お寺さんぽ Ver.03

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連携!景虎を支援する周辺大名たち (御館の乱)5

2008年09月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。

生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男という二人の養子がおりました。
利害打算、入り組んだ人間関係がため、それぞれ養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。

天正六年(1578)三月、軍神「上杉謙信」死去。
素早く行動を開始した養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)」は「春日山城」の本丸を占拠。
内外へ”謙信の後継者”であることを宣言し、約三万両といわれる遺産をも手中にしたのです。
一方、養子「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」は前関東管領「上杉憲政」の屋敷「御館」へ向かって対抗するのでした。


先手を取られてしまった景虎ですが、最大の武器である”血統”を最大限に利用。
関東に巨大な勢力を有する兄「北条氏政」へ救援を依頼したのです。

弟からのSOSを受けた氏政は、同盟者「武田勝頼(※写真)」に救援を要請。
これに応じた「武田勝頼」は景虎勢を救援するため、五月には越後国境付近まで軍を進め、景勝勢を牽制するのでした
(※余談ですが「長篠合戦」は天正三年(1575)のことなので、武田家はすでに敗戦後のぎりぎりな状態なのです)

さらに氏政は、当時同盟を結んでいた会津「蘆名盛氏」にも救援を要請。
盛氏も兵を繰り出し、景虎を支援するのでした
(※再び余談ですが、嫡男「蘆名盛興」の早世によって実は蘆名家もこの時期は混乱していました)

それら同盟軍に続き、関東勢を編成した兄「北条氏照」、「北条氏邦」ら北条勢も出陣準備を開始。
だいぶ遅れてはいるものの九月頃には救援のため、上杉領へと侵攻を開始するのです。
遠征軍は「樺沢城(新潟県南魚沼市)」を拠点とし、上田長尾氏の拠点・山城の「坂戸城(同じく南魚沼市)」ほか諸城を攻撃しております。

特に、北条氏に通じて背き、越相同盟の際に帰参した経緯のある「北条高広」「北条景広」親子。
彼らは当然ながら早くから景虎支持を表明し、その中心勢力となっていたのです。
北条家の支援も受けた「北条高広」率いる関東衆は、上野方面にて景虎勢を圧倒的優位な情勢に導いていたのでした。

武田、蘆名、そして実家である北条家の支援を受けた景虎勢。
それら周辺大名によって、逆に景勝勢は危機に陥ってしまうのです。


…が。
ここで唯一の疑問が実家の北条家。
今回は一年の間に目まぐるしく情勢が変化するので月単位で表示をしているんですが、武田勢が出陣したのは五月ですよね。
蘆名勢の出陣時期についてはいまいち不明なんですが、盛氏の死去を考えるとやはり五月頃だと思われます。

で、北条家と言えば、九月頃
……九月頃??
これが遅すぎると思うのです。
ちなみに、六月に勃発した「本能寺の変」後に北条氏は上野へと侵攻しているんですが、「滝川一益」との合戦で大勝利を収めているのは七月くらいのこと。
情勢の違いなどもあるでしょうけれど、四ヶ月後の出陣というのはやたら腰が重たいのです
なんかあるのかなぁ…。

⇒つづく。
 次回は最終回「決着!軍神の後継者」(6/6)



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※そんな訳で北条氏。
 うーん、氏政くんが……ねぇ。

血統・コネを活用する上杉景虎 (御館の乱)4

2008年09月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。

生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)」、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」という二人の養子がおりました。
(※今回写真は「上杉景虎」の兄「北条氏政」)
謙信の死後は利害打算、入り組んだ人間関係がため、それぞれ養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。

天正六年(1578)三月、軍神「上杉謙信」死去。
素早く行動を開始した景勝は「春日山城」の本丸を占拠。
内外へ”謙信の後継者”であることを宣言し、約三万両といわれる遺産をも手中にしたのです。


