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朝廷勢挙兵・動揺する御家人 (承久の乱)3

2008年07月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで、”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りしております。

三代にして後継ぎ不在となってしまった将軍の座。
幕府は、”「後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)」の皇子をもらい、新将軍にしたい”と朝廷へ申し入れるのですが、いじわるにも拒否されてしまうのでした。
そう、「後鳥羽上皇」はこの事態を討幕に絶好の好機であると判断していたのです。


承久三年(1221)
「後鳥羽上皇」は鳥羽「城南寺(せいなんじ)」に「流鏑馬汰へ(やぶさめそろ・へ)」と称して、北面の武士、西面の武士という親衛隊。
さらには京都警護、ほか周辺の国々の御家人から寺院の僧兵にまで召集をかけ、兵千七百騎あまりを呼び寄せました。
そして翌日には、
1) 執権「北条義時」の追討。
2) 守護・地頭を院の配下に置く。
…などを彼らに命じたのでした。
追討対象を幕府ではなく、わざわざ執権「北条義時」としたのは、武士たちを動揺・分断させる目的があったのだと想像されます。

ついに、「後鳥羽上皇」は行動を起こしました。
西国十四カ国の武士らに院宣を下し、挙兵・追討を呼び掛けたのです!


当時、特に西国では「後鳥羽上皇」の権威というものは絶大なものがありました。
これは二百年後の南北朝時代になっても、朝廷の権威というものが武士らに大きく影響していた事実からも伺えることでしょう。
もはや自然の摂理のように、当時の人々には深くそうしたものが根付いていたのです。
そのため、京都警備であった御家人のほとんどは朝廷側へ加わってしまうのでした。
参加者には、元政所・別当(※長官みたいな意味ね)であった「大江広元」の嫡男・京都守護「大江親広(おおえの・ちかひろ)」、有力御家人「三浦義村」の弟「三浦胤義」などもおりました。

朝廷勢は、まず召集に応じなかった京都守護「伊賀光季(いが・みつすえ)」を攻めて血祭りに。
続いて親幕府派であった「西園寺公経(さいおんじ・きんつね)」父子を幽閉したのです。

鎌倉への急報は、「西園寺公経」の家司「三善長衡」が。
さらに「伊賀光季」からは上皇挙兵の報告が十九日に届けられていました。

なお、鎌倉の御家人を誘う院宣を携えた使者が到着したのはその四日後であったため、厳重に警戒していた幕府方に捕らえられてしまうのです。
なお、御家人「三浦胤義」は兄「三浦義村」が自らの考えに同調し、朝廷方へ加わると固く信じておりました。
しかし、先に幕府が報告を受けていたことで不利と判断したのか、弟・胤義からの密書を受けた義村は使者を追い返し、なんと密書を幕府に届けて恭順の意を示してしまうのです。

細かい点ですが、この前哨戦での失敗も、後々になって大きく響くこととなるのです。
幕府の実力を軽んじているのか、どうにも朝廷方にはこうしたミスが目立つんですねー。

⇒つづく。
 次回は「尼将軍「北条政子」熱弁を振るう」(4/6)

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※そんなこんなで、鎌倉幕府。
 どっちかというと、頼朝くんは好きではないんですが。 

時代の傑物「後鳥羽上皇」の野望 (承久の乱)2

2008年07月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで、”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りしております。


正治元年(1199)
「源頼朝」の死後。
嫡男「源頼家」はわずか五年後という元久元年(1204)に暗殺。
続いて三代将軍「源実朝」も建保七年(1219)に暗殺されてしまうのでした。
こうして源氏の直系はわずか三代で終わり、鎌倉幕府は大いに揺らいでしまうのです。
…↓こんな感じ。


■おまけ: 源頼朝・周辺系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は征夷大将軍)

頼信(河内源氏)
 ↓
頼義
 ↓
義家(八幡太郎)-義綱-義光
 ↓
義親---義国---義隆
 ↓      ↓
為義    義重(新田)-義康(足利)
 ↓
義朝---義賢-義憲-頼賢-為朝-行家
 ↓      ↓
 ↓   4義仲(木曾)
 ↓
義平-朝長-5頼朝-希義-範頼-全成-義円-義経
           ↓
         6頼家-7実朝
           ↓
     一幡-公暁-栄実-禅暁


