お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

鬼武蔵「森長可」と蘭丸くん (有能な秘書官・森蘭丸)2

2008年01月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…「織田信長(※写真)」のとかいうより”小姓”と言われて真っ先に名前があがる(かもしれない)、戦国時代の有能な秘書官「森蘭丸(もり・らんまる)」です。
…だよね。

さて、織田家に仕えた蘭丸の父「森可成(もり・よしなり)」は武勇の才を発揮して城を任されるまでになりますが、近江・宇佐山城にて浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け討死してしまいます。
その時、「森蘭丸」はまだ5才程度の子供だったのでした。

兄、嫡男である「森可隆(もり・よしたか)」は既に亡く(※父より早く討ち死に)、家督を継いだのは次男「森長可(もり・ながよし)」でした。
なお、この時の長可はまだ13歳程度の若者です。
しかし、父に劣らぬ類まれな武勇を発揮、伊勢長嶋一揆攻めで功を立てると、武田攻めなど各地の織田家主要合戦へ西・東と従軍して活躍。
いつしか、”鬼武蔵”と呼ばれるほどの猛将へと成長するのです。
ただ、このお兄ちゃんは弟「蘭丸」とは違って荒々しい猪突猛進な猪武者タイプであったらしく、華々しい活躍と共に失敗も多かったようなのです。
情にももろく、後に主君・弟の仇討ちに間に合わないうえ留守にしていた信濃の地を占拠されてしまったり、長久手合戦では部下の仇討ちにはやって討死してしまうのでした。

一方の主人公「蘭丸」ですが、歴史の表舞台へ登場するのはだいぶ後のこと。
小姓として側仕えになったらしい、天正八年(1580)頃なのです。
年齢にすると15歳程度の筈ですから、あの時代では初陣を済ませて大人の仲間入りをしたくらいですね。
…ちょっと意外ですよね?
なんかイメージ的に、もっと小さい頃から仕えていたのかと思ってました。

その経緯は資料ないので不明ですが、父・兄の活躍あってのことか、「蘭丸」に才を見いだしたのか、不明です。
あるいは、どちらの要素も含まれているのかもしれません。
なにしろ信長は、人質として連れられた「蒲生氏郷」の才を見抜いて小姓として取り立てた方ですから。
やはり、なにかしら「蘭丸」には感ずるものがあったのかもしれません。


信長付きの小姓として仕えるようになった蘭丸。
小姓というのは、単に世話係・雑用係というだけでなく、取り次ぎ(奏者)、諸事の奉行、使者などがあります。
伝わっているエピソードは後付けっぽいですが、何名かいる小姓の中でもかなり優秀だったのには違いないらしく、実際にわずか1年後である天正九年(1581)には近江で五万石を与えられるのでした。

※ちなみに、お名前をさんざん「蘭丸」と書いてますが、それ後世にイメージからつけられたものである様子。
実は、「乱丸」というのが本当であるみたいなの。
また、本来の名「森成利(もり・なりとし)」にも他に「森長定」などがあり、不確かです。
(※兄「長可」を考えると、「長定」のが正解かも。←信長の一字を拝領した?)

兄・長可は織田軍で重きを成し、弟・蘭丸は主君信長の側近として辣腕を振るうなど、父以上に順風満帆だった森家。
そのまま進めば、この「蘭丸」も先輩「堀秀政」のような存在になったかもしれません。
…が、しかし。

⇒ つづく。
  次回は「恐怖の主君「織田信長」と蘭丸くん」(3/3)

[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 魔王の弟 「織田信行」 [    
⇒ 米のような必需人「丹羽長秀」 前編 後編
⇒ 天才軍師「竹中半兵衛重治」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 海賊大名 「九鬼嘉隆」 [   
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 信長に背いた男 「荒木村重」 [  
⇒ 坂本城址 (滋賀)
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」



 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


戦国BASARA2 英雄外伝(HEROES) ダブルパック(初回生産:戦国BASARAミニカレンダー同梱)

カプコン

このアイテムの詳細を見る

※ゲームにも登場する蘭丸くんなのです。
 何か妖しげな魅力があるんでしょうねぇ。

武勇の父「森可成」と蘭丸くん (有能な秘書官・森蘭丸)1

2008年01月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…「織田信長」のとかいうより”小姓”と言われて真っ先に名前があがる(かもしれない)、戦国時代の有能な秘書官「森蘭丸(もり・らんまる)」です。
…だよね。

今回はブログの引っ越しが終わってからの一回目です

記念をこめ、ちょっと有名な方をチョイスしてみました。
あの暴君「織田信長」の寵愛を集めたということから、いまだ小説やゲームなどでもいじられることの多い「蘭丸くん」
その名前は戦国時代に詳しくない、一般の方々にまで広まっていると思いますが、実際はどんな方だったのでしょうか?


さて、とりあえず似た名前が多い「森家」の系図からどうぞ。

可行(越後守)
 ↓
1可成-2可政(従五位下・対馬守)
 ↓
1可隆-2長可(長一:武蔵守)-3成利(蘭丸・乱丸)-4長隆(坊丸)-5長氏(力丸)-6忠政(千丸)


実はかの名門「清和源氏」の家系であるらしい森氏。
河内源氏、”八幡太郎”の別名で知られる「源義家」を祖としており、いつからか美濃に土着して続いてきたようです。
室町時代頃にはそちらの守護大名であった土岐氏に仕えておりましたが、「斎藤道三」が登場して土岐氏が滅亡したあたりから尾張・織田氏の傘下に入ったようなのでした。

今回の主人公である「森蘭丸」の父、「森可成(もり・よしなり)」は道三のライバル「織田信秀」、若き当主「織田信長」に仕え、その下で非凡な才を発揮します。
尾張へ赴いた頃は、まだ父親「信秀」が健在で、奇行で知られていた信長は”尾張の大うつけ”という評判でした。
信秀の死後に国内は混乱しますが、可成は判断を誤らず、嫡男である信長を支持するのでした。

当時は周囲を敵に囲まれていた信長です。
動きの怪しげな譜代家臣より、功を立てんと必死な新参者の方がよほど信頼できたのかもしれません。

尾張統一戦より、その武勇を発揮して活躍した可成は桶狭間合戦、美濃攻略などでも次々に功をたて、美濃は金山城主(※烏峰城)となりました。

さて、今回主役である「森蘭丸」の誕生した永禄八年(1565)が、おおよそそのあたりの頃であるようです。
主君信長の信頼を受け、ついに城持ちとなった森家の前途はまさに前途洋々。仕える織田家も強敵「今川義元」を桶狭間に撃破し、美濃を攻略。
矛先を京へと向け、天下取りレースの候補になるかどうか、という頃でした。
ちなみに、「坊丸」、「坊丸」も続いて誕生しておりますから、どれだけ父「森可成」が充実していたのか伺えますよね。
(※しかも全て正妻の子で男の子ばかりでしたから、そりゃー順風満帆ですよ。ええ)

