お寺さんぽ Ver.03

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九州・覇者決定戦 「耳川合戦」1

2006年09月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州覇者決定戦とも言うべき島津・大友の激戦「耳川合戦」をお送りいたします。

なぜ、今こんなネタをやるのか。
…その答えは単純。ひでるさんが別に「大友宗麟(そうりん)」のブログを書いているからです。
なにしろこの「耳川合戦」を含むと、それこそ一週間以上ずっと、宗麟、そうりん、ソウリン、SOURIN、sourin……となってしまうので。
分けたんですね。
宗麟嫌いな人はブログ来なくなってしまうかもしれませんが、まぁいいでしょう。
そんな訳でどうぞ↓

豊後を拠点とする「大友宗麟」はキリシタン大名としてよく知られています。
群雄割拠の九州にあって巧みに勢力を拡大させた大友家。
その絶頂期には、なんと九州にある九ヶ国中、六ヶ国までを支配していたのです。
また、博多港を窓口として各国との貿易を行っており、軍事・経済ともに強大な実力を有していました。
そんな大友家ですが、各国と貿易をした結果キリスト教と深い縁ができてしまうのです。
これは、結果として宗麟にとって大きな弊害になります。
ちょうど、耳川合戦へ出陣した年には自ら正式に洗礼を受けるという、実に熱心な信者でありました。
ここが、それを利用しただけの「織田信長」・「豊臣秀吉」らと大きく違う点なのです。

一方、薩摩の「島津義久」は鎌倉時代から続く名門家です。
祖父・父の代にて分裂していた一族の統一を果たすと、続いて大隈国、日向国へと侵攻していくのでした。
当主となった嫡男「島津義久」を中心とした島津四兄弟(武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久)は大将として皆優秀でしかも仲は良く、各地の戦ではそれぞれの才を発揮して活躍していたのです。
…特にこの「島津義久」という大将。
普段はそれぞれ才を持った弟たちを駆使し、表に出ない地味な人なんですが、いざお家の危機となった際にはすうっと表に出て事を収めて去っていくという、実に不思議な人なのでした。


元亀三年(1570)
大隈半島を領有した「島津義久」は続いて日向の伊東氏と争うようになりました。
侵攻してきた三千といわれる伊東勢を寡兵ながら総大将もろとも討ち破った島津は、逆に日向へ影響力を拡大させることとなるのです。

追われた伊東家は以前より親交のあった北九州の覇者「大友宗麟」へと身を寄せます。
南九州に勢力をじわじわと蓄えつつある島津家は見逃せない相手であり、九州全土の支配を目論んでいた宗麟は要請を受け、ついに日向へと侵攻を開始するのです。
一説によると、日向に大キリシタン王国を築く目的であったとも言われています。
これが天正六年(1578)のことでした。
ちなみに、同年に越後では軍神「上杉謙信」が死去。
近畿より勢力を拡大させていた「織田信長」を止められる者はこうしてほぼいなくなったのです。
(※ちなみにその四年後、天正十年(1582)が本能寺の変です。全国的に激動の時代だったのですよ)

⇒ つづく。

※ちなみに今回写真は宣教師イメージです。

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島津義久 九州全土を席巻した智将

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※どうですか、「九州全土を席巻した智将」ですよ。
 たぶんスゴイ人ですよー。


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