三代にして後継ぎ不在となってしまった将軍の座。
困った幕府は、”「後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)」の皇子をもらい、新将軍にしたい”と朝廷へ申し入れるのでした。
しかし、これは上皇に難問を突き付けられるなどして、阻止されております。

幕府からの申し出を許さなかった「後鳥羽上皇」は、三代「源実朝」の死を聞いて喜悦したと言われておりました
やらしいおっちゃんです。
彼は当初より、幕府打倒について模索していたようなのでした。

さて、当時の朝廷を支配していたのが、そちらの第八十二代「後鳥羽上皇」でした。
退位後も上皇として政権を握り続け、離宮を造営して「新古今和歌集」を編纂するなど特に力を入れていた和歌のほか、蹴鞠、琵琶、双六、相撲…などに熱中する、多芸で風雅な方でした。

そんな一方で、珍しく武芸にも興味を示しており、刀剣ほか流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、狩猟、とこちらでも色々興味をしめしていた「後鳥羽上皇」
なんと、自ら盗賊を捕縛したという伝承さえ残っている、時代の傑物だったのですね。
ただ、それがため、後になって大きな失敗をすることとなるんですが…。


さて、前述しているように、成立した「鎌倉幕府」の支配は東国が中心でした。
西日本はもともと平氏の勢力基盤だったこともあり、まだ幕府の支配が浸透していなかったのです。
(※これは独立心の強い関東勢が幕府を鎌倉に据えての独立・結束を最優先とし、あえて西国へは力を伸ばさなかったという事情もあるようです。なお、「源頼朝」は娘「大姫」を入内させようと計画しておりましたが、これは失敗しています)
そのため、西国については、幕府の成立後もまだ朝廷の支配下という色が強かったのでした。
東の鎌倉幕府、西の朝廷というように、当時の天下は二分されたような形勢だったのです

相次ぐ将軍の死亡・暗殺という情勢から、「後鳥羽上皇」は幕府が弱体化していると考えました。
そのため、後継ぎに困っていた幕府を助けるのではなく、逆に討伐には絶好の好機だと判断したのです。
かねてからの望みであった皇権の回復を賭け、「後鳥羽上皇」は次第に討幕を計画するようになったのでした。

なお、「承久記」には、「後鳥羽上皇」の寵愛する白拍子「亀菊(伊賀の局)」に与えた摂津国長江庄を、領有していた御家人「北条義時」が手放さなかったのが直接原因であると、ゴシップ記事のようなことが書かれています。
実際「後鳥羽上皇」がこの地の地頭の廃止を命じたことで幕府と揉めていたこともあったようなのですが、そうした領土問題も原因としてあったのでしょう。

⇒つづく。
 次回は「朝廷勢挙兵・動揺する御家人」(3/6)


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直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 (承久の乱)1

2008年07月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで本日は”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りいたします。


■承久三年(1221) 「承久の乱」概要

新たに成立した、武士政権「鎌倉幕府」
しかし、創始者「源頼朝」の死後はどうにも安定せず、それを好機とみた朝廷の支配者「後鳥羽上皇」は討伐を図ったのです。
がしかし、尼将軍「北条政子」以下、危機にあって結束を固めた幕府軍によって敗れ、隠岐の島へ流されることとなってしまうのでした。
…という事件なのです。
それでは、詳しく見ていきましょう。

さてはて、イイ国つくろう!なーんて具合に始まった、初の武士政権「鎌倉幕府」
源平の争乱に勝利し、続いて奥州の藤原氏をも滅ぼした「源頼朝」
建久三年(1192)には「後白河法皇」の死去によって念願の”征夷大将軍”に任ぜられ、正式に東国支配の権限を得たのでした。

…この流れから分かるかもしれませんが、いままで日本を支配してきた朝廷は健在なまま。
そのため、成立した「鎌倉幕府」の支配は東国が中心であり、”単なる地方政権”という色合いが強かったのです。
(※ちなみに、「幕府」という名称は”征夷大将軍の陣所”という意味なんだって)
また、初期頃の「鎌倉幕府」はその体制から脆弱だったのです。

正治元年(1199)
相模川にかかる橋の落成式に参加した「源頼朝」ですが、ここで不意に落馬。
…と、びっくり。
それがもとで死んでしまうのです。
歴史書「吾妻鏡」はそう伝えているんですが……前後四年分の記述はぽっかりと削除されたように抜け落ちているのでした。
その死の記述についても、没後三年経ってからなのです…。
なんか変よね。

