お寺さんぽ Ver.03

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天下統一と義元さま 「海道一の弓取り・今川義元」7

2006年10月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。

ああっ、義元さま…。
三河をうまく併呑し、京への上洛を夢見るようになっていた義元さま。
次の目標を尾張・織田家に定め、甲斐・武田、相模・北条との同盟に成功して後顧の憂いをなくしました。
がしかし、なんと同盟締結に尽力した頼りの「雪斎」が死んでしまうのです。
あれれ、ちょっと不穏な空気ですよ!
と、いう訳で続きをどうぞ。


北条・武田との同盟で後顧の憂いを断った今川義元は、当面の敵を織田家に絞り込むことができました。

天文十八年(1549)
今川家の傘下に入っていた「松平広忠」が二十三歳という若さで突然死したのと同年のこと。
驚異的な粘りと不屈の闘志で、度々戦を仕掛けてきた切れ者「織田信秀」も病を得て死んでいたのです。
(※死亡年は天文二十年など諸説ありますが、誤差二年程度。だいたい四十二歳でした)

こうして後を継いだ「織田信長(※写真)」ですが、皆様ご存知の通り奇行で「大うつけ」と評判でした。父、信秀の健在時には鳴りを潜めていた緒将ですが、チャンスとばかりに抵抗。尾張は内乱状態となってしまいます。
信長はこの鎮圧に約十年という年月をかけ、叔父「織田信光」や弟の「織田信行」ら血族をも討って尾張を統一するのでした。

ちなみに、弘治二年(1556)までは美濃の蝮こと「斎藤道三」が健在でした。
道三は、信長へ援軍こそ送らなかったものの、後ろ盾として婿の活躍を見守っていました。
百戦錬磨の道三が睨みをきかせているうちは、ちょっと手を出しづらいですね。

今川義元が西上への意思を鮮明にしたのが、永禄元年(1558)のこと。
(※砦を築き、兵の配置や大高城へ兵糧を入れている)
東尾張の一部まではもう手中にしていた義元ですが、反乱軍の援助や道三の死亡など、焦らずじっくりとチャンスを待っていたと思われます。

こうして準備を整えた義元が西へ進軍を開始するのは、永禄三年(1560)でした。
…さて、ここで一つ問題。

『 義元は本気で上洛し、天下に号令をする気があったのか? 』

動員した兵力は四万だの六万だのと宣伝されていますが、多めに見積もって二万五千あたりでしょう。
当時はまだ小から中勢力があちこち割拠しているような時代でしたから、この兵数は驚異的です。
しかし、本拠地・駿河から遠く離れた京・山城国までの道のりは、尾張→美濃→近江というルートです。
今川家はそのどちらとも同盟関係などはありません。全て敵国なのです。

合戦ってのは後方遮断されたり、囲まれたり、腹背を突かれるのがもっとも危険ですよね。
だから、いかに兵数で圧倒していたとしても、敵地を素通りするなんてできません。
そう考えると、ここで京都まで進軍するのには、かなり無理がありそうなんです。

実際、「桶狭間合戦」の際に丸根・鷲津の砦を攻撃し、陥落させています。
相手の防衛拠点ですが、ごく小さいものです。
こんなんいちいち相手にしていたなら、上洛までにやたら時間かかるでしょう。

さらに、兵の大半が農兵であったこと。
農繁期には国へ帰らないといけないのです。そりゃー田畑が気になって仕方ないのです。
そんなですから、長々と戦地で暮らすようなことはできません。
ついでに言えば彼らをまかなう兵糧問題だってあります。

これ対し、「織田信長」が上洛した時は三河・徳川、近江・浅井と同盟関係にあり、浅井の関係から越前・朝倉は黙認。
甲斐・武田とはこの頃は誼を通じておりましたから、武田も黙認。
伊勢・北畠は叩いて次男を送り込んでいましたから、事実上併合済み。
伊賀・六角、三好三人衆は上洛の際に叩いており、大和・松永は恭順してきました。
さらに、将軍「足利義昭」を担いでの行軍でしたから、本願寺一向衆、比叡山延暦寺、その他小勢力は恭順または黙認という状況でした。
ついでに言えば、織田勢は常備軍でしたから、農繁期に左右されない部隊なのです。

どうでしょう?
義元の状況とはだいぶ違ってるでしょう。
僧を目指していた時代に住んでいた、懐かしい京の都です。
そりゃー上洛したい気持ちはモノ凄くあったでしょう。

しかし、義元としてはとりあえず尾張を押さえ、京への足掛かりをつくろう、程度な考えだったのではないでしょうか?

後に「武田晴信」が上洛の軍を発したことがありますね。
この時も総勢で二万五千ほど。
反信長の各勢力と結んではおりましたが、近畿一帯はほぼ信長が押さえていました。
(※そのため、朝倉の撤退に晴信は天を仰いだのです。こんなんよっぽど綿密に連携していなければ、どうにもならないのです)
これまでは”石橋を叩いて渡る方針”だった武田勢が、危険極まりない状況で本気に上洛しようとしたのか?
この時でさえ、そんな見方もあるのです。

…長くてごめんなさい。
とにかく、そういった事柄から、あの当時の義元が天下を望んでいた、京まで上洛しようと軍を集めた、というのはだいぶ飛躍した発想であると思うのです。

⇒つづく。 次回は「桶狭間の義元さま」

[関連記事]
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4) 
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」


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※なんだか本もちょこっとですよ、義元さま…。
 あの敗戦がなければ、評価はまったく逆になったかもしれませんね。


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