お寺さんぽ Ver.03

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豊臣二代目 豊臣秀次 (秀次切腹と石田三成)

2006年10月12日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は石田三成さま弁護記事「秀次切腹事件」について、です。

…なにゆえ、こんなネタをやることとなったのか。
いまだに「秀次切腹には”石田三成”が暗躍していた」と信じている人が多いようです。
はぁ。
悲しいことですね。
だいたい三成さまってーのは、性格的に真面目で融通利かない”正義の味方な人”なので、暗躍が得意なタイプではないのです。
関ヶ原合戦で負けたのも、家康に比べて裏工作面で大きく劣っていた、というのが敗れた要因の一つだと思います。
ひでるさんがそうですが、思っていることがすぐに顔とか態度に出ちゃう人ですよ。たぶん。
だいたい他人どころか、自分すら騙せないのではないでしょうか?
と、そんな訳で、「秀次切腹と三成さま」について。


まず、「豊臣秀次」について簡単に。
秀次は「豊臣秀吉」の姉「日秀」と「三好吉房」の子です。
秀吉にしてみれば甥の関係ですね。
「三好吉房(みよしよしふさ)」ってのは元々単なる農夫で、子の秀次が河内三好一族の「三好康長(笑岩)」の養子となった際に三好姓を名乗ったとかなんとか。
秀吉によって、望まぬ出世をさせられた系統な人です。
その子秀次は後に子がなかった秀吉の養子となり、「羽柴秀次(はしば ひでつぐ)」と改名します。
これが人生の大きな転機となるのです。

信長の後継者の地位を手に入れ、天下統一を目指す秀吉の養子ですから、あるいは次の天下人となるかもしれません。

決意も新たに参加した「賤ヶ岳合戦」ではそれなりに功を挙げますが、続く「長久手合戦」では別働隊の総大将になるも徳川勢に完膚なきまで叩きのめされ、秀吉から激しい叱責を受けています。
しかし、その後の四国征伐、小田原城合戦、葛西・大崎一揆討伐などでは順調に功を重ねました。

「長久手合戦」での敗戦によって無能とされることが多い秀次ですが、その他の合戦などを見ると側近らの補佐もあって無難にこなしています。
そのため、そこそこな能力はあった人だろうと想像されます。
長久手では相手が悪すぎたんですよ。

病死などで次々に亡くなる秀吉の養子・血縁の中で無事成人し、また最も血が濃く・能力を認められた(※ライバルが秀秋とかですからねぇ)ため、彼は後継者と目されるようになっていくのです。

★ 特別おまけ 豊臣一族  ★ [ それなりに生きた人には◎、早死には●、ほぼ無関係な人は□ ]

◎次男で全幅の信頼をおけた弟「小一郎秀長」は五十一で死亡。大和大納言。
●秀長の養子「秀保」は十五で病死。
●秀吉の養子「秀勝」は朝鮮出兵において二十三で病死。
●秀吉の養子で信長の四男「秀勝」は十八で病死。
●秀吉の養子で後に小早川家へ行った「秀秋(羽柴秀俊)」は阿呆。二十で狂死。
●秀吉の子「秀勝」は夭折。(※存在は不確か。長浜城主時代)
●秀吉の子「鶴松」は夭折。(※淀さまとの子)
◎秀吉の子「秀頼」は大阪合戦で死亡。(※淀さまとの子)
□秀吉の養子で徳川家康の次男「秀康」は結城家へ。
□秀吉の養子で宇喜多直家の嫡男「秀家」はそのまま宇喜多家へ。
□秀吉の養子「智仁親王」は八条宮家の初代になりました。

※ねねさんの兄一族「木下家」の皆さんは能力的に問題あり。秀秋のみ養子となってます。
 「浅野長政」はねねさんの義弟で重用されていますが、後継者とかなんとかとは無縁な存在。

 
⇒つづく 次回「絶望する関白秀次」


[関連記事]
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)

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石田三成―義に生きた智将の生涯

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※ね、個人本(←この書き方は同人誌みたい)では、
 「義に生きた智将の生涯
 なんてサブタイトルです。
 「  」なんて単語戦国時代では「上杉謙信」と三成さまくらいにしかつきませんよ。

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