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細川氏の臣、父三好元長 (三好長慶とその一族)0

2009年03月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。
過激な言動とか、歴史の超有名人「織田信長」との絡みによって、世間的には「松永久秀」のが有名ですね。
しかし、こちらの長慶さまも下剋上の代表的な存在であるのです。
有能な弟たちを駆使して、中央から四国まで広範囲にわたる勢力を有し、わずかとはいえ戦国時代”三好政権”を築き上げたその手腕をご覧ください。
…かなり長いですが。


清和源氏・信濃は「小笠原長清」を祖とする三好氏。
南北朝時代頃、「小笠原義長」の代にて阿波は三好郡に居住し、三好姓を名乗ったのが起こりとされています。
室町時代では細川氏と争い・従い、畿内へ進出してその内乱によって功を重ね、細川家中で影響力を持つようになっていくのでした…。

明応二年(1493) 「明応の政変」
“戦国時代の始まり”、とも言われる事件、「明応の政変」がありました。
簡単に言えば、京都市内での戦闘「応仁の乱」後の権力闘争です。

将軍就任となった「足利義材(あしかが・よしき)」ですが、それを不服とした「細川政元」らが新たに「足利義澄」を擁立。
畠山氏の討伐によって義材が留守であった隙を狙い、京を制圧してしまうのです。

こうして強引に義澄を将軍の座に据え、傀儡とした政元は管領として実権を握りました。
しかし、終始独身のままで実子がなかった彼が三人の養子を迎えていたことから家中に対立を招き、なんと自らもその混乱に巻き込まれて殺害(暗殺)されてしまったのです。
こうして、機内を舞台に細川氏が内乱を繰り返すという、「両細川の乱」が繰り広げられるのです。

【 細川政元 後継者候補 一覧 】
1:「九条政基」の子「細川澄之」
2:阿波守護「細川成之」の孫「細川澄元」
3:「細川政春」の子「細川高国」※写真

後継者争いは、有力視されていた澄之・澄元の間で起こりました。
高国が養子となったのは、三名中で最も遅かったんですね。
澄元側に入った高国は共に澄之を討伐。
しかし、間もなくその両者も対立することとなり、上洛を開始した周防の大大名「大内義興」ら中国勢を味方とした高国勢は澄元らを近江へ追放してしまうのです。

こうして、見事後継者の地位を手にした「細川高国」
叔父から追われることとなった、澄元の子「細川晴元」は父が討死した報を受け、阿波・勝端城にて後を継ぎました。

大永六年(1526)
高国が摂津・丹波の国人衆らと対立した混乱に乗じ、「三好元長」、「三好政長」らによって擁立された「細川晴元」は阿波から和泉堺へと上陸。
丹波での合戦に敗れていた高国勢を迎え撃った「三好元長」らは、摂津国中島、続く住吉での戦いに勝利。
高国は自ら擁立した義澄と共に、近江へと逃れたのでした。
こうして元長は「足利義澄」の子「足利義維(あしかが・よしつな)」を将軍に、「細川晴元」を管領として堺政権を樹立させたほか、自らは山城守護代として京を支配したのです。

…さて、その三年前である大永三年(1523)
細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男が誕生しております。
幼名を「千熊丸」というその人こそ、今回の主人公「三好長慶(みよし・ちょうけい)」なのでした。

(※「三好孫次郎範長(利長)」との名乗りもある)
ここでようやく主人公が登場ですよ。

⇒ つづく。
  次回は「イケてる三好軍団」(1/10)



[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     



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 こんなんあると便利かなー、って。

聖観音 (仏像・菩薩)

2009年03月26日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…”石を投げれば「地蔵菩薩」か「聖観音」に当たる”~とか、言われるくらい(うそ)にポピュラーな仏像「聖観音(しょうかんのん)」さまです。

たぶん、仏像とかよく知らん人でも、どーでもいい人でも、ほぼ必ずどちらかで目撃している仏像でしょう。
…たぶん。
おそらく近年に作られただろうブロンズ的なものも無数に見かけますからね。


慈悲の心であらゆる衆生の悩みと苦しみを救い、楽を与える菩薩…と説かれる「聖観音」さま。
六観音では、来世六道にて「餓鬼道」を救済する菩薩なのです。
その梵名は「アヴァローキテーシュヴァラ」
…覚えにくいですね。

