お寺さんぽ Ver.03

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瑞泉寺 (京都)

2009年02月26日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は中京区にあるお寺…というより、ほぼ歴史施設である「瑞泉寺(ずいせんじ)」についてです。

正式名称「慈舟山瑞泉寺(じしゅうざん・ずいせんじ)」は太閤「豊臣秀吉」の甥「豊臣秀次」の菩提を弔うため建立されたお寺です。

この秀次くんは秀吉の実姉「日秀」と「三好吉房」の子です。
甥ですね。
秀吉の養子として取り立てられ、「羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)」と改名しました。

早世や無能な養子が多い中でそれなりにキチンと成人(笑)した彼は、「小牧・長久手合戦」での失態を乗り越え、どうにか秀吉から後継者と認められて関白を継いでいました。
色々と言われておりますが、近江八幡での善政は市民にすこぶる評判良く、また大将としても全体的には無難に務めております
期待に応えるべく、かなり頑張ってはいたのです。

しかし、文禄二年(1593)に実子「豊臣秀頼」が誕生してからは運命が急転。
疎んじられた彼は高野山へ追放された末、切腹させられてしまうのでした…。
享年二十八。

このあたりは、以前ブログで「秀次切腹と石田三成」の際にやりました。


文禄四年(1595)
「豊臣秀次」の自害に続いて、彼の妻や妾、そして子供ら三十九名が三条河原にて処刑されます。
(※子が五名、妻・妾が三十四名みたい)
血縁に恵まれなかった秀吉一族において、愛妾はともかくわずかでも血のつながりある子供らというのは実に得難いものなんですが…この時ばかりは、数がそのまま悲劇となってしまうのです。

小説だっけか。
ひでるさんは、何かで文を読みましたが、心凍る思いでした。
なお、境内にはその際に犠牲となった方々の墓・石塔がずらりと並べられておりましたが…その数にぞくっとしましたよ

さて、処刑された遺骸はその場にて埋葬され、当時は塚や石塔が築かれました。
しかし、その後は鴨川の氾濫によって荒廃してしまったようなのです。

慶長十六年(1611)
豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」親子は物流用に高瀬川を開削しておりました。
その際、偶然に塚を発見したのです。

刻まれた文字「秀次悪逆塚」からそれと察した了以らは僧「挂叔(けいしゅん)」と相談の結果「悪逆」の二文字を削り、塚や石塔を現在の地へ移動させ、「挂叔」を開基として堂宇を建立したのでした。
秀次の法号「瑞泉寺殿」から寺号を付けられ、今日まで続いているというわけ。

本堂には「阿弥陀如来」を安置。
さらに秀次ほか妻らの辞世の和歌を蔵しているほか、墓及び境内には犠牲者四十九名の五輪塔があります。
歴史好きな方は、一度訪れてみるのもいいのではないでしょうか。


[住所]
 瑞泉寺 中京区木屋町通三条下ル石屋町114
(※写真です。…雨ですね(笑))

[関連記事]
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
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⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
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⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)



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※果たして、どの秀次が真実なのか…よくわかんないですね。
 大変だったろうとは想像できますが。

携帯電話[SH-04A]について (シャープ・docomoPRO)

2009年02月22日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
…って、お寺とかそんなネタではないので、どっちかというと”世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)”ですかね。
別に闇でも両断する訳でもないんですが…。
さて、今回は『 携帯電話[SH-04A]について (シャープ・docomoPRO) 』です。


あのね、携帯電話で文字打つの…嫌じゃない?
「あ→い→う→え→お→ぁ→ぃ→ぅ→ぇ→ぉ→あ」という、入力方式のそれ。
これがもう面倒で面倒で…。
ひでるさんはたまに思いついた際などにブログ原稿を打っていたりするんですが、長文だとコレが辛いんですよねー。

やっぱりフルキーボードだよなぁ…。 

と、そんな感じにドコモでの発売をひっそり、じっくりと待っていたんですが…ついに出ました。
「 SH-04A 」
さっすがシャープさん、目の付けどころが違いますね!

