お寺さんぽ Ver.03

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会津に適う人物は他にない (蒲生氏郷)6

2007年12月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。

天下統一を目指す秀吉に従った氏郷くん。
九州征伐でも戦功を上げ、豊臣政権でも重きを成すのでした。


天正十八年(1590)
軍功により、氏郷は会津で四十二万石を領することとなりました。
(※一説には七十万石)
当時、氏郷は三十五歳。
この会津への下向について当初は固辞し続けていましたが、どうしてもという秀吉の懇願によって引き受けたようです。

急に大身となった氏郷は伊勢から離れる際の宴会で落涙していたため、家臣はそれが喜びの涙と勘違いします。
それに対し、
京より遠く離れた北の地ではとうてい天下は望めない。それが残念だ
…というようなことを言ったようです。

一方の懇願した秀吉は…。
秀吉はあるとき、戯れで”奥州の要である会津に誰を置くか”を尋ねたことがあります。
ほとんどが「細川忠興」を推挙しましたが、それに秀吉は笑って首を横に振りました。
おまえたちの目は節穴だ。適う人物は”蒲生氏郷”おいて他にない
これは、わんぱく坊主「伊達政宗」と共に、狸爺「徳川家康」を押さえてくれる、優秀な人物がほしかったのです。
なお、氏郷もその意図を読んでおり、
万が一家康に謀反の心があってもおれが押さえ付けて動かしはしない
と言っていたようなのです。
実際、その自信はあったでしょう。
…ここで秀吉の賢いところは、上記「伊達政宗」「徳川家康」の両名だけでなく、氏郷からも天下の望みを断っているところなのです。
このあたりの思惑が入り混じる駆け引きは大変興味深いものですね。

さて、そんなこんなで会津へと赴いた氏郷は城の大改修を行い、会津「鶴ヶ城」を造ります。
「鶴ヶ城」って名前は氏郷の幼名「鶴千代」からとったんだって。
これは外観の美しさもそうですが、明治維新の際に官軍の攻撃に対して一ヶ月もの間堪え抜いた戦闘城でもあったのです。
彼の死後でありますが、その能力を遺憾なく発揮した名城なのでした。
しかも、落城ではなく「開城」ですからね。
実際はもっと耐え抜けた可能性があるのです!


⇒ つづく
  次回は「文武二道、日本において一人、二人の大名」

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※そんなこんなで、これが「鶴ヶ城」です。
 ああ、いいなぁ…。


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