一方、出遅れてしまった感のある、もう一人の養子「上杉景虎」
関東に覇を唱える北条家の息子さんだけあってか、なんだか呑気な感じなのです。
ともかく、負けずに兵を集めた景虎は、春日山城下の大場の地で景勝勢と激突。
その後、妻子を伴って「春日山城」を脱出し、前関東管領「上杉憲政」の屋敷へ向かうのでした。
こちらこそが、管領府「御館(上越市)」なのです。

ひでるさんはここがどうにも解せないんですが、御館って「春日山城」から目と鼻の先程度の位置なんですね。
しかも「館」という名称そのまま防御地点としてはほとんど機能しない程度なので、もっとちゃんとした城に入った方が良かったと思うのだけれど…”囲まれた”ということも書いてあったので、その隙がなかったのかなぁ。
あるいは、旧権威に頼った?はたまた「上杉憲政」を守護するため?
まぁ、いいか。
ともかく、こちらに立て籠もった景虎勢は景勝に対抗したのです。

こうして、越後から上野、さらには富山まで広がった上杉家は、それぞれを支持する二派に分裂。
ここに”謙信の後継者”を巡る、大規模な内乱へと発展してしまうのでした。


基本的に北条氏と縁深い関東軍役衆、そして長尾氏と因縁のある上杉一門は「上杉景虎」を、越後に散らばる国人衆らの大半は「上杉景勝」を、それぞれ支持しております。

まず、「上杉景虎」には関東方面の最高位であった「北条高広(きたじょう・たかひろ)」「北条景広(きたじょう・かげひろ)」親子を中心に、越後旗本衆「神余親綱(かなまり・ちかつな)」、景虎の側近「本庄秀綱」(※揚北衆の本庄氏とは別家)などが支持しておりました。
なお、景勝の実家上田長尾氏とは根深い確執があったとされる一門の筆頭格、古志長尾氏「上杉景信」も景虎を支持しております。
こんなんは興味深いですね。

さて、越後の有力な国人は「揚北衆(あがきたしゅう)」と呼ばれておりました。
彼らは坂東八平氏(桓武平氏)の流れを組む鎌倉御家人の末裔で、どちらも名門家が多かったため、下剋上で突然越後に君臨することとなった長尾家にはなかなか従わなかったのです。
…その最大派閥「中条家」を継いでいた婿養子、「鳥坂城(?)」の「中条景泰」は景勝を支持。
(※実父「吉江景資」の次男で、「吉江資堅」とは兄弟です)
川中島ほか主要な戦には必ず参加していた猛将「本庄城」の「本庄繁長」、「安田城」の「安田長秀」、後に旗頭となる「色部長真」も皆景勝を支持。
なお、色部家の家中では景虎を支持した者も多かったらしく、生き残りを賭けた家中の混乱が伺えます。

さらに、「五十公野城」の「新発田長敦」「新発田重家」兄弟は当初は景虎を支持していましたが、後に揚北衆を取りまとめて景勝側へ寝返り、大きく勝利に貢献しております。
しかし、その恩賞を不服として、後に重家は「織田信長」に通じて挙兵することとなるのですが…。

ほか、武田勢を二度も倒している「村上義清」の嫡男「笹岡城」の「村上(山浦)国清」、謙信の養子(※本来は能登・畠山氏からの人質)にして景勝の側近「上条城」の「上条政繁」らは共に景勝を支持。
(※「上条政繁」は信濃方面の司令官に任命されるなど重用されますが、後に「直江兼継」との確執で出奔)
奉行を務めていた、元越後守護上杉氏の直臣「鉢盛城」の「千坂景親」、越相同盟の際、人質として小田原へ赴いていた「柿崎晴家」らも景勝を支持。
さらに詳細は不明ですが、「柿崎晴家」はこの乱最中にて落命している様子です。
(※別説で信長に内通して誅殺というのもあります)

ほか、近江からの新参衆で謙信の側近、越中「魚津城」の守備「河田長親」、「石動城」の守備「吉江資堅」らは当初は中立の立場を保っていたおりましたが、後に景勝を支持しているのでした。

