢の違いなどもあるでしょうけれど、四ヶ月後の出陣というのはやたら腰が重たいのです。
なんかあるのかなぁ…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_z.gif)
⇒つづく。
次回は最終回「決着!軍神の後継者」(6/6)
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※そんな訳で北条氏。
うーん、氏政くんが……ねぇ。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。
生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男という二人の養子がおりました。
利害打算、入り組んだ人間関係がため、それぞれ養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。
天正六年(1578)三月、軍神「上杉謙信」死去。
素早く行動を開始した養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)」は「春日山城」の本丸を占拠。
内外へ”謙信の後継者”であることを宣言し、約三万両といわれる遺産をも手中にしたのです。
一方、養子「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」は前関東管領「上杉憲政」の屋敷「御館」へ向かって対抗するのでした。
先手を取られてしまった景虎ですが、最大の武器である”血統”を最大限に利用。
関東に巨大な勢力を有する兄「北条氏政」へ救援を依頼したのです。
弟からのSOSを受けた氏政は、同盟者「武田勝頼(※写真)」に救援を要請。
これに応じた「武田勝頼」は景虎勢を救援するため、五月には越後国境付近まで軍を進め、景勝勢を牽制するのでした。
(※余談ですが「長篠合戦」は天正三年(1575)のことなので、武田家はすでに敗戦後のぎりぎりな状態なのです)
さらに氏政は、当時同盟を結んでいた会津「蘆名盛氏」にも救援を要請。
盛氏も兵を繰り出し、景虎を支援するのでした。
(※再び余談ですが、嫡男「蘆名盛興」の早世によって実は蘆名家もこの時期は混乱していました)
それら同盟軍に続き、関東勢を編成した兄「北条氏照」、「北条氏邦」ら北条勢も出陣準備を開始。
だいぶ遅れてはいるものの九月頃には救援のため、上杉領へと侵攻を開始するのです。
遠征軍は「樺沢城(新潟県南魚沼市)」を拠点とし、上田長尾氏の拠点・山城の「坂戸城(同じく南魚沼市)」ほか諸城を攻撃しております。
特に、北条氏に通じて背き、越相同盟の際に帰参した経緯のある「北条高広」「北条景広」親子。
彼らは当然ながら早くから景虎支持を表明し、その中心勢力となっていたのです。
北条家の支援も受けた「北条高広」率いる関東衆は、上野方面にて景虎勢を圧倒的優位な情勢に導いていたのでした。
武田、蘆名、そして実家である北条家の支援を受けた景虎勢。
それら周辺大名によって、逆に景勝勢は危機に陥ってしまうのです。
…が。
ここで唯一の疑問が実家の北条家。
今回は一年の間に目まぐるしく情勢が変化するので月単位で表示をしているんですが、武田勢が出陣したのは五月ですよね。
蘆名勢の出陣時期についてはいまいち不明なんですが、盛氏の死去を考えるとやはり五月頃だと思われます。
で、北条家と言えば、九月頃。
……九月頃??
これが遅すぎると思うのです。
ちなみに、六月に勃発した「本能寺の変」後に北条氏は上野へと侵攻しているんですが、「滝川一益」との合戦で大勝利を収めているのは七月くらいのこと。
情勢の違いなどもあるでしょうけれど、四ヶ月後の出陣というのはやたら腰が重たいのです。
なんかあるのかなぁ…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_z.gif)
⇒つづく。
次回は最終回「決着!軍神の後継者」(6/6)
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※そんな訳で北条氏。
うーん、氏政くんが……ねぇ。