お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

高いよ「シュタイフ テディベア」

2006年11月29日 | ネタ
えー、色々不具合などありましたが、現在のところ引っ越し先は無事稼動しております。
お騒がせしました。

 ★移動先 ⇒ お寺さんぽ ver.02

さて、こちら。
漫画の話は基本的にそっち系ブログにしたいんですが、ちょっと毛色もちがうのでここに記述します。
知らない方、ごめんなさい。
えっとね、「お寺さんぽ」の引っ越し先ブログは右側に商品掲載できるので、たまに色々貼り付けて遊んでいるんですが…↓コレ。

シュタイフ テディベア1910(Bigsize)

タルガ

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くまのぬいぐるみね。
アニメ化もされた「GUNSLINGER GIRL」という漫画で「シュタイフ・ベア」がどうの、って話があるんですよ。
そんな経緯で名前だけ覚えていたんですが… コレが高い!

お暇な方は↑商品クリックして進んでみて下さい。
尋常でない値段が表示 されますよ。
もともとはドイツのシュタイフさんという方が作ったんだって。
詳しくは知りませんが、最高の品質とかなんとか…。
すごいなぁ。

もうすぐクリスマスですから…お子様へプレゼントしてみてはいかがですか?
その価値わかんないでしょうけれど(笑)
また、室内犬とか飼っているお宅はボロボロにされないようご用心。



GUNSLINGER GIRL 3 (3)

メディアワークス

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※漫画はこちら。
 ね、後方にテディベアがいるでしょ?

戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)

2006年11月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
とりあえず、引っ越し先は表示されるまでになりましたが、表示画面と管理画面の記事日付が違っているので、どうなるのかおっかなくて書けません。
なんかね、管理画面だと十四日時点になってるの。
それまで書いてきた記事全滅ですよ
ちょっとショックよね。


そんな訳で、復旧が遠そうなあちらはそのままに、いつか書こうと思っている考え中なネタをば。
…えっとね、戦国武将って動物からめた愛称がついているではないですか。
それで十二支揃えようって思ってたのよ。

★現在調べがついているもの。

[鼠]
羽柴秀吉(禿げ鼠)
[牛]
秋山信友(武田の猛牛)
[虎]
武田晴信(甲斐の虎)、飯富虎昌(甲山の猛虎)
[兎]
なし
[龍]
上杉謙信(越後の龍)、伊達政宗(独眼竜)
[蛇]
斎藤道三(美濃の蝮)
[馬]
なし
[羊]
なし
[猿]
木下藤吉郎(猿)
[鳥]
蒲生氏郷(幼名:鶴千代)、龍造寺隆信(有明の鷹)
[犬]
前田利家(幼名:犬千代)、品川大膳(通称:狼之介)
[猪]
なし

★十二支でないけどオマケ
[鬼]
柴田勝家(鬼柴田)、森長可(鬼武蔵)、十河一存(鬼十河)、佐竹義重(鬼義重)、島津義弘(鬼島津)、義姫(奥羽の鬼姫)、馬場信房(鬼美濃)、原虎胤(鬼美濃)、小島弥太郎(鬼小島)、服部半蔵(鬼半蔵)、井伊直政(井伊の赤鬼)
[熊]
龍造寺隆信(肥前の熊)
[狸]
徳川家康(狸爺)
[鹿]
山中幸盛(通称:鹿之助)
[蝙蝠]
長宗我部元親(信長批評:鳥なき島の蝙蝠)
[獅子]
北条氏康(相模の獅子)

こんな状況。
ちょっと強引なのもありますが、そこはご勘弁。
なんなら「北条氏康」を「猪」で入れたいんですが…獅子とはやっぱり違うものですし。
知っている方おりましたら、コメントかなにかで教えて下さい。



復活…かと思えば

2006年11月19日 | ※引越しについて
…えー、また引っ越し先がアクセスできなくなっているようです。
全部がそうでなく、私と同じ時期に加入した方(blog82サーバー)のみの障害であるようです。
緊急メンテナンスだって。
こんな調子だからあちらのサイトが軌道に乗り切れないんだよー。
とりあえず記事が吹き飛んでいないことを祈ります。
なむなむ。


せっかくなんで何か書きますか。
↓こんな記事がありました。

■清水寺のお守りから携帯でおみくじサイトに・富士通がサービス 2006年11月17日[日経産業新聞]

富士通は16日、北法相宗大本山清水寺(京都市、森清範貫主)のお守りに印刷された絵を携帯電話で読み取り、おみくじサイトにアクセスできるサービスを始めた。富士通の開発した情報コードを絵に埋め込んだ。
おみくじサイトでは運勢を占えるが、本文は清水寺で実際に売られているものを使う。
年間100万件のアクセスを目指す。

提供するのは「八福神お守り(電子おみくじ付)」。
お守りに印刷された絵に「FPコード」という見えない情報コードが埋め込まれている。絵をカメラ付き携帯電話で撮影すれば、おみくじサイトにアクセスできる。
おみくじサイトで1―9の数字を選ぶと「大吉」や「凶」などの運勢と本文が表示される。
おみくじサイトは富士通が運営。
お守りの価格は1個1000円。
---------------------------------- 。。。



お守りとおみくじがごっちゃりしていて、ちょっとややこしいですね。
要するに「お守り」にある絵から「おみくじ」サイトにアクセスできる仕掛け。
お寺ハイテク計画ってやつですね。
”八福神お守り”なんて勝手に一人追加したりしてー。
メンバー入れ替わることはあったようですけれど、「七」という数字にも意義があるのではないでしょうか?
まぁ、別にいいですが。
数字「八」にしたいなら、「八部衆」にしてあげて下さい。
”八部衆お守り”
…どう?ちょっと勇ましくて、かっこえー感じでしょ?
このブログを見ているどこかのお寺さん(←いないと思う)
ひでるさんと組んでやってみませんか?


