お寺さんぽ Ver.03

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「大仏もっこり」に待った!  東大寺カンカン (産経新聞)

2009年06月28日 | ネタ
どうも、お世話になっております。
現在は近畿を制圧した「三好長慶」死後の三好家混乱話をやっておりますが…ちと久々に目についた記事があったので、取り上げてみることとしました。

さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 「大仏もっこり」に待った!  東大寺カンカン (産経新聞) 』です。

旅行へ行った際などで、ひでるさんもコチラの商品は目についておりました。
まさか大仏にまでなっていたとは非常に驚きましたが、結局のところ販売中止で落ち着いたようです。
とりあえず、↓下記の記事をご覧ください。

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■「大仏もっこり」に待った!  東大寺カンカン
 [産経新聞] 2009年6月25日 

 半身が膨張した人気キャラクター「まりもっこり」の関連商品「大仏もっこり」について、東大寺(奈良市)は24日までに
信仰対象の尊厳を踏みにじっている。販売を中止してほしい
と発売元に抗議文書を送付した。
「大仏もっこり」は東大寺の近くや鎌倉でも販売。
東大寺の庶務担当者は、
タグに東大寺大仏殿の絵が出ており、(無関係と)言い逃れはできないはず。徹底的に争う」とカンカン。
一方、発売元のキョーワ(札幌市)は「ジョークのつもりだったが、もっこりの場所が場所なので致し方ない」と困惑顔だ。
---------------------------------- 。。。



■「大仏もっこり」販売中止で東大寺と「和解」
 [産経新聞] 2009年6月26日 

 下半身が膨張した人気キャラクター「まりもっこり」の関連商品「大仏もっこり」について東大寺(奈良市)が販売中止を求めている問題で、発売元のキョーワ(札幌市)が販売を中止したことが25日、分かった。
 同社は「販売をやめ、できる範囲で大仏もっこりを回収することで東大寺と和解した」と説明。
 寺側は「販売を中止してくれればそれで結構」としている。

 元祖まりもっこりは、キョーワが2005年2月に発売。北海道・阿寒湖に生息する国の特別天然記念物マリモがモチーフの人形で、下半身の盛り上がりが特徴。
 08年からは全国で関連商品が販売されている。
 東大寺は「信仰対象の尊厳を踏みにじっている」として販売中止を求める文書をキョーワに送付していた。
---------------------------------- 。。。


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当然でしょうね。
いや、「まりもっこり」自体はいいんですよ。
「ジョークのつもりだった」
…という発言そのまま、一発ジョークとしてはなかなか面白い発想だと思います。

ここで重要なのは「まりも」+「もっこり」という単語が組み合わさって出来ているという点。
基本的に「もっこり」の前を担当する単語は、ラストが「も」ではないとジョークにならないのです。

また音の響きを考えた場合、「●●もっこり」というように、2文字がぴったりであるというのが想像できる筈です。
増えた場合をなんとなく考えてみて下さい。
「●●●もっこり」
「●●●●もっこり」
どうでしょう?
あまりパッとしませんよね?

…そう考えると、先の関連商品「大仏もっこり」が如何に変であるのか分かると思います。
「だいぶつもっこり」
担当者さんには申し訳ないですが、これジョークにはなっておりません。
4文字なので、聞き心地としてもだらっとして良くありません。

そして、東大寺さんが最も腹を立てただろう「大仏さま」の部分。
まだ記憶に新しい平城遷都1300年祭キャラ「せんとくん」の問題ですが、頭の角がため”仏様を汚した”という批判がありました。
イスラム教開祖「ムハンマド」さまのニュースなどもありましたよね。
そうした批判が出るだろうことは想像できないもんかなぁ…。

相手は崇拝対象たる神様ですからね?
「せんとくん」みたいなゆるキャラとは、訳が全然異なっているのです。

だいたい、下半身を膨張させたキャラの何が良いのか、ひでるさんは理解に苦しみます。
キテレツな感じが一時的に受けて、情報時代ということもあってわっと世に出はしましたが、実際のところアレを見て喜んでいる人ばかりではないと思うのですよ。
何が好きで野郎のややこし部分を見なければならないのか、不快ですね。

