お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

誕生する勝頼くん/強すぎる大将「武田勝頼」1

2006年08月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は甲斐武田氏十二代目の当主「武田勝頼」です。
厳密にはこの人当主ではないようですが、まぁいいでしょう。


武田氏のおこりについては別途「武田信虎」の巻を見て頂くとして、その息子晴信(信玄)は実父信虎を追放して国主となっていました。
当時から最強軍団と恐れられていた武田家(本当)は、信長包囲網の大看板として重要な位置にありましたが、上洛途中で病死してしまうのです。
これはNHK大河ドラマ↓などでもやっておりますんで、ご存じな方も多いでしょう。
…だもんでやりません(笑)
今回はその後を継ぐこととなる勝頼くんのお話。


当主の座に着いた「武田晴信」は信濃(長野)へ進出する際、父信虎が進んだ北方ルートではなく、西方への進出を企み、父の代では同盟を結んでいた諏訪氏を攻撃してこれを滅ぼすのです。

勝頼の母「諏訪御料人」は滅ぼされた「諏訪頼重」の娘でして、美人で知られる(と言われる)彼女を側室に、と考えた晴信は家臣団の総反対に遭います。
これを説得して、望みを叶えたのが実像が不確かな軍師「山本勘助」であると言われています。
(※山本勘助は存在したことは確かなようです)


…ちなみに、ひでるさんはこないだ知りましたが、今度の大河ドラマはその「山本勘助」が主役だそうですね。
ほとんど資料が残っていない方なので、たぶんやりたい放題ですよ。
おそらく、まず間違いなく、ぜっったいにひでるさんは見ることないでしょう。
見たら、画面にツッコミ疲れするでしょうから。



さて、そんな両者から生まれた勝頼はその名跡を継ぎ、「諏訪四郎勝頼」と名乗ります。
武田家中では、この”滅ぼした諏訪家の血を引く勝頼”に対して、どうやら一種の恐怖感を持っていたようなのです。

また、それがために、家中ではやや距離を置かれていた(と想像できる)勝頼は自らを認めさせるため、合戦のたびに獅子奮迅の活躍をするのでした。

彼にしてみれば、諏訪家再興も敵討ちもまったく頭にない、関係ない話でしょうから、訳のわからん噂話を払拭するためにも、実力をもって訴えることしかできなかったのです。
…こうして武田二十四将の一人(※余談ですが、当時はそんなくくりありません)とまで言われるようになる勝頼ですが、その運命を揺るがす事件が起こるのでした。

万が一、これがなければ、勝頼は武田の猛将として、普通に一生を終えたかもしれないのです。

⇒ つづく

[関連記事]
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]


NHK 大河ドラマ 武田信玄 完全版 第壱集

ジェネオン エンタテインメント

このアイテムの詳細を見る

※どうせなら、また武田信玄でいいのにー(見ないけどね)
 風林火山だっけか、なんで山本勘助なんてところにするのかねぇ。
 …っていうか上杉謙信やってくれ。


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ

仏像が気になりだしたら… 自宅で選べる美術品 掛軸、絵画、美術工芸品のトップアート
ちょっと旅へ出たいと思ったら… 旅の総合サイト『BON VOYAGE!』 「楽天トラベル(旅の窓口)」


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
僕の記憶が間違えているのでしょうか? (戦国の虎)
2011-11-12 22:17:03
ちなみに武田二十四将は実際掛け軸などもあるので昔からそういうくくりはあったのではないでしょうか?
ちなみに武田勝頼は武田二十四将には入っていません!人によっては武田を最後の最後に裏切った悪名高い小山田信茂を抜いて勝頼を二十四将に入れる場合はありますが。
武田勝頼は不運の後継者とも考えられるのですが理由は名前を見ていただければわかりまず武田家当主は代々『信』という通字があり勝頼にはありません!
なぜなら武田信玄の四男で諏訪をついでいたからで信玄の遺言では『勝頼は総大将代行だから信勝が元服したら信勝を正式な当主にせよ』と言い(他にも理由はあるが)家臣になめられるなど裏切りが原因だったと思うのですがどうですか?
返信する
ないと思いますが (あおぶひでる)
2011-11-14 00:37:18
掛け軸などはほぼ江戸時代に描かれたもの。
登場する人物もたいてい時代バラバラ。
その内容も色々と入れ替わりあるようですが、私の手元資料にある図にはどちらも勝頼いますよ。
返信する