※ちなみに、今回写真は清水寺から見た景色です。
 綺麗でいいんですが…もぅ、そりゃー滅茶苦茶寒かったです。
 冬の京都は風情満点ですけれど、とにかく寒いんですよ。



引っ越し先、復活しました

2006年11月18日 | ※引越しについて

引っ越し先のHDクラッシュで、急遽こちらに記事を掲載していましたが、ようやく復活しました。
いくつか記事吹き飛んでいましたが、もともとテキスト保存してからカット&ペーストする方法でやっていたため、手間はかかったものの無事でしたよ。
北畠顕家さまの記事、そのあたりに保存した画像らが全て吹き飛んでいました。
いやー、危なかった。

とりあえず、こちらは「お寺さんぽ ver.02」、漫画記事以外でなんかあったら不定期に書こうと思っていますんで、よかったら見に来ていただければ。
こないだのウルトラマンみたいな。
そう、パチンコのウルトラセブンCMはなんか見ちゃいますよねー。
いいなぁ、メトロン星人。ひでるさんはチブル星人のファンです。 

以上、あおぶひでるでした。


 ★移動先 ⇒ お寺さんぽ ver.02

律宗の秘密 (鑑真和上)3

2006年11月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。

えー…引き続き「引っ越し先ブログのHDに異常発生・特別企画」です。
まだ復旧されない状況。
出戻りの可能性も考えつつ、あります。
いくつか記事が消えたとかなんとか、恐ろしい事態になっているようですから。



本日は「鑑真和上(がんじん・わじょう)」こと過海大師について。
「鑑真和上」は唐の高僧にして、律宗(りっしゅう)の開祖となる方なのです。

苦難の果てに日本へ到着した「鑑真」さま。
奈良に入ると、さっそく東大寺に戒壇(かいだん)を設け、日本仏教の整備に取り掛かるのでした。

盲目のまま活躍する「鑑真」さま。
「聖武天皇」の看病をし、「大僧都(※)」に任ぜられました。
さらに、「律宗」の根本道場となる「唐招提寺(とうしょうだいじ)」を建立。

その後には朝廷から「和上(わじょう)」の尊号を与えられています。
これは「鑑真」さまのため、余計な苦労から解放し、自由に「戒律」を伝えられるための配慮によって僧の任が解かれたようなのです。
こうした功績以外にも、彫刻や薬草の知識も深かったため、文化・知識てせも大いに影響を与えただけでなく、本国同様に日本でも貧しい人々の救済をしていました。

こうして、日本に多大な功績を残した「鑑真和上」は天平宝字七年(763)異国の地、「唐招提寺」で没しました。
死期を悟った弟子たちは和上の像を作成しております。
この「唐招提寺・鑑真像」は国宝として現在の「御影堂」に安置されています。
日本最初の肖像彫刻とされているんだって。


ちなみに「律宗(りっしゅう)」というのは、戒律(道徳規範・規則)の研究と実践を行う宗派です。
なんだか近寄りがたい雰囲気ですね(笑)

釈迦は布教活動を行った結果、「仏教教団」と言うべき団体となってしまいます。
すると、どうしても維持・管理するために「規則」が必要となり、場面・状況に応じて様々な規則を作りました。
「戒」は道徳規範、「律」が規則となるのです。

その「律」を研究する仏教宗派こそが「律宗」、開祖「鑑真」さまなんですね。

ちなみに、釈迦死後より「経」、「律」、「論」の修得こそが僧侶というようになり、全て熟達した人を「三蔵」と呼ぶそうです。
「経・律・論」に通じた学僧の尊称として、名前の下に「三蔵」をつけるようになるんですが…そうです、西遊記でお馴染みの「三蔵法師」ってのはこの意味なのでした。
「三蔵法師」はあくまでも尊称で、名前は「玄奘三蔵(げんじょう・さんぞう)」と言うんだそうな。
最後にその「三蔵」を解説しておしまい。

・経(きょう) 釈迦の教えを文章にまとめたもの。教科書ですか。
・律(りつ)  規則をまとめたもの。ルールブックです。
・論(ろん) 解説書。攻略本みたいなもんですね。


※大僧都(だいそうず)
 僧都の上位。僧正(そうじょう:僧の役職では最高位)の下、律師の上に位し、僧・尼を統轄する役目。


[関連記事] 【名僧・怪僧・奇僧…僧特集】
⇒ 密教と言えばこの人「弘法大師」 () 
⇒ 修験道の開祖 「役小角」 () 
⇒ 踊り念仏「空也上人」(京都・六波羅蜜寺)
⇒ ゲゲゲの「小野篁」 (前編 ・ 後編


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りびんぐゲーム 1 (1)

小学館

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※思い出しました。
「りびんぐゲーム」も引っ越し先が駄目なパターンでしたね。
 1巻のソレが後々の伏線になっているところが凄い。