当時、よく囁かれていたのが祟り説。
まぁ、それはないにして、先の落馬が本当だとすると脳卒中とかそんなんですかねぇ。
意外に頼朝の死については知らないでしょ?
はっきり言って、あれだけの歴史人物であるのに死因とかなんとかはいまだ不確かなままなのです。
こうして、時代を切り開いた源氏の嫡流は、不可解な死を迎えたのです。
享年五十三。

その後を継いだ二代将軍「源頼家」
政争に巻き込まれた頼家は出家させられてしまうのです。
続いて伊豆は修善寺に幽閉された後、元久元年(1204)に暗殺。

続いて三代将軍として擁立された「源実朝(みなもとの・さねとも)」
彼は建保七年(1219)に鎌倉は「鶴岡八幡宮」にて、甥の「公暁(くぎょう:頼家の子)」に暗殺されてしまうのでした。
これは、器量を超えるほどの異例な出世をさせ、その身を滅ぼさせるという一種の調伏「官打ち」とされる説もあるようですが、詳細についてはまたまた不明。

暗殺された三代将軍「実朝」にはまだ実子はおりません。
こうして、源氏の直系はわずか三代で終わってしまったのでした。

⇒つづく。
 次回は「時代の傑物「後鳥羽上皇」の野望」(2/6)

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※漫画だからと言って、バカにはできません。
 覚える突破口、興味を持つ切っ掛けというのは、やっぱり漫画とかゲームだと思います。
 

国宝・中尊寺 金色堂 (岩手・平泉)

2008年07月20日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は特別史跡「中尊寺(ちゅうそんじ)」最大の見所であります、国宝「金色堂(こんじきどう)」なのです。


先に紹介している通り、現在の「中尊寺」の建物はほとんどが再建です。
しかし、こちらのメイン「金色堂」だけは、天治元年(1124)の造立時そのままの姿で残っているという、大変に貴重な建造物なのでした。
そりゃ、国宝指定となるのも納得ですね。

のぼるとしんどい月見坂を進んでいくと、左方に「金色堂」を保存する「覆堂(おおいどう)」が見えてきます。
この近くにある宝物館「讃衡蔵(さんこうぞう)」が課金ポイントなのでした。
当然ながら拝観料が必要なのですよ。
(ただ、払う価値は間違いなくあります)


三間四方(だいたい6mくらい)の宝形造(ほうぎょうづくり:正方形な屋根のつくり)
床や天井、壁に至るまで金箔で飾られた、金色の阿弥陀堂が「金色堂」なのです
漆塗りの上へ金箔を貼って仕上げたという、非常に贅沢なもの。

細工を施された巻柱(まきばしら)という、堂内の四天柱内に囲まれた中央に須弥壇(しゅみだん)
その背面左右にもそれぞれ須弥壇が設けられ、中央には初代「藤原清衡」、向かって左に二代「藤原基衡」、右に三代「藤原秀衡」の遺体と首級が納められているのでした。
…超豪華な棺みたいなもんですか。
さすが藤原氏、金持ってます。

仏像は、本尊「阿弥陀如来」を中心に、脇侍は「聖観音」「勢至菩薩」の三尊形式。
最前列左右に「持国天」、「増長天」の二天を配置。
(※そう、四天王ではないのです)
三尊の左右には、三体ずつの「地蔵菩薩」が並んでおります。

なお、背面左右の須弥壇も同様な配置で、堂内には合計三十三体もの仏像が安置されているのでした。
(※ウィキペディアによると、一体失われて合計三十二体とか??)

色々な説明を見ると、透かし彫りの金具、夜光貝や象牙による細工、漆の蒔絵…とかなんとか、ややこしい単語がぞろぞろと列をつくっておりました。
要するに、やたらスゴイんだよーということなのでしょう。

事実、直接見た「金色堂」はややこじんまりとした印象があったものの、あの金箔世界はさすがに圧倒されて言葉を失うような感じでした。
”堂全体が工芸品”と言うのも納得な趣です。

金箔できらきらしているので、「金閣寺」同様外人さんの受けもいいことでしょう。…たぶん。
ただ、ガラスに覆われ、微妙に距離があるのが残念ですが…仕方ないか。



なお、元禄二年(1689)、「松尾芭蕉」は奥の細道の中で、

 『 五月雨の 降残してや 光堂 』

…と詠んでおります。
芭蕉が訪れた頃は再建される前の荒廃した「中尊寺」であったらしく、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と付近にある「高館義経堂」にて残しております。



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※やっぱり「金」はいいですよねー、ってこりゃ「金」違いじゃねーか!
 
