のんびり気軽にさんぽがてら。
…戦国時代、九州地方にて目覚ましい活躍をした島津一族。
本日は、その島津氏が大いに躍進する切っ掛けとなった、劇的な一戦「木崎原合戦」についてお送り致します。
元亀三年(1572)
薩摩・大隅(鹿児島県)の「島津義久」、日向(宮崎県)の「伊東義祐」という両者は、毎年のように国境付近で争っていました。
島津氏が治めていた飯野地区の奪回を目指した伊東氏に対し、そちらを守るため出陣した島津氏の間にて起こった戦いが、今回の「木崎原合戦」なのです。
伊東氏に大きな影を落とし、逆に島津氏はこの勝利を切っ掛けに躍進していくという、それぞれの転機となった合戦をご堪能下さい。
日向・伊東氏は名前そのまま、もともとは伊豆国伊東荘(※静岡県伊東市)を本拠とした一族でした。
”曾我兄弟の仇討ち”でも有名な「工藤祐経(くどう・すけつね)」の子「祐時」は、建久九年(1198)に「源頼朝」より日向国にて地頭職を賜りました。
…しかし、なんでそんな遠方の地をくれるかなぁ。転勤みたいなもんでしょうかね。(※西は平氏勢力のが強いため?)
なお、伊東姓を名乗ったのもこの頃のようです。
さて、ちょっとややこしい(↓家系図参照)ですが、そちら「祐時」の子「祐光」の弟「伊東祐朝」は、賜った日向国にて定着し、そちらで勢力を伸ばしました。
一方、伊東の地に残っていた本家・伊東氏の五代「伊東祐持」は、南北朝の動乱でも判断を誤らず、「足利尊氏」に従って活躍。
恩賞として、またまた日向国は都於郡を与えられたため、この頃に日向へと下向し、分家と共にそちらへ定着していったのです。
戦国時代にて活躍した「伊東義祐」は「伊東尹祐(いとう・ただすけ)」の次男です。
もともと家督を継いでいた兄「祐充(すけみつ)」の病没後、内乱の末に仏門に入っていた弟「祐吉」が若くして当主となりました。
これは重臣「長倉祐有(ながくら・すけなお)」が擁立したことによるもののようですが、なにゆえ次男「義祐」をすっ飛ばして「祐吉」を立てたのかは不明。
後に祐有は反乱を起こしているため、そういった野望があったのかもしれません。
■おまけ 伊東家 家系図 (※↓:子、-:兄弟)
工藤祐経
↓
祐時
↓
祐光-祐朝
↓
(省略)
↓
祐国
↓
尹祐-------------祐武
↓ ↓
祐充-★義祐-祐吉 ★加賀守(祐安)
↓
観虎丸-祐益---祐兵
↓ ↓
義腎-義勝 祐慶
…結果的には、若き当主「祐吉」が天文五年(1536)にあっさり病没したため、晴れて「義祐」が継ぐこととなったのです。
(※伊東氏は若くして亡くなるケースが多いのです。兄「祐充」は二十三歳で病没(暗殺という噂もある)、弟「祐吉」もたぶん二十歳前後、嫡男「観虎丸」は早世、家督を継いでいた次男「義益」も二十三歳で病没…ちなみに、義祐は七十三歳まで生きておりますが)
ともかく、こうしたややこしい経緯で当主となった義祐。
意外にも才を発揮して領土をより拡張し、”伊東四十八城”と呼ばれる支城を備えるなど大いに繁栄させるのでした。
⇒ つづく。
次回は「義弘、不利な戦況に挑む」(2/3)
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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※昔は教科書にもあった(らしい)、曾我兄弟のお話。
…じつは、よく知らないんです。
…戦国時代、九州地方にて目覚ましい活躍をした島津一族。
本日は、その島津氏が大いに躍進する切っ掛けとなった、劇的な一戦「木崎原合戦」についてお送り致します。
元亀三年(1572)
薩摩・大隅(鹿児島県)の「島津義久」、日向(宮崎県)の「伊東義祐」という両者は、毎年のように国境付近で争っていました。
島津氏が治めていた飯野地区の奪回を目指した伊東氏に対し、そちらを守るため出陣した島津氏の間にて起こった戦いが、今回の「木崎原合戦」なのです。
伊東氏に大きな影を落とし、逆に島津氏はこの勝利を切っ掛けに躍進していくという、それぞれの転機となった合戦をご堪能下さい。
日向・伊東氏は名前そのまま、もともとは伊豆国伊東荘(※静岡県伊東市)を本拠とした一族でした。
”曾我兄弟の仇討ち”でも有名な「工藤祐経(くどう・すけつね)」の子「祐時」は、建久九年(1198)に「源頼朝」より日向国にて地頭職を賜りました。
…しかし、なんでそんな遠方の地をくれるかなぁ。転勤みたいなもんでしょうかね。(※西は平氏勢力のが強いため?)
なお、伊東姓を名乗ったのもこの頃のようです。
さて、ちょっとややこしい(↓家系図参照)ですが、そちら「祐時」の子「祐光」の弟「伊東祐朝」は、賜った日向国にて定着し、そちらで勢力を伸ばしました。
一方、伊東の地に残っていた本家・伊東氏の五代「伊東祐持」は、南北朝の動乱でも判断を誤らず、「足利尊氏」に従って活躍。
恩賞として、またまた日向国は都於郡を与えられたため、この頃に日向へと下向し、分家と共にそちらへ定着していったのです。
戦国時代にて活躍した「伊東義祐」は「伊東尹祐(いとう・ただすけ)」の次男です。
もともと家督を継いでいた兄「祐充(すけみつ)」の病没後、内乱の末に仏門に入っていた弟「祐吉」が若くして当主となりました。
これは重臣「長倉祐有(ながくら・すけなお)」が擁立したことによるもののようですが、なにゆえ次男「義祐」をすっ飛ばして「祐吉」を立てたのかは不明。
後に祐有は反乱を起こしているため、そういった野望があったのかもしれません。
■おまけ 伊東家 家系図 (※↓:子、-:兄弟)
工藤祐経
↓
祐時
↓
祐光-祐朝
↓
(省略)
↓
祐国
↓
尹祐-------------祐武
↓ ↓
祐充-★義祐-祐吉 ★加賀守(祐安)
↓
観虎丸-祐益---祐兵
↓ ↓
義腎-義勝 祐慶
…結果的には、若き当主「祐吉」が天文五年(1536)にあっさり病没したため、晴れて「義祐」が継ぐこととなったのです。
(※伊東氏は若くして亡くなるケースが多いのです。兄「祐充」は二十三歳で病没(暗殺という噂もある)、弟「祐吉」もたぶん二十歳前後、嫡男「観虎丸」は早世、家督を継いでいた次男「義益」も二十三歳で病没…ちなみに、義祐は七十三歳まで生きておりますが)
ともかく、こうしたややこしい経緯で当主となった義祐。
意外にも才を発揮して領土をより拡張し、”伊東四十八城”と呼ばれる支城を備えるなど大いに繁栄させるのでした。
⇒ つづく。
次回は「義弘、不利な戦況に挑む」(2/3)
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※昔は教科書にもあった(らしい)、曾我兄弟のお話。
…じつは、よく知らないんです。