京へと進出した信長。
皆様ご存じの通り、「お市の方」の輿入れで同盟関係であった織田・浅井ですが、朝倉攻めをきっかけに断交。
敵対関係となってしまうのです。
元亀元年(1570)のこと。
信望厚い可成は近江・宇佐山城の守備を任されますが、浅井・朝倉の両軍勢によって数度に渡る攻撃を受け、よく防戦するも討死してしまうのです。(※この際には信秀の五男「織田信治」も共に戦死)
享年四十八。
この時、今回主人公「森蘭丸」はまだ5歳程度の子供でした。

⇒ つづく。
  次回は「鬼武蔵「森長可」と蘭丸くん」(2/3)

[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


森蘭丸―乱世を駆け抜けた青春
八尋 舜右
PHP研究所

このアイテムの詳細を見る

※こんな小説まであるのでした。
 実際には、全然大したことしてないんですけどね。

千手観音菩薩 (仏像・菩薩)

2008年01月20日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…大して仏像について興味がない方でも、「なんかよくわからんけれどスゴイっぽい」と感じるだろう(←たぶん)、無数の手と顔を持った、スペシャルなお方「千手観音菩薩」です。

ちょっと似た方で、顔がいっぱいの方「十一面観世音菩薩」は過去に紹介しております。
こちらの「千手観音」さまは顔だけでなく、手も沢山お持ちで、なにかと色々便利そうなのですよ。
ブログとかいっぱい書けそうですよね。

一見、あまりな異様さにギョッとする容姿なのですが、じっくり見ているうち不思議と違和感なくなり、その特異な雰囲気に圧倒されることでしょう。
…たぶん。
わかんないけど(笑)

さて、そんなこんなで「千手観音菩薩」さま。
正確には「千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざい・ぼさつ)」と言います。
ほかに「蓮華王(れんげおう)」という別名もあります。

梵名は「サハラスラブジャ」
「千」は無量円満…えーっと、「果てしなく満ち足りている、数多くの願いを成就する」ってところですかね。
最も早く考え出されたという「十一面さま」と並び、変化観音では早期に現われたそうなのです。
誰が考案したのか知りませんが、えらく豊かな想像力ですね。

なお、千本ある手は”多くの人々に救済の手を差し伸べる慈悲”の表現。
千個の眼は”人々を教え導く知恵”の表現。
同じく顔がいっぱいある「十一面さま」とは、その意味が微妙に異なっているんですね。

千本の手で救済の手を差し伸べ、千個の眼で教え導くという、その広大な誓願の内容を現わしているのです。

また、六観音の一人として活動する場合は、”あらゆる人々の苦悩を救済する無限の力がある”と説かれていることから、特に地獄へと落ちた者を済度(※)する観音とされております。

見分け方としては…まぁ、ここでわざわざ書き記すこともないでしょう。
手がいっぱいの方です。
千本の手ですが、ほとんど実際は四十二臂に作られることが多いそうです。
これは、中央で合掌印を結ぶニ臂を除く、残り四十の手が一手につき二十五の衆生を救う…すなわち、
 25×40=1,000
…という訳なの。
なるほどねぇ、テキトーに見えてちゃんと意味があるのですよ、そこの方(笑)
それぞれの手には救済の力を示すものとして、日、月、錫杖、剣、弓、輪宝(りんぽう)、宝珠(ほうじゅ)、などを持っております。

頭上には十一面の顔(化仏)、本面(正面の顔ですね)は三眼。
実は掌にもそれぞれ一眼あったりするのが本当ですが、仏像・絵画で表現するのは困難であるため、たいていは省略されているそうです。
あったら気持ち悪いですもんね。
眷属としては「二十八部衆」、「風神」「雷神」を従えることが多いようです。

実際に千手ある作例として、大坂「葛井寺(ふじいでら)」
こちらは天平期の傑作というべき仏像。当然ながら国宝で、写真で見てもモノスゴイです。
必見。ひでるさんもいつかナマを見に行きたいですね。
ほか、奈良「唐招提寺」、こちらは立像。
有名な所では、京都「三十三間堂」、こちらはあの「運慶」の嫡男「堪慶(たんけい)」作なのです。
修学旅行などで行く機会が多いところなので、たいていの方が覚えて…ないか(笑)
ぜひ、もう一度見に行ってあげて下さいね。

一切の衆生を利益し、安楽を与えるという、観音の慈悲のはたらきを最大限に表現した尊格。
先の「二十八部衆」な皆さまが使役され、あらゆる願望に応じてくれる万能の仏さまです。
ご利益としては「千手敬愛法」という男女が長く相思相愛でいられるというものから、除病、安産、果ては破地獄という「大悲心陀羅尼」というものまであったりします。
本当は色々やらんといけないのですが、とりあえずこちらの真言を唱えましょう「おん、ばさら、だるまくりく」…


(※)済度[さいど] →goo辞書より抜粋
1) 衆生を苦海から救い、彼岸へ導くこと。〔「済」は救う、「度」はわたすの意〕
2) 困ったり苦しんでいる境遇から助け出すこと。

[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 般若菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂)
⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
⇒ 楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)
⇒ 馬頭観音
⇒ 執金剛神・仁王像
⇒ 日光菩薩・月光菩薩
⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像
⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
⇒ 兜跋毘沙門天
⇒ 大黒天 (仏像・天部) 仏像編 信仰編
⇒ 荼吉尼天
⇒ 摩利支天
⇒ 韋駄天
⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

魅惑の仏像 千手観音―奈良・唐招提寺魅惑の仏像 千手観音―奈良・唐招提寺
(2001/02)
小川 光三

商品詳細を見る
※どうですかー、の唐招提寺・千手観音です。
 そこらのグラビアクイーンなんて目じゃないですよ!

因幡薬師・平等寺 (京都)

2008年01月18日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都・烏丸駅、地下鉄烏丸線・五条駅よりすぐ近く因幡薬師こと「平等寺」です。
これが「院」となると超有名寺院になるんですけれどねぇ。
まぁ、こちら「平等寺」も日本三如来の一つとして数えられているんですが。

ちなみに皆さん気になる(…ならない?)日本三如来ってーのは、京都・嵯峨釈迦堂の「釈迦如来像」、長野・善光寺の「阿弥陀如来像」、そしてここ平等寺の本尊「薬師如来像」(※)なのです。

この薬師様は、長徳三年(997)というから平安時代のこと。
因幡国(※現在の鳥取県東部)の国司であった「橘行平(たちばなの・ゆきひら)」は勅命の途中で病を発し、寝込んでしまいます。
そんな行平の枕元にすぅーっとオヤシロ様…でなくてが現われました。
この国の海中に木があるから、引き上げて供養すれば病気も治るよん
みたいなことを言われ、行平はふと目覚めるのです。

そのお告げに従って因幡国は賀留津(かるつ)に赴くと、その海中から一体の「薬師如来像」を引き上げるのでした。
残る「因幡堂縁起」によると、像は仮堂に安置し、無事病の治った行平は京都の自邸へと戻るんですが、それを追うようにしてなぜか薬師如来像も京都に飛来(笑)、その自宅に入ったのです。