 

中尊寺 (岩手・平泉)

2008年07月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日の紹介は「奥州・藤原氏」…と言って、おそらく最初に思い出される(かもしれない)、特別史跡「中尊寺(ちゅうそんじ)」なのです。
ちなみに、同名の漫画家さんもそうした連想(藤原→中尊寺)で名前をつけたのだとか。

いやぁ、行きたかったんですよねー、岩手県は平泉の地。
こちらの「中尊寺」は世界遺産登録に頑張っているようで、現在は暫定リストに入っているとのこと。
ひでるさん的にはどーでもいいことですが、やっぱり世界遺産ともなると来客数とか増えるんでしょうかねぇ?

…とかなんとか書いてたら、↓こーんな記事が…。

--------------- [ おまけ ] -------------------

■平泉「落選」、世界遺産戦略見直し
 [読売新聞] 2008年7月8日

 カナダ・ケベックで開催中の国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会で6日午後(日本時間7日午前)、日本政府が世界遺産に推薦していた「平泉の文化遺産」(岩手県)の登録延期が決まった。
 登録申請のあり方を巡り、政府や自治体に戦略の見直しが求められている。
(ケベックで 青木佐知子)

 次の登録のチャンスは最短でも2年後。「審査を厳しくするという傾向が加速している。気を引き締めて推薦書を作り直さなければ」。世界遺産委員会の審査後、記者会見した近藤誠一・ユネスコ大使(62)は口元を引き締めた。
 日本政府は審査直前まで、委員会メンバーの大使ら21人に外交攻勢を続けた。審査の場では、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」の登録延期勧告について、途上国の大使ら計12人から「勧告は尊重するが、何とか別の評価にはならないか」などと援護射撃を受けたが、結果は出なかった。
 世界遺産委員会の会場には、次の推薦を狙う文化庁の「暫定リスト」に名を連ねる自治体の職員も姿を見せた。

 「世界遺産登録を目指す仲間として、期待していただけに残念」。昨年1月に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が暫定リスト入りした長崎県の担当者は悔しがった。平泉の登録延期で、国内での審査スケジュールが遅れる事態も予想される。「今回の審議内容を分析し、できるだけ早い時期の登録を目指したい」と話した。
 昨年10月現在、登録された世界遺産は851件。
---------------------------------- 。。。



さて、そんなこんなで「中尊寺」は天台宗の東北大本山です。
今はこうして岩手いや、東北地方での代表的なお寺にまでなっておりますが、その歴史は決して平坦なものではありませんでした…。

嘉祥三年(850)は平安時代の初期頃。
”慈覚大師”こと「円仁」によって開かれた…と、されているようです。
その頃は「中尊寺」ではなく、「弘台寿院」という名前だったようですが、詳しいことは例によって不確かみたい。
誰だって有名人の加護を受けたいものですよ。

正確なところになると、長治二年(1105)…はちょうど平安から鎌倉時代へうつるころ。
奥州藤原氏の初代「藤原清衡(ふじわらの・きよひら)」は、「後三年の役」を生き抜いたことによって、奥六郡を領する大勢力の当主となりました。

清衡は前九年・後三年と東北地方にて続いた戦乱にて亡くなった人々の霊を慰め、仏国土を建設するという願いのため、多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営するのでした。
寺号が「中尊寺」となったのも、この頃のようです。
(※寺伝そのままだと、貞観元年(859)、清和天皇より「中尊寺」の号を賜った、とされています)

初代清衡以降、二代「藤原基衡」、三代「藤原秀衡」と建設はすすみ、歴史書「吾妻鏡」によると、
寺塔四十余宇、禅坊三百余宇
…と伝えられ、いつの間にやら、まさに奥州屈指の大寺院たる規模となっていたのでした。
ちなみに、現存しているのは残念ながら天治元年(1124)制作の「金色堂」だけなのですが。
こちらの説明はまた後日。

