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父「吉弘鑑理」と大友家 (岩屋城合戦・高橋紹運)1

2010年02月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

戦国時代と言えば…北条、上杉、武田、今川と言った、時代を代表する英雄がずらりと揃っている関東ですよね。
あるいは、”歩く戦国史”たる「織田信長」の活躍した中部・近畿でしょうか。

そうした地域と共に注目なのが、こちら九州地区なのです!

うう~ん、九州。
できるならば、一週間くらい時間をかけて、ゆっくり行きたいなぁー。
仕事でしか経験ないんですよね。


戦国時代のこの付近は、大友、島津、龍造寺といった有力三大名が激突する三国志ちっくなところが、心をぐっと捕えて離さないのです。
このブログでも、ちらほらとやってるのは、そうした理由。

そんなこんなで、今回は魅惑の攻城戦シリーズ、「岩屋城合戦」とそちらの城将「高橋紹運」についてです。
前回は鳥取城で攻める側「羽柴秀吉」がメインだったので、今回は守備側がメインなのでした。


九州統一を目指し、総大将「島津義久」の指揮によって迫る、五万という大軍勢。
それを、「高橋紹運」はたった七百六十三という手勢で岩屋城に引き受けるのです。
抜群の采配によって激しく抵抗し、島津勢に甚大な損害を与えながらも守備隊は一人残らず玉砕。
紹運自身も壮絶な最後を遂げるんですが…なんと、半月もの間この城で粘り続けたのでした。
若いころから冷静沈着で思慮深く、また度量があったという彼。
さっそく見てみましょう。


天文十七年(1548)
越後では「上杉謙信」が兄に代わって当主となった頃。
今回の主役、「高橋紹運」は吉弘氏の次男として誕生しました。
幼名は「孫七郎」
後には「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」と名乗りました。
(※ややこしいので、後は「高橋紹運」で統一します)

その父は大友家の重臣「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」です。
おおよそ弘治三年(1557)頃には、主君「大友宗麟(義鎮)」の加判衆となった鑑理。
(※加判衆[かはんしゅう]:公文書に連署、判を加える人。要するに重職みたいな感覚で良いでしょう)
初期の大友家を支え、「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」、「吉岡長増」らとともに”大友家の三老”と呼ばれたほどの武将なのです。
その父親も、かなりの人物だったのでした。

永禄二年(1559)
家督相続後の当主「大友宗麟」はそうした三老の活躍などもあり、大内氏、菊池氏らを圧倒してわずか十年ほどで六ヶ国の守護職に補任。
…まぁ、実質的には怪しいところもありましたが、当時の九州では最大勢力としてその威を示しました
さらに、将軍「足利義輝」への献金が実り、九州探題となっています。
(※鎌倉時代後期あたりより幕府が九州統治のために設置)
。戦国時代では名誉職的なものであったとはいえ、これで”九州の治安を維持するため”という大義名分を得ることとなったのでした。

⇒ つづく。
 次回は「侵攻する「毛利元就」と岩屋城」(2/10)

[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [    ]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [         10]


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※やっぱり九州はいいですねー。
 こうした本まであったりします。


携帯電話[SH-03B]について (シャープ・docomoPRO)

2010年02月21日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでるさん大好物なモバイルネタです。
こちらのブログでは以前「SH-04A」を取り上げましたが、なんとそのバージョンアップ版が発売されたのです。

そんな訳で、今回は『 携帯電話[SH-03B]について (シャープ・docomoPRO) 』です。

…「SH-04B」ではないんですね。
なんでだろ。


※三機種で比較してみました。

さて、もともとの切っ掛けとしては、「ザウルス(SL-C760)」から。
電車とかの移動中でも文を打てるベストな携帯機器を探して、「ザウルス(SL-C760)」、「EM・ONE[S01SH]」、「SH-04A」…と、きたのです。
現時点では文字入力、重さ、辞書機能、ネット接続、手軽さなどの点で、圧倒的に「SH-04A」だったのでした。
…まぁ、あれはモバイル機でなく携帯電話ですからね。
ただ、前回もちらほら書いているように、コレはこれで不満もあったのです。

そのため、11月だっけかな?
最新機種の情報に接した際には、「コレだ!」という衝撃があったのですよ。


さてはて、ついに発売された、携帯電話フルキーボードの決定版、

「 SH-03B 」

さっすがシャープさん、相変わらず目の付けどころが違いますね!

