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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。
主役は「宇喜多直家」なんですが、なんと前回は祖父「和泉守能家(いずみのかみ・よしいえ)」の話だけで終わってしまいました。
ごめんね。
でも、直家さまを知るには、このあたりの出来事は必須なんです。
…もう少し「和泉守能家」さまとお付き合い下さい。
享禄四年(1531)
中央政治に介入していた「浦上村宗」は当時中央を牛耳っていた管領「細川政元」死後の権力闘争に巻き込まれ、「細川高国(ほそかわ・たかくに)」の要請で京へ出陣。
「細川晴元(ほそかわ・はるもと)」・「三好元長」らの連合軍と激突します。
この摂津で起こった「天王寺合戦」にて「浦上村宗」らは破れ、なんと総大将の村宗は戦死してしまうのでした。
こうして、村宗の子「浦上宗景」の代となりました。
(※本当は嫡男「政宗」が継いでますが、それと対立するなど色々あった末に宗景が残ったようなのです)
若い「浦上宗景」は凡庸な大将だったらしく、しばしば苦言を呈していた「和泉守能家」は次第に疎んじられるようになってしまいます。
そこで、先手を打った「浦上宗景」は家臣の「島村観阿弥(しまむら・かんあみ)」に命じて「和泉守能家」を奇襲。
なんと砥石城にて殺害してしまうのです。
この事態に驚いた「和泉守能家」の子「宇喜多興家(うきた・おきいえ)」はまだ幼児だった「宇喜多直家」を家臣の「岡七右衛門」、「長船仁助」らに守らせ、逃れました。
付近の西大寺住職であった尼が伯母にあたるため、この縁を頼ったらしいのです。
共に逃れた父「宇喜多興家」はその五年後、天文五年(1536)に病死するのでした。
…このあたりの話は正直なところ詳細不明です。
確かなところは、「和泉守能家」が「浦上宗景」の家臣「島村観阿弥(しまむら・かんあみ)」によって殺害された、というくだり。
ざっと書いてきましたが、播磨・備前あたりは有力国人などが入り混じるうえ、京に近く中央政権の影響を受けやすいため、色々思惑だのなんだのが入り混じる、ややこしい土地柄なのでした。
また、単純に「仕えた」と言っても明確な主従関係というより”強い勢力に味方する”という南北朝時代のような性格が強く、独自でも勢力を持っていたんですね。
それらが色々影響した結果、味方がいつしか敵にいたり、下克上があったりと不確かなのだと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_shock1.gif)
⇒ つづく。
次回は「暗愚を装う逃亡生活」
関連記事]
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 宇喜多秀家 <前 後>
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [前 中 後]
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※宇喜多さまで活躍したい貴方はやっぱり定番ソフト。
ゲームやっていると、格段に歴史が覚えやすくなります。
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ごめんね。
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享禄四年(1531)
中央政治に介入していた「浦上村宗」は当時中央を牛耳っていた管領「細川政元」死後の権力闘争に巻き込まれ、「細川高国(ほそかわ・たかくに)」の要請で京へ出陣。
「細川晴元(ほそかわ・はるもと)」・「三好元長」らの連合軍と激突します。
この摂津で起こった「天王寺合戦」にて「浦上村宗」らは破れ、なんと総大将の村宗は戦死してしまうのでした。
こうして、村宗の子「浦上宗景」の代となりました。
(※本当は嫡男「政宗」が継いでますが、それと対立するなど色々あった末に宗景が残ったようなのです)
若い「浦上宗景」は凡庸な大将だったらしく、しばしば苦言を呈していた「和泉守能家」は次第に疎んじられるようになってしまいます。
そこで、先手を打った「浦上宗景」は家臣の「島村観阿弥(しまむら・かんあみ)」に命じて「和泉守能家」を奇襲。
なんと砥石城にて殺害してしまうのです。
この事態に驚いた「和泉守能家」の子「宇喜多興家(うきた・おきいえ)」はまだ幼児だった「宇喜多直家」を家臣の「岡七右衛門」、「長船仁助」らに守らせ、逃れました。
付近の西大寺住職であった尼が伯母にあたるため、この縁を頼ったらしいのです。
共に逃れた父「宇喜多興家」はその五年後、天文五年(1536)に病死するのでした。
…このあたりの話は正直なところ詳細不明です。
確かなところは、「和泉守能家」が「浦上宗景」の家臣「島村観阿弥(しまむら・かんあみ)」によって殺害された、というくだり。
ざっと書いてきましたが、播磨・備前あたりは有力国人などが入り混じるうえ、京に近く中央政権の影響を受けやすいため、色々思惑だのなんだのが入り混じる、ややこしい土地柄なのでした。
また、単純に「仕えた」と言っても明確な主従関係というより”強い勢力に味方する”という南北朝時代のような性格が強く、独自でも勢力を持っていたんですね。
それらが色々影響した結果、味方がいつしか敵にいたり、下克上があったりと不確かなのだと思います。
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⇒ つづく。
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