もし「大仏さま」で想像し辛いのであれば、野球選手でもヒーローでも、自分の好きな対象をアレに当てはめてみれば東大寺さんの怒りが理解できると思います
例えば…ウルトラマンを模したのが発売されたら、ひでるさんはスゴい嫌ですわ。
(※何かの本?…でありましたが、「ウルトラマンに服を着せるな」という言葉に深く同意します)

まず、ジョークにはなってはおりません。
さらに抗議文書に困惑…と、その意図が理解できないのであれば、上に書いてある方法で想像してみては如何でしょうか。
発売元さんは、「カトちゃん」、「キティ」とは並び立たないキャラであることを理解してほしいです。


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上洛の織田勢、京を制圧 (三好家の人々)6

2009年06月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄八年(1565)
三人衆と「松永久秀」は将軍「足利義輝」を襲い、これを自害させました。
その後対立した三人衆と久秀は畿内にて激突。
兵力に勝る三人衆らは、永禄十年(1567)頃には久秀勢を大和へ追い詰めますが、”東大寺焼き打ち”という奇策によって大敗してしまうのです。
こうして三好家中が小競り合いを続ける中、永禄十一年(1568)には「織田信長(※写真)」が上洛の軍勢を進めてきたのでした…。


上洛は9月頃のこと。
ここで「松永久秀」は判断良く、名茶器「九十九髪茄子(つくもなす)」を片手に信長へ降伏。
許され、早々に大和を安堵されると共に、そちらの完全制圧を命じられています。
いやー、抜け目のないおっちゃんですねー
(※この時の久秀は五十八歳くらい。わお!)
ちなみに、彼と結んでいた「三好義継」も同様に信長へ降伏し、河内・若江城主として河内半国を安堵されました。

こうして、敵対していた久秀らがあっさり信長に恭順したため、三人衆ら三好勢はたちまち窮地に陥ってしまいました。
信長の要請(※一週間ほどの説得があった様子)を拒絶し、近江の大大名「六角義賢」と結んで、共に「織田信長」に抵抗したのです。

六角氏の観音寺城は、ちょうど上洛の道筋でありました。
観音寺城、そして箕作城などに兵を配して、待ち構えた六角勢。
しかし、浅井氏の台頭、お家騒動などで衰退していた軍勢では織田軍を止めることすらできず、五万という軍勢によってわずか一日にて陥落してしまうのです
驚きの白さ、でなく早さです。

この、予想外にあっけない決着に、援軍を出す暇もなかった三人衆は京を放棄。
先ごろまでの三好家内乱は、結果的に付近の国人・奉公衆からの離反を招き、周囲を敵だらけとしていたのです。
最長老「三好長逸」は摂津・芥川城に入って織田勢に抵抗しましたが、攻められて開城。
また淀城、勝龍寺城を守っていた「岩成友通」も織田勢に陥落させられるなど、畿内にあった拠点は次々と攻略されてしまうのです。
三人衆らは、まだ地盤の残っていた阿波へと逃れました。

永禄十二年(1569) [本国寺の変(六条合戦)]
抵抗勢力を蹴散らして上洛した「織田信長」は、京都・本国寺に仮の御所(六条御所)を置き、ふいと岐阜へ帰国しておりました。
その隙に乗じた三人衆は、三好一族(※長慶の父元長の弟、「三好康長(笑岩)」など)と共に、信長が不在であった京都へ侵攻。
現在の将軍「足利義昭」の宿所を襲ったのです。

しかし、予想に反してその守備は固く、また周辺国人らも一斉に織田勢へ味方したため攻略することができず、ここでね戦力失った三好勢は、いつしか石山本願寺らと共に抵抗するのが精いっぱいという、一勢力程度になっていくのです。

⇒ つづく。
  次回は「野田・福島合戦の勝利」(7/9)

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※こんなん見つけました。
 信長さまだそうですが…やたらかっちょえーですね。

権現力ソフトクリーム (高尾山・薬王院)

2009年06月21日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでる食べ歩きシリーズ、都心から五十分という東京都八王子市、高尾山薬王院の「権現力ソフトクリーム」です。
権現力、で”ごんげんりき”ですね。

前々からずっと気になっていた高尾山へ行ってきました。
修験道の霊場「高尾山薬王院」ですね。
そっちの記事も後にやりますが、今回は食べ歩き。

いつもこのシリーズでは、雨とか雪とか「こごえるふぶき(※ドラクエね)」がセットになっているんですが…この日は珍しく快晴。
水の女神「弥都波能売神(みづはのめ・のかみ)」、通称「みずはちゃわん」もお休みなようでした。