全ての”観音菩薩”の基本形でして、「観音さま」と言えば通常はこちらの方。
「見仏記」にて「みうらじゅん」さんが新幹線の0系に例えていましたが、なるほどそんなんが分かりやすいですね。
(※「TV見仏記4 西山/高槻編」収録)

さて、「聖観音」さま。
インドにおける観音信仰はなんと紀元前後と言われ、かなーり早くから重要な菩薩として信仰があった様子。
それから六、七世紀ごろに「十一面観音」、「千手観音」など観音思想の展開に伴って様々な変化観音が出現すると、それらと区別するため「聖観音」と呼ばれることとなりました。
(※ほかには「正観音」、「聖観自在」などと呼ばれることがある)

諸菩薩の中では最も広く信仰されており、それは日本においても同様。
数は非常に多く、仏教伝来後から各時代を通じて信仰され続けてきた仏像なのです。

えー…ここはひでるさんの個人的な意見ですが……パンチパーマなおっちゃんみたいな如来、「梵天丸」も疑問をもったらしい明王、単なる坊主という地蔵さま…といった方々とは違い、最も神様ちっくなんですね。
男女どちらともとれる中世的なお顔で、宝冠から装飾品までが派手で、”神様がなんだかよく分からない人”が見ても神々しさを感じるだろう(たぶん)容姿が客受けしたのではないかなぁ
客じゃないか。

見分け方としては、頭に宝冠、体に天衣(てんね)をまとい、耳飾り、胸飾り、腕輪…など華麗な装身具をつけております。
左手には蕾の蓮華を持ち、右手で開かせようとする形が多いです。
立像、座像どちらもありますね。
「阿弥陀菩薩」の脇侍(※観音菩薩)であったりもします。
ただし、奈良時代までの観音像には宝珠を持つもの、水瓶だけを持つものなどポーズとか様々で、一定はしておりません。

ちなみに、「蕾の蓮華」は容易に悟ることのできない人々の煩悩の心、それを開かせようとしている右手は仏心を表現しているんだって
…そんなんを知ると、ちょっと「聖観音」に対する目が変わるでしょ。
伊達に蓮華を持っている訳ではないのです。

真言は「おん、あろりきゃ、そわか」
この観音さまの力を念ずれば、賊難、火難などあるゆる災難をもたちまち逃れることが…できます。そんな感じ。
また、「阿弥陀如来」の第一の眷属であることから、信仰する者が臨終となった際には極楽より迎えにきてくれるそうです。
ぜひ、迎えに来てもらいましょう!



[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
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⇒ 大天狗像
⇒ 訶梨帝母[鬼子母神](仏像)
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま
   


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※値段はそこそこしますが、写真が豊富である様子。
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大覚寺 (京都)

2009年03月22日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…たぶんまだやっていなかったと思うので、名勝地としても名高い「大覚寺」についてです。

正式名称「旧嵯峨御所 大覚寺門跡」、は真言宗大覚寺派の総本山なのでした。
こちらも総本山シリーズですね。
近畿三十六不動尊霊場の第十三番札所であるほか、心経写経の根本道場、はたまた”いけばな嵯峨御流”の総司所でもあるのでした。

さすがに歴史あるお寺、しかも門跡寺院(※天皇・皇族が住職となった寺)は違いますねー。


時は平安時代。
即位した「嵯峨天皇(さが・てんのう)」は后との新居として、「嵯峨院」を建立しました。
これが「離宮嵯峨院」で、簡単に分かりやすく言うと…奥さんとラブラブするための別荘ですかね。おおまかに。
”嵯峨”という地名も、長安の景勝地である嵯峨山から拝借したものなのでした。

こちらの「嵯峨天皇」は新しもの好きなのか唐の最先端な知識を持った「弘法大師」こと「空海」を信任し、高野山や東寺を与えております。
こちらの「離宮嵯峨院」にも五大明王を安置するお堂を建立するなど、何度も「空海」が立ち寄っていたようです。
(※当時の飢饉に際し、「嵯峨天皇」が写経された般若心経が現存している)

