お寺さんぽ Ver.03

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (6)そして誰もいなくなった編

2006年05月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

さて、長かったこの「応仁の乱」の記事も今回で遂に最終回となります。
もうややこしい事はありません(たぶん)
戦いの顛末がどんなだったのか、気軽にお読み下さい。
のんびりとどうぞ。


■応仁の乱・後編

応仁二年(1468)
東軍・西軍の小競り合いはなおも続いておりました。
寺院から民家までことごとくが焼け落ち、まさに京都は”焼け野原”と化してしまいました。

戦は持久戦の様相となり、不足した兵を補うため、どちらの陣営も市中の浪人をかき集め、にわか軍兵としました。
…これが、戦国期では主役となる「足軽」の起こりとされています。

彼らはいわゆる雇われ兵であるため、軍規・軍律とは無関係でした。たんなる荒くれモノがこともあろうに集団となったのですから、そりゃあもう好き勝手に暴れまわるなど、その存在が混乱にいっそう拍車をかける原因の一つとなりました。


「なれや知る都は野辺の夕ひばり あがるをみても落つる涙は」 (※飯尾彦六左衛門)


単なる、自己の利を求める大義のない戦いは離合集散を繰り返し、延々と長引く戦乱で京都は荒廃。
そして、中央の混乱は地方へと伝わり、各守護大名の領国まで拡大。自らの領土を守るため、参陣していた大名らは京都に居続けることができなくなってしまうのです。

また、守護大名の長期不在は守護代などの配下武将が地元にて着実に力をつける要因ともなりました。
これが、”なんちゃら国守護”という、幕府より頂いた名目ではなく、実際に力を持った者が、その領土・領民の心をがっちり掴んだ者が台頭する「下克上の基礎」となるのです。


■応仁の乱の終結

文明五年(1473)
東西の総大将であった「山名宗全」「細川勝元」の両名が戦の終わらぬまま相次いで死去。
両者の子供「山名政豊」「細川政元」はついに矛を収め、ようやく東西の間にて和睦が成立しました。
各大名は自領へと引きあげていきます。

無責任将軍「足利義政」は結局子の「足利義尚」に将軍職を譲って隠居します。
西軍に担がれていた弟「足利義視」は二年後の文明七年に兄「足利義政」に恭順。ここで、将軍家の家督争いについても決着するのでした。

文明九年(1477)
ここでめでたし・めでたし、とならないのが「応仁の乱」
東西両大将(その子供ですけどね)
分裂した将軍家。

…それがひと段落したものの、まだしつこく戦い続けていたのが東軍「畠山政長」と西軍「畠山義就」でした。
まだいたんかい!
という感じですが、彼ら畠山家の家督争いはまだ決着しないままだったんですね。

しかし、それも西軍の実力者「大内政弘」が撤退すると、ようやく争いは完全収束となるのでした。
(※余談ですが、「畠山政長」が結果として家督を相続。その後「細川政元」と争って敗北・自害)


世にも珍しい、

「そして戦場に誰もいなくなった」

…という、勝ち負けもない、なんだか分かんないけど終わったらしい。
なーんていうような、くだらない幕切れとなるのです。

十一年にも及ぶ長い長い戦いは、結局誰に何の実利をも与えることなく、主だった将の戦死もなく、ただ室町幕府の権威をひたすらに失墜させ、また京都の文化財をことごとく焼失させただけの、無意味なものでした。

もし、京都に行く機会があったなら、お寺などで説明書きの看板(今回の写真みたいなやつ)をご覧下さい。
まー「応仁の乱にて焼失」という記述の多いこと、多いこと……。
ひどいものです。


ちなみに、九代将軍「足利義尚」は二十四歳の若さで死去。
その後、十代将軍は不幸の代名詞「足利義視」の子である「足利義稙」が継ぐこととなるのです。
歴史って面白いですね。
(※またまた余談ですが、その将軍後継を巡って暗躍する日野富子に義視・義稙親子が対立するなど、彼らは相変わらずなことをやっています。懲りない面々です)


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 山名宗全邸   京都市上京区の堀川の西付近

   ※今回写真は再び「山名宗全邸」、そこの看板です。
    今回の文を引用させて頂きました。


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※やっぱりとっつくには漫画が楽ですよねー。
 と、いう訳で最後はひでるさんは読んだことないですが、初心者にはオススメな漫画としてみました。
 いいよね、まんがって 

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