日が出ているものの気温も高すぎることなく、いい感じ。
ソフトクリーム日和です。
えー、あまりに条件が良過ぎて、ブログには面白くないですねー。
ここまで書くのに四苦八苦(本当)です。
まったく「みずはちゃわん」も意地が悪い。

さて、そんなこんなで高尾山。
休日ということで相当の来客があり、山はいっぱい・いっぱいなのでした。
そんな中、不意に見かけた行列の先にあったのがこちら。



ポリフェノール・クエン酸パワー
         『 権現力ソフトクリーム 』 だって。
         
          
お寺の健康ぶどう酢を使ったソフトクリーム」だそうです。
なにせ高尾山ですから、食べない訳にはいきません。
いいんじゃないでしょうか。
順番を待ち…ようやく来ました、これが「権現力ソフトクリーム」です。




薄い紫が綺麗です。
口にしていきなりは、やっぱりぶどうの風味。
ちょっとしてから、じんわりと甘酸っぱさがあります。
後味は完全にお酢でしたが、さっぱり爽やかでした。
これは大人向けな味ですねー。
ソフトのふんわりさより、ややかため。
どちらかというと、シャーベットっぽい雰囲気でした。

【おすすめ★メーター】 高尾山限定『 権現力ソフトクリーム 』
■■■□□ 3Point …ブドウ好きならいいと思います。300円ですね。

いかがでしょう?
ひでるさんはお酢がダメなんでやや微妙でしたが、別にまずくはありません。
ポリフェノール・クエン酸でしたから、体にはいいかもしれませんね。
なにせココ限定ですから、ぜひお試しくださいませ。



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⇒ ディッピンドッツ・アイスクリーム (東京ジョイポリス) 


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※そんな訳で延期しているこちらなんですが…なんか違うゲームになってましたね。
 どうせ時間もないですし、いいか。


久秀、東大寺を焼き打ち (三好家の人々)5

2009年06月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄七年(1564)
養子「三好義継」は三好三人衆の後見を得て、家督を相続しました。
その翌年、三人衆と「松永久秀」は将軍「足利義輝」を襲い、なんとこれを自害させたのです。
とりあえずは三人衆と歩調を合わせていた久秀ですが、次第に対立。
兵力に勝る三人衆は久秀勢を各地で撃破し、ついに多聞山城を包囲するんですが…。


永禄十年(1567)
占拠していた、東大寺・大仏殿に本陣を置いていた三人衆。
この地は久秀らの籠る多聞山城からは”目と鼻の先”というくらいに接近した場所で、兵力に勝っていた三人衆勢はこちらを拠点に城攻めをしておりました。
よく防戦していたものの、兵力差がためしだいに久秀勢は追い詰められていくのです。

こんな不利な状況を覆すには…奇策しかありません。
城外へと討って出た久秀勢は、なんと陣取っていた三人衆に対して”焼き打ち”を敢行したのです

信長の有名な言葉、
この男は滅多に人ができないことを三つもやった珍しい男だ
…の一つにある、東大寺の焼き打ち。
天平五年(733)創建という東大寺に火を放つというのは、当時の感覚で”言語道断”な所業でした。

しかし、当の久秀は実に現代的な感覚の持ち主であり、
「木と銅で出来たものを焼いて、なんの罰があろうか」
と言ったとかなんとか…スゴイですね。

ともかくもそんな訳で、すっかり不意を突かれてしまった三人衆は混乱の中防戦したものの次々と討ち取られ、また放たれた火は門や鐘を残した以外全てを灰燼に帰してしまったのでした。
この奇襲によって、三百という死者を出した三人衆らの軍勢は総崩れとなって大敗北。
逆に勝利によって大和の地盤を固めた久秀は、畿内でも有数の戦国大名となったのです。

まさかの敗北で近畿での勢力を弱めてしまった三人衆…。
さらに翌年には、最大の試練が待っていたのです。

永禄十一年(1568)
こうして三好家中が分裂して小競り合いを続けるなど混乱する中、ついに流浪の将軍「足利義昭」を擁した「織田信長」が上洛の軍勢を進めてきたのでした…。