はー…すごい・すごい(棒読み)

逆に、もし仮にこれが本当だとしたら、呪われている可能性もありますよね。
…ごめんなさい、軽いジョークですよ。

さて、猫に餌あげたら自宅までついてきた、みたいに付きまとわれてしまった行平は自宅を改造してこれを祀るのでした。
これが「平等寺」の起こりです。

その嘘話…じゃなくて噂話(笑)は広く親しまれ、それ聞きつけた民衆からなんと天皇家までが参拝、深く信仰されることとなるのでした。

承安元年(1171)には、なんと高倉天皇より「平等寺」の勅額を賜ることとなるのです。
その後、一遍聖人が布教の際の起点とし、猿楽興行や歌舞伎興行(江戸時代)、また浄瑠璃発祥の地ともいわれるほど、京都の民衆らに親しまれる町堂となっていくのでした。

同時に、度重なる火災にも遭った結果、寺領は次第に小さくなり、明治維新の際にはなんと堂宇が灰燼に帰すこととなるのです。

本堂が復興したのは明治十九年のことだそうで、こちらが現在の本堂となっているのでした。
薬師様は運良くそんな火災からも逃れ、当時の面影を今に残しておられます。
こちらは一木造りの立像で、左手にちょこんと薬箱を乗せておるのでした。


(※)本尊「薬師如来像」は通常非公開。
   八月八日・四月八日午後の特別公開。


[関連記事] 【如来のいろいろ】 
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀
⇒ 薬師如来 蛸薬師 飛鳥・薬師三尊像
⇒ 弥勒如来
⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)


[住所]
 平等寺(因幡堂) 京都市下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町728
※後方ビルとのギャップが素敵でしょ?

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

薬師如来 謎の古代史―仏の素顔とインドの魔族薬師如来 謎の古代史―仏の素顔とインドの魔族
(1997/03)
清川 理一郎

商品詳細を見る

※ちょっと気になるタイトルなのでチョイスしてみました。
 仏の素顔って!?

大名になった加藤くん、松山城を築く (加藤嘉明)5

2008年01月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまのラストをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
…でも、あらためて見返すと、「嘉明さま」があまり登場しておりませんね(笑)

天正十一年(1583)
賤ヶ岳での追撃戦で、ライバル柴田隊を散々に打ち破った羽柴勢。
今回の主役「加藤嘉明」もそちらにて華々しい戦功をあげるのでした。

以後は秀吉軍団の一員として、根来・雑賀討伐、「佐々成政」の越中討伐などに参加。
四国征伐・九州征伐の際には、水軍を率いて参加しております。
小田原・北条氏攻めでも船団を統率し、毛利、長宗我部、宇喜多らの水軍と相模湾に布陣しておりました。
それらの功によって、天正十四年(1586)には淡路志智城主として一万五千石を与えられるのでした。

苦節…二十三年、一時は浪人した(←父ですが)ものの、見事大名へと成り上がったのです。
あるいは、徳川家臣のままであれば、ここまでの出世はなかったかもしれませんね。
わかんないけど。

以後、「文禄の役」でも、舟奉行として参加。
続く「慶長の役」にも参加し、「小西行長」「島津義弘」らと共に「元均」率いる朝鮮水軍を巨済島にて撃破など、活躍しております。

こうして、文禄四年(1595)には、伊予松前城主、六万石を与えられました
なお、秀吉が関白となると、それに合わせて従五位下左馬介となっております。

さて、秀吉の没後は多くの武断派大名と同じく、「石田三成」への反目から「徳川家康」に接近。
「関ヶ原合戦」では東軍方として、前哨戦である岐阜城・大垣城攻略戦に参加
各将入り乱れる関ヶ原では、「黒田長政」「細川忠興」らと共に布陣し、石田隊と激しく戦っております
また、豊臣恩顧の大名が苦慮した「大坂冬の陣」では江戸にて留守、「大坂夏の陣」では徳川方として参加するのでした。

それら功により、伊予松山二十万石を与えられ、現在も残る重文「松山城」を築くのでした。
以前の居城であった松前の「松」、勝山(※勝山山頂に本丸がある)の「山」を取って、「松山」という地名にしたそうです。
実は、嘉明さまはこちらの命名主なんですね。

こちら松山の城、および城下町を整備したのは、この「加藤嘉明」の実績です。
合戦での功が目立つ嘉明ですが、政治力も持ち合わせていたのです。

寛永四年(1627)には「蒲生氏」が転封された後に会津へ入り、なんと会津若松四十万石に加増転封
官位も、最終的には従四位下侍従にまで昇進するのでした。
ちなみに、会津若松では、城内の屏風に家臣らの甲冑をそれぞれ描かせ、戦場で見誤らないよう常に目に入るようにしていたんだとか。

しかし、寛永八年(1631)
嘉明の死後にはお家騒動が勃発、後を継いでいた嫡男「加藤明成」は改易となってしまうのです。
とりあえず家はどうにか保たれ、近江水口藩として存続していくこととなるのです…。


【 戦国メーター★加藤嘉明 】
 家柄: ■■□□□ 三河・松平家家臣です。武士ですが、そう大したものではないでしょう。
 実力: ■■■■□ 各地の主要合戦に参加するなど、地味ながら戦闘・政治とも安定。
 地理: ■■□□□ 伊予で判断。まぁ、天下とは無縁の方でしょうけれど。

[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

Gold コレクション 松山城 1/450Gold コレクション 松山城 1/450
()
不明

商品詳細を見る

※そんな訳で、実は「加藤嘉明」さまの松山城なのでした。
 なかなかいいお城ですよねぇ。

七本槍の加藤くん、賤ヶ岳で奮戦 (加藤嘉明)4

2008年01月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

天正十一年(1583)
時代の覇者「織田信長」死後の”織田家主導権争い”である「賤ヶ岳合戦」
美濃へ出陣していた「羽柴秀吉」の留守を狙って、柴田勢の先鋒隊「佐久間盛政」「柴田勝政」が戦を有利に進めておりました。
しかし、急報を聞きつけた秀吉ら一万五千の軍勢は約五十ニキロという道のりをわずか五時間で疾駆し、木之本まで戻ってきていたのでした。

なお、歴戦の将「柴田勝家」は前線の盛政に対して、さかんに撤退命令を出しております
さすがに、何かしら察するところがあったのかもしれません。
…ただ、こうして命令に服さなかった盛政を見るかぎり、彼の支配力としてはその程度なのかもしれませんが。

さて、あまりに早かった秀吉本隊の着陣に「佐久間盛政」は驚愕しておりました。
同時に、突出していたことで、敵中に孤立する恐れがあることを悟るのです。
ここで盛政は慌てて撤退を開始。