今回はこちらについての使用感についてざーっと書きます。
毎度のことながら、単なる素人意見です。
詳しいデータとか機能については、そういった専門サイトを参照下さい。
参考程度でお願いしますね。
なお、基本的に「前回」と書いたら「SH-04A」のこと、「今回」と書いたら「SH-03B」のことです。


※ニンテンドーDSと比較してみた。

【全体形状】
まず、単純に各機種のデータを参照下さい。

SH-03B  約137g 幅約117×奥行約56×高さ(厚さ)約15.7(mm)
SH-04A  約140g 幅約114×奥行約54×高さ(厚さ)約16.3(mm)
S01SH   約250g 幅約140×奥行約70×高さ(厚さ)約18.9(mm) 
SL-C760 約250g 幅約120×奥行約83×高さ(厚さ)約23.2(mm) 

なるほど、微妙に軽くなったかなぁ。
意識しないとほとんど変わりませんが。
縦横に広がったものの厚みは減り、前回に比べてスタイリッシュな感覚。
カメラ部分の突起がなくなり、平らに置けます。
メイン画面自体も、前回「3.5インチ」から今回「3.7インチ」と拡大。

押し辛かった側面キーはカメラボタンだけになり、正面には通話・終話キーが設置されました。
代わりに、CLRキーがなくなってます。
ただし、各画面の右下にはほぼ「CLR」が、サブメニューには右上に「×」が表示されており、そちらで代用できます。
予想よりも使い辛さは感じませんでした。
なお、本体横のカメラボタンにその機能が付加されてます。

前回やや寂しかったランプは、4隅になりました。
充電時に赤く点灯するのは右下のみ。
あちこち場面での点滅パターンも、色々と変更できます。
その電源状態ですが、前回は3段階だったのが、今回は5段階。
さらに、設定すると残量をパーセントで教えてくれるようになりました。
細かい仕様ですが、なにげに便利でオススメ。


※「EM・ONE[S01SH]」と比較してみた。

【キーボード】
ひでるさん的には、ここが切っ掛けです。
フルキーボードは前回から便利でした。
普通の「あ→い→う→え→お→ぁ→ぃ→ぅ→ぇ→ぉ→あ…」という、入力方式のはもう面倒で使えないですねー。

さて、今回の最大のポイントは独立した数字キー。
前回使っていて分かったのは、数値というのはけっこう入力する機会が多いということ。
そのため非常に便利になりました。

また、シフトボタン(↑)、ファンクションボタン(Fn)の左右配置が、入力し易さを各段に向上させてます。
はっきり言って、ひでるさんの最大のポイントはココ。
電車の中で立ったまま片手で入力していた際、こう指を伸ばしたりして…もっとも不便だったんですよねー。
しかも、今回は一度押すと画面上部に待機・表示され、次に押したキーに作用します。
文を入力する時には頻繁に行いたい、コピー・カット・ペーストなどの操作がやたらスムーズです。
なにしろ前回は3つのボタンを押す必要がありましたからねー。
この入力に関しては非常に快適です。

ひでるさんが文を入力する時に多用する括弧、カギ括弧もファンクションボタン(Fn)との組み合わせで快適な入力ができます。
他には記号や顔マークまで割り当てされてますね。
ほか、絵文字は独立キーとなっているので、そんなんがお好きな方にも良いでしょう。


※信長の野望・ゲーム画面。右側にガイドが表示されます。

前回のF1~F4までのキーは場面によってそのまま反応してくれましたが、今回はファンクションボタン(Fn)も同時に押さないと駄目な場面が多め。
(※試しにアプリ「信長の野望」をやってみましたが、そちらiアプリ中は単独で機能してました)