【 特別おまけ:略系図 】

桓武天皇(※平安京を造営)
   ↓
平城天皇--嵯峨天皇--------淳和天皇===正子内親王
            ↓                      ↓
          仁明天皇-正子内親王      恒寂(恒貞親王)
            ↓
          文徳天皇-光孝天皇
            ↓
          清和天皇(※清和源氏)


貞観十八年(876)
その後、「嵯峨天皇」の皇女「正子内親王(淳和天皇皇后)」が「清和天皇」に上奏して、こちらの一部を「大覚寺」と改め、自らの子(※「嵯峨天皇」のお孫さん)である「恒寂法親王(ごうじゃく・ほっしんのう)」を初代の住職としたのでした。
いわゆる”門跡寺院”ということで保護され、お寺としては安泰であったようなのです。

しかし、武士が台頭する鎌倉時代頃には一時衰退してしまいますが、出家後の「亀山天皇」が住んだことで再興。
いわゆる「大覚寺統」とは、この地にて院政を行っていたことに由来しております
南北朝時代には南朝の御所となって「嵯峨御所」とも呼ばれ、「後宇多天皇」の皇統が入って伽藍の整備などを行ったのでした。
元中九年(1392)には、こちらで長きに渡った南北朝の争いに終止符を打つ講和会議も開かれています。

そうした訳で、この時代頃にも広大な伽藍が造られるなど繁栄していたようですが、残念ながら後の火災によって焼失。
また、例によって(笑)戦国時代の「応仁の乱」がほとんどのお堂を焼失させたのでした。
やめてほしいですねー。

これで大いに衰退したものの、江戸時代初期頃になって復興。
現存する建物のほとんどは江戸時代の再建というのは、こんな歴史があったためなんです。



境内の東にある「大沢池」は周囲一キロという日本最古の庭苑池(ていえんち:池泉を主体とした庭園…みたいな意味でいい筈。たぶん)
中国にある「洞庭湖(とうていこ)」を模して造られたもので、国指定の名勝地なのでした。

仏像好きな方は、本尊である「五大明王」が必見です。
こちらは平安時代作で、それぞれ重文なのですよ。


[住所]
旧嵯峨御所 大覚寺門跡 京都市右京区嵯峨大沢町4


[関連記事] 【明王のいろいろ、ほか】
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⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
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南北朝の動乱 (戦争の日本史)
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※南北朝も勉強中なひでるです。
 何か良い本あったら教えて下さい。

追い詰められる純友さま (海賊大将・藤原純友)4

2009年03月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、首塚だの呪いだのと、同時代ではブイブイと言わせている有名人「平将門」さま。
そんな彼と比べ、やや地味なのが今回の主役である「藤原純友(ふじわらの・すみとも)」さまなのでした。
”名前は知っていてもイマイチ何をしたのかよくわかんない人”ということで、ちゃんと調べてみることとしたのです。
今回は完結編。

平安時代中期ころの事。
藤原北家の流れを汲む、筑前守太宰少弐「藤原良範」の子「藤原純友」
瀬戸内海にて海賊を追捕する役目であった純友ですが、いつしか“千艘ほどの船を持つ一大勢力”という海賊と化していたのです。
ミイラ取りがミイラ、という訳なのですね。

なお、坂東にて暴れまわっていた「平将門」ですが、天慶三年(940)二月に討ち取られておりました。
将門戦死の吉報に安心した朝廷は、純友対策に全力を注げるようになっていくのでした。


将門討伐軍の帰京は六月頃のこと。
これをもって、朝廷は本格的に純友討伐へと乗り出しました。
「小野好古(おのの・よしふる)」を追捕長官、大宰少弐(次将格)には「源経基(みなもとの・つねもと)」を当てました。
(※ちなみに、経基は清和天皇の皇子「貞純親王」の子。…要するに、彼の子が「源満仲」です)
そのほか、「藤原慶幸」が判官(じょう)、「大蔵春実」が主典(さかん)へと任ぜられ、それぞれ瀬戸内海へと出陣しております。

一方の純友勢は将門敗死の報に一時は日振島へ戻りますが、八月にはまた船団を率いて讃岐国などへ侵攻。
国府に攻め込んで官舎に火を放ち、略奪を働いております。
讃岐介「藤原国風(ふじわらの・くにかぜ)」はそんな純友勢に敗れて、阿波へ撤退。