でもホントはカバが好き 完全版

一迅社

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※引っ越し先でガス爆発だっけか?紹介しといて「でもカバ」は絶版なんですね。

来日への挑戦 (鑑真和上)2

2006年11月16日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。


えー…引っ越し先ブログのHDに異常発生。
朝からこの時刻(pm11:00)になっても復旧してくれない事態です。

引っ越し先がいきなりトンデモない事態になるなんて、まるで「でもかば」のようですよ。

でもホントはカバが好き 完全版

一迅社

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とりあえず、こちらにも記事がありますんで、代わりにアップすることとしたのでした。
あー早く復旧しないかな。


本日は「鑑真和上(がんじん・わじょう)」こと過海大師について。
「鑑真和上」は唐の高僧にして、律宗(りっしゅう)の開祖となる方なのです。

「聖武天皇」の招きに応え、唐国より来朝することとなった大明寺の高僧「鑑真」さま。
しかし、その行く手には様々な困難が待ち構えていたのでした。

唐でも有名だった「鑑真」さま。
日本へ行くって話は、その弟子たちも「はい、そうですか」とあっさり納得できるものではありません。
こちらがまず反対し、何度か強行な手法を用いても阻止しようとしていました。
さらに、海を渡るのに生死を問われたような当時ですから、せっかく船に乗っても、暴風雨に遭って中断することもあったようです。
そんなこんなで、なんと五回にも及ぶ航海に失敗していたのです。

東大寺に到着するのが天平勝宝六年(754)ですから、なんと約十二年という年月を要しております。
天平勝宝五年(753)の六回目でようやく来日に成功。
薩摩に上陸した「鑑真」さまは当時すでに六十六歳となっていました。
また、慣れない気候や疲労も重なり、到着した頃には両眼を失明していました。
うっそー!(←本当です)
もの凄い根性です。

もしかしたら、「鑑真」さまは仏教・無法地帯となっていた当時の日本に、戒律制度を設けることを自らの役割と思っていたのかもしれませんね。

奈良へとたどり着いた「鑑真」さま。
まず、東大寺・大仏殿の前に戒壇(かいだん)を設けました。
その「戒壇」というのは、僧侶になるための「授戒」の儀式を行うところなのです。
まぁ、多少違いますが、キリスト教の「洗礼」と似たようなもので、信者として守るべき戒律を授ける(※規則を教え、遵守させる)ことで僧侶として認める。みたいな。

こちらでは四百名ほどの僧が授戒したようです。
後に東大寺以外でも「戒壇」が設けられるようになり、僧・尼となるためには必ず戒を受けることとなるのでした。
戒律制度が急速に整備されていったんですね。
こうして、体裁を整えていただけの日本は完全に「仏教国家」となるのでした。

⇒つづく。
 次回は「律宗の秘密」

[関連記事] 【名僧・怪僧・奇僧…僧特集】
⇒ 密教と言えばこの人「弘法大師」 () 
⇒ 修験道の開祖 「役小角」 () 
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仏教無法地帯 (鑑真和上)1

2006年11月16日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。

えー…引っ越し先ブログのHDに異常発生。
朝からこの時刻(pm11:00)になっても復旧してくれない事態です。

引っ越し先がいきなりトンデモない事態になるなんて、まるで「でもかば」のようですよ。

でもホントはカバが好き 完全版

一迅社

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とりあえず、こちらにも記事がありますんで、代わりにアップすることとしたのでした。
あー早く復旧しないかな。


本日は「鑑真和上(がんじん・わじょう)」こと過海大師について。
「鑑真和上」は唐の高僧にして、律宗(りっしゅう)の開祖となる方なのです。


さて、唐にあった「鑑真」は各地で仏教を学ぶ傍ら、貧しい人々の救済をしていました。

さて、その頃の日本。
僧になると税が免除されることから、勝手に僧となる者が増え(そりゃそうだ)ていたのです。
当時の日本には僧になる儀式(その考えすらなかったっぽい)は存在せず、自分で「僧になろう」と思った次の瞬間から僧と名乗れたようなんです。
そこで、戒律の整備が急務とされていました。

戒(戒律)ってのは仏教の信者が守るべき行動の規範。
法律、ルールですね。
ちょうど「釈迦」が布教活動を行って、自然と教団化していった際。
教団を維持するための規則が必要となってしまうのです。
(※こういったものは釈迦さんの理想とかけ離れていたと思うのね。ひでるさんは)
釈迦は事があったその時々に規制を定めました。
…ほら、有名なんだと「五戒」とかです。

1) 不殺生(ふせっしょう) 生き物殺しちゃ駄目。
2) 不偸盗(ふちゅうとう) 人の物盗んでは駄目。
3) 不邪淫(ふじゃいん)  自分の妻(夫)以外と交わっては駄目。
4) 不妄語(ふもうご)   嘘をついちゃ駄目。
5) 不飲酒(ふおんじゅ)  酒を飲んでは駄目。

天罰!ってやつですよ。 (←分からない人は無視して)
さて、そんなこんなで戒律が必要となっていた日本では、急遽「その専門家を招致しよう!」という動きとなり、「遣唐使」にて入唐した「栄叡(ようえい)」と「普照(ふしょう)」が探し出したのが、唐でも戒律の僧として有名だった「鑑真」さまのようなのです。
二人の要請を快諾した「鑑真」さま。
これが天平十四年(742)のこと。