キータッチ感は、前回よりも良好。
前回はなんというか…「パフッ」という、ふにゃけたものでしたが、今回は「ポチッ」と、しっかりクリック感があります。
個人的には、先の「ザウルス(SL-C760)」、「EM・ONE[S01SH]」よりもいい具合です。

細かいですが、キーボード部分を出すため、スライドさせた際の感覚について。
前回は「カシュッ」といった軽い感じだったものが、今回は「サシュッ」とやや重厚。
…やや、ですけどね。
なお、アダプタにつけた場合、今回は開かないようになってました。


※入力し易くなった、縦入力画面。

【タッチ画面】
画面のタッチ精度は、今回非常に良好になっていると思います。
前回がっかりした方は、ぜひ触ってみてみて。

なんというか、精度が向上してるみたい。
余計にバチバチ反応することが少なくなり、また片手で操作する場合のメインである「親指タッチ」にも素直に反応。
細かいタッチ操作ではやはり難しい部分もありますが、文字入力に関しては縦画面のままでも大丈夫です。

各画面で表示されるタッチキーは全体的に説明が詳細になっています。
平仮名入力でも、小さく英数字が表示されてます。
なお、片仮名・数字の場合はそれだけ、英語入力の場合は数字も表示。



横画面で見た場合、前回は右側に「AQUOSケータイ」と表示されているだけでしたが、今回は十字キーなど便利キーが再現されていました。
ここも便利。

【その他】
縦・横画面は本体によって自動で切り変わるんですが、これをロックする機能がつきました。
はっきりいって邪魔に感じることもあったので、カメラ撮影など何気に便利です。

そのほか細かいところでは、



●iモードの際の戻り画面  …前後が1つずつ表示され、ちょっと画面が見れるようになってます。



●メールでの参照返信  …注目機能の1つ。右画面はタッチ操作で上下させれます。返信以外でできないのが残念。



●手書き機能  …フリー入力ができます。向上したタッチ精度そのまま、印象より書き易いです。
(待受メモ、デコメピクチャの2種類)



●コラムリーダー  …簡易OCRですね。試してみましたが、ばっちり読みとってくれました。

●モバイルフォトギャラリー  …充電時に卓上時計のほか、スライドショーにも設定できます。

なお、ちょっと良かったのがこちらの説明書。
携帯電話の説明書と言えば、ブ厚くこまごまと文字が並ぶ印象でした。
しかし、こちらはカラーで文字も大きめ。
そんなにブ厚くなく、読み物(?)としては適度なくらいでした。
(※サポートブックという内蔵マニュアルがあるためみたい)

また、当然かもしれませんが、iアプリ、iモードにはまだ対応していないものばかりでしたねー。
これは気長に待ちましょうか。


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⇒ EM・ONE[S01SH]について (シャープ・EMOBILE)
⇒ 携帯電話[SH-04A]について (シャープ・docomoPRO)


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※あとはどんなソフトを登録しておくか、ですね。
 ナビタイムは使いやすいですよ。

見よう!大和座りの国宝「阿弥陀三尊」 (京都・三千院)

2010年02月18日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
こないだ「三千院」をやりましたが、本日はメインの国宝「阿弥陀三尊」です。

「三千院」にある、建物自体が重文という「往生極楽院」
そちらが本尊としているのが、国宝「阿弥陀三尊」です。

まず、「往生極楽院」は平安時代のもの。
こちらは”船底天井”で有名です。
丈六の巨大な国宝「阿弥陀三尊像」を納める工夫として、天井部分を船底型にしているんですねー。
そちらには、極楽浄土に舞う天女・菩薩らの姿が描かれているそうです。
現在はさすがに見辛くなっていました。
パンフレットには復元された写真があるんですけど、これがかなりの彩色具合でカラフル。
当時の人からすれば、まさにCGのように見えたのではないでしょうか。



メインとなる中央の仏像は「阿弥陀如来」さま。
こちらは結跏趺坐で来迎印。
「阿弥陀如来」が極楽より総出で迎えに来る際の印相ですね。
光背は十三化仏、十三種字を配した舟形。
ゆったり・ふくよかな定朝様式です。
(※定朝ではないですが)
迫力ありますよー。