さて、文治五年(1189)
平家を滅ぼした「源頼朝」は続いて東北へ兵を出し、奥州を百年という長きに渡って統治していた藤原氏は四代「藤原泰衡」にて滅亡してしまいました。
それと共に、最大の保護者を失った平泉の各寺院は急速に衰退。

鎌倉時代には御家人「葛西清重」、頼朝の妻「北条政子」、南北朝時代には「北畠顕家」など、各将によって管理・修復をされていたようですが荒廃はとまらず、さらに建武四年(1337)での野火ほか度重なる火災によって、堂塔のほとんどを焼失してしまうこととなるのです。

江戸時代には、このあたりは伊達藩領となっておりました。
ここで伊達氏の保護を受けた「中尊寺」は、ここでようやく堂塔などを補修・再建されるのでした。

さらに、明治に入ってから「金色堂」が国宝建造物第一号に指定されたほか、火災などから守られた三千余点の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けるのでした。
なお、天台宗東北大本山の称号を許されるのも、昭和に入ってからのことです。

宝物館「讃衡蔵(さんこうぞう)」には、「木造・阿弥陀如来像」「木造・薬師如来像」「木造・薬師如来像」という三体の丈六仏ほか、奥州・藤原氏三代の文化財などが収蔵されております。
再建された「本堂」には、総本山「比叡山延暦寺」より分火された、千二百年も燈り続けている「不滅の法燈」があるのでした。
 

[住所]
 中尊寺 岩手県平泉町衣関202

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※そんなこんなで中尊寺。
 一度は見たいお寺ですよねー。


河童っぱ~るんぱっぱ、な民話の里「遠野」 (岩手県遠野市)

2008年07月13日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお気楽企画、「遠野へ行こう!」なのです。
えー、せっかくいくつか写真を撮ったので、掲載してみようと思いました。

そんな訳で、いつも以上に調べごとをしておりませんので、これからの↓記述は鵜呑みに信じないように(笑)
あ、写真は全て本物ですが、本文と合致しておりませんので、ご注意を。
(→ 米印が写真の説明ね)



※1遠野駅の河童さん
 JR「遠野駅」の河童イラストです。本数少ないので気をつけて!


こないだ色々なものをすっ飛ばして、「超ヒーロー”マブリットキバ”」なんてやりました。
なんでそんなんからやったんでしょうね。
…まぁ、通常ならば民話の町としてよく知られている岩手県は遠野市です。
行った記念に「聴耳草紙」という五百ページ以上もある文庫本にて、いわゆる昔話を読んでおりますが…なんというか、これが色々とスゴイんですよ。
聴耳草紙 (ちくま文庫)
佐々木 喜善
筑摩書房

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※2ポスト上の河童さん
 ポスト上にも鎮座されております。ものすごいデフォルメっぷりです。


まず1つ。
なんだか、よーわからんお話があること。
お話にはいくつかのパターンがありまして、

1) めでたし・めでたし系
   なんらかイイ行いをしたがため、お金持ちになったという類のもの。
2) いましめ系
   悪いことすると大変なことになるよー、という上と正反対なもの。
3) 元ネタ系
   ~という名前の由来、なぜこうなってしまったのかという起源みたいなもの。
4) よーわからん系

…そう、4番なんですよ。
たまに、何が言いたいのかよくわからんのがあります。
例えば「観音の申子」というエピソード。


※3駅前に河童さん
 気楽に談笑中なのです。ちょっとリアルちっくね。


子がなかったおじいさんとおばあさんは、観音さまに願掛けをしておりました。
信心深いので観音さまは子を授けますが、いい歳なので育てることもままならず、観音さまが引き取って育てるのです。
成長した子は全国に旅へ出た結果、ある長者の家で住み込みの火焚き仕事を始めるのね。
その長者さんの家には、娘が二人おりました。
ある日の祭に出てイイ男を見かけた長女は、恋わずらいとなって寝込んでしまいます。
すると長者さんの元に観音さまが現れ、住み込みの男に意中の者がいるというのでした。
長者さんは家人に次々と見舞いをさせたところ、最後に残った汚らしい火焚きの男が残るのです。
彼を風呂で綺麗にして会わせたところ、まさしく彼がその男だったのでした。
イイ男っぷりに一目惚れをした次女も結婚を申し出て、争奪戦となるんですが…一計を案じた彼によって長女が嫁となり、目出度く夫婦になったのです。