しかし、それすら見越していた秀吉は、あらかじめ五千の馬廻り隊を先んじて突撃させていたのです。

午前二時という深夜の退却は困難を極め、さらに秀吉勢の追撃を受けて大混乱となった佐久間隊は敵味方の区別なく、ただ逃げ惑うという有様でした。
追っ手の秀吉勢は隊を二手に分け、殿となった「柴田勝政」、および「佐久間盛政」ら部隊を包囲・殲滅。

この追撃戦にて活躍したのが、世に言う”七本槍”、「福島正則」、「加藤清正」、「片桐且元」、「脇坂安治」、「平野長泰」、「糟屋助右衛門」、「桜井佐吉」、「石川兵助」、そして今回の主役「加藤嘉明」なのでした。
…あれ、これだと九本槍ですよね。
とりあえず、上のメンバーで桜井・石川の両名は討死しておりますので、それだと七本槍になります。

まぁ、日本人はなにかと「七」という数字が好きですし、喧伝の際にくくりやすいということもあったのでしょう。
また、それ以外に「石田三成」、「大谷吉継」なども手柄を立てており、実は七本槍自体が後世の創作ではないか、とも言われているようです。

とりあえず、ここで「加藤嘉明」は特に功のあったとされる数名に見事選ばれ、”七本槍の一人”として、華々しく芸能界…じゃなくて戦国時代デビューをするのでした。

真相はさておき、この七本槍というのは、譜代の家臣団がいない秀吉が計画した、今後を担う股肱の臣を大々的に宣伝的したという性質が強いようなのです。

⇒ つづく。
  次回は「大名になった加藤くん、松山城を築く」(5/5)

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [  ]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [  ]
⇒ 激突・関白軍勢対九州の覇者 「戸次川合戦」 [   ]
⇒ 徳川勢は本当に活躍した?「姉川合戦」[      探訪
⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


賤ヶ岳七本槍―秀吉を支えた勇将たちの生涯賤ヶ岳七本槍―秀吉を支えた勇将たちの生涯
(1992/06)
徳永 真一郎

商品詳細を見る

※秀吉と共に大出世をした彼らは、波乱万丈な人生となるのでした。
 良かったのか、悪かったのか…。


活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加 (加藤嘉明)3

2008年01月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸(笑)な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

馬喰(ばくろう)となっていた「加藤嘉明(※写真)」は岐阜へ赴いた際、織田家の「加藤景泰」と接触。
その推挙によって、織田家でめきめきと頭角を現し始めていた「羽柴秀吉」に仕えることとなったのです。

天正七年(1579)
十六歳頃には初陣も済ませ、織田家の司令官にまで出世していた「羽柴秀吉」に従って、中国地方へ出陣しております。

ちなみに余談ですが、「本能寺の変」はその三年後のことです。
だいたいそんな頃なのね。
織田から離反した播磨の名族「別所長治」との戦い、干殺しで有名な三木城攻略戦にて功がありました。
しかし、嘉明の名が世に出るのは、何よりも次の「賤ヶ岳合戦」なのです。

天正十一年(1583)
時代の覇者「織田信長」死後の”織田家主導権争い”というのが、「賤ヶ岳合戦」です。
明確に後継者として動き出した「羽柴秀吉」と、それを阻止しようとする筆頭家老「柴田勝家」の間で起こった戦いですね。

越前・北ノ庄を出陣した「柴田勝家」は”鬼玄蕃”と称される猛将「佐久間盛政」を先鋒として、柳ヶ瀬に陣を構えました。
その頃、「羽柴秀吉」は先に伊勢にて挙兵していた「滝川一益」と対陣しており、不在だったのです。
報に接した秀吉は伊勢に若干の押さえを置き、近江へと進軍。
頼れる弟「羽柴秀長」、名人「堀秀政」など各所へ将を配置して、それと対陣するのでした。

しかし、拮抗した戦力がために膠着状態となってしまうのです。
そんな秀吉勢の背後美濃では、柴田方である信長三男「織田信孝」が活動しており、それを牽制するため、秀吉は陣を離れた岐阜へと移動。
その留守を狙った、柴田勢の先鋒隊「佐久間盛政」「柴田勝政」らはついに軍を動かし、大岩山に布陣していた「中川清秀」隊へ先制攻撃の末、これを壊滅するのでした。
さらに、岩崎城「高山右近」、賤ヶ岳砦「桑山近晴」を攻め、戦況を優位に進めます

この急報を聞きつけた、美濃・大垣城の秀吉は急遽軍を反転。
街道沿いの家々に松明と握り飯を用意させ、一万五千という兵と共に大垣から木之本まで約五十ニキロという道のりをわずか五時間ほどで戻ったのです。
まさに中国大返しを彷彿とさせる、素早い行軍を見せるのでした。
そして、その翌日には全軍に反撃を命じるのです!!

いやー、この素早さは得意の城攻めと共に、秀吉の真骨頂というべきものでしょう。
当時の秀吉は、信長配下時代に培った知恵と元来の派手さ・大胆さを遺憾なく発揮し、まさに時流に乗っていたのだろうと思うのです。

⇒ つづく。
  次回は「七本槍の加藤くん、賤ヶ岳で奮戦」(4/5)


[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)秀吉の天下統一戦争 (戦争の日本史)
(2006/09)
小和田 哲男

商品詳細を見る

※このあたりの秀吉さんはまさに神がかっていた、ように感じます。
 ……まぁ、会ったことはないのですが(笑)

馬喰の加藤くん、推挙される (加藤嘉明)2

2008年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。

父「加藤教明(かとう・のりあき)」は三河・松平氏の家臣。
しかし、「三河一向一揆」にて、うっかり一揆勢に属してしまった教明は浪人し、近江へ辿り着くのでした。
子の嘉明は馬喰(ばくろう)に養われますが、その際に馬術ほかに馬に関する知識を吸収していったのです。

さて、岐阜(美濃)へと馬を売りに行った若き「加藤嘉明」はそこで「織田信長」に仕える「加藤景泰(かとう・かげやす)」と接触しました。
まぁ、当時馬を必要としているのは武士か豊かな農民あたりでしょうから、岐阜へ赴いた彼が織田方の誰かしらと会うのは当然なのかもしれません。
時期的にも、斎藤氏を倒して勢いのあった織田家です。
あるいは、いい商売相手になるかもしれない、と考えたのかもしれませんね。

なお、先の「加藤景泰」は同じ加藤姓ですが、嘉明とはまったく関係はありません。
ちなみに、清正とも無関係です。
美濃国・多芸群の小領主。
斎藤氏から、織田・羽柴(豊臣)氏に仕えた方で、後に甲府二十四万石を得る「加藤光泰(かとう・みつやす)」の父なのです。

さて、嘉明の連れる馬を見た景泰は、
駿馬だが、癖が強い
と難色を示したところ、
自分なら乗りこなしてみせる
と言い、見事嘉明はその通りにしてみせたのです。
それに感服した景泰は才を惜しみ、「羽柴秀吉(※写真)」へ推挙した…とされております。

