
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。
大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げたその手腕をご覧ください。
各地の合戦にて、その名声を天下に轟かせていた長慶。
「三好政長」との戦いに勝利して主君「細川晴元」を追放し、ついに実権を握ったのです。
長慶に敵対した阿波守護の「細川持隆」は弟義賢が謀殺。
さらに晴元と共に抵抗した将軍「足利義輝」らは「霊山合戦」にて散々に打ち破ったのでした…。
天文二十四年(1555)
当時、西讃岐の守護代は香川氏でした。(※東は三好派である安富氏)
この頃に毛利氏と通じて三好勢に反旗を翻した「香川之景」ほか香川一族は、天霧山城にて抵抗していました。
讃岐の完全支配を計画する一存は、兄・義賢と八万という大軍を率いてそれを包囲。
しかし、ここでは力攻めを避け、彼と親しい「香西元成」を送ってやんわりと降伏を勧告し、見事これを降したのでした。
力押し一辺倒ではなく、戦術の妙も心得ているのです。
こうして、讃岐全域を支配地とすることにも成功しております。
後に弟「十河一存」が岸和田城へ移ると、「三好義賢」は阿波に続いて讃岐をも統治するようになりました。
なお、もう一人の弟、紀伊国から発祥した国人・安宅氏を継いでいた「安宅冬康」
この天文年間(1532~1554)にて阿波から淡路国へと入り、有力な水軍勢を完全に支配下としております。
由良、州本両城を拠点とする冬康の淡路水軍は、戦闘から運搬に至るまで三好政権では強大な戦力となっておりました。
また、和泉堺を兵站基地として、軍港化していたようなのです。
永禄二年(1558)
完全勝利だった長慶は「六角義賢」の仲介によって再び「足利義輝」と和睦。
京を明け渡しました。
二度ほど京から追われていたため、ここは完全に長慶が譲った形だったのです。
権力は全て長慶に集中し、傀儡になることを期待された義輝。
畿内領国は長慶が確保しており、幕府の権威が及ぶのはぎりぎり京都周辺のみだったようなのです。
しかし限られた範囲でも、義輝は不屈の闘志で復権を目指し画策を続けるのでした…。
永禄三年(1560)
”裏切りと暗殺はお手のもの”、という重臣「松永久秀」がついに登場です。
天文九年(1540)頃から、長慶の祐筆として仕えていた久秀。
この「祐筆(ゆうひつ)」という役職は”書記・文官”という感覚でした。
出自不明である久秀ですが、とりあえず教養ある人物であったことを証明しております。
三好氏が京都支配したあたりからめきめきと頭角を現し、やがて家宰に抜擢されるのでした。
要するに、単なる書記程度であった人物が長慶の政治・軍事の補佐役にまでなっているのです。
これは久秀が持ち合わせる教養ほか才覚面に、優れた武将であった彼の弟「松永長頼」の武辺が大いに役立っていました。
丹波・八木城を攻略して領国化に活躍したのも長頼であったらしく、松永勢は文武両面において三好家中で存在感を発揮していたのです。
軍事面でも信頼のあった久秀は、長慶の命によって大和へと侵攻。
信貴山城を拠点に、三好の軍事力を見せつけるのでした…。

⇒ つづく。
次回は「優秀な嫡男と絶頂期の長慶」(8/10)
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [前 後]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [1 2 3 4 5]
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※こんなんあるんですねー。さっすが大河の主役!
長慶さまは…最後があんなんでは無理か。
本日も畿内の覇者にして下剋上の代表「三好長慶(みよし・ちょうけい)」です。
大永三年(1523)、細川氏の有力な被官であった「三好元長」に待望の嫡男、今回主人公の「三好長慶(みよし・ちょうけい)」が誕生しました。
次男「三好義賢(実休)」、三男「安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)」、四男「十河一存(そごう・かずまさ)」ら有能な弟たちを駆使し、中央から四国まで広範囲にわたる”三好政権”を築き上げたその手腕をご覧ください。
各地の合戦にて、その名声を天下に轟かせていた長慶。
「三好政長」との戦いに勝利して主君「細川晴元」を追放し、ついに実権を握ったのです。
長慶に敵対した阿波守護の「細川持隆」は弟義賢が謀殺。
さらに晴元と共に抵抗した将軍「足利義輝」らは「霊山合戦」にて散々に打ち破ったのでした…。
天文二十四年(1555)
当時、西讃岐の守護代は香川氏でした。(※東は三好派である安富氏)
この頃に毛利氏と通じて三好勢に反旗を翻した「香川之景」ほか香川一族は、天霧山城にて抵抗していました。
讃岐の完全支配を計画する一存は、兄・義賢と八万という大軍を率いてそれを包囲。
しかし、ここでは力攻めを避け、彼と親しい「香西元成」を送ってやんわりと降伏を勧告し、見事これを降したのでした。
力押し一辺倒ではなく、戦術の妙も心得ているのです。
こうして、讃岐全域を支配地とすることにも成功しております。
後に弟「十河一存」が岸和田城へ移ると、「三好義賢」は阿波に続いて讃岐をも統治するようになりました。
なお、もう一人の弟、紀伊国から発祥した国人・安宅氏を継いでいた「安宅冬康」
この天文年間(1532~1554)にて阿波から淡路国へと入り、有力な水軍勢を完全に支配下としております。
由良、州本両城を拠点とする冬康の淡路水軍は、戦闘から運搬に至るまで三好政権では強大な戦力となっておりました。
また、和泉堺を兵站基地として、軍港化していたようなのです。
永禄二年(1558)
完全勝利だった長慶は「六角義賢」の仲介によって再び「足利義輝」と和睦。
京を明け渡しました。
二度ほど京から追われていたため、ここは完全に長慶が譲った形だったのです。
権力は全て長慶に集中し、傀儡になることを期待された義輝。
畿内領国は長慶が確保しており、幕府の権威が及ぶのはぎりぎり京都周辺のみだったようなのです。
しかし限られた範囲でも、義輝は不屈の闘志で復権を目指し画策を続けるのでした…。
永禄三年(1560)
”裏切りと暗殺はお手のもの”、という重臣「松永久秀」がついに登場です。
天文九年(1540)頃から、長慶の祐筆として仕えていた久秀。
この「祐筆(ゆうひつ)」という役職は”書記・文官”という感覚でした。
出自不明である久秀ですが、とりあえず教養ある人物であったことを証明しております。
三好氏が京都支配したあたりからめきめきと頭角を現し、やがて家宰に抜擢されるのでした。
要するに、単なる書記程度であった人物が長慶の政治・軍事の補佐役にまでなっているのです。
これは久秀が持ち合わせる教養ほか才覚面に、優れた武将であった彼の弟「松永長頼」の武辺が大いに役立っていました。
丹波・八木城を攻略して領国化に活躍したのも長頼であったらしく、松永勢は文武両面において三好家中で存在感を発揮していたのです。
軍事面でも信頼のあった久秀は、長慶の命によって大和へと侵攻。
信貴山城を拠点に、三好の軍事力を見せつけるのでした…。

⇒ つづく。
次回は「優秀な嫡男と絶頂期の長慶」(8/10)
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※こんなんあるんですねー。さっすが大河の主役!
長慶さまは…最後があんなんでは無理か。