十月頃には周防国へ侵攻して、鋳銭司(じゅせんし:貨幣の鋳造所ね)を襲っています。
さらに翌年には筑前へも侵攻し、大宰府を襲撃。
こちらの守備兵、及び追討軍をも蹴散らして、その攻略に成功したのでした。
略奪から放火まで、やりたい放題なのです。

しかし、好古の指揮する”純友追討軍”はじわじわと各地にて結果を出し、戦況を巻き返し、純友勢を少しづつ西へ追い詰めていたのでした。

天慶四年(941)
阿波にて戦力を立て直した讃岐介「藤原国風」は、追討軍と共に讃岐へ逆襲。
2月頃には、本拠である日振島が攻略されいしまったほか、純友勢の副将というべき「藤原恒利(ふじわらの・つねとし)」が国風に帰順してしまうのです。
さらに、純友の弟「藤原純乗」も、迎え撃った大宰権帥(だざいごんのそち:副将みたいなものね)「橘公頼」との戦いによって敗れておりました。

続いて五月。
伊予にて大宰府の襲撃を知った好古は、これを朝廷へと報告。
追捕長官「小野好古」、判官「藤原慶幸」、主典「大蔵春実」…ら追討勢は大宰府へと向かい、陸路と海路より挟撃を試みます。

博多湾にて迎え撃った純友勢と大規模な激戦になりました。
ここで海賊船八百艘余りが捕獲されたほか、数百人に及ぶ死傷者を出した純友軍は大敗北となってしまうのです

…敗北した純友は小船に乗り、息子「重太丸」と共に戦場を脱出。
なんとか伊予まで戻るものの、翌六月には警固使「橘遠保(たちばなの・とおやす)」によって捕縛され、そのまま獄中で没するのでした。

新皇と称した「平将門」がわずか数ヶ月たらずで平定されてしまったのに対し、瀬戸内海を駆け巡った「藤原純友」の乱は二年にも及んだのです。
彼ら体制に対して不満を抱いていた地方勢力は、律令国家の脆弱さを露呈することとなったのでした…。



[関連記事]  【 源平合戦 祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
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⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編
⇒ 人呼んで”悪源太”こと「源義平」 「大蔵館合戦」[ 
⇒ 欲望渦巻く天皇家 (鳥羽院・平安時代末期)
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⇒ 源氏衰退、平家政権樹立 (平治の乱)[   
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[       ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)


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レゴ パイレーツ 赤ひげ船長の海賊船 6243

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※海賊船です。
 今のレゴは色々種類あって楽しそうですねー。

朝廷を震撼させた純友さま (海賊大将・藤原純友)3

2009年03月15日 | 歴史
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さて、首塚だの呪いだのと、同時代ではブイブイと言わせている有名人「平将門」さま。
そんな彼と比べ、やや地味であるのが今回の主役である「藤原純友(ふじわらの・すみとも)」さまなのでした。
”名前は知っていてもイマイチ何をしたのかよくわかんない人”ということで、ちゃんと調べてみることとしたのです。


平安時代中期。
坂東にて「平将門」が暴れまわっていたのと同じ頃。
まるでその動きに呼応したように、瀬戸内海の海賊らを率いて朝廷を震撼させたのが、「藤原純友」だったのです。
彼は藤原北家の流れを汲む、筑前守太宰少弐「藤原良範」の子でした。

瀬戸内海にて海賊を追捕する役目であった純友ですが、いつしか“千艘ほどの船を有する一大勢力”という海賊と化していたのです。
ミイラ取りがミイラ、という訳なのです。


私物から官物に至るまで、略奪を働くようになっていた純友勢。
それはいつしか京に近い摂津にまで進出するようになり、困った太政大臣「藤原忠平」は「紀淑人(きの・よしひと)」を伊予守へ任じて、海賊らを追捕するよう対策に当たらせたのでした。
淑人は征伐ではなく懐柔策を取って、多くの帰順に成功したため、純友勢はしばらく行動できなくなってしまったのです。

天慶二年(939)
東国では「平将門」が”新皇”と称して関東をほぼ支配するなど、大暴れしていました。
さらに、度々の大地震から火災まで世は不安に包まれ、朝廷と言えばただ神頼みをするような有様だったようです。