これがどこまで真実かはさておき、いつの時代でも一芸に秀でているというのは、後の人生を大きく左右しますね。
芸は身を助ける
というのは本当なのですよ、そこのお母さま。
勉強だけが人生ではないのですよ!
こうして、後の太閤「木下藤吉郎(羽柴秀吉)」に見出された「加藤嘉明」は、その小姓として仕えることとなったのです。

そんな嘉明さまの人柄を知るエピソードを一つ。
しつけに大変厳しい武将で、家中のものには”帯を前脇で結ぶよう厳命していた”そうなのです。
その理由を問われると、
帯を後ろで結んでいると、緊急時に遅れを取る。前脇であれば走りながらも結べ、また解けても結びなおしが容易い
常に危機意識を持ち、事に対処できるよう気を配っていたんですね。

⇒ つづく。
  次回は「活躍する加藤くん、賤ヶ岳合戦に参加」(3/5)

[関連記事] 【豊臣政権セット】
⇒ 意外と知らない信長死後 「清洲会議」 [    
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 奮戦・前田利家「末森城合戦」 前編 後編
⇒ まつさん[芳春院] 前編 後編
⇒ 黒田官兵衛の失言「人生を変えた一言」
⇒ 佐和山城址(滋賀) 基本知識編 現地レポート編
⇒ 行こう!「関ヶ原古戦場・石田三成陣跡」
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ 秀次切腹と石田三成 [
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 二大英雄の子「結城秀康」 [   
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
⇒ 豊臣秀勝公菩提寺・妙法寺 (滋賀)
⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

GOLDEN☆BEST/加藤登紀子GOLDEN☆BEST/加藤登紀子
(2002/06/19)
加藤登紀子

商品詳細を見る

※加藤…ということで……「加藤登紀子」さん。
 歴史人物以外の有名人で最初に頭に浮かぶのはこの方ですかね。


知ってる?七本槍の加藤くんは二人いる (加藤嘉明)1

2008年01月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」ですよね。普通は。
しかし、実はもう一人加藤くんがいるというのは、一般の方はあまり知らないでしょう。
戦国時代に詳しい方なら間違いなくご存知であろう、本日は「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまなのでした。

この方、たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、また同じ加藤姓では人気の高い「加藤清正」さまが近くにおられるので、どうしても一歩地味なイメージなのですね。たぶん。
ドラマなどでも端役の方がやるか、あるいは役自体がなかったりします(笑)
ああ、気の毒。
そんな訳で、”賤ヶ岳の七本槍”のひとり「加藤嘉明」さまです。

その父「加藤教明(かとう・のりあき:あるいは岸三之丞、広明、景喜)」はもともと三河の武士で、天下人「徳川家康」の父「松平広忠」の家臣でした。

しかし、永禄六年(1563)
「徳川家康(※写真)」最初の試練である「三河一向一揆」との戦いにて、主家・信仰のうち、信仰をとってしまった教明は一向一揆側に属し、主と対立してしまうのです。
結果的に若い家康はこの苦境に見事勝利。
それがため、教明は浪人の身となってしまうのでした。

…余談ですが、この「三河一向一揆」は鉄壁の忠誠心をもって知られる徳川家臣団が真っ二つに分かれた合戦です。
信仰も無論大事ですが、今まで今川氏のもとで不遇をかこっていた三河武士らにとって、独立した家康は希望の星なのでした。
そんな訳で、忠誠心に厚い彼らは面白いことに、戦場へ家康が出てくると「若君」ということで直接対決を避けたそうなのです。
(※この一向一揆勢は松平家臣団のほか、今川旧臣や吉良氏なども参加していたため、そんなんでも危機には違いなかったのです。当主としての力量を示す、国内統一戦というべき風情だったみたいなのよ)
ちなみに、後の参謀「本多正信」もこの戦では一向一揆側に参加していたりします。

さて、今回の主役「加藤嘉明」はこうした年に誕生しました。
幼名は「孫六」、後に「左馬助(さまのすけ)」
浪人した父教明は後に秀吉が居を構える近江・長浜へ辿り着いたらしく、子の嘉明も十二歳頃まではそちらで馬喰(ばくろう)に養われておりました。
この「馬喰」というのは、牛馬の売買ほか、その病気を治したりしていた職業のようなのです。
…要するに、馬に関してのプロフェッショナルでして、その手伝いをしていた嘉明はここで馬術のほか、関連知識を得たのでした。

⇒ つづく。
  次回は「馬喰の加藤くん、推挙される」(2/5)

[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


CL-29_2008年カレンダー 加藤ローサCL-29_2008年カレンダー 加藤ローサ
()
不明

商品詳細を見る

※加藤…ということで……「加藤ローサ」さん。
 ひでるさん、カレンダーは一度も買ったことないですねー。


韋駄天 (天部・仏像)

2008年01月11日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…誰もが一度くらいは聞いたことあるのではないでしょうか。

どうよ?
いまどきそんな言葉知ってるのはおっちゃんだけですか??
…という「韋駄天(いだてん)」をお送りいたします。
ややしつこかったですね。

ほらほら、足が速いことを「韋駄天走り」って言うでしょ?
最近はあんまり耳にしないかもしれませんが(笑)
その”韋駄天”ってーのが、こちらの方なのでした。

仏涅槃(ぶつねはん:釈迦が入滅すること)の時、仏牙(ぶつげ)を盗んで逃げた捷疾鬼(しょうしつき)をその足にかませて追いかけ、取り返したという伝説。
また、比丘が魔障に惑わされそうになった際、速やかに近づいてそれを除くとされております。
…「韋駄天走り」という言葉、”足が速い”というイメージはこうした伝説からの由来であるのです。

梵名は「スカンダ」、あるいは「カルッティーケーヤ」です。
これで、跳ぶ者(跳躍ね)という意味。

それを音写したものが、塞建駄(そくけんだ)、建駄、私建陀(しけんだ)とされているのでした。
…ここで勘の良い方は気付いたかもしれませんね。ひでるは気付かなかったですが。

そう、「韋駄天」の「」という漢字はこちらの「」という文字の写し誤りとされているのですよ。

誰だか知りませんが、一人のうっかりさんがため、現在までミスが広がったまま収拾つかないという、悲惨なケースとなっています
もう取り返しがつきません(笑)
ああ、お気の毒。

インドのバラモン教ではシヴァ神の子供でした。
それが仏教に取り入れられてから、四天王での南方「増長天」配下の八将の一人、その首領格とされました。
こう見えて(←どう?)、結構偉い方なのですよ。

四天王と共に仏法を守護し、大衆を救済する役目。
寺院では単独で伽藍(がらん)の守護神となっているものが多く、特に禅宗寺院では庫裏(くり:社務所みたいな、僧侶が住む場所)にて守護神とされていることが多いのです。

やたら特徴的なので、簡単に見分けつくのも特徴。
甲冑・鎧姿での立像で、手は合掌印を結ぶ。
両手で宝棒、あるいは宝剣を横にしたまま、捧げ持つ姿。
(※写真参照)
この姿は日本が鎌倉時代であった頃に中国から伝えられたものだそうです。
ただし、そのように書かれた経典などはないらしく、中国・道教で信仰されていた神将姿が影響した様子なのでした。

