お寺さんぽ Ver.03

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帝釈天 (仏像・天部)

2009年11月29日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「帝釈天」です。

名前はちらほら耳にするかもしれない「帝釈天」さま。
しかし、仏像で見かけること少ないというレア像であり、姿形も…失礼ながらあまりパッとしない(笑)ため、ほとんど印象にないんですねー。
実際に見たいのであれば、下記の確実にあるお寺とか、仏像展とかを狙って行くほうがオススメです。


さて、最高神「ブラフマー」という「梵天」と対になって表現されることの多い「帝釈天」さま。
もともとヴェーダ神話では天界の最高神。

神々の軍勢を率いて「阿修羅」と戦い、仏教に帰依させたという軍神なのでした。
黄金の戦車、あるいは像に騎乗して毒竜「ヴリトラ」と戦い、強力な「阿修羅」勢を退けたほか、下界に雨を降らせて大地を潤した神として描かれています。
正式名称は「シャクロー・デーバーナム・インドラ」、これを「釈迦提婆因陀羅(しゃかだいばいんだら)」と音訳。

こんなんが、なにゆえ「帝釈天」となったかと言うと…
帝釈、とは”水蒸気を含んだ青空”を意味とする「インドラ」
これを音写して「因陀羅(いんだら)」
その「因陀羅」を漢訳すると、「天主」、「帝」
さらに、有力・勇気を意味する梵語「シャカラ(シャクロー)」のまたまた音写が「釈迦羅(しゃから)」ということで、
「帝釈天」という訳。
経典には「天帝釈(てんたいしゃく)」、「釈提桓因(しゃくだいかんいん)」とも言われているそうですが…「天帝釈」って逆さにしただけじゃない。

インド神話のインドラ神が仏教に入ってきたことから三十三天尊(さんじゅうさんてんそん)と呼称され、三十三天の主となりました。
須弥山の山頂にある「忉利天善見城(とうりてんぜんけんじょう)」に住み、その支配者として君臨。
下には四天王が住む四天王天があり、彼らを使役しているんだって。
釈迦が悟りに至る前の修業時代からその擁護にあたった守護神とされており、単独よりも「梵天」と共に脇侍となっていることがほとんど。

日本には飛鳥時代頃に伝来。
インドにて密教化される以前・以後のどちらも入っており、前者は二臂の立像で菩薩っぽい雰囲気。
崖から身を投じた修行者が「帝釈天」となった姿なんだって。
(※本来は甲冑の上に法衣をまとうのが一般的)
宝冠をかぶっていることもあります。
密教化されたものは一面三目。
鎧をつけて右手に独鈷杯(とっこしょ)を持つ左手は拳状であるようです。

東大寺法華堂の像は天平時代で最古のもの。
当然国宝です。
こちらではゆったりとした服をまとっています

東寺講堂の像は平安時代の国宝で一木造り。
ここは単純に色々な像を見れるのでオススメ。
像に騎乗して右手は独鈷、左手は拳で半跏座となってます。

ほかには興福寺、唐招提寺、秋篠寺…って、奈良ばっかじゃない。
どうりであまり見かけない筈です。
(※ひでるさんの行動範囲は京都市内だった)

真言「おん、いんだらや、そわか」は戦闘神らしく、戦勝をもたらします。
日蓮宗では除災、厄除けなんだとか。

なお…「帝釈天」は酒色におぼれて生活が乱れたことがあるそうで、呪詛によって全身に千個もの女性器をつけられ、後に開眼してそれを目に転じさせたというトンデモなエピソードがあります。
「百目タイタン」よりも上なのですよ。
気色悪いですね。


[関連記事] 【天部、その他】
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
⇒ 木彫の技法について (お父さんのための仏像講座)
⇒ 梵天 (仏像・天部)
⇒ 毘沙門天 (仏像・天部) 前編 後編
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⇒ 五百羅漢 (仏像・仏弟子)
 石仏・五百羅漢像 千二百羅漢像 びんずるさま


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※神様も生活を乱すんですね(笑)
 しかしエグい罰だなぁ。

吉水神社 (奈良)