しかし、これがすんなりとは行かないのでした。

⇒つづく。
 次回は「来日への挑戦」

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⇒ ゲゲゲの「小野篁」 (前編 ・ 後編


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     ⇒⇒⇒ 行ってきました!「ひでるレポート」


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「ウルトラマン伝説展」高い芸術性? (跡地ニュース)

2006年11月15日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
検索とか、なんだかでこちらへ来る方がまだ多いので、そのうちに何か書いてみようと思ってたの。
こんな記事見つけましたんでどうぞ↓


●広島で「ウルトラマン伝説展」 怪獣にみる、高い芸術性 2006年10月15日[Sankei Web]

今年は「ウルトラマン」の放映開始から、ちょうど40周年。
社会背景を巧みに織り込んで描き込まれた人間ドラマや、当時最新の技術を盛り込んだ映像表現は、今も多くの人々を魅了し、後のヒーロー観に多大な影響を及ぼした。
そして、これらと並んで高い評価を受けているのが、成田亨(昭和4~平成14年)と高山良策(大正6~昭和57年)という2人の芸術家によるヒーローや怪獣の造形だ。
独創的な作品の数々は、世界の近現代美術とも深く結びついている。(寺西肇)

-中略1-

 成田は「怪獣とウルトラマン」の関係を「カオス(混沌)とコスモス(秩序)」と位置づけ。
ウルトラマン自体の造形には「現代の神仏」をイメージ、広隆寺の弥勒菩薩やギリシャ彫刻に見られるアルカイック・スマイル(古代の微笑み)を湛えたマスクを作った。身体のデザインは、イタリアの巨匠ペリクレ・ファッチーニの彫刻「ダイナミックな動きの表現」を参考にした、という。

 敵役である怪獣や宇宙人の面々も、個性派揃いだ。成田はデザインにおいて、
(1)現存する動物をそのまま映像トリックで巨大化させない。
(2)動物と人間などの同存化合成は行うが奇形化はしない。
(3)体を傷つけたり、血を流したりしない。
-との3原則を自らに課した。
その上、高山は人が入って演じる関係で出るデザイン上の制約を克服しようと、中に入る人を複数にしたり、操り人形にしたりと工夫を怠らなかった

-中略2-

誕生40周年を記念して開催中の「ウルトラマン伝説展」では、実際に撮影に使用された着ぐるみはもちろん、成田によるデザイン画や、デザイン上に大きな影響を与えたプリミティヴ・アートの仮面なども展示。
2人の芸術家による、血の滲(にじ)むような作業の一端を知ることができ、これほど高い質の造形物が、週1回のペースで送り出されたことに改めて驚かされる。そして、現在も放映中のシリーズにも繰り返し登場する、これら往年の怪獣の普遍的な芸術性を実感するのだ。

「ウルトラマン伝説展」は19日まで 広島県立美術館
【大阪夕刊から】
---------------------------------- 。。。



まぁ、宣伝もあるのでしょうけれど、やったら褒めちぎった文になんだか冷めますね。
ちょっと前くらいまでは、”所詮子供番組”みたいな感じではなかったですか?
違ったっけか?まぁ、キチンと評価されたんだからいいか。

ひでるさんはウルトラマン好きですよ。
そりゃー子供の頃に多大な影響受けました。
実にいいものです。
登場怪獣も、ペスターとか、ブルトンとか、タダとか……(延々続く)実に多彩で独創的なものでしたよ。ええ。
最近のはよく知りませんが、CMなどで姿を見るといまだに胸躍ります。
上の説明からすると、ひでるさんも子供の頃のウルトラマン好きが、年齢と共に仏像へ移行したのかもしれない、とか思いました。

…でも……広島なのね。さすがに行けませんよ。




 ちなみに、メインブログは引っ越ししています。
 ★移動先 ⇒ お寺さんぽ ver.02

引越ししました

2006年11月09日 | ※引越しについて

昨日もちょっと書きましたが、本日記事よりブログを下記・移動先へ引越ししました。
あ、終わりではないですよ。
これからもなんとなく続けていこうと考えてます。

開始当初は「半年続けるのしんどいな~」とか思ってました。
そんなんが気がついたらもうすぐ一年。
「お寺さんぽ」なんてタイトルなのに歴史ネタが多かったり、ソフトクリーム追っかけてたりして、色々ありながらどうにかここまできました。

他愛ないネタばかりでしたが、開始当初より信じられないほどの人数の方々にご覧頂きました。
ありがとうございます。

引き続き、引越し先の方もご覧頂ければ幸いです。
昨日も書きましたが、リンクして頂きました皆さまはお手数で申し訳ないですが、貼り直しをして頂ければと思います。
今後とも宜しくお願い致します。

 ★移動先 ⇒ お寺さんぽ ver.02

 あおぶひでる 








ちなみに
…なお、ブログ引越しで文字はほぼ完璧に移動できたんですが、画像などは一発変換できませんでした。
一部は修正しましたが、全てではありません。
そのため、こちらは閉鎖せずに残しておくこととしました。
気が向いたら何か更新するかもしれませんので、お暇ありましたら、ちょっと覗いて頂ければ。

また、ブログ引越しについて、「g○○」から「F○2」への移動のやり方を自己学習しました。
                 (※いちおうフセ字にしてみました。…しかし左はそのまんまですね)
引っ越しをお考えの方、おりましたらメールなどで質問頂ければと思います。

