お寺さんぽ Ver.03

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花倉の乱と義元さま 「海道一の弓取り・今川義元」2

2006年10月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。

ああっ、義元さま…。
今川家がいかに名門であったか、前回の記事にて紹介させて頂きました。
我らが義元さまは正室の子でしたが五男であったため、京都にて僧の修行をする羽目になってしまうのです。
その頃の京はいまだ「応仁の乱」の爪跡が残っていたでしょうが、義元さまはこの時に都を目の当たりにしていたのですね。


天文五年(1536)
義元が十七歳となっていたその日、兄・氏輝がわずか二十四歳という若さで突然死してしまいます。
これが胡散臭いことに、同日にはすぐ下の弟「彦五郎」(※次男?)も死んでいるのです。
あまりな突然死だったため、毒殺なんて説もあるようです。
うわー、なんだかキナ臭いですよ~。
そりゃあ、いきなり兄弟二人が揃って”突然死”なんて、自然だったらもの凄い確率でしょうから。

だれが犯人か?はとりあえず置いておいて。
ともかく、これを切っ掛けとして、駿河・遍照光寺の住職となっていた異母兄の三男「玄広恵探(げんこうえたん)」と義元の間に後継者争いが起こり、家中を二分する「花倉の乱」が勃発してしまうのです。

まず「恵探」は母方・福島氏の助けを借りて、いち早く家督相続の名乗りをあげました。
年齢としてはこの「恵探」が上でしたが、義元は先々代「氏親」の正室にして先代「氏輝」の母「寿桂尼(じゅけいに)」さんの子だったのです。

この「寿桂尼」さんは貴族・藤原家の娘でしたが、氏輝が若い頃は政務を取り仕切り、「女戦国大名」とまで言われていた傑物でした。

当然、この内乱を目前に黙っている訳もなく、これまた当然ながら、自らの子「義元」を当主に強く推すのです。
一時期とはいえ、国の政務を取り仕切っていた「寿桂尼」さま。
その発言はことの外影響力が強く、家臣団のほとんどは義元側についてしまいました。
これには軍師「雪斎」の働きもあったようで、義元は官軍たる地位を手に入れたのです。

こうして「恵探」勢は反乱軍という位置づけになってしまいます。
あるいは後継者になりえたかもしれない、彼が暗殺の実行犯でなかったか?とひでるさんは思っています。
当時、遥か京都にて修行していた義元が、わざわざ複数いる兄(※共に死んだ彦五郎も同腹)らを無理矢理暗殺してまで太守となる理由がありません。
その点、異腹の「恵探」は二人の兄亡き後は後継者の地位が転がりこんでくる可能性が大いにあるのです。
おまけに、彼は駿河におりました。
色々、噂話や情報に接する機会に恵まれていたのですよ。ええ。

さて、挙兵した「恵探」らは堅城・花倉城(藤枝市)へ入りました。
一方、義元らは方ノ上城(焼津市)に拠る恵探勢を攻めて駆逐し、勢いそのまま花倉城を包囲します。
前哨戦で召集に失敗していた恵探勢はそのまま圧倒的な劣勢を覆すことができず、城を放棄。
追撃する義元勢によって追い詰められ、普門寺にて自害するのでした。

こうして内乱に勝利した義元は還俗(※僧をやめて俗人となること)して、「今川治部太輔義元」となるのです。
(※この時の官位が「従四位治部太輔」なのね)

⇒つづく。 次回は「九代目当主の義元さま」

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