このように、上杉家中では国人衆に支持された景勝勢が目立っておりますが、景虎もその血統を最大限に活かし、国外からの支持を集めるなど決して侮れない勢力であったのです。

⇒つづく。
 次回は「連携!景虎を支援する周辺大名たち」(5/6)

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※「上杉景虎」の本を見つけました。
 うん、やっぱり育ちの良さというか、のんきさを感じるんです。


迅速!行動を起こした上杉景勝 (御館の乱)3

2008年09月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。


生涯で妻帯しなかった謙信には、上田長尾氏「長尾政景」からの養子「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ ※写真)」、上杉・北条の越相同盟の際に本来は人質として送られてきた「北条氏康」の八男「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」という二人の養子がおりました。
カリスマ性のあった謙信の死後、利害打算、また入り組んだ人間関係がため、それぞれの養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。


天正六年(1578)三月。
その武力によって周囲に恐れられてきた軍神「上杉謙信」は突然死去。
享年四十九。

”人間五十年”といわれるこの時代では標準的ですが、「武田勝頼」率いる武田勢が織田・徳川の連合軍に壊滅的な敗北をし、将軍「足利義昭」が織田勢によって追放された現状では、非常にタイミングの悪い時期でした。
逆に信長にとってはツイてるんですね。
上洛を期待して寝返った「松永久秀」ほか、毛利、本願寺などが窮地に追いやられるなど、この死は周辺大名にも影響するのでした。、

さて、積極的に権限を委譲するなど、後継者育成には熱心だった謙信。
しかし、なぜか二人の養子の扱いには優劣をつけていなかったのです。
ここは諸説あって不確かではありますが、どうやら北条氏から迎えた養子「上杉景虎」には”関東管領職”を譲り、甥「上杉景勝」には越後国主を継がせようと考えていたらしいのです。
このプランが本当かどうか知りませんが、どっちにしろ対立は避けられなかったかもしれませんね。

話を戻します。
先手を取ったのは、「上杉景勝」でした。
謙信の死から二日後には、
謙信の遺言である
…と称して、二の丸から本拠「春日山城(新潟県上越市)」の本丸を占拠してしまうのです。
これには、ちょっと面白いエピソードがありました。

謙信の父「長尾為景」の代から仕える、政治・外交面で活躍した重臣「直江景綱(なおえ・かげつな)」
景綱には、娘「お船」がおりました。
後に上杉家にて相当な影響力を持つこととなる彼女が、脳卒中で倒れた謙信の看病をしていたのです。
そんな「お船」が耳にしたという遺言こそ…

跡目は喜平次景勝

これが、果たしてどこまで本当なのか、まったくの不明です。
ともかく、その言葉を大義名分として、景勝は素早く行動をしたのでした。

ちなみに、その夫にして婿養子の「直江信綱」は景勝を支持していました。
がしかし、乱の終結後には何者かに惨殺されているのです。
それに続いて「お船」の婿となったのが、「樋口兼続」こと、後の「直江兼続」なのでした。
これは景勝の意向とのことですが…なんだか、怪しくねぇ?

さらに景勝はその九日後には内外へ”謙信の後継者”であることを宣言したのです。
なお、「春日山城」にあったという約三万両といわれる遺産をも、当然ながら手中にしております。
”兵は迅速を尊ぶ”という言葉がありますが、まさしくこちらでも先に行動を開始した景勝勢が終始アドバンテージを取り続けることとなるのでした。

⇒つづく。
 次回は「血統・コネを活用する上杉景虎」(4/6)

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「天地人」探訪直江兼続 上 疾風編 (1)
武山 憲明
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※やっぱり「直江兼続」と言えばこの兜でしょう。
 いろいろネタにされちゃいそうですが…。

信長の野望DS2 ガイドプック (攻略本・光栄)