ひでる

後継者決定、そして内乱へ… 「清洲会議」5

2006年11月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。
ちょっと長くなってしまいましたが、これが最終回です。
刮目してご覧下さいませ。
…また、最後にお知らせがありますんで、そちらもどうぞ。

さて、筆頭家老の「柴田勝家」は三男「織田信孝」を候補として擁立しました。
嫡男「信忠」の亡き今、武人としての資質は次男「信雄」より上ですし、なにより敵討ちの合戦にも参加しています。
年齢も健康状態も申し分ありません。
ある程度の条件が「信孝」にはあったのです。
しかし、その意見をきっぱり否定したのが「羽柴秀吉」、後の太閤「豊臣秀吉」その人でした。

「信長公の嫡孫にして信忠さまの嫡男、”三法師”君とするのが筋目である」

やはり後でいざこざを起こさないために、長男が継ぐのが一般的なのでした。
時代としてそういう風潮でしたから、長男が健在なら、これは間違いないことなのです。
しかし、織田家のケースでは先に書いたように、「信忠」は戦死していました。

そうすると次男、としたいところなんですが、「信忠」の嫡男がこの時にはもう誕生してたんですね。
それが、秀吉が擁立した「三法師」こと後の「織田秀信」なのです。
唯一、当時は幼少の身であったことが若干のマイナス要因ではありました。
ちなみに、当時の「三法師」は三歳です。

仮に「柴田勝家」の主張が通ったとして、三男「織田信孝」が相続したとします。
そうすると、本来の流れで後継者だった「織田秀信」は逆にその家臣となってしまうのです。
これは、後々で内乱へと発展してしまう危険性があります。
おまけに、実際はどうであれ「信孝」は三男とされていましたから、これでは次男の「信雄」も面白くはないでしょう。

その点、元々相続権のなかった二人はそのままで、実際の後継者が引き継ぐという案はもっとも無難で、かつ正当性がありました。
これにはどうしても反論の理由がないのです。
そんな訳で会議では丹羽、池田両名を味方とした秀吉が勝家を圧倒し、主導権を握ったまま終わりました。

後継者は「三法師」とされ、その後見人は「羽柴秀吉」、「織田信孝」が補佐役と決定。
また、領土配分は以下のように決定するのです。

嫡孫「三法師」は安土城、織田家を相続。
次男「信雄」は清洲城と尾張(名古屋)、伊賀(三重)、南伊勢(三重)
三男「信孝」は岐阜城と美濃(岐阜)
四男「秀勝」は亀山城と丹波(京都・大阪・兵庫などの一部)
「柴田勝家」には越前(福井)安堵に追加して長浜(※秀吉領土から割譲)など北近江三郡を。
「丹羽長秀」には若狭安堵に追加して滋賀など近江二郡を。
「羽柴秀吉」には山城(京都)を。
「池田恒興」には摂津三郡(大阪・堺などの一部)を。

おそらく、「柴田勝家」には秀吉の黒い欲望が見えていたでしょう。
奴は必ず織田家を簒奪してしまう!
危機感をもった勝家は秀吉に対抗するため、この後から下準備に取り掛かります。
こうして、こじれた関係が「賤ヶ岳合戦」へと繋がっていくのです。

最後に毛利家の外交僧「安国寺恵恵瓊(あんこくじ・えけい)」の言葉をひとつ。
「筑州(秀吉のこと)は世上操りの名人なり!」


[関連記事] 【本能寺の変・特集】
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」


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 ~ プチお知らせ ~

 …明日はちゃんとご挨拶を書こう思いますが、あらかじめお知らせを。
 色々な事情により、ブログを移動することとしました。
 あちこち見られている方で気付いた方がいるかもしれませんが、←そちらにあるリンクのコーナーに、こっそり貼っておいたんです。
 気付いた人は…いないか。
 そちらへ移動します。

 相互リンクして頂きました皆さま、大変お手数で申し訳ないですが、貼り直しをして頂ければ幸いです。
 また、個人的にリンクされている方……いるかな?
 もしいらっしゃいましたら、お手数ですがリンク貼り直しして頂ければと思います。
 今後とも宜しくお願い致します。

 ★移動先 ⇒ お寺さんぽ ver.02

 あおぶひでる 

天下を掴む男、秀吉の真骨頂 「清洲会議」4

2006年11月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。
「織田家に何が起こったか!?」です。


参加メンバーの四名については、前回記事を参照して下さい。
まず、参加資格があったのに出席していない、関東方面・司令官「滝川一益」について。
当時の織田勢は武田を駆逐し、関東へ進出したばかりでした。
そのため、新参の織田より、長く支配してきた北条家に心を寄せる者が多かったようなのです。
「本能寺の変」の勃発。
一益は上野の諸将をまとめ、急ぎ西へと戻ります。
上野から武蔵(北条領:当時の織田・北条は同盟していた)に入った滝川勢。
それを北条勢が襲撃するのでした。
圧倒的に不利な状況下で、手痛い敗戦をした一益は伊勢へ逃走するのでした。
しかし、会議参加については”その敗戦によって間に合わなかった”という説のほか、秀吉の事前工作「ひどく負けた滝川には会議参加の資格なし」によって、参加できなくされた、という説もあります。
「滝川一益」はどちらかと言えば「柴田勝家」と懇意にしていたようなのです。
会議の主導権を握りたい秀吉にとって、邪魔な存在だったでしょう。

