のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。
若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」
通称「鬼義重」に相応しい活躍をし、父義昭の死で反乱した国人衆を討伐。
手這坂合戦では客将「太田資正」、猛将「真壁久幹(まかべ・ひさもと)」らの活躍によって、小田氏を圧倒したのです。
また、外交面では「上杉謙信」と連携して北条氏に対抗するなど、勢力拡大を狙うのでした。
最終的には下野から会津まで(常陸・南陸奥・東下野)を支配下とし、周辺大名を率いて北条・伊達と抗争を続けた稀代の猛将「佐竹義重」
通称である「鬼義重」というのは、鹿の角をつけた兜をかぶり、陣頭指揮をとって自軍を文字通り率いたところからつけられたのです。
彼は陣頭指揮なんですねー。
腕に相当の自信があったのでしょう。
順調に勢力を拡大させていた義重。
しかし、ここでついに宿敵・北条氏と激突することとなったのです。
元亀二年(1571) 岩井合戦
勢力を拡大させていた義重は関東の雄・北条氏と激突することとなりました。
挟撃を計る「北条氏政」は、会津「蘆名盛氏(あしな・もりうじ)」を誘って出陣しております。
こうして義重は北方・南方という、二方面での作戦を余儀なくされるのでした。
大ピンチですね。
各所にて小競り合いとなっていましたが、最も激戦だったのは岩井合戦。
今では温泉地としてお馴染み、鬼怒川を挟んで両軍は対峙。
「北条氏政」・「北条氏照」兄弟は、岩井に陣を置いていました。
義重は果敢にもその本陣へ夜襲を仕掛けるんですが…その動きは北条方に察知されていたのです。
さすが北条氏、伊達に関東でブイブイ言わせてるだけのことはあります。
こうして、あらかじめ密かに配置されていた伏兵によって、逆に不意をつかれてしまった佐竹勢は混乱。
次々と討ち取られ、なんと百あまりの首を取られるという惨敗だったようです。
佐竹勢を破った勢いをもって北条勢は鬼怒川を渡河し、佐竹方である「多賀谷政経」の下妻城へと押し寄せました。
しかし結果として下妻城は落城せず、安房は里見氏の動きが活発化したことにより、北条氏は義重と和議を結んで撤退するのでした。
助かった。
ちなみに、合戦に参加していた百姓は手柄の首を取ったらしく、北条氏から「岩井」の姓と感状を与えられているそうです。
続いて義重は下野まで軍神「上杉謙信」と共に出陣。
同盟相手である上杉勢、そして娘婿「宇都宮広綱」らと連合し、ここでも「北条氏政」と激突するのです。
北条勢との激闘がためか、関東の秩序を取り戻さんとする謙信と行動を共にしているためか、いつしか徹底した北条嫌いになっていたようです。
実際に嫡男である「佐竹義宣」は、「北条とは堪忍できない関係だった」と記しております。
天正三年(1575)
北方戦線では、白河「結城義親」の軍勢を破って天正六年(1578)にはその本拠である白河城を攻略しました。
こうして結城氏は義重の次男義広(※後に蘆名氏の養子となる彼)を養子に迎え、義親は後見人となって隠居。
事実上、佐竹氏に屈服するのです。
なお、内政・外交で活躍し、後に家老となる「和田昭為(わだ・あきため)」はこの合戦にてその勝利に大きく貢献しています。
若いころに讒言を受け、出奔していた昭為。
白河結城氏に身を寄せていたんですが、義重に内応して攻略をサポートし、帰参を許されています。
天正四年(1576)には、北条氏の支援を受けてまたまた登場の「小田氏治」を鬼真壁こと「真壁氏幹(まかべ・うじもと)」ほか、客将となっていた「太田資正」・「梶原政景」親子らの活躍によって撃退。
さらに陸奥では、蘆名氏の羽黒山城、白河結城氏に属していた赤館などを次々と攻略し、北条勢の脅威にさらされながらも領国の拡大に成功するのでした。
⇒ つづく。
次回は「伊達勢を圧倒する義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(6/9)
[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 尼子氏武闘集団「新宮党」
⇒ 奥州の覇者…その礎「伊達輝宗」 <前編> <後編>
⇒ 船上の二人[長尾政景・宇佐美定満](戦国サスペンス劇場) [前 中 後]
⇒ 地黄八幡の名将 「北条綱成」 <前編> <後編>
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [1 2 3]
⇒ 北条家の忠実なる影 「風魔小太郎」
⇒ 山内上杉氏の防波堤 「長野業正・業盛」 <前編> <後編>
⇒ 最強軍団を撃退した北信の雄 「村上義清」 <前編> <中編> <後編>
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
⇒ 強すぎる大将「武田勝頼」 [1 2 3 4]
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [1 2 3 4 5 6 7 8]
⇒ 蹴鞠の達人「今川氏真」 [1 2 3 4]
⇒ 越前の英雄「朝倉宗滴」 [1 2 3 4 5 6]
⇒ 伊賀流忍術の雄 「百地丹波」
⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
