お寺さんぽ Ver.03

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知ってる?七本槍の加藤くんは二人いる (加藤嘉明)1

2008年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」ですよね。普通は。
しかし、実はもう一人加藤くんがいるというのは、一般の方はあまり知らないでしょう。
戦国時代に詳しい方なら間違いなくご存知であろう、本日は「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまなのでした。

この方、たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、また同じ加藤姓では人気の高い「加藤清正」さまが近くにおられるので、どうしても一歩地味なイメージなのですね。たぶん。
ドラマなどでも端役の方がやるか、あるいは役自体がなかったりします(笑)
ああ、気の毒。
そんな訳で、”賤ヶ岳の七本槍”のひとり「加藤嘉明」さまです。

その父「加藤教明(かとう・のりあき:あるいは岸三之丞、広明、景喜)」はもともと三河の武士で、天下人「徳川家康」の父「松平広忠」の家臣でした。

しかし、永禄六年(1563)
「徳川家康(※写真)」最初の試練である「三河一向一揆」との戦いにて、主家・信仰のうち、信仰をとってしまった教明は一向一揆側に属し、主と対立してしまうのです。
結果的に若い家康はこの苦境に見事勝利。
それがため、教明は浪人の身となってしまうのでした。

…余談ですが、この「三河一向一揆」は鉄壁の忠誠心をもって知られる徳川家臣団が真っ二つに分かれた合戦です。
信仰も無論大事ですが、今まで今川氏のもとで不遇をかこっていた三河武士らにとって、独立した家康は希望の星なのでした。
そんな訳で、忠誠心に厚い彼らは面白いことに、戦場へ家康が出てくると「若君」ということで直接対決を避けたそうなのです。
(※この一向一揆勢は松平家臣団のほか、今川旧臣や吉良氏なども参加していたため、そんなんでも危機には違いなかったのです。当主としての力量を示す、国内統一戦というべき風情だったみたいなのよ)
ちなみに、後の参謀「本多正信」もこの戦では一向一揆側に参加していたりします。

さて、今回の主役「加藤嘉明」はこうした年に誕生しました。
幼名は「孫六」、後に「左馬助(さまのすけ)」
浪人した父教明は後に秀吉が居を構える近江・長浜へ辿り着いたらしく、子の嘉明も十二歳頃まではそちらで馬喰(ばくろう)に養われておりました。
この「馬喰」というのは、牛馬の売買ほか、その病気を治したりしていた職業のようなのです。
…要するに、馬に関してのプロフェッショナルでして、その手伝いをしていた嘉明はここで馬術のほか、関連知識を得たのでした。

⇒ つづく。
  次回は「馬喰の加藤くん、推挙される」(2/5)

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※加藤…ということで……「加藤ローサ」さん。
 ひでるさん、カレンダーは一度も買ったことないですねー。


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