一方の西国では、備前介「藤原子高(ふじわらの・むねたか)」と争ってこれに敗れ、圧迫された「藤原元文(ふじわらの・もとふみ)」が純友へと救援を求めてきました。

この事件を切っ掛けとして、過去に行った海賊退治での恩賞を朝廷へ要求した純友。
まず手始めといわんばかりに、摂津・須岐へと乱入。
子高勢を襲撃し、あっさりこれを撃破したのです。

朝廷は、”東国の将門と西国の純友が東西呼応して謀反を起こしたのでは?”と、驚愕・戦慄したと伝えられています。

天慶三年(940)二月。
純友の要求に対し、朝廷は彼を従五位下に叙して、懐柔・慰撫に努めております。
しかしその甲斐はなかったらしく、淡路島を襲撃して官の武器を奪うなど、純友勢の海賊行為は依然として続いておりました。

なお、正月に”追捕凶賊史”となっていた「小野好古(おのの・よしふる)」は、純友勢が京へと進撃する可能性を示唆。
関係性は不明であるものの、放火や盗賊などが京で頻発していたことから、太政大臣「藤原忠平」は都の警護に力を入れるのです。

このように西方での兵乱はより激しさを増していましたが、この頃東では「平将門」がついに討ち取られていたのです。
将門戦死の吉報に安心した朝廷は、純友対策に全力を注げるようになっていくのでした…

⇒ つづく。
  次回は「追い詰められる純友さま」(4/4)


[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
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⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
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⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将 「伊集院忠棟」 [   


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※ややとっつき辛いですが、平安時代もなかなか面白いと思います。
 こうした本が入りやすいでしょう。
  

追捕転じて海賊となった純友さま (海賊大将・藤原純友)2

2009年03月12日 | 歴史
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さて、首塚だの呪いだのと、同時代ではブイブイと言わせている有名人「平将門」さま。
そんな彼と比べ、やや地味なのが今回の主役である「藤原純友(ふじわらの・すみとも)」さまでした。
”名前は知っていてもイマイチ何をしたのかよくわかんない人”ということで、ちゃんと調べてみることとしたのです。


平安時代中期。
坂東にて「平将門」が暴れまわっていたのと同じ頃。
まるでその動きに呼応したように、瀬戸内海の海賊らを率いて朝廷を震撼させたのが、「藤原純友」だったのです。
彼は藤原北家の流れを汲む、筑前守太宰少弐「藤原良範」の子でした。


前述しましたが、承平年間(931~938)は海賊が横行し、瀬戸内海の各地では悩みのタネでした。
彼らを追捕する役目である、「伊予掾(いよのじょう)」だった純友。

ここて海賊勢を討伐・服属させていった純友は無事に任期を務めあげ、そのまま伊予へ土着しました。
「伊予掾」を務めたことによって瀬戸内海とは深い繋がりができ、多くの配下を従えるようになっていたのです。

地方には同族の争いに敗れたなどの理由によって落ちぶれた貴族も多く、これまで当たり前のように支配してきた朝廷に対する不満が募っていました。
純友が従えた名はなくとも実ある海賊らも、そうした者たちであったと想像されています。

承平五年(935)
この頃から、東国で暴れまわっていたという「平将門」
それから一年ほど遅れて、承平六年(936)
純友は突如として、海賊首領のような行動に転じたのでした
ここはひでるさんの想像になりますが、討伐する海賊、配下となる者、どちらにも理由があった筈です。
反乱側に加わる者、その討伐にて名を上げようとした者。
戦い、あるいは会話をするうち、朝廷に対する不満を共に募らせていったのかもしれません。

伊予国は九州に近く、瀬戸内海では重要拠点でした。
宇和島沖の豊後水道に浮かぶ天然の良港をもった離島、伊予「日振島(ひぶりしま)」
この日振島を最大の拠点とした「藤原純友」はいつしか“千艘ほどの船を持つ一大勢力”となっており、各地へ進出して海賊行為をするようになっていました。
これには弟「藤原純乗(ふじわらの・すみのり)」も参加しており、周囲の海域をさんざんに荒らすなど猛威を振るったのです。
ミイラ取りがミイラ、という訳ですね(笑)