⇒ つづく。
  次回は「上洛の織田勢、京を制圧」(6/9)

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※そんな訳で、久秀くんが焼いちゃった東大寺です。
 しかし…あの時代でかっちょえー老人ですよね、彼。

対立する後見者たち (三好家の人々)4

2009年06月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。


永禄七年(1564)
養子「三好義継」は三好三人衆の後見を得て、家督を相続しました。
その翌年、三人衆と「松永久秀」は何かと邪魔であった将軍「足利義輝」を襲い、これを自害させてしまうのです。
とりあえず三人衆と歩調を合わせていた久秀ですが、そんな関係はあっさり崩壊するのでした


切っ掛けは、色々取りざたされています。
禁中で預かっていた将軍家の神器「小袖鎧櫃(こそでよろいびつ)」を久秀が勝手に持ち出したとか。
大和を支配した久秀に対し、興福寺がその排斥を訴え続けていたとか。
幽閉されていた「覚慶」を取り逃した責任問題を彼になすりつけたとか。
…ともかく、そういった様々な切っ掛けがため、「成りあがり者」といままで押さえていただろう感情が爆発してしまったのでしょう。

永禄九年(1566)
三人衆の「岩成友通」、「三好政康」らは後継者「三好義継」と共に和泉へと出陣。
また、松永勢に追われていた筒井家の当主「筒井順慶(藤勝)」も、この際に三人衆らと結び、松永勢の攻撃軍に加わっております。
一方の「松永久秀」は、紀伊に逃れていた仇敵「畠山高政」、根来衆らと結び応戦しました。

しかし、「安宅信康」率いる淡路水軍が摂津へと上陸し、久秀方の城を次々と包囲。
久秀が河内に出陣して留守となっていた大和でも、三人衆からの援軍を得た「筒井順慶」が自らの居城・筒井城を奪還し、翌年の「上芝合戦」では三人衆の軍勢と共に久秀勢を打ち破っております。
さらに阿波より「篠原長房」の援軍を得ていた三好勢は終始優勢で、ほどなくして畿内を制圧したのでした。
年末頃にはついに彼の本拠地である大和まで兵を進め、居城・多聞山城を包囲するまでに至ったのです。
久秀、大ピンチです

永禄十年(1567)
しかし、「松永久秀」と戦う前後あたりから、三人衆らはなんと主君であるはずの「三好義継」とも対立するようになっていました
これは、当主となったものの傀儡であることを期待された義継が反発した事が原因なようです。
真実かは不明ですが、その対立をさらに久秀が煽っていたとも言われ、両者の対立は決定的なものとなるのでした。

この、多聞山城包囲の際にはほぼ軟禁状態であったという義継ですが、無事に脱出。
久秀に迎えられた義継は、三人衆に対抗したのです。
(※おそらく義継自身には力ないでしょうけれど、正式な後継者である彼を迎えることで大義名分を得ることができます)
こうして、大和での戦いは激しさを増し、戦火はたちまち周囲の寺社へ被害を及ぼしました。
その最たるものが、あの有名な”大仏殿の焼失”なのです。

⇒ つづく。
  次回は「久秀、東大寺を焼き打ち」(5/9)

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※こないだ知りましたが…なにげに「松永久秀」が登場するようです。
 必殺技は自爆か!?

衝撃!御所襲撃!! (三好家の人々)3

2009年06月11日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄七年(1564)
三好三人衆の後見を得て、養子「三好義継」は家督を相続、河内飯盛城主となりました。
三好家を盛りたててきた長慶の兄弟らも一斉に代替わりし、畿内はなにかと不安定な情勢でした。


永禄八年(1565) [永禄の変]
清水寺の参詣を口実として上京した三好勢。
しかし、その軍勢は清水寺へは向かわず、足利氏の御所であった武衛陣(ぶえいじん)を取り囲んだのでした…。

