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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」のラストをお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇、その結末をお楽しみ下さいませませ。
元亀元年(1570)
西上作戦の武田勢。
それと同時に、信濃・高遠城城主「秋山信友」は伊那口から東美濃へと進出。
美濃国(恵那郡)岩村城を無血開城させ、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」はそれに快諾。
なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのでした。
上村合戦(※あるいはこの戦いで「遠山景任」は怪我をした、戦死したという説もあるようです)では、結集した”三遠山”の「遠山景行」らを破り、逃れた景行は岩井戸砦へ退いてこれをよく守っておりりましたが、後に力尽きて自刃。
こうして、東美濃はほぼ武田方の支配下となってしまうのでした。
岩村城から岐阜城まではわずか十五里程度。
まさに喉元へ刃を突き付けられたような状況で、「織田信長」は何度かその奪還を試みたようでしたが、四方を敵に囲まれた状況で派兵もままならず、またよく守った「秋山信友」は織田勢を寄せつけなかったのです。
西上を開始した「武田晴信」
元亀三年(1572)に信長の盟友「徳川家康」を「三方ヶ原合戦」で破った武田勢の進軍速度はなぜか鈍り、翌四年には不可解な撤退を始めるのでした。
そう、にわかに発病した晴信はそのまま病死していたのです。
この急な事態によって、将軍「足利義昭」の包囲網は瓦解。
武田勢の撤退から余裕の出た「織田信長」は散らばっていた勢力を各個撃破し、桶狭間以来の危機を脱したのでした。
英雄には運がつきますが、この信長という人も桶狭間の豪雨、「武田晴信」の病死、「上杉謙信」の病死など、なにかと強運の持ち主なのです。
続く天正三年(1575)には三河・長篠城を武田勢が攻撃したことから「長篠合戦」となり、当主晴信に代わっていた「武田勝頼」は織田・徳川の連合軍によって大敗を喫するのです。
これにより、東美濃での情勢は逆転。
ついに三万の兵と共に進出した「織田信長」、そして頼れる嫡男「織田信忠」はよく支えていた岩村城に対して兵糧攻めをとり、五ヵ月に渡る攻略戦の末に和議を持ちかけるのです。
「叔母の城なので兵火にさらすのはしのびない。和睦としようではないか…」
長期戦で守備隊も限界が近く、また現在の武田勢では援軍もままならないと判断した「秋山信友」はその和議を受け入れて開城。
自ら助かると思うほど甘い人でないと思いますが…妻「遠山夫人」の助命ならば叶うと判断したのか、どうか。
裏切られることを何よりも嫌う、猜疑心強い「織田信長」
あの四面楚歌という状態での肉親の裏切りは、ひどく腹に据えかねていたようなのです。
開城すると、あっさり条件を違えた信長は「秋山信友」、その正妻「遠山夫人」、岩村城・遠山氏の一族らを捕縛。
捕らえられたそれぞれは長良川原で磔にされた上、処刑されることとなるのでした。
処刑される際、「遠山夫人」は信長に対し、恨みの言葉を残したとされております。
こうして、世にも奇妙な「戦国メロドラマ劇場」は残酷な結末で終わるのです。
…まぁ、詳しく何があったのかは不明ですが、信長くんのお怒りも分かるような気はしますねぇ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_rain.gif)
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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※裏切られることが何より嫌いな信長くんです。
この方はよく約束を反故にしてるんですが、今回も怒りそのまま爆発してしまいました。
あちゃー。
本日は、特別企画「戦国メロドラマ劇場」のラストをお送りいたします。
当時を知ることのできる、大変に興味深いエピソードの一つ。
戦国時代で起こった、まるで昼ドラのような愛憎劇、その結末をお楽しみ下さいませませ。
元亀元年(1570)
西上作戦の武田勢。
それと同時に、信濃・高遠城城主「秋山信友」は伊那口から東美濃へと進出。
美濃国(恵那郡)岩村城を無血開城させ、和議の条件として結婚を申し入れられた「遠山夫人」はそれに快諾。
なんと、つい先日まで敵方として戦っていた相手と夫婦になってしまうのでした。
上村合戦(※あるいはこの戦いで「遠山景任」は怪我をした、戦死したという説もあるようです)では、結集した”三遠山”の「遠山景行」らを破り、逃れた景行は岩井戸砦へ退いてこれをよく守っておりりましたが、後に力尽きて自刃。
こうして、東美濃はほぼ武田方の支配下となってしまうのでした。
岩村城から岐阜城まではわずか十五里程度。
まさに喉元へ刃を突き付けられたような状況で、「織田信長」は何度かその奪還を試みたようでしたが、四方を敵に囲まれた状況で派兵もままならず、またよく守った「秋山信友」は織田勢を寄せつけなかったのです。
西上を開始した「武田晴信」
元亀三年(1572)に信長の盟友「徳川家康」を「三方ヶ原合戦」で破った武田勢の進軍速度はなぜか鈍り、翌四年には不可解な撤退を始めるのでした。
そう、にわかに発病した晴信はそのまま病死していたのです。
この急な事態によって、将軍「足利義昭」の包囲網は瓦解。
武田勢の撤退から余裕の出た「織田信長」は散らばっていた勢力を各個撃破し、桶狭間以来の危機を脱したのでした。
英雄には運がつきますが、この信長という人も桶狭間の豪雨、「武田晴信」の病死、「上杉謙信」の病死など、なにかと強運の持ち主なのです。
続く天正三年(1575)には三河・長篠城を武田勢が攻撃したことから「長篠合戦」となり、当主晴信に代わっていた「武田勝頼」は織田・徳川の連合軍によって大敗を喫するのです。
これにより、東美濃での情勢は逆転。
ついに三万の兵と共に進出した「織田信長」、そして頼れる嫡男「織田信忠」はよく支えていた岩村城に対して兵糧攻めをとり、五ヵ月に渡る攻略戦の末に和議を持ちかけるのです。
「叔母の城なので兵火にさらすのはしのびない。和睦としようではないか…」
長期戦で守備隊も限界が近く、また現在の武田勢では援軍もままならないと判断した「秋山信友」はその和議を受け入れて開城。
自ら助かると思うほど甘い人でないと思いますが…妻「遠山夫人」の助命ならば叶うと判断したのか、どうか。
裏切られることを何よりも嫌う、猜疑心強い「織田信長」
あの四面楚歌という状態での肉親の裏切りは、ひどく腹に据えかねていたようなのです。
開城すると、あっさり条件を違えた信長は「秋山信友」、その正妻「遠山夫人」、岩村城・遠山氏の一族らを捕縛。
捕らえられたそれぞれは長良川原で磔にされた上、処刑されることとなるのでした。
処刑される際、「遠山夫人」は信長に対し、恨みの言葉を残したとされております。
こうして、世にも奇妙な「戦国メロドラマ劇場」は残酷な結末で終わるのです。
…まぁ、詳しく何があったのかは不明ですが、信長くんのお怒りも分かるような気はしますねぇ。
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この方はよく約束を反故にしてるんですが、今回も怒りそのまま爆発してしまいました。
あちゃー。