※4交番前にも河童さん
 交番前にもおります。実はこのすぐ近くにもいるんですが…。


まぁ、だいたいそのまんま。
何が言いたいのか、よー分かりません。

もう1つ。
やたらと残酷であるということ。
ちょっと昔に「グリム童話は残酷だった」という系統が流行りましたが、こちらもそんなん。
まぁ、日本書紀だっけか?
そちらも似たり寄ったりな、酷いものでした。
人の命というものが軽い、儚いものだったという証拠でしょうかね。


※5自販機にも河童さん
 こりゃ、仕入れ担当者のお遊びかなぁ。


…と、そんなこんなで画像と無関係なことをつらつらと述べてみました。
たまには、昔話の世界にどっぷり漬かってみるのもいいのではないでしょうか?



※6土産も河童さん
 地酒のボトルも河童なのですよ。はう!


※ちなみに、最上段↑写真は噂の「カッパ淵」です。
 いかにも河童がでてきそうでしょ?
 今回紹介した写真以外にも、町のあちこちに河童がおります。
 探してみるのが楽しいですよ。

[住所] 遠野市土淵町土淵7-50 カッパ淵
★駅からバスで30分くらい。


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石山寺 (滋賀)

2008年07月10日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀県でのオススメスポット「石山寺(いしやまでら)」です。
多くの有名人に愛されただけあって、四季の草木から特徴的な硅灰石(けいかいせき)まで、大変景観に優れたお寺です。
お寺好き、歴史好きだけでなく、一般の観光スポットとしても大プッシュなのでした。

琵琶湖から流れる瀬田川沿いにある大本山「石山寺」
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749?)頃。
第四十五代「聖武天皇」の勅願によって、「良弁僧正」が開山したお寺なのでした。
えらく歴史があるのですよ。
ちなみに、あまり耳にしないだろう「良弁僧正」ですが、実はこの方「奈良の大仏」こと「盧舎那仏像」のある「東大寺」も開山された方です。
その奈良時代から、”観音の霊地(※本尊は重文「如意輪観音」、通常は非公開の秘仏)”とされ、特に平安時代になってからは多くの有名人が訪れ、「枕草子」「更級日記」ほかたびたび当時の文学にも登場しております。

ちなみに、七日間ほど滞在・参拝した「紫式部」は、ここでその構想がまとまったらしく、堂内にある「源氏の間」は「源氏物語」を執筆したところとされております。
このように、朝廷や貴族と結びつき尊敬を集め、西国巡礼十三番の札所にも指定されるのでした。



本堂の内陣(ないじん)は平安中期から残る木造建築最古(※滋賀賢でね)のもので、当然ながら国宝。
ちなみに、外陣(げじん)は例によって「淀君」の寄進により修補されたものでした…ああっ。

どこかインドちっくな面影の「大日如来」は、鎌倉時代・快慶作と言われて重文。
さらに、その「大日如来」が安置されている「多宝塔」も、やはり鎌倉時代からの建物でこちらは国宝です。
鐘楼、東大門も共に重文で、鎌倉時代のもの。
なお、それら鎌倉期のものは、建久元年(1190)ころ「源頼朝」の寄進によって創建されました。

承暦二年(1078)の落雷、「織田信長」と争う将軍「足利義昭」が布陣したことで天正元年(1573)には兵火に遭っておりますが、比較的合戦・災害などは少ないらしく、また「源頼朝」、「足利尊氏」、「淀君」など時の権力者から後援を受けたことで、建造物から書物に至るまで貴重なものが多く現存するのでした。

なにより、最も特徴的なのが境内の奇石「硅灰石(けいかいせき)」
説明をそのまま抜粋すると…”石灰岩(せっかいがん)が地中から突出した花崗岩(かこうがん)と接触し、その熱によって変質したもの”とのこと。
よく分かんないですが、通常は大理石となるらしく、こうした大きな「硅灰石」となるのは珍しいのだとか。
当然ながら、石山寺の「石山」はここから採用されたもので、天然記念物に指定されております。



かなりの広さがあるお寺で、注目すべき個所は他にも多く、「石山観音」の化身と言われた「蓮如上人」の母がため、形見とされる蓮如「鹿の子の小袖」が本堂下の御堂に安置。
かくれ谷は平家相手に戦った、「悪源太」の名でも知られる「源義平(みなもとのよしひら)」が潜伏していた場所とされております。
さらに「松尾芭蕉」も滞在しており、ここで多くの句を残しているのでした。

