お寺さんぽ Ver.03

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名門意識の義昭さま (佐竹三代:佐竹義昭編)3

2009年10月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。


若くして十七代当主となった「佐竹義昭(さたけ・よしあき)」
佐竹三家の補佐を受け、さっそく常陸統一を目指します。

まず、父の代では従っていた江戸氏を見事討伐した義昭。
上々の戦果を挙げた彼の元に、意外な使者が訪問しております。

天文二十年(1551)
川越夜戦(1546?)で大敗していた「山内上杉憲政」は衰退を続け、この頃には北条氏に圧倒され平井城を攻略されておりました。
そんな憲政が、若き当主である義昭に保護を求めてきたのです。

これは、元々十二代「佐竹義人(義憲)」が関東管領「上杉憲定」の次男であった縁を頼ったようなのですね。
条件は上杉氏の名跡と共に”関東管領職”の相続
ほぼ名ばかりとはいえ、関東管領は魅力あるものでした。
(※ちなみに、後に相続した「上杉謙信」は大喜びをしたといいます)

しかし、こちらも名門家たる誇りがためか、義昭はこの申し出を断ったのでした。
後に武田氏との同盟でもありますが、血統・名跡というものは現代人の我々が考えるより、非常に重いものという例だと思います。

下野では「宇都宮広綱」を支援。
ここでは那須氏を破り、十二歳ほどの若さだった広綱を支援して宇都宮城へと復帰させています。
続いて、陸奥高野郡へ侵攻。
羽黒山城を拠点とし、白川(白河)結城氏「結城晴綱」と争って、寺山城などを攻略。
この進軍は、古くから金の産地であった八溝金山の経営が深く関係しているとかなんとか…。

永禄三年(1560)
先の”関東管領職”は結局「上杉謙信(※写真)」が就任し、彼の呼びかけた関東出陣に応じております。
この一件からか、いままで北へ目を向けていた義昭が常陸南方への進軍を本格的に考えるようになるのです。

陸奥から下野の一部までを版図とし、常陸国最大の戦国大名となっていた佐竹氏。
先の戦から中央部の江戸氏を影響下に置き、南部の名門家・大掾氏などは娘を迎える懐柔策をとる一方で、南方の小田氏とは徹底して対立。
実際には、弘治二年(1556)の頃から小田氏とたびたび小競り合いを続けており、本拠小田城の攻防戦はなんと約二十年もの間に渡って続くこととなります。

永禄七年(1564)
北条氏、結城氏と結んで挽回を目論む小田氏でしたが、義昭は「上杉謙信」と同盟を結んで、これに対抗。
山王堂に戦って小田氏に勝利し、逆に本拠である小田城を攻略するなど、目覚ましい活躍を見せたのでした。

こうして、順調に勢力を広げていく義昭でしたが…
永禄五年(1562)
嫡男「佐竹義重(さたけ・よししげ)」を十八代当主として、なんと突然隠居してしまうのです。
(※ちなみに、この時の義重は自らが後継者となったのと同じくらいでまだ十五歳)
当時の彼は三十歳程度でしたから、まだまだ働き盛り。
しかし、永禄八年(1565)に三十五歳で夭逝しているため、どうやらどこか体調が悪かったようなのです
こうして、悲願の常陸統一は息子の義重に託されたのです。

⇒ つづく。
  次回は「北条嫌いな義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(4/9)

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