続いて、その脇侍である「観音菩薩」、「勢至菩薩」
「観音菩薩」が両手にて大事そうに持っているのは、蓮台(はすの花の台座)です。
これは何かと言うと、死者をのせる意味なんだって。
「勢至菩薩」は”しわとしわを合わせて…”でお馴染みの合掌印。
たぶん、最も覚え易い印相ですね。

…で、どちらも大変に珍しい「大和座り」、「跪坐(きざ)」の仏像として有名なのです。
写真で分かるかな?
膝が見えるでしょ。
ほぼ正坐と言ってもいいんですが、やや腰を浮かして前傾姿勢になっているのがポイント
お尻はくっつけていません。
かなりキツい座り方ですね。

こうした、三尊セット・「阿弥陀さま」が座像・脇侍が跪坐・「観音菩薩」が蓮台…というのが、当時流行した”来迎形式”なのでした。

全て寄木造(よせぎづくり)の仏像。
「勢至菩薩」の背中内部には、”久安四年(1148)六月廿三日僧実照”と描かれていたそうです。
もうすぐ武士の時代が到来する、平安時代末期の作なのでした。

大原という土地と共に、ぜひ一度は見ておきたい仏像だと思います。


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※阿弥陀様のお力で、ぜひ浄土へ…いきたいなぁ。

三千院 (京都)

2010年02月14日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は歌でもお馴染み、京都大原の「三千院」です。

京都からやや離れた、大原の地。
豊かな田園風景の広がるこちらはもともと「魚山(ぎょざん)」と呼ばれ、仏教音楽(声明)発祥の地でした。

その「声明(しょうみょう)」というのは、もともと古代インドの一般教養。
学問「五明」のひとつで、習得すべき五つのうちの一つとされていたものです。
(※簡単には、文法(←コレ)、工芸、医療、倫理、仏教)
簡単には、儀式の際に用いられる音楽
当時は楽譜などがなかったため、「伝教大師」こと「最澄」が持ちこんだ後に、それぞれ宗派にて自由に発展していきました。

平安時代には「慈覚大師」こと「円仁」が「来迎院(らいごういん)」を建立してここを声明道場とし、そちらを「良忍」が再興して発展。
この付近が「魚山」と呼ばれているのは、発祥の地に因んでのものでした。
(※三国志がお好きな方にはお馴染み、魏は「曹植(そうしょく)」の体験によるものです)



いきなりややこしい話で失礼しました。
そうした訳で、山号「魚山」という、正式名称「三千院門跡」のこらち。

もともとの創建は、先ほども登場しました「伝教大師」こと「最澄」です。
比叡山・延暦寺建立の際に結ばれた草庵が起こりとされています。
その後京都を転々とし、その度に「梶井門跡(かじいもんぜき)」、「梨本門跡(なしもともんぜき)」などと名称はコロコロ変化していたようなのです。

元永元年(1118)
時代は平安後期。
武士が好きな人のため源氏で言うと…「八幡太郎義家」の孫「源為義(みなもとの・ためよし)」な頃ですね。

「堀河天皇」の第二皇子である「最雲法親王(さいうん・ほっしんのう)」が継いだ以降は門跡となり、こちらは皇族が代々住職を勤めるようになりました。
(※天台宗・五箇室門跡(ごかしつもんぜき)の一つ)
この時は東坂本付近にあったようです。
同じ頃に「来迎院」、「勝林院」などのお寺を管理するため、大原には政所(まんどころ:経営・雑務を行う部署)が設けられました

坂本で火災に遭ってまた各地を転々とし、また京都寺院には避けて通れない「応仁の乱」の被害を受けた後、仮御所としてその政所に移り、ようやくこの地に落ち着いたというのでした。
平安時代には「龍禅院」と呼ばれていたという客殿がそれ(政所)のようです。