 「 石山の 石にたばしる あられかな 」

[住所]
 石山寺 滋賀県大津市石山寺1-1-1
※「石山寺駅」下車後、徒歩十分。

[関連記事]
⇒ 大日如来
⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 如意輪観音
⇒ 義仲寺 (滋賀)


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みんなで読書DS 源氏物語 ちょっとだけ文学

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※いまやDSでも「源氏物語」です。
 さぞ「紫式部」もびっくりしているでしょう。

「尼子経久」シリーズおまけ: 尼子氏武闘集団「新宮党」

2008年07月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
えー、計5回にわたってお送りさせて頂きました、「下剋上」という冠が相応しい人物「尼子経久(あまご・つねひさ)」さま。
わずか一代にて中国地方最大の守護大名・大内氏と肩を並べるほどにまで勢力を伸ばしたんですが…。
その陰には、尼子氏の武闘集団「新宮党」の存在があったのでした。

…こちらは関連あるので一応調べておいたんですが、文中で使うトコロがなかったので独立させてみました(笑)
尼子氏滅亡の要因にも数えられる、「新宮党」についてご覧くださいませ。


■尼子家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)
        
      京極高詮-1尼子高久(※以下より尼子氏)
                ↓
   詮久(出羽守)-2持久(出雲守護代)
      ↓         ↓
   近江尼子氏    3清定
                ↓
              4経久---久幸(下野守)
                ↓
    政久------国久(新宮党)--興久(塩冶氏)
     ↓          ↓
  5晴久(詮久)      誠久(新宮党)-豊久-敬久  
     ↓          ↓    
6義久-倫久-秀久  氏久(養子?)-吉久-季久-常久-勝久-通久


さて、上の家系図を参照下さいませ。
邸宅が富田城近くの新宮谷にあったことから、いつしかその一族は「新宮党(しんぐうとう)」と称されるようになりました。

新宮党を率いたのは、経久の次男「尼子国久(あまご・くにひさ)」
出雲平野に広く展開される軍事集団で、出雲国一帯にその影響力をもっていました。
父・経久を助けて、各地へ転戦。
合戦に挑めば多大な武功を立てるという、まさに尼子氏の柱石という存在だったのです。
おそらくは国久の後を継ぐこととなっただろう嫡男「尼子誠久(あまご・まさひさ)」も三千騎の兵を従える武勇の将なのでした。

彼ら新宮党は、経久の後を継いだ甥「尼子晴久」の代でも活躍。
しかし、その功からか、「傍若無人な振る舞いも少なくなかった」と伝えられています。

それがためか、求心力であった経久の死後、天文十六年(1546)頃から当主・晴久・「新宮党」の対立は激しさを増していったのです。

天文二十三年(1554年)
そしてそれから八年後。
新宮党は同族の当主晴久によって、粛清・壊滅させられるという悲劇になってしまうのでした。

一説には、「尼子誠久」は晴久の命令を受けた「大西十兵衛」、「立原備前守」ら刺客に暗殺されたのだ、と言われております。
なお、この尼子本家との対立については、
誠久が晴久に対して謀反を起こし、尼子家の乗っ取りを図っている
という「毛利元就」の仕掛けた流言・偽造文書などの謀略によって、「尼子晴久」の猜疑心を高めたとも言われております。
おっかないですね~。

それが真実かどうかは実際微妙なようですが、いかにも元就ならやりそうな感じがしますよね。ね?
悲しいかな、経久もそうした謀略戦が得意な方だったんですけれど…。

なお、「山中鹿之助幸盛」に見出され、後に秀吉に従って戦った「尼子勝久」は「新宮党」誠久の四男です。
一族粛清の際には家臣に守られ、京都市東山区は「東福寺」の僧となっていたのですが…。


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日本百名城~映像が物語る歴史ロマンの遺産~

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※ひでるさんはどっちかと言うと、城址の方にロマンを感じるんですが…。
 城好きな方にはこれがオススメ。


日本人の謝罪に「敬服」、厳罰処分「あり得ない」 (イタリア世界遺産落書き)