2008年09月14日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
上杉家を襲った内乱「御館の乱」の途中ですが…せっかく買ったので、こちらもついでにレビューさせて頂きます。
ゲーム本編のレビューに続いて、攻略本のレビューです。
…うわ、なんだかゲームブログみたいですね!
(↑んなこたぁない)

そんな訳で、皆さま「信長の野望DS2」はプレイしてますか?
シンプルで展開もスムーズなので、今のややこしいシミュレーションに疲れた方にはぴったりのゲームだと思います
ただ、不慣れだったり、色々情報が欲しかったりした際に、どうしても手を出したなくるのが攻略本。

そんな訳で、本日は現在のところ発売されている唯一の攻略本、光栄さんから直接発売されている「信長の野望DS2 ガイドプック」について簡単に書いてみます。

信長の野望DS2 ガイドブック
An-EDITOR.
光栄

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※コレのことね。

とりあえず総評としては…
初心者から上級者まで、わざわざ買う必要なし。
 このゲームのファンならば、楽しめると思います

…という感じでした。
まぁ、いらないかなぁ(笑)
でもって、以下が内容の詳細になります。


■1章「ゲームシステム解説」

ほとんど、マニュアル補足程度の内容でした。
他の攻略本もそうですが、ここはこんなモノでしょう。
おそらく皆さま興味あるのは、歴史イベントの種類と発生条件ですかね。
(※なお、「斎藤義龍」「陶晴賢」の謀反も歴史イベント扱いでした)
モード「群雄争覇」は全ステージの紹介があるなど、そこそこ充実しているように感じました。
…まだ一度もやってませんが。

ほか、有用だった情報としては…
◎「治安」は80以下だと一揆が発生する。
 なるほど、80以上ならOKなんですね(笑)
◎「共闘」は政治力が影響する。
 意外と敵対してる大名でも派遣してくれることあるので、とりあえず試してみましょう。
 政治力によって、成功率が増すようです。
◎「徴兵」は政治力により、治安の低下、訓練の低下が変動する。
 まるで気にせず、普段働くことない武将にやらせていました。
 これは群雄伝の際の癖ですねー。
 
■2章「シナリオ別攻略ガイド」

シナリオをクリアすると、新シナリオ「夢幻大転封」が発生します。
…既に統一していたひでるさんですが、コレを見るまでまっったく気付きませんでした。ちゃんとシナリオ出現してました。
それぞれのシナリオでどちらか4大名だけ情報・攻略の記載あります。
こういうの読むのが好きなので、全大名分がほしかったなぁ…。

■3章「データアーカイブ」

ひでるさん最も欲しかったのが、”野戦合戦場早見表”です。
どの国から攻めると、どうした地形のマップになるか~、というやつですね。
なぜかって、海のある・なしによって、鉄甲船が出撃できるじゃない?
相変わらずやたらめったら強いので、所持していればメッチャ有利なのですよ。

◎城マップ
◎野戦マップ
 各城、古戦場などはゲームと関係なく見ているだけで楽しいです。
◎武将データ
 たぶん、全武将のデータが収録されてます。
 登場年、各シナリオでの状況は役立つと思います。
 ただ、わざわざこれを見ながらゲームするほどではないかなぁ…。
 今回は能力値が必ず表示されますし、だいたいの良し悪しは名前で分かるので。
 なお、SP武将も収録されていました。
 時代が昔の方多く、たいてい鉄砲適正がD評価なのが悲しいですね。
 …でも、「源頼朝」の戦闘80って高すぎない??60くらいでしょー。
◎戦術データ
◎茶器データ
 うーん、これも特にいらないかなぁ(笑)

おしまい。
…ね、ファン向けという感じでしょ?
これだけだとつまらないので、こないだの記事に間に合わなかったコメントを少々。


※吉継はカッコいいですが、三成の顔はちょっと暑苦しくないですか??