そんなこんなで興味無い方はには全然面白くないでしょうけれど、以前モバイルツール「EM・ONE[S01SH]」を紹介したこともあるので、またやってみたいと思います。
詳しいデータとか機能については、メインサイトとかそういったものの専門サイトを参照下さいませ。
あくまでも素人の単純意見です。
いつもながら、参考程度でお願いしますね。


縦だとタッチパネル
とりあえず、こっちがメインとなるでしょう。
もっとも懸念していたパネルはなかなか反応良く、サクサク動くのがいい感じでした。
片手で操作する場合タッチするのは親指となるんですが、これだとやや辛いです。
数字はまだいいんですが、「あ→い→う…」と文字入力の際に同じ部分のパネルを数回押すのは難しい
また、中央のパネル部分、下の決定・メニュー部分…というのを片手のみで操作するのは反応いいこともあって、慎重にやらないとうっかり間違います。
片手で携帯を持ち、空いたもう一方の指でタッチするのがいいでしょう。


※縦状態での、文字入力画面。

ちなみに、「SH-04A」ロゴの左にあるボタンが「1つ前に戻る」の機能。
(※通常の「CLR」とほぼ同じ動き)
こちらも片手では押し辛いですね
数時間置いとくと画面が暗くなって、パネルはタッチが効かなくなるんですが、それを解除する役目もあります。
電話に出る際にも、一度コレを押してからパネルの通話ボタンをタッチする流れ。
押し込むのにそこそこ力が必要なので、うっかりオンすることがない反面、ちとカタイ印象でした。

また、「通話ボタン」「終話ボタン」が右壁面にあり、こちらもいろいろ使えるんですが…ボタンが小さく、また位置的にも片手での操作は四苦八苦。
(※画面右下付近の横面なので、親指のつけ根あたりに位置してます)
特に「終話ボタン」はアプリ終わらせるなど活躍機会は多いので、もっと簡単に押せれば良かったですねー。
戻るではダメなんですよ。

スクロールさせる、次のページを開く、拡大縮小…などのタッチ操作はある程度直観的に行え、反応も良好だったのですぐに感覚が掴めることと思います。
ただ、細かい操作は慣れるまで非常に厳しいでしょう。



横にして開くと、ついにキーボードが出現(↑上画面参照)
所持している携帯端末、「ザウルス(SL-C760)」、「EM・ONE[S01SH]」、そして今回の「SH-04A」で比較してみました。
(※全てシャープさんですね…ファンか?)


※左から「EM・ONE[S01SH]」、「ザウルス(SL-C760)」、「SH-04A」

やっぱり大きさ・重量から。
通常の携帯電話よりは若干幅が広く、ザウルスよりは小さめ。
単純にキー幅だけを比較すると、EM・ONEのキーよりも2キー程度コンパクトにまとまっていました。

通常は両手持ち・両親指の入力となるんですが、それぞれ逆の端まで無理なく届く程度の幅です。
各キーも小さ過ぎることなく、また間隔もあったので、あまり入力ミスもありません。
また、重量も3機種では最も軽く、長時間持っていても大丈夫でした。

【 おまけ 発表されていた実際の数値 】
SH-04A  約140g 幅約114×奥行約54×高さ(厚さ)約16.3(mm)
S01SH   約250g 幅約140×奥行約70×高さ(厚さ)約18.9(mm) 
SL-C760 約250g 幅約120×奥行約83×高さ(厚さ)約23.2(mm) 



※「EM・ONE[S01SH]」とキーボード出して比較。


キータッチ感は、上記3機種では中間くらい。
最もザウルスが軽く、続いてSH-04A。
それぞれ続けてみると、EM・ONEは非常にカタく、またキー自体の厚みもないため、最も打ち辛いですね。
ザウルスはキー面のやわやわとした感じが微妙。
ファンクションキーに頼る部分はありますが、大きさ・キー感触など総合的には最も入力し易い端末だと思います

なお、文字入力だけでなく通常操作でも使用でき、右半分だけでほとんどの操作が可能でした。
片手で使用する場合は、以前までの携帯と似た感覚でミスも少なく使えるので、はっきり言って開いた方が手っ取り早いでしょう。
やや不安定ですけどねー。