あちこちお寺をくるくる回れば、意外と目にする機会があるでしょう。
京都・泉涌寺(せんにゅうじ)には中国製と言われる木彫像・重文「韋駄天像」があることで有名。
あまり巨大ではありませんが、非常に勇ましく格好いいものです。
こちらは「楊貴妃観音」と共に100年に一度公開される秘仏でしたが、現在は一般公開されているので、必見です。

最後に真言をば。
「おん、けんだや、そわか」
…を唱えれば、盗難されなくなるそうです。


[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 般若菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂)
⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
⇒ 楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)
⇒ 馬頭観音
⇒ 執金剛神・仁王像
⇒ 日光菩薩・月光菩薩
⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像
⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
⇒ 兜跋毘沙門天
⇒ 大黒天 (仏像・天部) 仏像編 信仰編
⇒ 荼吉尼天
⇒ 摩利支天
⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

ZIPPO ウルトラマン ジッポーライター 「40th Anniversary Version バルタン星人」ZIPPO ウルトラマン ジッポーライター 「40th Anniversary Version バルタン星人」
(2007/01/23)
不明

商品詳細を見る

※なんとなく速い、というイメージだけで「バルタン星人」です。
 ひでるライターとは無縁ですが、けっこう欲しいですね。

義仲寺 (滋賀)

2008年01月10日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は大津の「義仲寺」です。

きました、源氏ファン憧れの「義仲寺」
ひでるさんはずっと「よしなかでら」と読んでいましたが、正確には「ぎちゅうじ」だそうです。
毎度のことですが、むやみやたら人に喋らなくて良かったですね(笑)

さて、歴史にまっったく興味ない方でもおそらく名前は知っている(たぶん)だろう、「木曾義仲(きそ・よしなか)」さま。
いわゆる判官びいきというのも手伝って、現代では「源義経」の名前のが知られていますが、実際に平家の大軍に真っ向から立ち向かい、撃退・勝利したのはこの「木曾義仲」さま率いる軍勢なのでした。

一時期は「征夷大将軍」に任命され、「旭将軍」と呼ばれた清和源氏の「木曾義仲」さま。
しかし、後に色々あって衰退。
「源頼朝」勢に追われた「木曾義仲」は「宇治川の戦い」に敗北。
粟津原(あわづはら)と言われたこの地で、壮絶な討死をするのでした。

さて、その後粟津原に一人の尼層が訪れ、「木曾義仲」ほか戦死者を供養したのだそうです。
…この尼こそ、「木曾義仲」と共に戦地に立った愛妾「巴御前」だったのでした。
ああ、ラブラブですね~いい話です。
と、これが「巴寺」、あるいは「巴御前」が自分のを名乗らなかったことから「無名庵」などと呼ばれる由来なのだそうです。
そこから察するに、庵みたいなものは昔からあったようですね。

そんな「木曾義仲」さまを葬った塚、庵のあった場所に、近江を支配していた六角氏が修復拡大し、「義仲寺」を建立したと伝えられています。
室町時代末期といいますから、戦国時代初期頃なのかな。
六角氏、グッジョブです。

なお、その頃の境内は今と違ってかなり広大だったみたいなのです。
「義仲」とこの周辺の景色を愛した「松尾芭蕉」はこちらに度々訪れ滞在すること多く、大坂にて亡くなった後は生前の遺言によってこちらに墓が建てられたのでした。
木曾殿と背中合わせの寒さかな
…という有名な句ですが、これ「松尾芭蕉」のものでなく、門人「又玄(ゆうげん)」のものなんだって。
へー。

現在の境内には、「木曾義仲」の墓、「巴塚」、「義仲」の妻と妾とも言われる「山吹御前」の供養塚(※義仲戦死の報を聞き、自害したそうです。モテモテですねー)、そして「松尾芭蕉」の墓などがごっちゃりとありました。
お寺好き、というよりも歴史ファン向けなお寺ですね。

なお、結構な歴史施設・お寺であるというのに、駐車場もない・ごくごくこぢんまりとした小さなお寺です。
一応、お寺の前にぎりぎり一台駐車ができますが、前の道もやたら狭いので大変でした。
はっきり言って、歩いてった方がいいかもしれません。
JR膳所駅、京阪電鉄膳所駅が近いようです。


[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編


[住所]
 義仲寺 滋賀県大津市馬場1-5-12

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

木曽義仲―「朝日将軍」と称えられた源氏の豪将 (PHP文庫)木曽義仲―「朝日将軍」と称えられた源氏の豪将 (PHP文庫)
(2004/11)
小川 由秋

商品詳細を見る
※そんな訳で、本日は「木曾義仲」さま。
  昔木曾にも行ったことありますが、ものすごい山中でしたよー。自然児で当然。

伊賀流忍術の雄 「百地丹波」 

2008年01月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国忍者シリーズ第二回、ちょっとマニアックな人なら知っているかもしれないこの方、「百地丹波(ももち・たんば)」さまです。
このシリーズは収集できる情報がやたら少なく、怪しさ満載なのでご注意を。
やめようかとも思ったんですが…出来る限りでやろうかと。

「百地三太夫(ももち・さんだゆう)」という名前もよく聞かれますが、これは別名?あるいは一族の別人かな?
とりあえず、官位「丹波守」を名乗った百地さんがいつだか当主でいたことは確かなようです。
伊賀の国人、あるいは土豪とかだったのかな。

「百地丹波」は名前そのまま、百地丹波城(上野市)を居城としておりました。
伊賀国という土地柄もあって、まるで”忍者の首領”であったかのように扱われておりますが、その実態ははっきりせず不明。
とりあえず、漫画映画にあるような、多くの忍者を召し抱えていた頭領ってイメージは違うのでしょう。

天文年間(1532~1555)には、伊賀付近一帯を制圧。
小土豪となっていたようです。
ここは、室町時代の旧支配体制がほぼ崩壊し、新たな戦国時代の扉が開こうとしている頃です。

日本の最南端では鉄砲が伝来し、甲斐では「武田晴信」が父「信虎」を追放して当主となり、越後では「長尾景虎」が兄「晴景」に代わって当主となっております。
おそらくは群雄割拠の日本、伊賀国にて頭をもたげた、有力国人一人だったのでしょう。

続く天正年間(1573-1592)にも、一族の名が記録に散見しております。
その天正七年(1579)
「織田信長」の次男、伊勢北畠氏を相続した「織田信雄」が伊賀へ攻め込んでおります。
この際には土地勘に優れていたことに加え、おバカで有名な総大将「織田信雄」の指揮の拙さもあり、織田勢を大敗させました。

なお、その軍事行動は父「信長」に無断のことであり、むやみに兵を失っただけの「信雄」は激しい叱責を受けたと伝えられています。
しかし、続く天正九年(1581)には付近の諸大名・数万と言われる軍勢に再度攻められ、ここで討死。
百地家は滅亡してしまうのでした。