2008年07月03日 | ネタ
どーも、こんばんわぁ。
業務いっぱい・いっぱいなので、本当はとっとと寝たいんですが…ニュースは生モノなので、もう少し頑張ります。
さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 日本人の謝罪に「敬服」、厳罰処分「あり得ない」(イタリア世界遺産落書き) 』です。

こんなニュースがありました。
まずは↓コチラをご覧くださいませ。


日本人はとても素敵だった―忘れ去られようとしている日本国という名を持っていた台湾人の心象風景 (シリーズ日本人の誇り)
楊 素秋
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■<イタリア世界遺産落書き> 同じ聖堂、30歳の野球部監督も 茨城・常磐大高が解任
 [毎日新聞] 2008年6月30日

 水戸市の私立常磐大高の浅岡広一校長は30日記者会見し、日本人旅行者の落書きが相次いで見つかっている世界遺産登録地区にあるイタリア・フィレンツェ市の「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」に、硬式野球部の須田武志監督(30)が落書きをしていたことを明らかにした。同校は29日付で須田監督を解任した。

 浅岡校長によると、須田監督はイタリアを私的に旅行していた06年1月5日、大聖堂最上階展望台の柱に落書きをした。
須田監督は「深く考えずにやってしまった。大変申し訳ない」と認めている。

 関係者によると、落書きは油性ペンのようなもので書かれ、須田監督と妻の名前がハート形で囲まれている。
 須田監督は01年から硬式野球部の指揮を執り、07年夏の茨城大会で準優勝。7月5日に開幕する今年の茨城大会でもシード校に指定されている。
 大聖堂には岐阜市立女子短大(岐阜市)や京都産業大(京都市)の学生らが落書きをしたことが明らかになっている。
 【秋田浩平、山崎理絵】
---------------------------------- 。。。



これら、一連のニュースにひでるさんは腹を立てていました。
…お寺・歴史好きな方は皆同じような気持ちだったと思います。

次々と明らかになる、記事の数々。
いい年の大人が世界遺産に平然と落書きする、無神経さに驚きました。
なんてことをしてくれたんだ、イタリアの人々には申し訳ない。
さぞかし現地の方は立腹しているんだろうなぁ、とか思っていたら、↓こんな記事が。


■日本人の謝罪に「敬服」 修繕責任者、大聖堂落書きで
 [共同通信] 2008年7月2日

 イタリア・フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁に日本人の落書きが見つかった問題で、大聖堂の修繕責任者パオロ・ビアンキーニ氏は2日までに
 「落書きは許されないことだが、日本人が深い謝罪の意思を示したことに驚いた。敬服する
 と述べた。
 落書きは英語やイタリア語によるものがはるかに多く、欧米では文化財への落書きは当たり前のように見られている。
 【フィレンツェ2日共同】
---------------------------------- 。。。


ボクらの時代 日本人なら「気品」を身につけなさい (ボクらの時代)
美輪 明宏,瀬戸内 寂聴,平野 啓一郎
扶桑社

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■<イタリア世界遺産落書き>「厳罰」処分 伊紙「あり得ない」
 [毎日新聞] 2008年7月2日

「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」――。
イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。

 イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。
 メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。
 フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。
 大半がイタリア人によるものだ。

 一方でレプブリカ紙によると、大聖堂の技術責任者、ビアンキーニ氏は「日本の出来事は落書きが合法と思っているイタリア人にはいい教訓だ」と語った。
 【ローマ藤原章生】
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…………あれ、怒ってない??
そうか、あちらの感覚はまた日本とは全然違うものなんですねー。
現地でペンを渡している(→書くように勧めてた?)なんて話もどこかの記事にありました。

ただ、「パオロ・ビアンキーニ」さんが言っているとおり、落書きが悪いことは共通認識で同じこと。
公共物、しかも世界遺産に落書きしてしまったことは、軽率だったと思います。
ひでるさんは、厳罰もやむなしと考えます。

…しかし変な話ですが、イタリア各紙が一斉に報道するほどに驚かれるなど、日本人の徹底した対応、モラルの高さをこの事件がため改めて確認できました。
最近は倫理・道徳意識の低下がよく言われておりますが、まだまだ日本人は捨てたものではありません。

願わくば、こうした記事によって若い人らが何らかの事を感じてもらえれば…。
たぶん、座学で長時間説明するより、何倍もの効果があるでしょう。



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