※iアプリ起動中。横のがいいかな。

最後にiアプリについて
試しに「信長の野望」を起動してみました。
アプリがタッチパネルに対応していないため、画面下に表示される操作パネルを使うこととなりました。
こちらも横にして開いた方が、圧倒的に使いやすいです。
アプリで”終了”などの操作となる「F1」ですが、単独押しで動作したのは実に快適でした。
(※文字入力時では、左下の「Fn」キーと同時押しとなる)

…と、長くなったので、今回はこんな感じで終わり。
今のところはいい感じです。



[関連記事] 【オススメ・アイテム】
⇒ シャープ:SH-04A 紹介ページ
⇒ ドコモ:SH-04A 紹介ページ
⇒ EM・ONE[S01SH]について (シャープ・EMOBILE)

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※いいですね、シャープさん。
 …なにげなく見たら、周辺の家電もシャープばかりでした(笑)
 単なるファンですね。



優秀な便女 (真実の巴御前)

2009年02月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
歴史女性にて、”直接対決で実際に強そうな方”と言って、真っ先に思い出す「巴御前(ともえ・ごぜん)」さま。
旭将軍「木曾義仲(きそ・よしなか)」の愛妾として有名な「巴御前」は、一騎当千な美人だったというイメージなんですが…そうした有名なエピソードのほとんどは後世の創作なんだって。
びっくりでがっかりですよ!
…と、そんな訳で解決編です。


信濃国の豪族「中原兼遠(なかはら・かねとう)」の娘である巴さま。
実はこの方、生没年からして正確に分かっていないんですね。

まず「美女」という単語は「便女(びんじょ)」の変形、すなわち下女という意味なのです

「巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり…」という記述が「平家物語」にあるようです。
非常に、大変に残念なことですが、実際の巴さまは雑仕女、炊事婦という立場で、”身の回りの世話をする第一下女”という立場だったみたい。

そんなんが「便女」であり、音の響きからか、いつしか容姿にかかる「美女」に変形したそうなのです。
彼女の母親も「便女」でしたが、巴さまは実は「樋口兼光」の娘である、なーんて説もありました。
よくわかんないんですね。

また、義仲の妻、愛妾というのも甚だ微妙。
義仲・巴の別れの場面にて、
「われ去年の春信濃を出し時妻子を捨置き~(源平盛衰記)」
と語っている場面があるそうです。
そう、義仲の妻子はずっと信濃にいたのです。

「宇治川合戦」では、逃れた義仲に従って最後の七騎程度になってもまだ討たれなかった、という巴さま。
「最後まで女を連れてたとあってはよろしくない」
討死の覚悟を決めた義仲は、彼女に落ちる(逃げる)よう説得しますが、それでもなおも落ちようとはしませんでした。
しかし、再三に渡って説得されると、最後の奉公として追撃の武者を返り討ちにし、ようやく落ち延びるのです。
そんな”戦働きをする女武者”という姿も、非常に疑わしいのが実際なのです。
…るるる、調べなきゃ良かった(笑)

私は幼少の頃からあなたに仕えてきました、あなたと一緒に死にたいです
 

そうした台詞も、まったくの嘘かもしれないんですねー。
ただ、当時は女性にも相続権が認められていたほど地位は高く、実際に女武者として活躍した方も存在するのです。
大活躍した、というのはないにしても、女性にしては武芸に秀で、また幼少期から従っているのであればお互い気心知れており、身の回りを的確に素早く行うお気に入りであった可能性はあるでしょう。

義仲没後は信濃へ帰ったとされる巴さま。
後に頼朝から鎌倉へ召されて「和田義盛」に嫁ぎ、「朝比奈義秀」を産んだという説もありますが…これも不確かであるようでした。
(※写真は「義仲寺」にある「巴塚」です)




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※あるいは、こんな切り口ではどうでしょう。
 評価も高かったです。

一騎当千、リアル「なんちゃら無双」 (虚実の巴御前)