さて、長慶ともたびたび衝突していた、将軍「足利義輝(※写真)」
自身は剣聖「上泉信綱」、「塚原卜伝」などから剣を学び、各地大名の紛争を調停、有力大名との接見など、復権に向けて精力的に活動しておりました。
なお、当の「三好義継」も義輝から一字を与えられて「義重」と改め、左京大夫へ任ぜられています。
(※ややこしいので義継で統一しますが)
彼はこの偏諱(へんき:名前の一字を与えることね)も多く、衰退する将軍家にあって存在感を見せておりました。
このように、かなり活動的であった義輝。
ただし、将軍を傀儡としておきたい三好家としてはどうにも見逃すことはできず、結果としてその行動力が仇となってしまったのです。
なお、”清水寺へ参詣”ではなく、兵を入京させたのちに「訴訟がある」との口実で御所へと向かい、守備兵らが気を緩めたところへ一気になだれ込んだ…という説もありました。
どちらにしろ、相手の油断を誘うものであったことには違いありません

邸内にいたのは、わずか数十人程度の奉公衆でした。
三人衆、そして「松永久秀」などの三好勢は、それをぐるりと取り囲み、急襲。
異変に気づいた義輝はわずかな側近と酒を酌み交わし、およそ三時間ほどの間存分に剣で奮戦した後に自害するのでした。(※自害で、討ち取られてはいないようです)
享年三十。

こちらの事件は、主に三人衆筆頭である、長逸の主導であったようです。
続く十四代の将軍として彼らが擁立したのは、平島公方の「足利義栄」でした。
なお、この際に「覚慶」との名乗りで一乗院門跡であった後の将軍「足利義昭」は、「三淵藤英」・「細川藤孝」ら幕臣の援助を受けて、奈良から脱出。
後に織田の軍勢と共に京へ攻め上ることとなるのです。

ここまでは、三人衆と協調していた「松永久秀」
しかし、彼は長慶の信任を得てトントン拍子に出世していった新参者。
一族ということで権力を握った古株の三名とはもともと相容れない存在であり、後に主導権を巡って対立を深めた両者によって、三好家中はドロ沼の内乱状態となってしまうのです。

⇒ つづく。
  次回は「対立する後見者たち」(4/9)


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南北朝と室町政権 (ビジュアル版 日本の歴史を見る)
小和田 哲男
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※南北朝と室町は学習中です。
 コレはどうかなぁ。

後見の三人衆って何者? (三好家の人々)2

2009年06月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄七年(1564)
三好三人衆の後見を得て、養子「三好義継」は家督を相続、河内飯盛城主となりました。
それ以前には、いままで三好家を盛りたててきた長慶の兄弟らも、一斉に代替わりしているのです。
ここまで極端な例というのは、他の大名家には見られません
(※細かいところまでは知りませんが)
しかも、ほとんどが突然の出来事で、継いだのも”まだ後見を必要とするくらいの若者”ばかりなのでした。
これでは、混乱しない訳がありません。

こうして不安定であった三好家中にて、当主義継の後見として権力を握ったのが三好家中での有力者”三好三人衆”、そして長慶の信頼を得て大和に独自の勢力をもった家宰「松永久秀」でした。
さて、何かとひとくくりにされることが多いこの”三好三人衆”ですが、いったいどんな集団だったんでしょう?


一族では最長老であった「三好長逸(みよし・ながゆき)」
彼は三人衆で筆頭というべき存在でした。
長慶の祖父「三好長秀」の弟「長則」の子(と、伝えられている)で、長慶の父「三好元長」とは従弟になります。
もともと若年であった長慶の後見役としても活躍しており、家中での発言力もかなり大きかったと想像されます。
軍事面では、特に丹波方面を担当していました。

おそらくはそれに次ぐ地位であったと想像される、「三好政康(みよし・まさやす)」
彼は長慶の祖父「三好長秀」の弟「三好頼澄」の次男でした。
いわゆる”真田十勇士”の一人である「三好清海入道」のモデルで、最後は大阪城へ入城したとされていますが…実際のところは不明です。
丹波攻め、河内攻めなどの合戦に参加していたようですが、先の長逸と違って長慶の生前ではほとんど目立たない存在でした。
多くの三好一族と同様に茶人としても有名で、風流な人物であったとされています。

最後の一人は、三好姓ではない「岩成友通(いわなり・ともみち)」
出自不明ながらその器量を認められて、一族に準ずる扱いを受けていたようです。
(※一門衆であったという説もあります)
永禄元年(1558)の山城・瓜生山城攻めなど、特に合戦での活躍が目立ち、自らの勢力を増し続ける「松永久秀」に唯一対抗しうる武将とされていました。
実際に、大和、山城など各地での戦いでは松永勢に勝利すること多く、焼き打ちされた東大寺での一件以外はほとんど彼に負けていないのです。

