お寺さんぽ Ver.03

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (2)将軍家の暗雲編

2006年05月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。
遂に本編に突入です。
まずは将軍家の怪しい雲行きと、おまけ知識をご覧下さい。
はっきり言って、ややこしくて長いですが…。
まぁ、どうぞ。


■将軍家の経緯
おみくじで六代将軍となった「義教」は意外にも辣腕を発揮し、一時的ではありますが幕府権威の復興を成しました。しかし、やや強引であったことが災いし「赤松満祐」に暗殺されてしまいます。(※嘉吉の乱という)
その後をわずか九歳で継いだ七代将軍「足利義勝」も一年ほどで急死。

宝徳元年(1449)
今回主役の一人「足利義政」はそんな不安定な政情の中で八歳にして八代将軍となるのでした。
彼がまだ幼いため、執事「伊勢貞親」や正妻「日野富子」の実家日野家などが当然ながら実権を握り、まさに傀儡となっていた義政は成長する中で政治に対する興味をなくしていき、もっぱら文化方面へと傾倒していくのでした。

寛正五年(1464)
そんな感じで十五年の歳月が流れます。
土一揆など、変わらず混乱する政情に嫌気がさした将軍「義政」は二十四歳にして隠居することを思いつきました。
正妻「日野富子」との間にも実子はなかった(←ほら、やっぱり仲わるいじゃーん)ため、出家していた弟「足利義視」に譲ろうと考えたのです。

ここで弟の「足利義視」(※この時は出家していて義尋(ぎじん)との名でした)は、まだ若い兄に跡継ぎが生まれる可能性を心配して要望を固辞し続けますが、兄のしつこさに結局折れて、還俗。
名を「足利義視」と改め、「細川勝元」の後見を得て次期将軍として兄の養子となるのでした。

寛正六年(1465)
ところがその翌年、将軍「義政」の正妻「日野富子」が懐妊! (←これが九代将軍「足利義尚」)
…っておーい、ほんとうに「義政」の子ですかぁ??
その嘘・本当はともかく、この一件が後の混乱を起こす布石となるのでした…。

⇒次回につづく。


■三管四職(おまけ知識)
室町幕府には「三管四職」という将軍補佐の役職につく、有力守護大名の家柄が七家ほどありました。
まずは管領三家。
「管領(かんれい)」とは、本来は単に将軍の秘書的役割でしたが、次第に政務を取り扱うようになりました。任命されるのが有力な三家であることから、三管領と呼ばれるようになります。
これには細川家、斯波家、畠山家が交代で任についておりましたが、「応仁の乱」後斯波・畠山が勢力を衰えさせると、細川家の独占状態となります。その細川家も三好家に取って代わられ、衰退。管領という役職に以後就くものがいなかったため、自然消滅するのでした。
次に四職。所司(しょし)または侍所司(さむらいどころのつかさ)と呼ばれる、軍事・警察権を司る役職で、こちらも主に有力守護大名の四家が交代で任命されたことから、「四職」と呼ばれるようになりました。
任命されるのは赤松・一色・京極・山名、の四家です。
こちらも四家全てが衰退して空席となると、自然消滅するのでした。


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 地蔵院(竹の寺) 京都市西京区山田北ノ23

   ※今回写真は「地蔵院」にある細川頼之の墓所です。
    細川勝元からするとひいひいおじいちゃん。二代目の管領。
    明徳の乱で幕府方として山名氏清と戦っています。
    山名・細川の争いはここにもあったんですね。

 
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