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姫若子の出陣「長浜合戦」~2:父・国親と誕生した姫若子

2008年03月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこれまで当ブログでは一度もまともに触れなかった、戦国時代での四国のお話なのです。
戦国ファンにはお馴染み、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の初陣「長浜合戦」なのでした。

ちょいと視点を広げて、戦国時代の四国。
讃岐(香川県)・阿波(徳島県)では中央で権威を振るった管領家、細川氏がそれら国の守護を兼任。
幕府をも支配していた「細川晴元」が健在の頃は細川氏、後にその被官であった「三好長慶」が台頭してくると、今度は三好氏がその勢力を引き継いでおりました。
瀬戸内海と九州に近い伊予(愛媛県)では、守護家・河野氏の「河野通宣」ほか、岩瀬城の西園寺氏、大洲城の宇都宮氏、また来島・村上などの瀬戸内海・水軍勢力などなどがそれぞれ覇を競っておりました。

…そして元親の土佐。
前回の続きで、”土佐七族の雄”へと成長していた元親の祖父「長宗我部兼序(ちょうそかべ・かねつぐ)」でしたが、尊大な態度による反発、細川氏の後盾を失ったことで、「本山茂宗」、「山田基道」、「吉良駿河守」、「大平元国」など有力国人集の支持を失って次第に孤立。
本山氏を代表とした連合勢力に攻められ、ここで自害・滅亡していたのでした。

さて、今回主人公である元親の父「長宗我部国親(ちょうそかべ・くにちか)」は二十代目の当主。
その父、先ほどの「兼序」ですが、本山氏を中心とした連合軍に破れて敗死する前にしっかりと国親を脱出させ、土佐中村の「一条氏」へ保護を頼んでいたのです。

さて、そこでクローズアップされる一条氏。
関白であった「一条教房」は京都市街での戦乱「応仁の乱」を嫌って土佐の家領へ下向。
そこで「中村御所」と呼ばれる壮麗な本拠地を築き、京都さながらの街を整備しておりました。
圧倒的な毛並みの良さ、貿易などで得ていた巨財もあって、いつしか周辺国人らを束ねるような、独特な立場になっていたのです。

父の敗死で断絶となっておりましたが、そんな一条家の庇護下でどうにか一命をとりとめた国親はすくすくと成長。
成人した国親が本拠である岡豊城(おこうじょう)へ念願の復帰を果たすと、しだいに旧家臣らも戻ってきたようです。
その後、お家再興を目指す国親は一条氏の支援を受け、各地へ転戦して勢力拡大につとめていくのです。

一条家としては、各国人勢力を競わせてその均衡を計り、自身はその争いを第三者的に傍観して調整し、うまく彼らの頂点に君臨し続けようとしていたのだと思います。
最終的にその矛先は自身へと向けられることとなるのですが……。

天文八年(1539)
そんな国親の嫡男として、「長宗我部元親」は誕生しました。
生まれつき病弱で、白く細く。
口数少なく、また性格も大人しく、引っ込み思案な質であったとされております。
そんな、挨拶すら満足にできなかったという若君についたあだ名こそが「姫若子(ひめわかご)」でした…。

⇒つづく
 次回は「ついに初陣、姫若子」(3/4)

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長宗我部元親―信長・秀吉に挑んだ南海の雄
荒川 法勝
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※そんな訳で、小説も出ている元親さまなのです。
 でも、信長には挑んでいないと思いますが…ああ、外交上ではある意味そうなのかな。



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