◎モードについて
 ひでるさんはじっくり時間かけてプレイするのが好きなので…。
 バリバリとコンピュータ大名が兵力を増強する「実力モード」はやっぱり合わないですねー。
 なお、「実力モード」だけに発生するという「歴史イベント」ですが、ガイドブックによるとさほど多くなく(←数は前回と一緒かな?)、条件も厳しいものでした。
 普通にプレイしていて発生しそうなのは、「毛利家/三矢の訓え」、「織田家/桶狭間の戦い」、「織田家/稲葉山改名」、「三成・吉継の茶会エピソード」、「九州探題」、「征夷大将軍」、「追討令」くらいだと思います。
 なお、どちらも開始年には発生しないので注意。
 ちなみに、イベント「本能寺の変」はプレイヤー「織田信長」、山城ほか十カ国以上の領国、織田・森と血縁でない武将を山城に配置。
 丹波に「明智光秀」、播磨に「羽柴秀吉」、加賀に「柴田勝家」が城主で発生します。
 やっぱり、ぜひ一度は試してみたいイベントでしょう。


信長の野望DS 2

コーエー

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◎一向一揆イベントについて
 プレイヤーが本願寺でも、勝手に起こりました。
 任意に選択することは残念ながらできませんでした。残念。

◎技法について
 獲得するには、自ら技術を200以上にする必要があります。
(※200以上の国を占領しても、その国のスキルは得られない)
 欲しい技法のある国は早めに攻略しなければならないのです。

◎登用について
 一度でダメでも、武将を変えたり何回かやっているうち、ふと成功したりします。
 現実同様、諦めないのが基本ですね(笑)
 なおデータ的には、大名と浪人の相性・実行武将の魅力が影響しているとか。

◎勧告について
 ゲームをやる上で、ある程度領国が増えたら試してみるといいかもしれません。
 領国1国(※2国以下という条件がある)の小大名は、案外あっさりと傘下になったりします。

◎諜報について
 データ的には、対象大名の領国が多い場合は成功率が低下するのだとか。
 こちらはPC版同様、「服部半蔵」「風魔小太郎」「百地三太夫」「猿飛佐助」なら絶対に成功します。

◎鉄甲船について
 兵科は基本的に汎用ですが、こちらだけは武将固有のアイテムとなります。
 海と接した国のみで製造ができ、完成後は基本的に”その国にいる戦闘力の高い武将が受け取る”ようです。
 誰に与えますか、と選択肢が出ることもあるんですが、なぜそーなるか不明なまま。
 ガイドブックにも記述なかったです。るるるー。

◎弓隊について
 プレイしていて、実は最も影響の大きい変更点だったと思います。
 過去には鉄砲隊が欲しかった籠城戦(※守備側ね)ですが、今回は無料な上に何も必要なく遠隔攻撃が可能です。
 そのため、籠城戦の攻め手としては鉄砲数だけでなく、”弓構”のスキルがあるか確認の必要があるのです。
 とりあえず弓射攻撃は損害なく一方的に攻撃が行えるので、特に序盤であれば攻撃・守備のどちらでもかなり有利なのでした。
 また、鉄砲隊は雨で撃てないという欠点があるのに対し、確実に攻撃し続けられるのも大きな優位点でしょう。

◎女性について
 SP武将、エディットで女性武将が登場するんですが、親子などと同様に性別でも台詞の変化がありましたよー。


こんな感じですね。
とりあえず仕事とブログで日々忙しく、プレイする時間がほとんどないというのが実情です。
毎日時間ないんですよねー。



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⇒ 信長の野望DS2 プレイレビュー (ゲーム・光栄)
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解説・二人の養子 (御館の乱)2

2008年09月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだより、軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致しております。

戦国時代にて恐れられていた越後・上杉家。
しかし、下剋上を果たした父「長尾為景(ながお・ためかげ)」の代から国人同士の争いは絶えず、非常に不安定な情勢にあったのです。
また、生涯で妻帯しなかった謙信には実子がおらず、複数いた養子の後継者指名はされていなかったのでした。
利害打算、また入り組んだ人間関係がため、それぞれの養子を擁立した二派は国内を真っ二つにして争うこととなってしまうのです。

