お寺さんぽ Ver.03

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”六分の一殿”であった山名一族 (山名祐豊・豊国)2

2009年08月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”をお送りしております。


清和源氏を祖とする山名家。
南北朝時代に活躍した新田氏の同族で、「新田義範(にった・よしのり)」が山名氏を称したのが始まりなのでした。

さて、時代は進んで南北朝時代という延元二年(1337)
ここで伯耆国に「山名時氏(やまな・ときうじ)」が登場しました。
南朝方を追って功を立てた時氏は伯耆守護となり、混乱の時代に乗じて山陰地方に勢力を拡大。
各勢力を渡った末に、”請われて室町幕府へと帰順した”のです。
そうなんです、「ぜひウチの勢力に…」と幕府に言われるほど、当時の山名家には実力があったのです。
スゴかったんですよ!!

山陰地方に勢力を拡大させていた山名一族。
室町時代初期(※室町幕府は延元元年(1336)ね)である、明徳二年(1391)頃になると、
嫡男「山名師義(※時氏・嫡男)」は丹後・伯耆。
次男「山名義理」は紀伊。
三男「山名氏冬」は因幡。
四男「山名氏清」は丹波・山城・和泉。
五男「山名時義」は美作・但馬・備後。
孫「山名満幸(※時氏・孫)」は播磨。
(※多少前後ありますが、だいたいそんなん)
…と、いうように、
”山名一族にて十一ヶ国の守護職を得る”という、幕府最大の守護大名となっていたのです。

「山名一族は六分の一殿」
(※当時の日本が六十六ヶ国であったことに由来する)

そんな事を言われるほどの大勢力となるのでした。
しかし、それほどの権勢は当時将軍権力の強化を図っていた「足利義満」の恰好のターゲットとなり、細川氏、斯波氏、土岐氏に続いての目標に選ばれてしまったのです。
嫡男「山名師義」の死を切っ掛けとした内紛は義満に利用され、一族で争う「明徳の乱」が勃発するのでした。

明徳三年(1392)
「明徳の乱」を一族で争った後には、
「山名時熙」に但馬。
「山名氏家」に因幡。
「山名氏幸」に伯耆。
…と、義満の思惑そのまま、わずか三ヶ国までに衰退させられてしまうのです。

このように規模は縮小させられたものの幕府から「侍所」の職を得たようで、赤松、京極、一色氏と並んで三管領家に次ぐ四職家の筆頭として、中央政治に参加することとなったのでした。

⇒ つづく
 次回は「”赤入道”こと宗全・登場」(3/8)


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※山陰ですね。
 まだ行ったことないので、ぜひ時間を取りたいんですが…。

 


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