2009年11月26日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、奈良県は吉野山です。
元々「吉水院」と言っていたらしい、現在は「吉水神社(よしみず・じんじゃ)」なのです。
ここ世界遺産の一部となっているんですね。


古来より桜が多いという吉野山。
地元の方曰く、
春だけで一年分稼ぐ
…とかなんとか、やっぱり見どころ時期は春なのです。

しかし、以前も書いたように、ひでるさんが行ったのは十二月のこと。
この日は風が刺さるように冷たく、コンディションとしては最悪(笑)
こちらでは名宝特別公開があったので、早々と建物に入ったんですが…なんと中もぜんぜん寒いんですねー。
畳もまるで氷のような冷たさなのでした。
いや、これが本当に…。


さて、「天武天皇」の白鳳時代(650~654)
あの「役行者」によって創建された…と、伝えられているんだって。
要するにはっきりはしていないものの、ともかく相当古い場所みたい。
以前に紹介しました、「金峯山寺(きんぷせんじ)」の格式の高い僧坊「吉水院」であったものが、明治八年に寺号を改めて「吉水神社」となったのです。
ここは明治政府による「神仏分離令」によって神社になったところなんですねー。

その主祭神は、南朝代表の「後醍醐天皇」
延元元年(1336)
新政が否定され、「湊川合戦」にて「足利尊氏」率いる軍勢に敗れた政権側。

京の花山院(かざんいん)に幽閉された「後醍醐天皇」でしたが、ここを密かに脱出し、「吉水院宗信」の援護のもとここまで逃れてきたのでした。
朝廷を開いたことで、いわゆる南北朝時代となったのです。

その際に、こちら「吉水神社」を行宮(※)としていたんですね。
当時も…やっぱり寒かったんだろうなぁ。
ほかにも、忠臣「楠木正成」や脱出時に協力した「吉水院宗信法印」を祀っています。
南朝ファン(いないかな)には、欠かせないスポットです。

それよりちょっと前の文治元年(1185)
兄「源頼朝」の迫害から逃れた「源義経」が、「静御前」、「弁慶」らと共にここで身を隠しました。
そうした関係から、建物には「義経潜居の間」、「弁慶思案の間」などがあります。
蟄居の間はいいとしても…弁慶思案~は本当かいな。

文禄三年(1594)になると、太閤「豊臣秀吉」がここを本陣として大花見を催していたりします。
歴史の各ポイントに登場するだけあって、百二十と言われるほど多くの宝物を有する”重文の宝庫”というべき神社なのですよ。
現存する書院は日本の書院建築でもトップクラスというモノで、初期書院造の傑作なのだとか…。


※行宮(あんぐう) ※goo辞書より。
 天皇が外出したときの仮の御所。
 かりみや。行在所(あんざいしよ)。こうきゅう。


[住所]
 吉水神社 奈良県吉野郡吉野町吉野山


[関連記事]
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
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⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 金峯山寺
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南北朝と室町政権 (ビジュアル版 日本の歴史を見る)
小和田 哲男
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※こんなんがいいかなぁ…南北朝・室町勉強中なひでるさんです。
 今度はスタンダードに「楠木正成」をやる予定。

缶コーヒーとなった十名の武将 (ジョージア・戦国武将シリーズ)

2009年11月22日 | ネタ
毎度どうも。
こないだからコンビニなどで見かけていた、缶コーヒーの戦国武将シリーズ。
あーして並んでいると、やっぱりいくつか買ってみたくなるものですよねー。

そんな訳で、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘…というか、今回は別に両断記事ではないんですが)
本日は『 缶コーヒーとなった十名の武将 (ジョージア・戦国武将シリーズ) 』です。

さて、こちらの缶コーヒーシリーズには、当然ながら企業側の思惑があったのです。
今回はそんなんを交えつつ、好き勝手に書いてみたいと思います。

缶コーヒー職人―その技と心
高橋 賢藏
潮出版社

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■男の飲み物から脱却図り「歴女」に託す缶コーヒーの拡販
[週刊ダイヤモンド 鈴木豪] 2009年11月12日
 
