お寺さんぽ Ver.03

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晩年と最後の計略 (宇喜多直家)6

2007年11月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大勢力の狭間にありながら、一代にして見事にその勢力拡大を成功させた希代の謀略家、「宇喜多直家(うきた・なおいえ)」です。

毛利氏に臣従して三村氏を滅ぼし、さらに主君「浦上宗景」を追放した直家。
色々あったにせよ、順風満帆だった直家は中央から拡大してきた織田勢と激突して、これに敗れてしまいます。
こりゃーいかんと考えた直家は毛利・織田の間で決死の生き残り策を謀るのでした。

病と称して出兵を拒んだ直家に対し、毛利氏の攻撃軍「吉川元春」は不信感を持つようになります。
直家はそれを敏感に察すると、遂に新進気鋭な織田勢への服属を決意します。
(※当時の信長は機内を支配下とし、将軍「足利義昭」を追い、さらに戦国最強軍団の武田勢を打ち破ったことで、天下取りの最有力候補となっていました)
ここで、直家は大切な嫡男である八郎(後の宇喜多秀家:写真)を人質として送りました。
完全に織田勢へ鞍替えしたのです。
ちなみに、この時に使者として立ったのが、若い頃の「小西行長」だったと言われています。

天正七年(1579)
直家の裏切りに怒った「毛利輝元」は美作へと進攻。
そりゃそうでしょう。
タイミングが悪いことに、当時の織田勢は三木城「別所長治」など播磨の武将らが一斉に反旗を翻し、援軍どころではなかったのです。
意を決した直家は弟「宇喜多忠家」、養子「宇喜多基家」らを峰浜へと進出させました。
これに対し、毛利方は「小早川隆景」を総大将とした軍で対抗。
しかし、この合戦で宇喜多勢は「宇喜多基家」が討死するという、大敗を喫してしまうのでした。
直接対決ではあまり強くないですね、宇喜多さん。

さらに、この頃の直家は死期が近いためか、以前の切れがなくなっていたようです。
この危機には、織田勢が駆けつけて難を逃れています。

天正十年(1582)
いまだ毛利氏との激戦が続く中、直家は岡山城にて病を得て死去。
享年五十二。
病死だったと伝えられています。
「宇喜多直家」は奇策・暗殺を得意とした稀代の謀略家ではありますが、さすがに毛利・羽柴といった英雄を相手にした場合はだいぶ分が悪かったようです。
このあたりが限界なのでしょうか。

なお、死の床にあった直家は”最後の計略”を仕掛けています。

情に厚い「羽柴秀吉」に、「子を八郎をくれぐれも宜しく頼む」と、涙ながらに後見を頼むのです。
子供好きで自身に子のない「羽柴秀吉」はその懇願に心を打たれたことでしょう。
その結果として、「羽柴秀吉」は「織田信長」に願って人質・八郎を岡山城へ帰しただけでなく、後に自らの養女を与えて五大老の一人に据えることとなるのです。

【 戦国メーター★宇喜多直家 】
 家柄: ■■□□□ 地方の国人・豪族。それより過去ははっきりしてません。
 実力: ■■■□□ 数国を統べるのが限界ではないかと思います。
 地理: ■■■■□ 海路・陸路どちらも利用できます。天下を狙える距離でしょう。

[関連記事] 
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
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⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]


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