お寺さんぽ Ver.03

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日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 <中編>

2006年06月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”日本三大奇襲戦”の三位以内にランクインしながらも、圧倒的に知名度が薄くてモノ悲しい「河越城夜戦」についてです。
ここで覚えて帰ってね。


前回のあらすじー。
…あ、前回は合戦自体の説明は爪の垢ほどもやってないんですね。
えっと、当時の北条家当主、氏康くんは優等生の出木杉くん(※ドラえもん)のような人で、ツッコむ余地がない、つまらん奴でした。
そんな流れで、華々しい成果を上げた「河越城夜戦」にしても、悲しいかな知名度は薄く、誰も知りませんでした。るるる…。
うん、だいたいこんなん。
あ、別に悪意はないですよ、念のため。
ひでるさんは政子さん以下、北条ファンクラブですんで。
(注:間違うといけないので。戦国期の早雲から続く北条氏と、鎌倉時代の執権政治で知られる北条氏は、まったく関係ありません。ひでるさんはどちらも好きなだけです)

さて、河越城夜戦です。
まずは関東の当時の情勢から。
それまで関東一帯を牛耳っておりました管領の上杉家。こちらが一族で互いに無駄な権力争いを繰り広げている間に、ひょっこり現われた「北条早雲」が伊豆を強奪。以後、相模、武蔵と順に進出し、いつしか洒落にならない巨大な勢力となっておりました。
余談ですが、今川家は義元、武田家は晴信(信玄)、上杉謙信はまだ長尾景虎との名乗りで、織田信長は大うつけだった頃です。

天文十四年(1545)
管領家の筆頭、山内上杉憲政(やまのうち・うえすぎのりまさ)は北条の進出で圧倒されていた、扇谷上杉朝定(おおぎがやつ・うえすぎともさだ)を助けるため、あるいは危険な新興勢力を潰すため、同族の争いを一時中断して同盟し、連合軍として進軍を開始しました。
関東の各地より馳せ参じた兵はなんと八万とも言われています。(ただ、ちょっと大袈裟かもしれませんが)
衰えたとはいえ、旧管領家の底力を発揮した訳です。


ともかく、その大軍団によって武蔵国(いまの埼玉県)の要所「河越城」は瞬く間に包囲されてしまうのです。
川越城の守備は八幡大菩薩の化身と言われる猛将「北条綱成(ほうじょうつなしげ)」以下兵三千。
圧倒的な兵力差で到底北条方に勝ち目はないように思えました。

さて、「河越城危機!」の急報に接した我らが「北条氏康」さま。
北条家の勢力は拡大していたとはいえ、駿河今川家、安房里見家などとの抗争に兵を割いており、この時点での動員兵力としては一万もありませんでした。
思案した氏康は旧時代の権力を利用することを思いつきます。
関東には関東公方(古河公方)「足利晴氏」がおり、彼に調停を頼むことにしました。(※)

ところがです!

この足利晴氏も影響力を増していく北条家に対して、いい心証を持っていなかったのでした。
氏康の要請を逆に好機と判断した晴氏は数万の兵を率い、包囲側へと加わってしまうのです。

…あちゃー状況が悪化してしまいました。
総勢約十万(※これも大げさだと思う)という兵が十重二十重に河越城を取り囲みます。
城はまさに風前の灯火でした。
さぁ、どうする「北条氏康」??

と、ハラハラドキドキのいいところですが…また次回!では!


※調停について
この時代、天皇・将軍の存在は衰えたとは言え、いまだいくらかの影響力がありました。
彼らに間に入ってもらい、一時的に和睦をして兵を収め、こうした危機的状況を回避するのです。
織田信長も将軍足利義昭をつついて何度かやってますね。

※ちなみに今回写真は噂の名将「北条氏康」です。
 

[関連記事]
⇒ 北条早雲 ( ・ 
⇒ 関東公方と関東管領


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2 コメント

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Unknown (通りすがり)
2007-12-01 14:22:57
>鎌倉時代の摂関政治で知られる北条氏

執権政治の間違いでは…
返信する
そのとーりですね (あおぶひでる)
2007-12-01 18:19:45
ありゃこんな前の記事にも間違いが。
直します。
摂関政治は藤原氏…ですよね。ちがったっけか。
返信する