のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大友家の重臣、智勇兼備の側近「吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)」、外交交渉で活躍した「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」と共に大友氏の「三老」にまで列せられました「立花道雪」です。
足が不自由ながら輿に乗って最前線を疾駆する「立花道雪」こと当時は「戸次鑑連(べつき・あきつら)」さま。
もともと智勇兼備の勇将でしたが、足が悪くなってもそれは変わらなかったのです。
その力の源は、部下への細かい気配りにあったようなのです。
家臣の一人が道雪の侍女と逢い引きをしている、という話がありました。
家人とのそれは当時重罪であり、道雪は密かにその報告を受けますが、
「若いので些細なこと」
というような具合で、この件については取り合わなかったのです。
その話を伝え聞いた家臣は感激し、不利な合戦では迫る大軍をものともせず飛び出し、道雪の危機を救ったと伝えられています。
また、戦功がまだ少ない者についても、
「この者はまだ功は少ないものの、大変な忠義の士であります」
というように来客の前でも褒めるため、誰もが続く合戦の場では大いに奮闘するのでした。
このように部下に対しても非常に気を使う方で、人使いが巧みだったんですね。
そのため、彼の指揮で一体となった道雪勢はいざ合戦ともなると、無類の強さを発揮していたのです。
道雪の武名はなんと、遠く東海にまで響いたというから、そりゃー大したものだったのですよ。
さて、”道雪が継ぐ前”の立花家について。
こちらは大友家庶子でして、はるか昔六代「貞宗」の長男「貞戴」が立花城城主となり、そこから姓が立花氏となりました。
南北朝時代では判断良く「足利尊氏」を助けて戦功を上げております。
永禄八年(1565)
侵攻する毛利氏に呼応した「立花鑑載」は大友氏に叛旗を翻しますが、宗麟が派遣したのは信頼厚い道雪でした。
その期待通り、立花城を攻めた道雪はこれを奪取。
続いて兵を返し、豊前・筑前へ侵入してきた毛利氏と対決しています。
永禄十一年には古処山城の秋月氏を攻め、ここで「立花鑑載」の討伐に成功するのです。
元亀二年(1571)
立花城とその名跡は攻め手だった「戸次鑑連」が継ぎ、宗麟の入道に合わせて名を「道雪」と改めたのです。
こうして「立花道雪」が誕生するのでした。
こちらの名前が有名な道雪ですが、実際に名乗っていたのは十年そこそこ程度のことなんですね。
佐賀にて龍造寺勢、筑前多々良浜にて毛利勢、さらに宗像、原田、麻生…ら九州の各将を次々に撃破・鎮圧。
道雪の活躍で大友家は順調に伸張するかと思われましたが、そう簡単に進まないのが戦国時代の恐いところ。
天正八年(1580)
日向・耳川合戦で島津勢に敗退した主君「大友宗麟」
傾いた大友家を見切り、各将が離反する中でも道雪は変わらず大友家を支え続けるのでした。
宗麟には何度か諫言もしていたようで、その耳川合戦では留守を命ぜられてしまったのです。
おそらく、道雪の言は的を得ており、耳の痛い話を度々聞かされるうちに彼を遠ざけるようになっていたのでしょう。
天正十三年(1585)
もう道雪は七十二歳となっていました。
「人間五十年~」と言われていた当時ですから、かなり長生きだったのですね。
(※ちなみに、なんとなく似ているような気がする「朝倉宗滴」は七十九歳でした)
猫尾城攻めの際、高齢のために陣中で発病。
そのまま回復せず、天正十三年に死去。
なお、道雪の死によって大友勢が撤退する際、なんと敵方もその死を悼み攻撃を控え、行軍を見送ったと伝えられております。
[関連記事] 【戦国時代・歴史その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 行こう!八王子城址 [前編 中編 後編 ]
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
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※戦国時代の九州は結構おもしろいと思います。
島津が強いんですよ。
本日は大友家の重臣、智勇兼備の側近「吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)」、外交交渉で活躍した「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」と共に大友氏の「三老」にまで列せられました「立花道雪」です。
足が不自由ながら輿に乗って最前線を疾駆する「立花道雪」こと当時は「戸次鑑連(べつき・あきつら)」さま。
もともと智勇兼備の勇将でしたが、足が悪くなってもそれは変わらなかったのです。
その力の源は、部下への細かい気配りにあったようなのです。
家臣の一人が道雪の侍女と逢い引きをしている、という話がありました。
家人とのそれは当時重罪であり、道雪は密かにその報告を受けますが、
「若いので些細なこと」
というような具合で、この件については取り合わなかったのです。
その話を伝え聞いた家臣は感激し、不利な合戦では迫る大軍をものともせず飛び出し、道雪の危機を救ったと伝えられています。
また、戦功がまだ少ない者についても、
「この者はまだ功は少ないものの、大変な忠義の士であります」
というように来客の前でも褒めるため、誰もが続く合戦の場では大いに奮闘するのでした。
このように部下に対しても非常に気を使う方で、人使いが巧みだったんですね。
そのため、彼の指揮で一体となった道雪勢はいざ合戦ともなると、無類の強さを発揮していたのです。
道雪の武名はなんと、遠く東海にまで響いたというから、そりゃー大したものだったのですよ。
さて、”道雪が継ぐ前”の立花家について。
こちらは大友家庶子でして、はるか昔六代「貞宗」の長男「貞戴」が立花城城主となり、そこから姓が立花氏となりました。
南北朝時代では判断良く「足利尊氏」を助けて戦功を上げております。
永禄八年(1565)
侵攻する毛利氏に呼応した「立花鑑載」は大友氏に叛旗を翻しますが、宗麟が派遣したのは信頼厚い道雪でした。
その期待通り、立花城を攻めた道雪はこれを奪取。
続いて兵を返し、豊前・筑前へ侵入してきた毛利氏と対決しています。
永禄十一年には古処山城の秋月氏を攻め、ここで「立花鑑載」の討伐に成功するのです。
元亀二年(1571)
立花城とその名跡は攻め手だった「戸次鑑連」が継ぎ、宗麟の入道に合わせて名を「道雪」と改めたのです。
こうして「立花道雪」が誕生するのでした。
こちらの名前が有名な道雪ですが、実際に名乗っていたのは十年そこそこ程度のことなんですね。
佐賀にて龍造寺勢、筑前多々良浜にて毛利勢、さらに宗像、原田、麻生…ら九州の各将を次々に撃破・鎮圧。
道雪の活躍で大友家は順調に伸張するかと思われましたが、そう簡単に進まないのが戦国時代の恐いところ。
天正八年(1580)
日向・耳川合戦で島津勢に敗退した主君「大友宗麟」
傾いた大友家を見切り、各将が離反する中でも道雪は変わらず大友家を支え続けるのでした。
宗麟には何度か諫言もしていたようで、その耳川合戦では留守を命ぜられてしまったのです。
おそらく、道雪の言は的を得ており、耳の痛い話を度々聞かされるうちに彼を遠ざけるようになっていたのでしょう。
天正十三年(1585)
もう道雪は七十二歳となっていました。
「人間五十年~」と言われていた当時ですから、かなり長生きだったのですね。
(※ちなみに、なんとなく似ているような気がする「朝倉宗滴」は七十九歳でした)
猫尾城攻めの際、高齢のために陣中で発病。
そのまま回復せず、天正十三年に死去。
なお、道雪の死によって大友勢が撤退する際、なんと敵方もその死を悼み攻撃を控え、行軍を見送ったと伝えられております。
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※戦国時代の九州は結構おもしろいと思います。
島津が強いんですよ。