一説には忍者に脅威を感じた「織田信長」が徹底弾圧を行ったとか、伊賀忍者らを統括する司令官であったなど、興味深い話もありますが…うふふ。

なお、織田の重臣「滝川一益」は出自が不確かで、「九鬼嘉隆」を推挙するなど伊勢の出身であるという説のほか、伊賀・甲賀の出身と言われ、それがため”忍者であった”とか言われています。
要するに、そういう期待を持ちたくなる、土地柄な土豪だっただけのことなのかな。


[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [  ]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [   
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [       
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [   
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [  
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [     
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [     
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [  ]
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [  ]
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>

 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


図説・忍者と忍術 決定版―忍器・奥義・秘伝集 (歴史群像シリーズ)図説・忍者と忍術 決定版―忍器・奥義・秘伝集 (歴史群像シリーズ)
(2007/07)
不明

商品詳細を見る
※ニンニン、とか変な語尾もなかったでしょう。当たり前ですね。
 わかんないけれど、もう少し職人っぽい集団だったと思うのです。


城郭コレクション「日本の名城」第三章 (関連商品)

2008年01月08日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
以前第一章を紹介しましたが…ふと見つけてしまいました。
でも、第ニ章でなく第三章なんですが。
こちら(※写真)

うわうわ、だからこんなん目の前に持ってきてはダメだってばー。
適度な大きさでケース付き。
出来栄えなかなかで、城だけでなく周囲の風景まで再現されたソレはなんというか箱庭っぽい風情
こぢんまりと、飾っておくになかなか良かったので、今回も買ってみたんです。
それに、戦国ファンの憧れ「安土城」があるんだものぅ。
こりゃ、買わなければ。
ねぇ。

…と、そんな、誰もが気になる(かもしれない)第三章のラインアップは……



・安土城(夏)
・安土城(秋) …言わずと知れた「織田信長」が居城。実際も豪華絢爛だったそうですよ。
・松本城(秋)
・松本城(冬) …堀が素敵な長野県のお城。「石川数正」が築いたんだって。別名、烏城(からすじょう)
・彦根城(夏) …400年祭もやっている井伊家の居城。
・和歌山城(夏) …紀州徳川が居城。秀吉の弟「豊臣秀長」が築城したんだそうな。
★彦根城(春) …今回のスペシャルです。キャラクター”ひこにゃん”がついてます。




…そんなんです。
こちらで、ひでるさんの狙いはたった一つ「安土城」
特に夏でも秋でもいいんですが、色的にはやっぱり「夏」かなー。
そう、やっぱり今回もある季節違いは、前の木とかの色がやや異なるだけだったものに比べてなかなか良い雰囲気。
あるいは松本城(冬)の雪景色もなかなかいいねぇ……とかなんとか、購入前に思いを巡らせておりました。

ただ、前に”季節ダブリ”なんて失敗をしているんですね。
(※前回記事参照
そんな訳で色々迷った結果、いつもの”強欲を必死に抑え”て一つだけ購入することとしました(笑)
だって、和歌山城とか、彦根城とか、徳川の城なんていらんもの。
その結果は…



彦根城(夏)



おー、まい、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)さま!!

なんでまた「彦根城(夏)」かなー。
せめてシークレットならまだいいんですが…あうあう。
あるいは、まぁだ「和歌山城」ならば良かったんですが…。
うぬぬぬぬ…何が好きで徳川方の城なんて…くそう。

過去に「佐和山城」を紹介した時にも書きましたが、近江へ出向いたひでるさんは400年祭で盛り上がるそちらを無視して「佐和山城址」を目指したほどなんですよ。
あるいは、これその際の呪いかなんかか??

ああ、「安土城」欲しいんですけどねー…なんだか絶対に違うの出てきそうだし……。
(※ちなみに、ひでるさんは小さい頃よりガチャガチャとか大好きでしたが、運に見放されてるのか、狙ったのがでないのです)
また買うかどうかは、微妙。
第四章か…あるいは、すっとばした第ニ章を探してみましょうか。


[関連記事] 【オススメ・アイテム】
⇒ SENGOKU―戦国 (書籍・CM)
⇒ 城郭コレクション「日本の名城」第一章 (関連商品)
⇒ 天下の覇城 其の壱 (関連商品)
⇒ 鬼神伝承 眷属十二神将 (関連商品)
⇒ TV見仏記  京都編
⇒ TV見仏記2 滋賀/奈良編
⇒ TV見仏記3 南山城・宇治・伏見編
⇒ TV見仏記4 西山/高槻編
⇒ TV見仏記5 湖東/湖北/南河内編
⇒ 秘仏開帳~特別拝観の古寺・名刹をゆく~


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


DX城 安土城 1/360DX城 安土城 1/360
()
不明

商品詳細を見る

※やっぱり「安土城」ですよ。
 かっこええにゃー。
 近江、じゃないや滋賀にて天守閣だけ再現されたのを見ましたが、良かったですよぅ。



…実は、その後また買ってしまいました(笑)
その結果は…

安土城(秋)



↑こんなんです!
きゃーやっほー!!
やっぱり「安土城」ですよねー。
うふふふ。
今はパソコン横に飾っております。

常寂光寺 (京都・右京区)

2008年01月06日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は右京区の「常寂光寺(じょうじゃっこうじ)」です。
…読み方合ってるよね?ね?

久々に行ってきました、京都。
いやー、やっぱりいいトコロです。またいつか住みたいですね。
今年の真夏の炎天下なら、がらがらかなーって思いましたが、やっぱりお客さんはおりました。
(↑当たり前か)

今回は三千院方面へ出向きましたんで、また機会あったら順次紹介していきたいと思います。
そんなこんなで、右京区は「常寂光寺」ですね。

開山は「日禎上人(にっしん・しょうにん)」です。
その「日禎上人」は大納言「広橋国光」の子として、永禄四年(1561)に誕生しました。
(※広橋家[ひろはしけ]:文官の家柄である名家、公家。藤原北家日野流。十三名家の一つ)
近い事件としては、「桶狭間合戦」が永禄三年(1560)なんで、新しい戦国の風が吹いた頃のことです。
ちなみに、日野家ニ十八代当主に「日野輝資(ひの・てるすけ)」という方がおりますが、持てる資料で調べた結果別人みたいでした。
兄弟なのかな?