⇒ つづく。
  次回は「朝廷を震撼させた純友さま」(3/4)

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 姫若子、ついに初陣! 「長浜合戦」 [   ]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ はねる謙信逃げる信長 「手取川合戦」[    
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⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


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※海賊ということで、こんなんを。
 当然ですが、「純友さま」はのってません。
  

藤原北家の純友さま (海賊大将・藤原純友)1

2009年03月08日 | 歴史
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さて、首塚だの呪いだのと、同時代ではブイブイと言わせている有名人「平将門」さま。
…そんな彼と比べてやや地味なのが、今回の主役「藤原純友(ふじわらの・すみとも)」さまなのでした。

この、”純友”って名前がいかにも優等生でいい人っぽい響き(笑)で、いまいち垢抜けない原因だと考えているんですが…どうでしょうかね?
そうした冗談はさておき、”名前は知っていてもイマイチ何をしたのかよくわかんない人”の一人ということで、このたびちゃんと調べてみることとしたのでした。


”鳴くよウグイス”で知られる、延暦十三年(794)
皆さん良くご存じの通り、「平安京」へと都(首都)を移してから約百年ほど過ぎた、平安時代中期のことでした。

坂東にて「平将門」が暴れまわっていたのとちょうど同じ頃。
まるでその動きに呼応したように、瀬戸内海の海賊らを率いて朝廷を震撼させたのが、「藤原純友」だったのです。

苗字である”藤原”から想像されるように、彼は藤原北家の流れを汲む、筑前守太宰少弐「藤原良範」の子なのでした。
(※ちなみに、これには異説もあるんですが)
ここで、ちと藤原家の家系図↓をご覧ください。

■藤原氏 家系図 (※略 ↓:子、-:兄弟)

 鎌足(中臣)
   ↓
 不比等
   ↓
 武智麻呂(南家)-房前(北家)-宇合(式家)-麻呂(京家) ※これが藤原四家。
                ↓
            真楯---魚名(※こちらの子孫が奥州藤原氏に)             
             ↓     
           内麻呂 
             ↓     
            冬嗣
             ↓     
        長良-良門-良房(※こちらの子孫が最も繁栄する)
         ↓
        遠経
         ↓
        良範
         ↓
       ★純友


平安時代もこの頃になると、実利の不満を反体制にまで発展させて略奪行為や私闘をする者らが各地にて散見されるようになっていました。
後に「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」と呼称される将門・純友らの大規模な反乱も、そうした体制への不満を爆発させたものだったのです。

⇒ つづく。
  次回は「追捕転じて海賊となった純友さま」(2/4)


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十二神将 (仏像・天部)

2009年03月05日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
だんだん何をやっていて何をやっていなかったのか、訳分からなくなっている仏像シリーズ(笑)
本日は、結構あちこちで見かけるだろう「十二神将」です。

別名「十二薬叉大将」とか、「薬師十二神将」とも言います。
当然ですが、総勢十二名もいるこちらの方々。
その数の由来は「薬師如来」の”十二の大願”によってあらわされたもので、本尊の周囲にあってそれを守護している十二の夜叉なのでした。

ある日、「薬師如来」の本願と功徳について説法を行っていたお釈迦さま。
その熱い言葉(←ここはうそ)に感動したらしい夜叉の十二名が、それぞれ七千という眷属「薬叉(やくしゃ)」を従え、「薬師如来」のもとに集まったのですね。

「薬師本願経」には、「薬師如来」の名号を受持し、供養するものを守護し、苦しみを脱し、願いを満足させるもの…と説かれています。
薬師さまの関係者について、盛りだくさんな特典を与えてくれる方々なのでした。

数字を見て、ぴーんときた方は…いるかな?
あるいは、どちらかで実際に仏像を見ている方ならば、なんとなくご存じでしょう。

そう、彼ら「ねー、うし、とら…」でおなじみ、十二支との結びつきがあるのです。
その関係から昼夜十二時というそれぞれ時刻の守護を担当しているほか、十二の方位をも守護しているという、大変に忙しい方々だったのでした。
(※昔は時刻とか方位がそんなんでしたよね)