養子の一人、「上杉景勝(うえすぎ・かげかつ ※写真)」は謙信とも争ったことのある、上田長尾氏「長尾政景」の次男です
(※母は謙信の姉「仙桃院」、嫡男「義景」は早世しております)
景勝の実親にして、死した後の争いにも多大な影響を及ぼしている政景。
彼は長尾一門の筆頭格で、存命中は実質上杉家家臣団の頂点に君臨しておりました。
例えば、謙信が”隠居”を言い出して家出した際、説得をして反意させたのが、この政景です。
しかし、もともと敵として戦っていた謙信には、あまり気の許せる相手ではなかったようなのです。

弘治元年(1555)に上田長尾氏の本拠坂戸城で誕生した景勝。
父政景が不可解な死を遂げた後の永禄七年(1564)にて謙信に引き取られ、その養子となりました。
後の五大老の一人で、剛直で律儀。
やたら無口であった、と伝えられております。


■おまけ 上杉家(長尾家)家系図 (※↓:子、-:兄弟、=:婚姻)

      為景(府内長尾)
         ↓
北条氏康  晴景-★謙信(上杉家相続)-景康-仙桃院=政景(上田長尾)   畠山義続
  ↓                                 ↓               ↓
★景虎(氏康八男:謙信養子)====娘-★景勝(謙信養子)-娘===政繁(義続次男:上条家相続)


養子のもう一人、「上杉景虎(うえすぎ・かげとら)」は相模の獅子こと「北条氏康」の八男でした
こちらは天文二十三年(1554)にて小田原城で誕生。
先の景勝よりも一歳だけ年上なんですね。

景勝が養子になった年から遅れて、六年後の元亀元年(1570)に上杉・北条の間にて越相同盟が締結しました。
その際に人質として、越後へ送られたのです。

美男子だったと伝えらる景虎。
それがためか謙信は彼を大いに気に入り、「長尾政景」の娘(※景勝の姉です)を与え、過去に自らの名乗りであった「景虎」を継がせるなど、一門衆という扱いをしていたのです。
しかし、一時的に利害が一致しただけの越相同盟は元亀二年(1572)頃に破綻。
本来であれば同盟破綻と共に実家へ送り返されるものですが、謙信の意思なのか、そのまま上杉家に居座っていたのでした。

⇒つづく。
 次回は「迅速!行動を起こした上杉景勝」(3/6)



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※こんなん見つけました。
 うーん、スペースがあればこんなん飾ってみたいですねー。
 バカ殿ごっこができますよ(笑)


激突!軍神の後継者 (御館の乱)1

2008年09月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は軍神「上杉謙信」の後継者争いとして有名…なのかな、どうかなという「御館の乱(おたてのらん)」についてお送り致します。

戦国時代にて、”最強軍団”と言われ、周囲の大名に恐れられていた甲斐・武田勢。
その武田勢とまったく互角か、あるいはそれ以上の戦いぶりを見せたのが、軍神「上杉謙信」の率いる越後勢でした…。

この時代では稀な、私利私欲ではなく「義」によって行動していたという謙信。
(※実際はそれだけではないけれど)
最大版図は本拠地越後のほか、能登、越中、上野(こうずけ:群馬県)…と領国は縦に長く、北は出羽「最上氏」、陸奥「蘆名氏」、南は上野「北条氏」「武田氏」、西には加賀「織田氏」などと、それぞれ国境を接しておりました。
謙信は出羽、関東、北陸、信濃、とそれぞれ各方面にて作戦地区を分割し、本軍を率いて各地に転戦してたのです。

以上のように、周囲を強敵に囲まれていた上杉家。
実は、内側にもやっかいな敵がおりました。

以前のブログでも書いておりますが、越後守護代にして謙信の父「長尾為景(ながお・ためかげ)」
彼は下剋上にいちおう成功したものの、国内は完全に支配することができなかったのです。
なにしろ、為景が死んだ際にも敵対者を警戒して、皆甲冑姿で葬儀に参列したと言うほどなのです。