日本コカ・コーラが11月に限定発売した「ジョージア 戦国時代の武将シリーズ」
 「歴女」は缶コーヒー文化を変えられるか。
 「歴女」とは、戦国武将物語など、いわゆる「歴史モノ」を愛好する女性たちの総称。意外にも若い女性を中心に歴史モノがブームとなっており、歴女には一定の市場があり現在も拡大中だ。家紋や旗印グッズ、城跡巡りツアーなど歴女をターゲットにした商品が続々と企画され息の長いブームとなりそうである。

 ここに参戦したのが缶コーヒー首位の日本コカ・コーラのジョージア。11月3日から全国のコンビニエンスストアで、織田信長や直江兼続など、10人の戦国武将を絵柄に使用したジョージアの限定発売を開始した。

 目新しい商品を次々に発売して、コンビニの棚を確保する目的もさることながら、今回の戦国武将シリーズに期待するのは女性ユーザーの獲得だ。
 街中ではスターバックスを代表にコーヒー店には女性が押し寄せ、コンビニエンスストアではチルドタイプ(プラスチックケースに入ったストローを使用するもの)のコーヒー飲料は女性に大人気。
 しかし、日本発のコーヒー文化である缶コーヒーには、女性はなかなか手を出さない。実際、缶コーヒーのユーザーの8割は男性で、栄養ドリンク並みに「男の飲み物」というイメージが定着してしまっているのだ。

 女性が缶コーヒーを嫌う理由を探ると、「缶に直接口をつけるのが嫌い」「開ける際に爪を傷つけそう」といった理由が挙げられるが、これらは他の缶飲料でも同じで、缶コーヒーだけを嫌う理由にはなっていない。結局はイメージなのだろう。
 ここまで来ると女性ユーザーを獲得しようと方向転換は難しい。女性ユーザーに受けようと、女性受けする絵柄たとえばハローキティなどを使用すれば、今度はコアユーザーである男性陣が手にしづらい。缶コーヒーのテレビCMでは、女性が頑張る男性をねぎらって缶コーヒーを差し出すのが定番だが、ワンパターンから脱却できない背景には、こうしたジレンマがある。
 だが、従来のコアユーザーである男性陣を確保しつつ、女性にも人気のキャラクターとしてピッタリだったのが、戦国武将なのだ。

 発売して間もないが、「出足は好調」(日本コカ・コーラ)という。ただ、心配なのは10人の武将の人気の差。キャラクター系キャンペーンを実施する際には付き物の悩みだが、中身は同じでも武将の絵柄によって売れ行きに差が見え始めているという。ご当地の武将の缶だけ売れ行きが偏るといった懸念もあるが、
「出荷調整などはせず、均等に作っている」という。
 缶コーヒー市場は長らく横ばいが続いたが、2008年度は無糖のブラックコーヒーと無糖のカフェオレの登場で3%も成長した。成熟商品と思われていた缶コーヒーは味の工夫によって成長軌道に乗った。
 今度はパッケージの工夫でもう一段の成長があるのかが試されている。
---------------------------------- 。。。



男は、なぜ缶コーヒーが好きなのか?―“違いのわかる女”の男と接する正しい方法 (リュウ・ブックス アステ新書)
姫野 友美
経済界

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ターゲットは女性なんですねー。
それでいて、男性が買うのも抵抗ないと。
なるほどなぁ。
誰とはわざわざ言いませんが…実際、ここに必要以上な数を買っている人がおりますね(笑)
だって、やっぱりずらーっと並べてみたくなるじゃーん。

日本コカコーラのHPによると…
人気歴史雑誌『歴史街道』監修による、戦国時代を彩った10人の武将たちが製品パッケージにダイナミックにデザインされた全10種のシリーズ。
イラストは人気ゲームソフトのキャラクターデザインも手がけるイラストレーター「諏訪原寛幸」氏が担当。
…だって。
なかなかいい感じです。
ここで気になるのは、やっぱり「誰が十の枠に選ばれたのか?」ですよね。
そのラインアップは、以下のようになっていました