さて、肝心の見分け方ですが…はっきり言って、見分けられません(笑)
経典によって微妙に異なったりするほか、持持やポーズなどが曖昧で一定してないのでした。
いちおう、基本的に唐風な甲冑を着けた神将形。
平安時代末期ころからはある程度定型化しており、中世以降のものは頭上に十二支の冠があるのでどうにか区別できます。
それ以前のものは動物冠はなかったのです。
図像になると、直接動物に騎乗しているのもあるのだとか。
…ちょっと見たいですねー、それ。
メンバーは↓下記のような方々です。

■十二神将メンバー (※右が対応する十二支)

01) 宮毘羅(くびら):ね
02) 伐折羅(ばさら):うし
03) 迷企羅(めきら):とら
04) 安底羅(あんちら):う
05) 頞儞羅(あにら):たつ
06) 珊底羅(さんちら):み
07) 因達羅(いんだら):うま
08) 波夷羅(はいら):ひつじ
09) 摩虎羅(まごら):さる
10) 真達羅(しんだら):とり
11) 招杜羅(しょうとら):いぬ
12) 毘羯羅(びから):い

最も有名なのは、奈良は「新薬師寺」の塑造(※)十二神将像。
こちら、天平時代と推察される、日本最古のもの。
表情から動きなど派手で、大抵こちらが例として登場しています。
一体「波夷羅」以外の十一体が国宝です。
大変残念なことに、「波夷羅」だけ江戸時代の”安政の大地震”によって壊れちゃった、とのことでした。


※塑造(そぞう)
粘土などを用いて、盛り上げて造る技法のこと。
アジアでは適当な木材・石材が少なかったため、平安時代前には盛んだったようです。
簡単には…木で骨組をつくり、そこに縄を巻きつけ、粘土質の土を盛っていくのだとか。


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 映像はアップにしてくたりするのがいいですよね。

とちおとめイチゴソフト (栃木県・鬼怒川温泉)

2009年03月01日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、栃木県は鬼怒川温泉駅近くにある「あさや」さんの「とちおとめイチゴソフト」です。

京都へ行ってからというもの、水の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」とラブラブなひでるさん。
(※たんなる雨男とも言う)
先ごろ、普段からの忙しい日々を温泉で癒そうと考え、バダバタした中でスケジュールを無理やり確保して鬼怒川まで行ってきたんです。

出発からは非常に良い天気で、心ウキウキ、足取り快調。
たしか栃木駅までは晴天が続いていたんですが、コレがまた駅に近づくうちにだんだんと怪しくなり…

天気  (笑) 

またやってしまいました。
つくづく高い降水確率と縁深いひでるさんです。
「みずはちゃわん」も容赦ありません。

まぁ、こちらの水分たっぷりなボテ雪と違って、さらさらと傘不要だったのはさすがにいい感じ。
ただね、とにかく寒いのよ。
ある程度想定していた防寒対策を軽く上回るくらいなのでした。

そんな時に発見したのがこちら。



栃木特選いちご 『 とちおとめイチゴソフト 』

~本場とちぎの甘くて美味しいイチゴがたっぷり入っています~


…だって。
念のため(?)店員さんに聞いてみたところ、地域限定商品だということで、寒空の中食べてみることとしたのでした。
ばかね。
(※ちなみに、当然コーナーに人は不在だったので、わざわざ奥まで呼んできたの)


※店員さんに持っててもらいました。

そんなこんなで「とちおとめイチゴソフト」です。
薄いピンク色な、見た目にも良い雰囲気。
食べると…イチゴの味(あたり前)
えっとね、まったりとした甘さと爽やかな後味。
なんというか、ブルーベリーのような感覚でした。

【おすすめ★メーター】 栃木特選いちご『 とちおとめイチゴソフト 』
■■■■□ 4Point …まぁ、モノが苺と相性良いだけ、美味くて当然。

いかがでしょう?
みやげなどの置かれた店内は控え、風も冷たい外で食べました。
震えるほどに寒かったものの、おいしくいただけましたよ。
ぜひ温泉へ出掛けた方はこちらもお試し下さいませ。


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※温泉地と言えば…やっぱりサスペンスですよねー。
 タクシーの運転手さんから色々お話を伺いました。