2009年02月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本史最強の女性は…やっぱりひでるのアイドル「北条政子」さまだと思うんですね。たぶん。
政治家として優秀ですし、彼女の背中には鎌倉の最強武士団が控えてますから。
天皇家だってへっちゃらです。
しかし、”直接対決で実際に強そうな方”と言って真っ先に思い出すのは…こちらの「巴御前(ともえ・ごぜん)」でしょう。
そんな訳で、本日は「木曾義仲(きそ・よしなか)」の愛妾として有名な「巴御前」です。

巴さまは信濃国の豪族「中原兼遠(なかはら・かねとう)」の娘。
久寿二年(1155)、”悪源太”と有名な「源義平(みなもとの・よしひら)」が大活躍した「大蔵館合戦」
そこで「源義賢(みなもとの・よしかた)」は義平によって討ち取られてしまうのでした。

その当時はわずかニ、三歳だった「駒王丸(木曾義仲)」
守られて信濃国まで逃れた彼が身を寄せたのが、豪族「中原兼遠(なかはらの・かねとお)」だったのです。
なお、兼遠には二人の息子と娘がおりました。
後に義仲に従って活躍する兄「樋口兼光(ひぐち・かねみつ)」、弟「今井兼平(いまい・かねひら)」、そして娘こそが「巴御前」だったのです。

要するに、彼らは”仲良し四人組”で、義仲と巴は”幼馴染みカップル”なのでした。
…どうよ、ラブコメみたいでしょ(笑)
まぶたを閉じれは、懐かしき幼き日々が蘇ったことでしょう…。たぶん。

その中原家の庇護により、すくすくと成長した義仲。
やがて挙兵した彼は平家の軍勢を駆逐し、上洛することとなるのでした。
「樋口兼光」、「今井兼平」という兄弟は無論平氏討伐に従軍し、木曾四天王と呼称されるほどの活躍をしております。
(※木曾四天王:樋口兼光 今井兼平 根井行親 楯親忠 の四名)

兄とともに、従軍していたとされる巴さま。
単純に彼の傍で控えていた訳でなく、実際に大将の一人として戦場に出ていたようなのです!

”武勇は世の知る所なり”

とかなんとか、この方は冗談でなく、本気で強かった女性なのです。
リアル「なんちゃら無双」なのよ。

「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」とまで記された彼女は、「色白く髪長くして容顔誠に美麗なり(平家物語)」とも評されておりました。
強いだけでなく美形でもあったようなのです。
すごいですね!

……と、調子良くさんざん書いてきましたが…伝承のほとんどは後世の創作なんだそうな。
どひゃー、と驚いたところで、次回「真実の巴御前」をお楽しみに。



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源平合戦事典

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※実は持っているこちらの本。
 かなり情報量ありますが、できればもうひといき欲しかったなぁ。

五百羅漢 (仏像・仏弟子)

2009年02月12日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、各地で耳にすることも多いだろう「五百羅漢(ごひゃくらかん)」について。

非常に馴染み深い単語の「五百羅漢」
実は地元付近の駅名にあるんですねー。
内容的には「怪獣総進撃(ゴジラ)」みたいな、”多ければOK”という大部隊な集団なのでした(うそ)

さて、そんな「五百羅漢」
一言で表現すると、”五百人集まった「阿羅漢(あらかん)」”のことなのです。

実は現地インドでは作例なく、生まれたのは中国から。
釈迦と行動を共にしていた弟子が五百人、「仏典結集(ぶってん・けつじゅう)」という”仏典の編集作業”みたいなのにて集まったのが五百人であったとされていることから、「十六羅漢」より拡大されたものである様子。
ちなみに、「十六羅漢」の成立も中国からでした。

実際に様々な経典から五百の羅漢名を集め、無秩序に列挙したようなお寺もあるようですが…基本的にそれぞれの正確な名称というのはありません
冗談でなく、”多ければOK”という感じの方々なんですね(笑)


※箱根「長安寺」の五百羅漢像。
 ちなみに、↑上の絵馬は目黒「五百羅漢寺」です。

羅漢というのは、正しくは「阿羅漢(あらかん)」、梵語ではアルハン。
究極の悟りである「阿羅漢果(あらかんか)」を得た修行者のことを言います。
漢訳すると「応供(おうぐ)」
その「応供」とは、”尊敬・施しを受けるにふさわしい者”