⇒ 三好一族の末路 (三好家の人々) [1 2 3 4 5 6 7 8 9]
⇒ 没落の名門家・山名氏 「山名祐豊・豊国」 [1 2 3 4 5 6 7 8]
⇒ 出来人の出来た弟 「香宗我部親泰」 [前編 後編]
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [前 中 後]
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 智勇兼備の勇将 雷神「立花道雪」 [前編 中編 後編 ]
⇒ 島津家筆頭家老・文武両道の名将 「伊集院忠棟」 [1 2 3 4]
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本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。
若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」
通称「鬼義重」に相応しい活躍をし、父義昭の死で反乱した国人衆を討伐。
手這坂合戦では客将「太田資正」、猛将「真壁久幹(まかべ・ひさもと)」らの活躍によって、小田氏を圧倒したのです。
また、外交面では「上杉謙信」と連携して北条氏に対抗するなど、勢力拡大を狙うのでした。
最終的には下野から会津まで(常陸・南陸奥・東下野)を支配下とし、周辺大名を率いて北条・伊達と抗争を続けた稀代の猛将「佐竹義重」
通称である「鬼義重」というのは、鹿の角をつけた兜をかぶり、陣頭指揮をとって自軍を文字通り率いたところからつけられたのです。
彼は陣頭指揮なんですねー。
腕に相当の自信があったのでしょう。
順調に勢力を拡大させていた義重。
しかし、ここでついに宿敵・北条氏と激突することとなったのです。
元亀二年(1571) 岩井合戦
勢力を拡大させていた義重は関東の雄・北条氏と激突することとなりました。
挟撃を計る「北条氏政」は、会津「蘆名盛氏(あしな・もりうじ)」を誘って出陣しております。
こうして義重は北方・南方という、二方面での作戦を余儀なくされるのでした。
大ピンチですね。
各所にて小競り合いとなっていましたが、最も激戦だったのは岩井合戦。
今では温泉地としてお馴染み、鬼怒川を挟んで両軍は対峙。
「北条氏政」・「北条氏照」兄弟は、岩井に陣を置いていました。
義重は果敢にもその本陣へ夜襲を仕掛けるんですが…その動きは北条方に察知されていたのです。
さすが北条氏、伊達に関東でブイブイ言わせてるだけのことはあります。
こうして、あらかじめ密かに配置されていた伏兵によって、逆に不意をつかれてしまった佐竹勢は混乱。
次々と討ち取られ、なんと百あまりの首を取られるという惨敗だったようです。
佐竹勢を破った勢いをもって北条勢は鬼怒川を渡河し、佐竹方である「多賀谷政経」の下妻城へと押し寄せました。
しかし結果として下妻城は落城せず、安房は里見氏の動きが活発化したことにより、北条氏は義重と和議を結んで撤退するのでした。
助かった。
ちなみに、合戦に参加していた百姓は手柄の首を取ったらしく、北条氏から「岩井」の姓と感状を与えられているそうです。
続いて義重は下野まで軍神「上杉謙信」と共に出陣。
同盟相手である上杉勢、そして娘婿「宇都宮広綱」らと連合し、ここでも「北条氏政」と激突するのです。
北条勢との激闘がためか、関東の秩序を取り戻さんとする謙信と行動を共にしているためか、いつしか徹底した北条嫌いになっていたようです。
実際に嫡男である「佐竹義宣」は、「北条とは堪忍できない関係だった」と記しております。
天正三年(1575)
北方戦線では、白河「結城義親」の軍勢を破って天正六年(1578)にはその本拠である白河城を攻略しました。
こうして結城氏は義重の次男義広(※後に蘆名氏の養子となる彼)を養子に迎え、義親は後見人となって隠居。
事実上、佐竹氏に屈服するのです。
なお、内政・外交で活躍し、後に家老となる「和田昭為(わだ・あきため)」はこの合戦にてその勝利に大きく貢献しています。
若いころに讒言を受け、出奔していた昭為。
白河結城氏に身を寄せていたんですが、義重に内応して攻略をサポートし、帰参を許されています。
天正四年(1576)には、北条氏の支援を受けてまたまた登場の「小田氏治」を鬼真壁こと「真壁氏幹(まかべ・うじもと)」ほか、客将となっていた「太田資正」・「梶原政景」親子らの活躍によって撃退。
さらに陸奥では、蘆名氏の羽黒山城、白河結城氏に属していた赤館などを次々と攻略し、北条勢の脅威にさらされながらも領国の拡大に成功するのでした。
⇒ つづく。
次回は「伊達勢を圧倒する義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(6/9)
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⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
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もっと下流の茨城県内の鬼怒川河畔ですよ~。
当時の鬼怒川は常陸国と下総国の境界でした。
岩井(現在の坂東市)と下妻市常総市の間辺りとなりますかね?