ともかく、「日禎上人」は幼い頃に日蓮宗の大本山「本圀寺」に入れられ、なんとわずか十八歳にして法灯を継いでいるのです。

「法灯を継ぐ」ってーのは、後継者みたいな意味ですから、”宗学と歌道への造詣深く”という一文はあながち誇張とか冗談ではなさそう。
それだけでなく、若き秀才は人気面でも人並み外れており、虎退治で有名な「加藤清正」、関ヶ原で歴史的寝返りをした「小早川秀秋」、秀吉の実姉「日秀」などの戦国武将から京都町衆に至るまで多くの帰依者がいたのです。
しかし、天下人「豊臣秀吉」の出仕に応じなかったことから「本圀寺」を離れ、隠棲することとしたのでした。

この時の「日禎上人」は不受不施(ふじゅ・ふせ)という、「信者以外からの施しは受けず,また他宗の者には施しをしない」というある意味理にかなった、ある意味頑固な教えを守ったためであるようです。
日蓮宗にはこちらを教義とした宗派もあり、江戸幕府から邪宗として弾圧されています。

ともかく、隠棲することとした時代の秀才「日禎上人」の選んだ土地が、もとは百人一首の選者として名高い「藤原定家」の山荘「時雨亭」付近であるらしい、小倉山の中腹であるこちらなのでした。
(注:現在残っている「時雨亭」はこの付近にあったんだよーっ、て建てられたもので当時のものではありません)
京都の豪商「角倉了以(すみのくら・りょうい)」、角倉家宗家「角倉栄可(すみのくら・えいか)」らが土地を寄進し、「小早川秀秋」ら各武将たちが建立に寄与したのです。
隠棲の庵は後に寺へと改められ「常寂光寺」となるのでした。

看板の文句をそのまま借りると、幽雅閑寂(ゆうが・かんじゃく)で、日蓮宗の教義にある「常寂光土(じょうじゃっこうど)」の観があるところから、「常寂光寺」という寺名がつけられたのです。

四字熟語連発でなんだか分かりづらいですね。
えーっと、静かで趣が深く上品な雰囲気で、仏の悟りである真理そのものが具現しているような、最高の世界っぽいんだよーということみたいです。
物凄いベタ褒めですよ。

こちらの仁王門はちゃっかり元居た「本圀寺」から移築された、南北朝時代もの。
(※解体修理はされていますが、基本的には同時代)
安置されている仁王像は運慶作で「長源寺」より移されたもの。
さらに本堂は桃山城・客殿からの一部を移築・修造したもの。
色々なところから拝借してます。
元和六年(1620)だから…江戸時代建立の多宝塔(※写真)はオリジナルで重文。
当時の京都町衆の財力をしのばせるほど秀麗なものなんだって。

また、京都屈指の紅葉の名所として知られ、山の斜面と合った景色が大変に良いそうですが…ひでるさん行ったのはやっぱり真夏で空いている時期なのでした。
ひでるさんが行った時はものすごーく色気ない、地味パンフレットでしたが、こちら変わったでしょうか?
もしそのままなら、少し頑張った方が良いと思われますが。



[住所]
 常寂光寺 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】

常寂光寺の四季―水野克比古写真集 (京・古社寺巡礼) 常寂光寺の四季―水野克比古写真集 (京・古社寺巡礼)
水野 克比古 (2006/05)
東方出版
この商品の詳細を見る

※そんなこんなで写真集も出ている「常寂光寺」です。
 お寺の四季風景というのは、なにゆえこんなにいいもんなんでしょうか?

般若菩薩 (仏像・菩薩)

2008年01月05日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…どっかで像を見たらぜひ教えて欲しい、単語はよく聞くけれど実際にほとんど見られない、「般若菩薩(はんにゃ・ぼさつ)」についてです。

日本で「般若経典」での本尊。
知恵を象徴する存在・菩薩なんですが……そうですね、ひでる所持の本では書かれていないものがほとんどでした。
いったい、どんな方なんでしょう?

ダライ・ラマ 般若心経入門 ダライ・ラマ 般若心経入門
ダライ・ラマ14世 (2004/03/19)
春秋社
この商品の詳細を見る
※この絵が「般若菩薩」です。

般若菩薩、別名「般若波羅蜜多菩薩(はんにゃはらみた・ぼさつ)」で梵名は「プラジュニャーパーラミター」…うわうわ、練習しないと言えません(笑)
もっとも初期に成立した、「大乗経典」を偶像化したものだそうです。
もともと、もやもやっとしたガスみたいな存在なんですよ。(←失礼)
その「大乗経典」ってーのは、ごく簡単に”あらゆる物事は「空」なんだよ””自分が成仏するためには他の全ての生き物たちを救いたいという心が大切なんだよ”、っていう教え。

「般若仏母(はんにゅ・ぶつも)」とも称されます。
般若(はんにゃ)ってーのは、仏教での修行によって得られた悟りの智慧(ちえ)を示します。仏教の真理そのまま、正しく物事を認識して判断する能力、みたいなもの、ですか。
ぱっと思いつくであろう「嫉妬した女の顔」という、同名の能面(※写真ですね)はまったく関係なく、当然ですが「萩原流行」さんともまっったく関係ありません。
(※間接的に由来の元となってはいるようです)

また、仏母は梵名「プラジュニャーパーラミター」が女性名詞であるためで、諸仏はこの「般若菩薩」の知恵の力によって悟りを開くことができるそうです。
”諸尊の母”とされているのは、そんな理由。

通常は菩薩として描かれ、密教では胎蔵界曼荼羅・持明院の中央尊。
この際は三目六臂でそれぞれ異なる印を結び、一臂は白蓮華を持っています。
六臂は、「六波羅蜜」という、”菩薩が行う六つの実践業”を象徴したものとされています。
虚空蔵院におられる場合は、ニ臂の般若仏母。
ほかに甲冑を身に着けるもの、手に経箱を持つもの、知恵の剣を持つものなど様々。
眷属には大般若経を守護する、四天王を含む十六神「十六善神」を伴い、般若十六善神として表されます。

結構スゴイ方なんですが、日本で信仰はなく、彫刻にも絵画にもあまり登場しないシンボル的な存在みたいなの。
見かけないのは、そんなんが原因なのでしょう。


[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
⇒ 国宝・弥勒菩薩半跏思惟像 (京都・広隆寺)
⇒ 弥勒菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 勢至菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 千体観音堂(京都・三十三間堂)
⇒ 十一面観世音菩薩 (仏像・菩薩)
⇒ 重文 木像聖観世音菩薩立像 (秦野・宝蓮寺)
⇒ 楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)
⇒ 馬頭観音
⇒ 執金剛神・仁王像
⇒ 日光菩薩・月光菩薩
⇒ 二十五菩薩
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 地蔵菩薩半跏像
⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
⇒ 兜跋毘沙門天
⇒ 大黒天 (仏像・天部) 仏像編 信仰編
⇒ 荼吉尼天
⇒ 摩利支天
⇒ 大天狗像
⇒ 千二百羅漢像 びんずるさま


1500ピース 安らぐこころ 般若心経 15-025 1500ピース 安らぐこころ 般若心経 15-025
(2006/06/16)
エポック社
この商品の詳細を見る


※おまけ:般若心経(はんにゃしんぎょう)
宗派によって呼び方は様々。
大乗仏教の空・般若思想を説いた経典の1つで、僅か三百字足らずの本文に大乗仏教の心髄が説かれている…そうなのです。

It's tehodoki! 般若心経入門 It's tehodoki! 般若心経入門
Nintendo DS (2007/08/09)
ASNetworks
この商品の詳細を見る


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】