のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は中京区にあるお寺…というより、ほぼ歴史施設である「瑞泉寺(ずいせんじ)」についてです。
正式名称「慈舟山瑞泉寺(じしゅうざん・ずいせんじ)」は太閤「豊臣秀吉」の甥「豊臣秀次」の菩提を弔うため建立されたお寺です。
この秀次くんは秀吉の実姉「日秀」と「三好吉房」の子です。
甥ですね。
秀吉の養子として取り立てられ、「羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)」と改名しました。
早世や無能な養子が多い中でそれなりにキチンと成人(笑)した彼は、「小牧・長久手合戦」での失態を乗り越え、どうにか秀吉から後継者と認められて関白を継いでいました。
色々と言われておりますが、近江八幡での善政は市民にすこぶる評判良く、また大将としても全体的には無難に務めております。
期待に応えるべく、かなり頑張ってはいたのです。
しかし、文禄二年(1593)に実子「豊臣秀頼」が誕生してからは運命が急転。
疎んじられた彼は高野山へ追放された末、切腹させられてしまうのでした…。
享年二十八。
このあたりは、以前ブログで「秀次切腹と石田三成」の際にやりました。
文禄四年(1595)
「豊臣秀次」の自害に続いて、彼の妻や妾、そして子供ら三十九名が三条河原にて処刑されます。
(※子が五名、妻・妾が三十四名みたい)
血縁に恵まれなかった秀吉一族において、愛妾はともかくわずかでも血のつながりある子供らというのは実に得難いものなんですが…この時ばかりは、数がそのまま悲劇となってしまうのです。
小説だっけか。
ひでるさんは、何かで文を読みましたが、心凍る思いでした。
なお、境内にはその際に犠牲となった方々の墓・石塔がずらりと並べられておりましたが…その数にぞくっとしましたよ。
さて、処刑された遺骸はその場にて埋葬され、当時は塚や石塔が築かれました。
しかし、その後は鴨川の氾濫によって荒廃してしまったようなのです。
慶長十六年(1611)
豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」親子は物流用に高瀬川を開削しておりました。
その際、偶然に塚を発見したのです。
刻まれた文字「秀次悪逆塚」からそれと察した了以らは僧「挂叔(けいしゅん)」と相談の結果「悪逆」の二文字を削り、塚や石塔を現在の地へ移動させ、「挂叔」を開基として堂宇を建立したのでした。
秀次の法号「瑞泉寺殿」から寺号を付けられ、今日まで続いているというわけ。
本堂には「阿弥陀如来」を安置。
さらに秀次ほか妻らの辞世の和歌を蔵しているほか、墓及び境内には犠牲者四十九名の五輪塔があります。
歴史好きな方は、一度訪れてみるのもいいのではないでしょうか。
[住所]
瑞泉寺 中京区木屋町通三条下ル石屋町114
(※写真です。…雨ですね(笑))
[関連記事]
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
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※果たして、どの秀次が真実なのか…よくわかんないですね。
大変だったろうとは想像できますが。
本日は中京区にあるお寺…というより、ほぼ歴史施設である「瑞泉寺(ずいせんじ)」についてです。
正式名称「慈舟山瑞泉寺(じしゅうざん・ずいせんじ)」は太閤「豊臣秀吉」の甥「豊臣秀次」の菩提を弔うため建立されたお寺です。
この秀次くんは秀吉の実姉「日秀」と「三好吉房」の子です。
甥ですね。
秀吉の養子として取り立てられ、「羽柴秀次(はしば・ひでつぐ)」と改名しました。
早世や無能な養子が多い中でそれなりにキチンと成人(笑)した彼は、「小牧・長久手合戦」での失態を乗り越え、どうにか秀吉から後継者と認められて関白を継いでいました。
色々と言われておりますが、近江八幡での善政は市民にすこぶる評判良く、また大将としても全体的には無難に務めております。
期待に応えるべく、かなり頑張ってはいたのです。
しかし、文禄二年(1593)に実子「豊臣秀頼」が誕生してからは運命が急転。
疎んじられた彼は高野山へ追放された末、切腹させられてしまうのでした…。
享年二十八。
このあたりは、以前ブログで「秀次切腹と石田三成」の際にやりました。
文禄四年(1595)
「豊臣秀次」の自害に続いて、彼の妻や妾、そして子供ら三十九名が三条河原にて処刑されます。
(※子が五名、妻・妾が三十四名みたい)
血縁に恵まれなかった秀吉一族において、愛妾はともかくわずかでも血のつながりある子供らというのは実に得難いものなんですが…この時ばかりは、数がそのまま悲劇となってしまうのです。
小説だっけか。
ひでるさんは、何かで文を読みましたが、心凍る思いでした。
なお、境内にはその際に犠牲となった方々の墓・石塔がずらりと並べられておりましたが…その数にぞくっとしましたよ。
さて、処刑された遺骸はその場にて埋葬され、当時は塚や石塔が築かれました。
しかし、その後は鴨川の氾濫によって荒廃してしまったようなのです。
慶長十六年(1611)
豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」親子は物流用に高瀬川を開削しておりました。
その際、偶然に塚を発見したのです。
刻まれた文字「秀次悪逆塚」からそれと察した了以らは僧「挂叔(けいしゅん)」と相談の結果「悪逆」の二文字を削り、塚や石塔を現在の地へ移動させ、「挂叔」を開基として堂宇を建立したのでした。
秀次の法号「瑞泉寺殿」から寺号を付けられ、今日まで続いているというわけ。
本堂には「阿弥陀如来」を安置。
さらに秀次ほか妻らの辞世の和歌を蔵しているほか、墓及び境内には犠牲者四十九名の五輪塔があります。
歴史好きな方は、一度訪れてみるのもいいのではないでしょうか。
[住所]
瑞泉寺 中京区木屋町通三条下ル石屋町114
(※写真です。…雨ですね(笑))
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※果たして、どの秀次が真実なのか…よくわかんないですね。
大変だったろうとは想像できますが。