そうした歴史がためか、現在の「三千院門跡」という名称になったのは、なんと明治四年のこと
…ずいぶん最近なんですねー。
ちょっと意外でしょ。



超有名な国宝「阿弥陀三尊」を本尊とし、建物自体も重文という「往生極楽院」
もともと三千院とはまったく関係なく、浄土真宗七高僧(しちこうそう)の一人「源信僧都(恵心)」が父母の菩提のため姉「安養尼(あんように)」と共に寛和二年(986)に建立したものでした。
現在のものは江戸時代に修理されたもの。
(※内陣はもともとの姿なままであるみたい)
三千院に取り込まれたのも、明治時代なんだって。
なお、そちら「阿弥陀三尊」の詳細については別にやります。

ほか、「伝教大師」作と言われる秘仏「薬師如来」を本尊とする「宸殿(しんでん)」、「智証大師」こと「円珍」作と言われる秘仏「金色不動明王立像」のある「金色不動堂」などが境内にあります。
また「金色不動明王立像」は平安期の立像だそうです。
公式HPにてお姿が見れますので、ぜひどうぞ。
非常に良いトコロでした。


[関連記事] 【如来のいろいろ】 
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
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⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 木彫の技法について (お父さんのための仏像講座)
⇒  お寺で動物ウォッチング「鳥獣座について」(お父さんのための仏像講座)
⇒ 五智如来石像
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⇒ 大日如来
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  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀
  中尊寺金色堂
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⇒ 弥勒如来
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⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)

 
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※さすがは有名寺院。
 DVDなんてありましたよ。

玉砕・賢才武略の勇士 (楠木正成)16

2010年02月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の最後の活躍をご覧下さい。

建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、ついに「足利尊氏」は反乱。
一時は京都を確保した尊氏でしたが、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」によって九州へ追い落とされてしまったのです。
最大の危機を回避した「後醍醐」に対し、我らが「楠木正成」さまは”味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め”、と凄まじい献策をしたんですが受け入れません。
その後、実際に九州で再起した尊氏は大軍勢を引き連れて進軍。
迎撃を命じられた正成は、一時京都を明け渡し、包囲してて疲弊を待ちつつ殲滅するという得意の作戦を献策したものの、こちらも受け入れなかったのです。


建武三年[延元元年](1336) 五月二十五日。
命じられたそのまま、「楠木正成」、「新田義貞」は出陣。
正成は三千という股肱の臣と息子「楠木正行(くすのき・まさつら)」を河内へ返し、千程度という僅かな手勢のみだったのです。
一方の義貞は約一万ほど。
摂津国会下山のあたりに陣を敷き、足利勢を待ち受けました。

ここで、「新田義貞」と盃を交わした正成は一晩語り通しています。
どうやら…戦果あがらないとグチる彼を慰めていたようなんですね。
人生相談まで引き受ける正成さまなのでした。
たいへんです。

さて、進軍する足利勢は、「足利尊氏」が瀬戸内海の海路を、その弟「足利直義」が山陽道の陸路を進軍していました。
関東・近畿にて加わった軍勢に、少弐氏・大友氏ら九州・中国の軍、さらに細川氏・土岐氏ら四国の軍勢までもが参加していたようです。
その陣容は、甚だ盛大なものであったのでした。
正成の予想は完璧に的中してしまったのです

海路の足利勢は尊氏を総大将として、数千という兵船は和田岬へと回っていました。
その兵力は二、三万ほど。
陸路では、直義を大将に副将「高師泰」ほか播磨・美作・備前の兵を中央に、左翼は「斯波高経」ほか安芸・周防・長門の兵、右翼は「少弐頼尚」ほか九州の軍勢が従っていました。
こちらは約一万ほどの軍勢であったようです。
二十万の大軍…とか宣伝されていましたが、実際のところは四、五万くらいでしょう。

早朝のうちに先行していた、海路を行く細川氏の兵船五百あまり。
紺辺より上陸し、新田勢の後方撹乱を行いました。
同時に、海岸線を進んでいた右翼の少弐勢が突撃を開始。
その一方で、尊氏率いる船団は義貞の軍を発見すると、和田岬をそのままにして東へ進みました。