要するに、宗教的に最高の境地に達した聖者のことなのでした。
それが五百名も集まったならおめでたい、ということなのでしょう。

日本では鎌倉時代から多く作られるようになり、仏弟子の厳しい修行の姿が理想とされた禅宗では特に尊崇されました。
形としては、衣をまとい、顔から表情まできわめて特徴・意志的な人物像。
特に固有の形状とかはありません

色々な顔を眺めたり、似た人を捜すとかなんとか、無限大な楽しみ方のできる像なのです。
下手すると、数が曖昧だったりすることもあるようですが…それは内緒。

なお、彫像のほとんどは近世以降のもので、鎌倉は「建長寺」、目黒の「羅漢寺」、埼玉は「喜多院」などが有名なのでした。



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※これですね。
 こんなん見るだけで、わくわくするでしょう。

金福寺 (京都)

2009年02月08日 | お寺
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本日は京都市左京区の「金福寺(こんぷくじ)」です。

こちらは京都にいた際、特に目的もなくふらふらと自転車を走らせ、辿り着いたお寺です。
こぢんまりとした入口のココは、実は”俳諧の聖地”として有名なのでした…。


貞観六年(864)
「慈覚大師」こと「円仁」さまは自ら刻んだ「聖観音菩薩」をこの地に祀り「国家安泰」・「衆生救済」を念じました。
その意思を継いだ「安恵(あんね)僧都」によって創建されたのがこちら「金福寺」、正式名称「沸日山金福寺」なのです。

そんな訳で創建としては平安時代とやったら古いんですが、その後は例によって荒廃。
再建されるのは、それからずっーと進んで江戸時代になってようやくのこと。
「鉄舟和尚」という方がこちらを蘇らせるのです。
元禄年間に復興というので、およそ千年くらいの間はほったらかしにされていたんですねー。

さて、その和尚は有名俳人である「松尾芭蕉」と親交を深めておりました。
ふらり立ち寄った彼をもてなしていた庵は、いつしか”芭蕉庵”と呼ばれるようになるのです。

ただ、時代と共にやっぱり荒廃してしまったそちらは、今度は安永年間に荒廃を嘆いた江戸時代の俳人「与謝蕪村(よさの・ぶそん)」の一門によって再興されたのだとか。
彼らはその”芭蕉庵”にて、句会を開いていたそうなのです。
いわゆる聖地巡礼、みたいな感覚なのでしょう。

そんなこんなで背後の丘には蕪村ら俳人の墓や句碑が多数あり、観音の霊場というよりも”俳諧の聖地”という言葉が相応しい、風情あるお寺です。
芭蕉の碑、芭蕉像、さらに蕪村らの遺品も残されています。


「 うき我をさびしがらせよ閑古鳥 」



※ちなみに入口はこんな感じ。


…と、ここまで書いておいて。
まっったく俳句には興味ないひでるさん。
かの有名人「松尾芭蕉」も正直なところ、どーでも良く(笑)
さらにここは「花の生涯/舟橋聖一」の歴史小説ヒロインである「村山たか女」が尼僧として波乱の生涯を終えたという、ゆかりのお寺だそうなんですが……失礼ながら、誰デスカ??

そうした方々に興味ある方、あるいは庭好きな方にオススメなお寺でした。
ひでるさんはどっちもよくわかりません。


[住所]
 金福寺 京都府京都市左京区一乗寺才形町20



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⇒ 僧侶と官位・階級 (ひでる仏教講座)
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⇒ 中世の名僧 「夢窓国師」 (前編 ・ 後編



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聖地巡礼 アニメ・マンガ12ヶ所めぐり
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※聖地巡礼というと…最近はコッチですか(笑)
 なかなか馬鹿にならない効果あるようですが…。

炸裂、島津得意の釣り野伏せ (木崎原合戦)3

2009年02月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代、九州地方にて目覚ましい活躍をした島津一族。
本日も、その島津氏が大いに躍進する切っ掛けとなった、劇的な一戦「木崎原合戦」についてお送り致します。

