のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
戦国時代と言えば…北条、上杉、武田、今川と言った、時代を代表する英雄がずらりと揃っている関東ですよね。
あるいは、”歩く戦国史”たる「織田信長」の活躍した中部・近畿でしょうか。
そうした地域と共に注目なのが、こちら九州地区なのです!
うう~ん、九州。
できるならば、一週間くらい時間をかけて、ゆっくり行きたいなぁー。
仕事でしか経験ないんですよね。
戦国時代のこの付近は、大友、島津、龍造寺といった有力三大名が激突する三国志ちっくなところが、心をぐっと捕えて離さないのです。
このブログでも、ちらほらとやってるのは、そうした理由。
そんなこんなで、今回は魅惑の攻城戦シリーズ、「岩屋城合戦」とそちらの城将「高橋紹運」についてです。
前回は鳥取城で攻める側「羽柴秀吉」がメインだったので、今回は守備側がメインなのでした。
九州統一を目指し、総大将「島津義久」の指揮によって迫る、五万という大軍勢。
それを、「高橋紹運」はたった七百六十三という手勢で岩屋城に引き受けるのです。
抜群の采配によって激しく抵抗し、島津勢に甚大な損害を与えながらも守備隊は一人残らず玉砕。
紹運自身も壮絶な最後を遂げるんですが…なんと、半月もの間この城で粘り続けたのでした。
若いころから冷静沈着で思慮深く、また度量があったという彼。
さっそく見てみましょう。
天文十七年(1548)
越後では「上杉謙信」が兄に代わって当主となった頃。
今回の主役、「高橋紹運」は吉弘氏の次男として誕生しました。
幼名は「孫七郎」
後には「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」と名乗りました。
(※ややこしいので、後は「高橋紹運」で統一します)
その父は大友家の重臣「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」です。
おおよそ弘治三年(1557)頃には、主君「大友宗麟(義鎮)」の加判衆となった鑑理。
(※加判衆[かはんしゅう]:公文書に連署、判を加える人。要するに重職みたいな感覚で良いでしょう)
初期の大友家を支え、「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」、「吉岡長増」らとともに”大友家の三老”と呼ばれたほどの武将なのです。
その父親も、かなりの人物だったのでした。
永禄二年(1559)
家督相続後の当主「大友宗麟」はそうした三老の活躍などもあり、大内氏、菊池氏らを圧倒してわずか十年ほどで六ヶ国の守護職に補任。
…まぁ、実質的には怪しいところもありましたが、当時の九州では最大勢力としてその威を示しました。
さらに、将軍「足利義輝」への献金が実り、九州探題となっています。
(※鎌倉時代後期あたりより幕府が九州統治のために設置)
。戦国時代では名誉職的なものであったとはいえ、これで”九州の治安を維持するため”という大義名分を得ることとなったのでした。
⇒ つづく。
次回は「侵攻する「毛利元就」と岩屋城」(2/10)
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [前 後]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [1 2 3 4 5]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [1 2 3 4 5 6 7 8 9 10]
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※やっぱり九州はいいですねー。
こうした本まであったりします。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
戦国時代と言えば…北条、上杉、武田、今川と言った、時代を代表する英雄がずらりと揃っている関東ですよね。
あるいは、”歩く戦国史”たる「織田信長」の活躍した中部・近畿でしょうか。
そうした地域と共に注目なのが、こちら九州地区なのです!
うう~ん、九州。
できるならば、一週間くらい時間をかけて、ゆっくり行きたいなぁー。
仕事でしか経験ないんですよね。
戦国時代のこの付近は、大友、島津、龍造寺といった有力三大名が激突する三国志ちっくなところが、心をぐっと捕えて離さないのです。
このブログでも、ちらほらとやってるのは、そうした理由。
そんなこんなで、今回は魅惑の攻城戦シリーズ、「岩屋城合戦」とそちらの城将「高橋紹運」についてです。
前回は鳥取城で攻める側「羽柴秀吉」がメインだったので、今回は守備側がメインなのでした。
九州統一を目指し、総大将「島津義久」の指揮によって迫る、五万という大軍勢。
それを、「高橋紹運」はたった七百六十三という手勢で岩屋城に引き受けるのです。
抜群の采配によって激しく抵抗し、島津勢に甚大な損害を与えながらも守備隊は一人残らず玉砕。
紹運自身も壮絶な最後を遂げるんですが…なんと、半月もの間この城で粘り続けたのでした。
若いころから冷静沈着で思慮深く、また度量があったという彼。
さっそく見てみましょう。
天文十七年(1548)
越後では「上杉謙信」が兄に代わって当主となった頃。
今回の主役、「高橋紹運」は吉弘氏の次男として誕生しました。
幼名は「孫七郎」
後には「吉弘鎮種(よしひろ・しげたね)」と名乗りました。
(※ややこしいので、後は「高橋紹運」で統一します)
その父は大友家の重臣「吉弘鑑理(よしひろ・あきただ)」です。
おおよそ弘治三年(1557)頃には、主君「大友宗麟(義鎮)」の加判衆となった鑑理。
(※加判衆[かはんしゅう]:公文書に連署、判を加える人。要するに重職みたいな感覚で良いでしょう)
初期の大友家を支え、「臼杵鑑速(うすき・あきはや)」、「吉岡長増」らとともに”大友家の三老”と呼ばれたほどの武将なのです。
その父親も、かなりの人物だったのでした。
永禄二年(1559)
家督相続後の当主「大友宗麟」はそうした三老の活躍などもあり、大内氏、菊池氏らを圧倒してわずか十年ほどで六ヶ国の守護職に補任。
…まぁ、実質的には怪しいところもありましたが、当時の九州では最大勢力としてその威を示しました。
さらに、将軍「足利義輝」への献金が実り、九州探題となっています。
(※鎌倉時代後期あたりより幕府が九州統治のために設置)
。戦国時代では名誉職的なものであったとはいえ、これで”九州の治安を維持するため”という大義名分を得ることとなったのでした。
⇒ つづく。
次回は「侵攻する「毛利元就」と岩屋城」(2/10)
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⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
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⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [1 2 3 4 5]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [1 2 3 4 5 6 7 8 9 10]
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※やっぱり九州はいいですねー。
こうした本まであったりします。