…こうした流れに、退路を断たれることを恐れた(※挟撃かも)義貞は……少弐氏との戦いをほぼ放棄し、陣を引き払ってしまうのです。
尊氏の上陸を防ぐためでしたが、結果的には退却と同じこと。
細川勢と戦った新田勢は退却に精一杯で、しかも湊川の楠木勢とはだいぶ離されて連携することもできず、結局はそのまま戦場を離脱してしまったのです。

一方、湊川まで出向き、一ノ谷方面から東進する足利勢を支えていた「楠木正成」
先の新田勢撤退によって、敵中に孤立していました
和田岬からは続々と尊氏の軍勢が上陸。
敗走した義貞勢には目もくれず、先の細川勢までもが包囲陣に加わったのです。

十重、二十重の包囲陣に囲まれた正成勢。
前の軍勢を追いまくって蹴散らし、後方は捨てておく
そのようなことを言って、七百あまりの兵と共に足利勢へと突撃していったのです。

正成と弟「楠木正季(くすのき・まさすえ)」は乱戦の中、敵陣に突入しては北へ南へと追いながら、大将「足利直義」の首をひたすらに狙っておりました。
顔を合せて互いの無事を確かた二人はまた敵中へと突入し…なんとそれを七度に渡って繰り返していたようなのです。
率いていた七百の軍勢は、なんと”六時間もの間戦場にて暴れ回っていた”ようなのです。

その猛烈な勢いに、なんと足利勢は須磨寺方面へ逃れ、一時は直義自身までもが危機にさらされております。
こうした予想外の危機に尊氏は新手を繰り出し、より激戦となった中、楠木勢はわずか七十三騎となっていました。
いつしか、体には十一箇所にも及ぶ傷を受けていたのです。
「もはやこれまで」
覚悟を決め、近くの民家にて一族郎党が一斉に割腹して果てたのでした。
兵庫で迎え撃った正成は少数ながらも奮闘し、湊川にて自害。
享年四十三と伝えられています。

彼の死を惜しんだ尊氏は正成の首を丁寧に化粧して、楠木屋形へ贈っています。
まこと賢才武略の勇士とは、かような者を言うべき
また、敵ながらそんなことを記しております。



[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


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南北朝と室町政権 (ビジュアル版 日本の歴史を見る)
小和田 哲男
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※まだコレというべき本に出会っていません。
 南北朝の良い本知っている方はこっそり教えて下さい。

合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要 (楠木正成)15

2010年02月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、「足利尊氏」はついに反乱。
一時は京都を確保した尊氏ですが、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」によって九州へ追い落とされてしまったのです。
最大の危機を回避した「後醍醐」に対し、我らが「楠木正成」さまは”味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め”、と凄まじい献策をしていたのです。
実際に九州で尊氏は再起し、「新田義貞」といえばその間ずっと播磨で足止めをされるという失態を演じているのでした。


建武三年[延元元年](1336) 三月
九州にて再起した「足利尊氏」は、軍勢を引き連れて進軍。
ここで「新田義貞」、「楠木正成」の両名には出撃が命じられました。

尊氏が九州の諸豪族らを率いて上洛せんとしつつあるならば、大軍勢でしょう。
 これを途中で防ぐには兵が足りず、到底勝ち目がありません。
 ひとまず天皇は比叡山へお移りになって尊氏を京都へ入れましょう。
 京都は守るに難しく攻めるに易い地形です。糧道を断って四方から京盆地を押し包めば、先の如く味方の勝利は疑いありません…

 
京に誘いこんで疲弊を待ち、包囲・殲滅するという得意の作戦です。
”攻め易く守り辛い”という、尊氏を九州へ追い払った作戦と似たものですかね。

合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要

プライドを棄ててでも、最終的に勝てば良い。
後の「朝倉宗滴」と同じようなことを正成が言っていたのです。
しかし、この献策すらも兵法を知らない宰相「坊門清忠(ぼうもん・きよただ)」ら公卿によって、あっさり退けられてしまったのでした

