お寺さんぽ Ver.03

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不遇な晩年 (結城秀康)4

2007年12月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は天下人二人を父にもつという、歴史界のサラブレット。
しかし、出生がため不幸な人生を歩んでしまうこととなる徳川幕府・最大の腫れ物「結城秀康」です。

豊臣・徳川の争いから臣従の証として、秀吉の下へ送られた「秀康」さま。
不遇の幼少時代から、徳川家の御曹司として厚遇された「秀康」はおそらく生涯で最高の日々を送ることとなるのでした。
初陣した九州陣ではその才を発揮し、若いながら武将として周囲に認められる存在となっていたようです。

天正十八年(1590)
秀康は十八歳となっていました。
この頃、実子に恵まれなかった下総の名家「結城晴朝(ゆうき・はるとも)」は養子縁組を秀吉に請うていたんですが、それに選ばれたのが秀康でした。
「結城晴朝」の娘を妻としてその名跡を継ぎ、ここで「結城秀康」という名乗りになるんですね。
…余談ですが、秀吉の子「鶴松」が誕生したのが前年の十七年でしたから…養子の整理をされたようです。なお、この子は三年後に夭折。

九州陣から続く小田原合戦にも従軍した「秀康」
関ヶ原合戦では、下野・結城城城主「結城秀康」は宇都宮城主「蒲生秀行」と共に会津上杉軍の西上に備え、待機を命ぜられております。
結果として上杉勢は来襲することなく、さしたる合戦はありませんでした。
ここで多少でも上杉との合戦があったなら、面白かったんですが…追撃を主張した「直江兼続」の進言を珍しく許可しなかった「上杉景勝」は徳川勢の背後を襲うことをしなかったのでした。

同じ頃、弟「秀忠」は数万の兵力と共に東山道を西上。
その途中で老獪な「真田昌幸」の術中にはまり、大遅刻するという失態を演じておりました。
こと戦という面では両極端な兄弟なのです。

戦後は家康より下総十万石から、越前北庄ほか六十七万石に加増移封されました。
松平姓への復帰も許されたようですが、実際にこの姓は使用していないようです。
…まぁ、彼は家康嫌い(たぶん)でしょうから、当然かもしれません。
五歳違いの弟「秀忠」は将軍職を継いだ後も、この兄には大変な気を使っていたようです。
(※また、兄の「秀康」も位としては上である「秀忠」を立てていました)

なお、「結城秀康」にはこんなエピソードが残されています。
合戦も終わって一段落した頃のこと。
ある時、「徳川家康」は「秀康」のもとを訪れ、ここで酒宴となりました。
時間と共に宴は大いに盛り上がり、些細なことから部下の間でちょっとした騒ぎとなるのです。
がしかし、いままで静かに酒を楽しんでいた「秀康」がすっと立ち上がっただけで、その騒はぴたりと収まるのでした。
これには父「家康」も驚愕し、その威厳を改めて感じたということです。

生みの親より育ての親。
自らを魔王とまで称した「織田信長」が実父より、守役「平手政秀」の死にはるかに衝撃を受けて悲しんだように、「秀康」にとって父親は「豊臣秀吉」だったのでしょう。
…たとえその裏に打算があったとしても。
なにせ相手は敵将をも丸め込む”人心掌握の天才”ですからねぇ。

慶長十年(1605)将軍職は「徳川秀忠」が継ぎました。
これは肉親の情が深かった「秀忠」を指名した、というのも当然あると思われますが、気骨がある「秀康」より、暗愚で後ろから操縦し易い・無能者を選んだ、というのがあるのかもしれません。
…こりゃー「秀忠」に失礼ですね。
(※ちなみに、この「秀忠」もそう見えてなかなかの曲者なんですが…)

そしてその二年後、慶長十二年(1607)
「結城秀康」は波乱に満ちた短い生涯を終えるのです。
享年三十四。
これは病死と伝えられておりますが、慶長十九年(1614)の大阪陣に続くこともあり、暗殺説も根強いようです。
もし彼が生きていたら…本気で入城しかねないですからねぇ。


【 戦国メーター★結城秀康 】
 家柄: ■■■■□ ニセ源氏ですが、徳川将軍家ということで一応。
 実力: ■■■■□ もうょっとどんなんか見たかったですが、伝え聞く感じではこんなん?
 地理: ■■□□□ 下総結城城で考えるとこんなん。ちょっと遠いですね。

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※そんな訳で、徳川一族きは基本的に嫌いなひでるさんですが、この人と嫡男・信康は好きなのです。
 こちらの兄弟二人は武勇に秀でたりして、よく似てるんですね。


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