のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、大友家は衰退。
「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従することとなってしまうのです。
一方、沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向け怒涛の勢いで侵攻を開始しました。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂※写真」が籠城。
その矛先は紹運へ向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。
「上方勢が豊前に到着するまでは、何としても島津の進出を阻止するのだ。
敵わぬ時は城を枕に討死する覚悟である。
家族に憂いのある者は遠慮なく城を去るがよい」
籠城を決意した紹運はそう皆に告げ、決戦の覚悟を示したそうです。
なお、”共に立花城で迎え撃つ”という実子「立花宗茂」からの誘いを、紹運はきっぱり断わっています。
「父子が同じ場所を守るのは決してよい謀(はかりごと)とは申せぬ」
さらに、宗茂は岩屋城よりも要害堅固である”宝満城への籠城”を勧めていたようですが、これも退けられていたようです。
筑紫氏、旧高橋氏の家臣らが多い宝満城での迎撃を不安に考えた、という説がありました。
確かにそれもあるでょう。
しかし、婦女子らを避難させ、次男「立花直次(高橋統増)」を宝満城の守将としているところから…2人の息子らを守るため、わざわざ最前線で攻め(られ)易い岩屋城へ入って、敵勢を食い止めようとしたのかもしれません。
真意のほどは不明ですが…ちょっとうるるときますね。
かっちょえーですね。
なお、宗茂は立花城にて志願兵を募り、四十名ほどを岩屋城へ送っています。
「今後はわれを夢にも親と思うでない」
そう言って送り出した息子のため、前線に赴く父親。
そんな父のため、少しでも助けようと策を巡らせる子。
これは…ダメ。
ひでるさんはまったく・微塵も関係ないですが、我がことのように泣けます。
ついでに、豊臣勢の先鋒にあった「黒田官兵衛」も城から出て逃げるよう使者を送っていましたが…
「わが墓はこの城と思い、討ち死にする覚悟です。
それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう」
そう言って、そちらも拒否しているのでした。
これは紹運の意地ですね。
⇒ つづく。
次回は「籠城戦と「高橋紹運」」(9/10)
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⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
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⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
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⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」
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※そう、意外に…というか、ほぼ知らないです。
こんなん良いかもしれません。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、大友家は衰退。
「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従することとなってしまうのです。
一方、沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向け怒涛の勢いで侵攻を開始しました。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂※写真」が籠城。
その矛先は紹運へ向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。
「上方勢が豊前に到着するまでは、何としても島津の進出を阻止するのだ。
敵わぬ時は城を枕に討死する覚悟である。
家族に憂いのある者は遠慮なく城を去るがよい」
籠城を決意した紹運はそう皆に告げ、決戦の覚悟を示したそうです。
なお、”共に立花城で迎え撃つ”という実子「立花宗茂」からの誘いを、紹運はきっぱり断わっています。
「父子が同じ場所を守るのは決してよい謀(はかりごと)とは申せぬ」
さらに、宗茂は岩屋城よりも要害堅固である”宝満城への籠城”を勧めていたようですが、これも退けられていたようです。
筑紫氏、旧高橋氏の家臣らが多い宝満城での迎撃を不安に考えた、という説がありました。
確かにそれもあるでょう。
しかし、婦女子らを避難させ、次男「立花直次(高橋統増)」を宝満城の守将としているところから…2人の息子らを守るため、わざわざ最前線で攻め(られ)易い岩屋城へ入って、敵勢を食い止めようとしたのかもしれません。
真意のほどは不明ですが…ちょっとうるるときますね。
かっちょえーですね。
なお、宗茂は立花城にて志願兵を募り、四十名ほどを岩屋城へ送っています。
「今後はわれを夢にも親と思うでない」
そう言って送り出した息子のため、前線に赴く父親。
そんな父のため、少しでも助けようと策を巡らせる子。
これは…ダメ。
ひでるさんはまったく・微塵も関係ないですが、我がことのように泣けます。
ついでに、豊臣勢の先鋒にあった「黒田官兵衛」も城から出て逃げるよう使者を送っていましたが…
「わが墓はこの城と思い、討ち死にする覚悟です。
それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう」
そう言って、そちらも拒否しているのでした。
これは紹運の意地ですね。
⇒ つづく。
次回は「籠城戦と「高橋紹運」」(9/10)
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※そう、意外に…というか、ほぼ知らないです。
こんなん良いかもしれません。