元亀三年(1572)
三千という兵力をもって島津領へと出撃した日向・伊東勢。
敵軍侵入の急報に、守備する「島津義弘」のもとへ集まった兵はわずか二百ほどでした…。
この圧倒的不利な戦況ながら、果敢に義弘は出陣するのです。
一方、兵力で圧倒していた伊東勢でしたが、「加久藤城」を守備する「川上忠智」ら城兵の奮戦によって、どうにも攻めあぐねていたのでした。


さて、”島津勢援軍出陣”を察知したらしい伊東勢は、挟撃される前に素早く撤退を開始。
あるいは、城攻めに難儀していたところを島津援軍の「遠矢下総守」勢、さらに城内からの出撃した「川上」勢らに挟撃されるなどして、一時撤退するのです。
…これは、どっちが本当かよくわかんない。
ともかく、難航していた城攻めを中断し、一時撤退したことは確かであるようです。

白鳥山を目指した伊東勢。
しかし、そちらには無数の白旗が掲げられていたのです!
なんと義弘は自らの軍勢を大軍に見せるため、あらかじめ付近の農民らに無数ののぼりを持たせ、あちこちに待機させていたのでした。
なお、伊東勢に合わせて兵を出していた肥後は「人吉城」の「相良義陽」もその計略に掛かって、撤退したと伝わっています。

白鳥山に集結していた付近の農民三百ほど(※白鳥権現の氏子たちなのだとか)は伊東勢の接近に対して太鼓を打ち鳴らし、喚声を上げました。
それを伏兵と見誤った伊東勢は、慌てて方向を転じて下山。
二八坂から南下した島津義弘率いる主力勢は、慌てた伊東勢に向かって突撃を仕掛けるのです!!
なおこの際、大将「島津義弘」自ら先頭に立って指揮していたようです。

後の関ヶ原合戦でも、大軍を前に一歩も引かなかった、勇猛で知られる島津勢
しかし、さすがの義弘と言えども十数倍という兵力差はどうすることもできず、次第に数によって圧倒され、崩れて敗走してしまうのです
ここで多くの勇将らが義弘を逃がすべく、足止めのため討死をしております。

こうして、”木崎原(きざきばる)”の地まで撤退した島津勢。
好機とばかりに追撃する伊東勢。

三角田まで逃げた義弘はここで素早く兵を反転・立て直し、なんと反撃を開始。
思わぬ反撃によって浮足立ったところを、「五代友喜」らそれぞれ別方向に伏せていた島津勢が本隊と合わせて一斉に突撃したのです。
これには「大口城」から救援に赴いていた「新納忠元」ら後詰勢も加わっており、次々と襲いかかる四方八方からの攻撃によって、伊東勢は完全に混乱。
全軍に指揮も届かず、ここで壊滅することとなるのです!


そう、こちらは”予め戦場とした場所に待ち構え、そちらに誘いこんで四方からの攻撃で壊滅させる”という、お得意の戦術「釣り野伏せ」になっていたのでした

変形バージョンですね。
また、木崎原が河川の入り乱れる地形であったことなど、島津勢が地の利を得ていたことも影響しているようです。

こうして、完膚なきまで叩きのめされてしまった伊東勢。
総大将「伊東加賀守」ほか、「柚木丹後守」ら主力武将がこの合戦にてことごとく討死。
将兵も百六十という数が討ち取られる大敗北となってしまうのでした。

この、あまりに劇的で鮮やかな勝利だったことから、こちらは”九州の桶狭間”とも呼ばれております
結果的に地元農民や地侍(国人)らを縦横無尽に使いこなし、「戦の勝敗は数の多少ではない」と集まった兵を叱咤激励して果敢に攻めたことが、十数倍という敵を駆逐したのでした。

多数の武将を失った伊東氏にとって、”この合戦が衰退の原因”と言われているほど、影響力の強い敗戦でした。
逆に、「島津義弘」の武名は九州全土へ轟くこととなるのです。