彼の心中はどうだったでしょう。
やむなく従った正成は桜井にて十一歳となる息子「楠木正行(くすのき・まさつら)」に別れを告げ(※写真)、彼を本国河内へと帰らせました。

このたびの合戦は天下を左右する重大な戦だから、もはや生きてお前の顔を見ることもあるまい

そう、自分の死を覚悟したようなことを言い残しております。
(※ちなみに、コレは太平記の名場面なんですがこの時正行は二十歳くらい。史実ではないようです)
乏しい兵力と大した将軍のいない政府軍では、野戦で足利軍に勝てないと悟っていたのでしょう。
この時、正成は三千という股肱の臣を正行に従わせ、河内へ帰したと伝えられています。
次の乱を見据え、戦力の温存を図ったのでした。

⇒ つづく。
  次回は「玉砕・賢才武略の勇士」 (16/16)


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※やっぱり漫画がオススメでしょう。
 ゲームにならないかなぁ。

新田義貞を捨て、足利尊氏と和せられ給え… (楠木正成)14

2010年02月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

建武元年(1334)
「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
しかし、トンデモな政治は論功行賞で無視された武士ほか、公家にも評判が悪かったのです。
建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、「足利尊氏」はついに反乱。
追討の「新田義貞(※写真)」を箱根・竹ノ下に撃破し、「楠木正成」も宇治で撃破され、一時は京都を確保しました。
しかし、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」は足利勢を破り、尊氏を九州へと追い落としたのです。
「後醍醐」は最大の危機を回避したんですが…。


建武三年[延元元年](1336) 二月
京都合戦の功労者「北畠顕家」は、”鎮守府大将軍”の肩書きを受け、奥州へと引き上げていきました。
(※その前は”鎮守府将軍”ということで、新たに「」がついたのですよ。…ギャグではなく)
政権の危機を回避したことで、公卿らは大いに喜んでいました。
しかし、ほとんどが戦勝に酔いしれる中、現状を楽観していない者がおりました。

事を構える新田義貞を捨て、足利尊氏と和せられ給え…

そう、我らが「楠木正成」さまです。
彼が進言していたこと。
味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め、ということですね。
非常に興味深い、後の歴史を知る我々にとっては、凄まじい策であることが分かります。
籠城戦もそうですが、この人は凄いですね!!
才あって天下の声望を集める尊氏に対し、義貞にはどっちも…微妙なところ(笑)
尊氏が九州で再び勢力を取り戻して攻め込んできた際には、もう勝算がないだろうと考えていたのです。

しかし…
正成は臆したか
出自・位が低く、また先の勝利で浮かれていた公卿・政府には嘲笑され、その奇策は結局・当然ながら受け入れられなかったのです。

まぁね、そのが当然のことでしょう。
負けた相手とわざわざ和睦して、味方(いちおう)を切り捨てようなんてしませんわね。

ちなみに、九州へとほうほうの体で逃れた尊氏ですが、その直前にはちゃっかり持明院統の「光厳天皇」より院宣を受けています
持明院統としては、親政を始めた「後醍醐天皇」の大覚寺統を潰すため、尊氏の力が必要なんですね。
どちらが正統であるかは置いといて、大義名分をしっかり整えていたのです。

こうして、少弐(しょうに)一族に迎えられた尊氏は、九州にて再起を果たします。
京都へ戻るべく、着々と上洛の兵を整えていくのでした。

ちなみに、この尊氏討伐を命じられていた義貞はじれったいほどに行動が遅く…
また、三月に六万という大軍と共に出陣したものの、播磨にて「赤松円心」の白旗城(守備隊は八百あまり)に阻まれて進めず、なんと尊氏西上の報まで手こずった挙句、攻略できぬまま撤退するのでした。
いきなりダメっぶりが発揮されてしまったのです。

⇒ つづく。
  次回は「合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要」 (15/16)

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※そのためか、経営術にまでなっているのでした。
 でも、なんで正成さま主役のドラマとか、ゲームはないかなぁ。