…という、以上の面々が後見の”三好三人衆”でした。
兄弟に代わる一族衆として、三好家の実権を掌握します。
さらに、大和を支配する重臣「松永久秀」も大きな存在感を見せていたようなのです。

⇒ つづく。
  次回は「衝撃!御所襲撃!!」(3/9)

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妖鬼化(むじゃら)〈3〉近畿編
水木 しげる
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※近畿で検索していたら、こんなん見つけました。
 竹藪とか「砂かけばばあ」が出てきそうに感じる時があります。

代替わりした三好一族 (三好家の人々)1

2009年06月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回は、「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

さて、傑物「三好長慶」の死後に後を継いだのは、養子であった「三好義継」でした。
本来後を継ぐべきだった嫡男「三好義興」が既に死亡していたため、養子(※本来は「十河一存」の子)にしていた義継へと御鉢が回ってきたのでした。

長慶を紹介した際に書きましたが、三好家を支えていた他の兄弟らも、この数年間で立て続けに、彼よりも先に亡くなっていたのです。


■おまけ: ややこしい三好家家系図 (※↓:子、-:兄弟、=:養子)

 小笠原長清
    ↓
   (略)
    ↓
   之長
    ↓
   長秀-----------頼澄--------長則
    ↓                 ↓             ↓
   元長-康長(笑岩) 政成-政康(三人衆)  長逸(三人衆)
    ↓
   長慶-----義腎(実休)---冬康(安宅)--一存(十河)
    ↓             ↓          ↓          ↓
 義興=義継 長治-存保(十河) 信康  義継(宗家へ)=存保
   
  
まず、”鬼十河”の異名で知られる猛将「十河一存(そごう・かずまさ)」は、永禄四年(1561)に急死。
その後を継いだのは、「三好義賢」の次男であった「十河存保(そごう・まさやす)」でした。
一存の死後、嫡男義継(※一時期は「十河重存」という名乗りでした)が長慶へ引き取られたため、兄義賢より養子を得たのでした。
なお、讃岐へ入った当時の存保はまだ七歳。
ここは想像ですが…当時は実父・義賢がまだ顕在であり、また十河家は「景行天皇」流れの名門家であったため、特に伝わっていませんが、補佐役は多かったと想像されます。

その、四国勢をまとめていた、三好家の副将というべき「三好義賢(※写真)」は、永禄五年(1562)に「久米田合戦」にて戦死。
その後を継いだのは、彼の嫡男「三好長治(みよし・ながはる)」でした。
…こないだから三好氏を追いかけていますが、政治・軍事に才を発揮していた義賢が亡くなったのが、相当に大きかったと思います。
継いだ当時の長治は、まだ元服も済ませていないだろう、九歳程度の年齢。
そのため、義賢に従っていた阿波・上桜城城主の名将「篠原長房」が後見となって彼を助け、阿波・讃岐を統治したようです。
この長房はなかなかの武将で、先の「久米田合戦」ほか各地の合戦でも活躍しており、また長治の名で伝わる分国法「新加制式」も実際は彼の発案であるとされています。
長房の持つ軍事力は衰退に向かう三好家ではかなり重要で、三人衆に次ぐほどの地位を与えられていたようです。
基本的には三人衆に従って「足利義栄」の擁立に協力するなど、常に協調路線をとっていました。

淡路水軍をまとめていた「安宅冬康」は、永禄六年(1564)に「松永久秀」の讒訴によって、”逆臣悪行”として長慶自ら誅殺してしまいました。
その後を継いだのは、当時十五歳の嫡男「安宅信康(あたぎ・のぶやす)」です。
もう、分別のできる年齢です。
父を殺害されていた彼が三好家、そして久秀に対してどう考えるか、想像に難くありません。

…そして、永禄七年(1564)
三好三人衆の後見を得て、義継は家督を相続、河内飯盛城主となりました。
義継は十三歳くらいだったので、おおよそ元服前後。
当時の感覚からしても、やや早い相続と言えるでしょう

⇒ つづく。
  次回は「後見の三人衆って何者?」(2/9)


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※カラーページ多く、また幅広く記事があっていいんですが…。
 ちと内容が深くなかったです。
 中・初心者向けかなぁ。
 ぺらぺらめくるのは楽しいですよ。