そして、繰上げ参加した「池田恒興」
彼は温厚な人柄で、物腰の低い秀吉との仲は信長生前より良かったようです。
「山崎合戦」でも秀吉に従って戦っていますし、繰り上げられた彼の参加に異議を唱える者がいなかった事から、当時の織田家中では”会議に参加すべき人”という認識がありました。

この、滝川から池田になった参加者の件もそうですが、秀吉はこの会議に挑む前に、様々な事前工作をしていたようなのです。
確かな実証はありませんが、秀吉はそれをサボるような怠け者でないですし、なにより信長という絶対的な存在がなくなった彼の両目には”天下”がはっきり見えていたはずです。

さて、そんな秀吉の相手となるのは、筆頭家老の「柴田勝家」でした。
これに対抗するには、いかな敵討ちをした実績のある秀吉でも、まだまだ分が悪いのです。
そこで注目したのが、もう一人の家老、ナンバー2の「丹羽長秀」でした。
秀吉は会議前に長秀の元を訪れ、こんなことを言ったと思われます。

1)後継者は嫡男とするのが筋目である。
 信長の後継者としては、嫡男「信忠」の遺児「三法師(後の秀信)」とするのが筋目である。
 信忠は残念ながら戦死しているが、その男子がすでに誕生している。
 嫡孫である「三法師」が継ぐのがもっとも相応しく、禍根を残さないだろう。

2)勝家はこの機会に織田家の独裁者になろうとしている。
 筋目ではなく、普段から目をかけている「信孝」を選ぶのは、彼によからぬ思惑があるためだ。
 勝家の傲慢ぶりには、皆嫌気がさしている。
 自分(秀吉)は信長によって大身となった身であり、大恩がある。
 その恩に報いるのは今しかない。

3)○○を約束。
 もし味方してくれるのであれば、旧明智領からいくらか取り計らいます。
 どうか冷静に、公平に考えて頂きますよう…。

…おそらく、「池田恒興」にも同様のようなことを言っていたと思われます。
秀吉は低く柔らかな物腰で、論理的に、感情的に、さらに実利をもって誘っているのです。
彼の言には正当性があり、情にも訴えるような話で、かつ利をも約束されていました。
これに反対する理由はありません。
秀吉の”人たらしの名人”と言われる話術によって、「丹羽長秀」「池田恒興」は秀吉支持となって「三法師」擁立を支持するのです。

⇒つづく
 次回は「後継者決定、そして内乱へ…」


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会議参加メンバー~織田家の人々~ 「清洲会議」3

2006年11月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。

第六天魔王こと「織田信長」の死後。
織田家では重臣らが尾張・清洲城へと集合し、家督相続について話し合う場を設けました。
後に「清洲会議」と称されるこの一件は、織田家の運命を左右する、時代の権力を握るという、大変に重大なものだったのです。

さて、ここで会議の参加メンバー(丸数字)と、席次は高いのに参加しなかった人(算数字)を確認しておきましょう。


①柴田勝家(しばた・かついえ)
 織田家筆頭家老。北陸方面司令官。従五位下修理亮。
 当初は信長の弟「信行」の家臣でしたが、彼の謀反を訴え出たことで重用されるようになりました。
 尾張統一戦から各地の合戦に参加し、先鋒を務めた剛の武将です。
 越前平定後、信長よりその一帯を与えられました。ここは一向一揆の拠点があった統治困難な土地でした。
 しかし、徹底した粛正と共に、辛抱強く交通整備(※橋掛け柴田の異名あり)などに尽力してその平定に尽くしております。
 単なる武辺一辺倒の武将でないことが伺えます。

②丹羽長秀(にわ・ながひで)
 織田家家老。四国方面副司令官。惟住越前守。
 近江六角攻め、浅井攻めなど各地の合戦で功があるほか、京都庶務や安土城建築などでも活躍。
 まさに信長の片腕的な存在だったようです。
 信長の養女(信長の兄「織田信広の娘」)を妻とするなど、織田家中では抜群の安定感と信頼を得ていました。
 普段は穏やかな性格で、万事を平均点以上にこなす方ですが、どうやら政治的な方が得意であったようです。

③羽柴秀吉(はしば・ひでよし)
 中国(山陽)方面司令官。従五位下筑前守。後の太閤。
 乞食・貧者から取り立てられた、世紀の出生頭。人たらしの名人。
 実際の席次はもっと下でしたが、信長の敵討ちをしたことで「清洲会議」では自然と発言力が強まっていました。
 野戦も得意でしたが、特に攻城戦ではその才を大いに発揮しています。
 派手で奇想天外な作戦と人心掌握が得意
 「わしほど仕えやすい大将はいない」
 晩年はともかく、その台詞は間違いないだろうと思われます。

4明智光秀(あけち・みつひで)
 中国(山陰)方面司令官。惟任日向守。
 浪人であったが、将軍「足利義昭」を信長に紹介した功績により、家臣に取り立てられました。
 以後は驚異的なスピードで出世し、秀吉よりも先に城主となっています。
 政治・戦闘の両面に優れるだけでなく、茶の湯や連歌、さらに礼法まで、万事に優れたスペシャリスト
 信長を本能寺に襲撃してこれを殺害。後に「山崎合戦」で秀吉勢によって敗死。
 襲撃後の行動が似合わず鈍いと言われますが、秀吉の反転など、計算外の事態が多かったのです。