ちなみに「伊東義祐」は、合戦からわずか五年後の天正五年(1577)には、大友氏を頼って落ち伸びることとなります。


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 顔がイメージできるようになれば、歴史はすらすら覚えることができます。…たぶん。

義弘、不利な戦況に挑む (木崎原合戦)2

2009年02月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代、九州地方にて目覚ましい活躍をした島津一族。
本日も、その島津氏が大いに躍進する切っ掛けとなった劇的な一戦「木崎原合戦」についてお送り致します。


静岡県伊東市から下向した歴史を持つ、日向伊東氏。
戦国時代にて活躍した「伊東義祐」は紆余曲折の末に当主となった苦労人でしたが、日向国内に”伊東四十八城”と呼ばれる支城を備えるなど、大いに繁栄させていたのでした。

天文十五年(1546)には後の名乗り「三位入道(さんみ・にゅうどう)」のもととなる従三位に叙せられるなど、かなりの勢いがあったようなのです。
(※室町時代、”従三位”は歴代足利将軍ほか数名しか叙せられていない、かなり高位な位です)

さて、日向国は南方「真幸院(まさきいん)」を守備していた北原氏は、色々あって現在は伊東氏の一族でした。
しかし、真幸院にて、豊かな穀倉地帯として知られていた飯野地区を治めていたのは逆に島津氏だったのです。
この飯野地区の奪回を目指し、まず「伊東義祐」が仕掛けたのでした。

元亀三年(1572)
義祐は総大将を一門の武将「伊東加賀守(新次郎)」に任せ、三千という兵力を与えて出陣させました。
なお、この頃の島津氏は版図拡大に成功していた当主「島津貴久」が元亀二年(1571)に没した直後であり、嫡男「島津義久」が継いだばかりでした。
義祐としては、「お手並み拝見」というところだったのでしょう。

またまた余談ですが、実はこの義祐も永禄三年(1560)に家督を次男「伊東義益」に譲っており、一時は隠居の身でした。
しかし、義益は永禄十二年(1569)に病没しており、こちらも再び義祐が当主に復帰したばかりだったのです。
…お互い、色々あったんですね。

小林城を夜半に出陣した伊東勢。
義久の弟「島津義弘(※写真)」が守る「飯野城」をぐるりと迂回して、彼の正室らが住んでいた「加久藤城(※宮崎県えびの市加久藤)」へと向かいました。
この際の守備兵はわずか五十ほどであったと言われております。
伊東勢が率いる三千という兵力は、この地域で相当な数だったと分かるでしょう。

城下を焼き払って攻撃を開始した伊東勢。
緒戦は兵力に勝る伊東勢が優勢に運び、城内へと突入するのでした。
しかし、守備する「川上忠智(かわかみ・ただとも:後に義弘の老中となってます)」らの奮戦もあり、城は容易に落ちなかったのです。

一方、各村々に情報提供者を配置していた「島津義弘」は、実は早くからその進軍を察知しておりました。
「加久藤城」の危機に急遽兵を召集しましたが、集まった兵力は二百程度。
十倍以上の兵力差では、どうしようもありません。

しかし、”数は勝敗に関係ない”と訴えた義弘によって集合した兵たちの心は一つとなり、すぐさま救援に駆けつけるのです

こうして、小勢ながらも果敢に「飯野城」を出陣した島津勢。
ここで義弘は少ない兵をまたさらに三分割とし、
「遠矢(とおや)下総守」は飯野川北岸を先発して「加久藤城」の救援に。
「五代友喜」は白鳥山付近の野間門へ。
そして、義弘率いる主力勢は白鳥山の二八坂を本陣と定めました。

城内へ突入していた伊東勢。
狭い隘路へ誘いこまれたところに激しい抵抗を受け、多大な損害を出していました。
一説によると、地理に疎い伊東勢は間違えて「樺山浄慶」の屋敷を襲撃するなどの失敗もあり、結局は落城させることのできないまま時間を浪費。
結局、朝を迎えております。

⇒ つづく。
  次回は「炸裂、島津得意の釣り野伏せ」(3/3)


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 木崎原合戦もあるようです。