お寺さんぽ Ver.03

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姉川に布陣する両軍勢 (姉川合戦)4

2008年01月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は結構世に広く知られていながら、「本当のところはどうなのよ?」ってな色が強い、激戦「姉川合戦」をお送り致します。

美貌の妹「お市の方」を嫁がせ、同盟関係となった尾張・織田、近江・浅井の両家。
しかし、浅井家の盟友であった朝倉家を無断で攻撃したことに「浅井長政」が反発・挙兵。
まさに袋の鼠となった織田勢ですが、命からがら脱出に成功すると、すぐさま逆襲の手はずを整えるのでした。

浅井・朝倉方の切り崩しに成功した織田勢。
悪夢のような撤退戦からわずか一、二ヶ月後という元亀元年(1570)六月には二万から三万とも言われる兵をまとめ、再び岐阜を出発したのです。
「織田信長」は本陣を浅井氏の本拠「小谷城」の南西、虎御前山(とらごぜやま)に陣を張りました。
こちらには、信長の要請によってはるか三河より「徳川家康」以下五千の兵力が加わっておりました。

一方、浅井氏の要請に応じた朝倉方は「朝倉景健(あさくら・かげたけ)」以下一万の軍勢を差し向けました。
当時の「浅井長政」が動員できた兵力がほぼ五千とされているので、連合軍で一万五千という軍容だったのです。
なお、この重大な局面でも当主「朝倉義景」は出陣しておりません。
これは、英雄「朝倉宗滴」が健在であった頃より、”戦場へ赴くのは当主以外の一門衆”というようなルールがいつしか朝倉家で根付いていたためであるようなのです。
そのため、これをして「朝倉義景」を批評するのは早計でしょう。…まぁ、出陣していたらより酷いこととなったかもしれませんが(笑)
ちなみに、浅井は当主「浅井長政」自ら出陣しております。

布陣した織田勢は天嶮の要害「小谷城」での攻城戦ではなく野戦を望み、浅井方の横山城に攻撃を開始。
思惑とおりこれに討って出た浅井・朝倉両軍は姉川の北岸へと布陣するのでした。
一方、織田・徳川両軍は姉川の南岸へと進み、ちょうど川を挟むよう両軍が布陣したのです。

この際、後方を任されようとした「徳川家康」以下徳川勢ですが、「ここまで出陣してきたのだからそんなの納得できない」と突っぱねたため、対朝倉を任されたとされています。(1)
なお、兵力で劣る徳川勢のため、信長は「横山城」包囲中の美濃三人衆が一人「稲葉一鉄」を徳川方支援としてつけております。

さて、野村地区には浅井勢が陣を置き、第一陣「磯野員昌(いその・かずまさ)」第二陣「浅井政澄」第三陣「阿閉貞秀(あつじ・さだひで)」第四陣「新庄直頼」、そして本隊「浅井長政」
その対岸には織田勢がおり、第一陣「坂井政尚」第二陣「池田恒興」第三陣「木下秀吉」第四陣「柴田勝家」第五陣「森可成」第六陣「佐久間信盛」、そして総大将「織田信長」の本隊という陣立てだったようです。
「丹羽長秀」を先鋒に十二段から十三段とも言われていますね。

三田村地区には朝倉勢が布陣し、第一陣「朝倉景紀(あさくら・かげのり)」第二陣「前波新八郎」第三陣が本隊「朝倉景健」
その対岸には徳川勢が布陣しており、第一陣「酒井忠次」第二陣「小笠原長忠」第三陣「石川数正」第四陣「徳川家康」という陣容でした。

とりあえず、よく言われている流れを紹介致します。
突っ込みは後で一気にやりますねー。

⇒ つづく。
  次回は「激戦の定説・活躍する徳川勢」です。

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※実は風流人でもあった美濃三人衆がひとり「稲葉一鉄」です。
 その三人で唯一生き残ったお方でもあります。



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