5滝川一益(たきがわ・かずます)
 関東方面司令官。左近将監伊予守。関東管領。
 近江の出身とも言われているが不明。
 「桶狭間合戦」頃には信長のもとで働いていた様子。伊勢・伊賀攻略にて功あり。
 さらに甲斐の攻略戦では先鋒として活躍しています。(※武田攻めでの副将だった様子) 
 「神流川合戦」にて五万という北条の大軍に一万八千ほどの軍勢で迎撃。
 二日間の激戦で多数の犠牲者を出して、敗北しています。
 会議の時にはこの敗戦によって参加できなかった、とされています。
 主に戦闘で才を発揮したようですが、伝えられるエピソードでは人望も高かった様子。

⑥池田恒興(いけだ・つねおき)
 信長の乳兄弟。名は勝入と名乗っていた時期もあり。紀伊守。
 当時の誰もが認める織田家ナンバー6。
 尾張統一戦より従軍。特に荒木攻めで功をあげ、その旧領摂津を領しました。
 地味だが、万事をそつなくこなすバランス型だった様子。
 上記滝川の欠席によって、繰り上げで参加となりました。

会議参加の面々は、以上の四名(※四宿老)だったと言われています。

⇒つづく
 次回は「天下を掴む男、秀吉の真骨頂」


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信長・秀吉と家臣たち

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※そんなこんなで家臣団。
 やっぱり信長の下よりは秀吉の下のがいいですよね。


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誰にしようか、信長の子供たち 「清洲会議」2

2006年11月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。

えー前回は前置きで終わってしまいました。
…はい、そうです。
単純にキリが良かったんですね。
やったら長くなると読みづらいでしょーし。
どこまで書いたのかは前回の記事で確認して下さい。まぁ、さして進んでないですけれど。
と、言う訳で本編をどうぞ↓


本能寺にて倒れた「織田信長」
信長は子を多くもっておりました。

嫡男「織田信忠」を筆頭に、次男「北畠信雄」、三男「神戸信孝」、四男「羽柴秀勝」……など、八男もいたのです。
(※ちなみに四男の秀勝は「羽柴秀吉(後の太閤)」の養子となっていました)

これら息子たちの中で、信長が最も頼りにしていたのは長男の「信忠」でした。
彼は武田攻めや松永攻めなど、各地の合戦において総大将を不足なく務めており、待遇についても他の子供らとは別格であったようです。
もし、彼が健在であったなら、誰の異論もなくその後を継いでいたはずなのです。

しかし、「本能寺の変」の際。
妙覚寺にあった「信忠」は変を聞いて救援に向かいますが、その途中で父・信長の自害を知りました。
明智勢来襲に備えて「二条城」に入ります。
そこで皇太子・親王らを逃がした後、こちらで明智の大軍を迎撃。
圧倒的な兵力差によって十重二十重に囲まれ、父信長に続いて自刃していたのです。

次男「信雄」はこの後に「徳川家康」と組んで「小牧・長久手合戦」を起こした当事者として知られています。
しかし、この人は信長の悪い面を色濃く受け継ぎ、当時から評判は芳しくありませんでした。
さらに、他家(伊勢・北畠家)の養子に出ていました。
(※残る確かな資料から見える行動からも、程度の低さが伺えます)

三男「信孝」は「本能寺の変」の直前まで、家老「丹羽長秀」と共に四国攻めの総大将として準備中でした。
続く「山崎合戦」でも秀吉勢に合流して敵討ちに参加するなど、それなりに頑張っていた姿がみられます。
さらに、三男として登録されていましたが、実際は「信雄」より早い生まれだったようなのです。
(※母の身分が低かったため、届けが遅れたようなのです)
彼の頑張りはそんな事情が背景にあったためかもしれません。
ちなみに、彼は神戸家の養子でした。

 ・
 ・
こうして、清洲城(※写真)へ集合した重臣らによって開かれた「清洲会議」
筆頭家老であった「柴田勝家」は総合的に判断し、三男「信孝」を後継者として擁立することを考えていました。
「信雄」とはさして年齢も違わないですし、なにより「山崎合戦」に参加して敵討ちをしている実績を認めたのです。
さらに根本的な話、素質が多少でもありそうだったのでした。

しかし、その意見に『待った』をかけたのが、「羽柴秀吉」その人だったのです。

⇒つづく
 次回は「会議参加メンバー~織田家の人々~」


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織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男

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※おお!信忠くん小説になっているじゃーあーりませんか!!
 あんまりないですよね。
 ちょっと読んでみたいかも。


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意外と知らない信長死後 「清洲会議」1

2006年11月04日 | 歴史
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本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。

さて、「清洲会議(きよす・かいぎ)」って言葉を知ってますか?
学校で教わる歴史ではすっ飛ばすか、「本能寺の変」をやった後にすぐ「豊臣政権樹立」になってしまうんですね。
あるいは、戦国時代をスルーして江戸時代になっちゃうかもしれません。
(※ひでるさん中学時代はそんなでした。そりゃーがっかりよ。ええ)