関東管領被官である上田長尾氏「長尾政景」を筆頭に、有力国人「揚北衆(あがきたしゅう)」など、複雑な関係と事情を抱えていた彼らを掌握できぬままだったのです。
それは兄「長尾晴景」、そして謙信の代になっても変わらず、彼らはたびたび所領争いなどで対立をしていたのでした。
なにしろ、調停に疲れ果てた謙信が”隠居”を言い出すほどでしたから、非常に根が深いのです。
(※しかも何回かあったらしい)

父「武田信虎」の代にて国内を平定していた武田家と違い、越後上杉家は非常に不安定な情勢にあったのです。
度々の出兵についても、”目を外に向けさせることで国内の結束を図った”という説があります。
ここがポイントの一つ。

また、よく知られていることですが、謙信は生涯で妻帯しませんでした。
ここがポイントのもう一つ。
当然ながら実子もおらず、その跡目となるのは養子だけだったのです。
何名かいた養子のうち、そう目されていたのは二名。
…がしかし、この両者をほぼ対等に遇していたこと、しっかりと指名をせずに没したことにより、国内の混乱は避けれない情勢となってしまうのでした。

⇒つづく。
 次回は「解説・二人の養子」(2/6)


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※うわー、これ格好いいですねー!!
 ちょっと飾っておきたいかも。

長齢寺 (石川県七尾市)

2008年09月04日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は石川県七尾市の「長齢寺(ちょうれいじ)」です。

さて、「お寺さんぽ」なんてタイトルとっつけながら、最近はなかなかお寺を紹介しないこのブログ(笑)
本日の訪問地はお寺に違いないんですが、こないだの滋賀県「大通寺」と同じく、どちらかというと”歴史ちっくなお寺”なのでした。

七尾市の散策コースとして、なかなか風情のある「山の寺瞑想の道」
JR七尾駅から「前田利家」の出世城「小丸山城址」を眺めた後に、てくてく徒歩で向かうのがちょうど良いでしょう。
(※若干遠めではありますが)

天正九年(1581)
加賀藩の祖「前田利家」は「織田信長」より能登国を拝領しました。
ちなみに「本能寺の変」は天正十年のことです。そのくらいな時代ですね。

城下建設の際、利家は「七尾城」の防御を目的に、真宗を除いた各宗派の寺院(笑)を配置したのでした。
設置当初は二十九の寺院が存在していましたが、現在残っているのは十六の寺院。

…そのうちの一つが、正式名称は「休獄山長齢寺」なのでした。
あちこちのお寺と違って、ちょっとよこしまな目的で建てられたお寺なんですねー。

利家は越前国高瀬は「宝円寺」の「大透和尚」を招き、開山としております。
そんな訳で、当初の名前は「宝円寺」
こちらは利家が能登にて建てた唯一の寺院ということで、前田家と非常に関係が深いのでした。
前田家の菩提寺として、父「前田利春」、母「長齢院」の墓が築かれております。
しかし、その後出世・加増された利家は居城を金沢へ移し、共に「宝円寺」も加賀へ移したのです。

七尾の地に残ったこちらは、利家の母「長齢妙久大姉」葬送の導師を勤めていたことなどから、父母の名をとって、「休獄山長齢寺」と改めたのでした。
(※利家の父「前田利春」の戒名が「休岳道機庵居士」なのです)



前田家とは縁が深いため、「前田利家(高徳院)」、嫡男「前田利長(端龍院)」の石廟ほか、宝物殿には一族の肖像画や、ゆかりの品々がならんでおりました。
お寺の方曰く、「檀家さんがいないので、観光・拝観だけなんですよー」とのこと。
こちらを存続させるためにも、歴史ファンな方にはぜひ訪れてほしいお寺です。
ちなみに拝観は大人四百円です。


[住所]
 山の寺瞑想の道 石川県七尾市小島町

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※出世して、すっかり有名人となった「前田利家」です。
 持つべきものは友達ですね。