戦国期って短いですし、確かに些細な時代かもしれません。
が。  
ここね、歴史としては最も入りやすくて、魅力的な時代なんですよ。
…だいたいさ、あんな教育するから、歴史は「年号覚えるだけのつまらん教科」とか言われるんですよ。
いい国作ろう、など数字の羅列とか、”数字と単語を記憶させるだけの歴史”ならばやらんほうがいいです。
円周率じゃないんだから。(←これも教えなくなったそうですが)

その事件が。どんな人物によって、どういった経緯で、それによってどうなってしまったのか。
…そこを覚えなければ、歴史を勉強したとは言えないと思うのですよ。
年号なんて二の次、三の次かそれ以下。
だいたいの時系列を理解してればOKだと思います。

とまあ、日本の歴史教育批判はそれくらいにして「清洲会議」をば。

天正十年(1582年)
東は関東、西は中国地方までを領土とし、天下に最も近かった男「織田信長」
対毛利の援軍として進む予定だった軍を反転させた「明智光秀」は「本能寺」宿泊中の信長を襲撃したのです。
「織田信長」は「本能寺」にて横死。
享年四十九。
にわか天下人となった「明智光秀」
しかし、謀反人に対する周囲の対応は冷たく、時の勢いを得た「羽柴秀吉(後の太閤秀吉)」によって倒されてしまうのです。
後に「三日天下」なんて揶揄されちゃいますが、実際は一週間程度だったことも有名な話。(※十一日です)

今回は、その後に起こった出来事。
後に「清洲会議」と称される、織田家の命運を決定した一件がありました。
ここで主導権を握った秀吉は、そのまま信長の後継者として天下人への階段を上ることとなるのです。
まさに天下分け目の前哨戦だったのです。

さて、現代でもどなたかが亡くなった際には遺産について打ち合わせをしますよね。
それと同じで、こちらは戦国時代に起こった織田家の相続会議なのでした。
特に血統が重視された時代です。
通常なら嫡男が継いでめでたし、めでたし、となるものなんですが…。

⇒つづく
 次回は「誰にしようか、信長の子供たち」


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今ならできる!かしこい生前相続―親子で考える遺産相続の新しいカタチ

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※こんな本を。
 かしこい! …なんて言われても(笑)
 とりあえず親族と揉めるってーのは嫌なもんですね。
 火サス・土ワイな世界ですよ。
 家政婦は見た!です。


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城郭コレクション「日本の名城」第一章 (関連商品)

2006年11月03日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は偶然ひでるさんの目に飛び込んできたモノについて。



見ちゃいました。
コレ↓



こんなんをひでるさんの目前に置いてはいけません。
犬にジャーキー、グドンにツインテール(※帰ってきたウルトラマン)、ひでるさんに漫画(←城じゃないじゃん)…ってなやつですよ。
話を戻しまして。
ほら、プラモデルに「お城シリーズ」ってあるじゃないですか。
ゴモラに壊させたい感じのやつ。 (※ウルトラマン)
あれだとデカいしがさばるだろうし、何よりも飾るところがないので困るんですが、こちらはだいたい携帯電話より一回り大きい程度のサイズでして、雰囲気もなかなかいいんですよ。
塗装済みの完成品なので、ややこしいこともないですし。


ちなみに、皆が気になる(かもしれない)第一章のラインアップは…

・姫路城(春)
・姫路城(夏)   …官兵衛でお馴染み「黒田孝高」の居城。
           いまさら説明の必要はないでしょう。
・名古屋城(春)
・名古屋城(夏)  …しゃちほこ。戦国期は「那古野城」です。若き日の信長居城。
           こちらも説明の必要はないでしょう。
・鶴ヶ城(夏)   …秀才「蒲生氏郷」が大改修し、その死後に威力を発揮したお城です。
           蒲生くんはブログ準備中です。
・松山城(夏)   …日本三大山城。戦国期は「三村」の居城でした。
           お隣の宇喜多くんについてブログ準備中。
★金の鯱     …難しい漢字ですが、あれで「しゃちほこ」と読みます。スペシャル商品。

…だって。
でねでね、強欲なひでるさんは二つ手に取ったのよ。

そのひとつは物凄く軽く感じたの。
こりゃー、スペシャルではないか?
そう思ったの。
別に純金でもない「しゃちほこ」なんて欲しくはないですが、一応”スペシャル”だし、あるいは後々に驚くような高額になったりならなかったり…(←どっちだ)

まぁ、それはいいとして、「蒲生氏郷」が好きな、蒲生ファンクラブ(うそ)のひでるさん。
狙いはやっぱり「鶴ヶ城(夏)」なのでした。
しゃちほこ(?)をキープしつつ、もう一つは気持ち慎重に選んだのですよ。ええ。

……その結果。

①名古屋城(春)
②名古屋城(夏)

あう!やっちまった!!  
まるでブログ記事にしてみ? と言われているようなお約束(笑)

一応季節が違うんですが…はっきり言って植物の色が違うだけでした。
せめて姫路城なら良かったのに。
だいたい「しゃちほこ」じゃないし。
なんだか軽く感じたんですけど。
もしかしたら片手の神経が死滅しているのかもしれません。


とりあえず第二章も出ると思われるんで、気長に「鶴ヶ城(夏)」を探そうと思います。
完全にダブったら…誰か交換しません?
(※ちなみに、写真は 名古屋城(春) でした)

⇒ 興味を持った方はコチラ「童友社HP



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トランプ 日本の名城

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 やば、ちょっと欲しいかも。


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