【戦国時代の武将シリーズ 全10種】
1・織田信長
2・豊臣秀吉
3・徳川家康
 …うん。まぁ、この天下統一系な三名はどこにも出てくるでしょうねー。
  皆さんバストアップなイラストなんですが、秀吉くんだけ兜の関係で顔だけというのが物哀しいです。
  また、信長くんの背景はやっぱり「赤」が似合います。さすが時代の革命児。
 
4・武田信玄
5・上杉謙信
 …そして”戦国最強”と言われる、大名家の有名どころ。
  なにしろ、この2人は当時から名が知れ渡っていたそうですから。

6・伊達政宗
7・直江兼続
8・真田幸村
9・前田慶次郎
 …大河、ゲーム、漫画…などで活躍する方々です。
 兼続くんは大出世ですねー。あの世で喜んでいる…のかな。
 おそらく、このあたりのメンバーが一番人気となるんでしょう。

0・黒田官兵衛
 …あれ?
 なにゆえこんなところに黒田くん??
 毛利とか、島津、北条でなく??
 まぁ、彼もドラマチック人生なので小説は多く出ていますが。
 一般認知度では、相当低いのではないのかなぁ。
 女性人気も微妙だと思います。

こんな感じ。
どうして十名が選ばれたのか知りませんが、こんなんはちょっと楽しいですね!
ひでるさんも考えてみました。

【ひでるさんの考える戦国時代の武将シリーズ 全10種】

1・北条早雲
 …戦国時代の扉を開いた彼。
 北条ファンクラブとしては、関東の覇者が不在なのはどうにも納得できません。
2・松永久秀
 …時代の裏英雄ですね。
 なんちゃら無双でプレイヤーキャラになってほしいです。必殺技が自爆とか(笑)
3・島津義久
 …関ヶ原での中央突破など、弟さんらのが目立ってますが。
 実は、この人が最もスゴイと思います。
4・立花道雪
 …雷獣と戦ったという、オモシロ・スゴイ方。
 戦国時代の九州地方も非常に面白いですよ。。 
5・蒲生氏郷
 …信長に認められた才人ですね。
 あの付近は伊達、というイメージを変えれるのはこの方でしょう。
6・小早川隆景
 …知恵者ですが、暗さ・陰険さのないイメージの方です。
 官兵衛とのやり取りは、2人の性格をよくあらわしていると思います。
7・朝倉宗滴
 …信長を評価した、確かな目をもつ老人です。
 なんと言われてもやっぱり勝つことが大事。
8・宇喜多直家
 …あえて毛利ではなく、この方をば(笑)
 もっと評価されてもいいと思うんですが…地味なんですよねー。
9・長宗我部信親
 …四国枠では、やっぱりこの方でしょう。おとーちゃんでなく(笑)
 非常に優秀で人望もあったようです。 
0・掘秀政
 …どんな敗戦からもほぼ無傷で帰還するという名人です。
 徳川をギャフンと言わしたので、好きな武将の一人なのでした。

結構つかれました。
うーん、数をこう区切られると、ぐるぐる頭使うものですね。
ちなみに順番は特に意味なく、思い付き順です。
全国展開(なにが?)を考慮して、地域をある程度ちらばせて考えました。
なお、ひでるさん好きな武将は「石田三成」ですが、下手すると通常の十名に加わりそうなので、あえて外してます。
果たして、この中で第二弾(あるのかな)に名を連ねる方はいるんでしょうか?


[関連記事] 【歴史・その他】
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戦国武将事典 乱世を生きた830人 (Truth In History13)
吉田 龍司,相川 司,川口 素生,清水 昇
新紀元社

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※こちらの本は細かい武将まで書かれていて、けっこう便利です。
 突っ込んで調べたい人にはオススメ。


三成と仲良し義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)9

2009年11月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしてきましたが、これが最後となりました。


”鬼義重”と恐れられた「佐竹義重」の嫡男、十九代当主の「佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)」
(※ちなみに彼の母は「伊達晴宗」の娘なので、政宗とは従兄弟という関係)
義宣が後継者となった際には北の「伊達政宗」、南の「北条氏直」という両軍勢の挟撃を受ける危機的状況でしたが、関白「豊臣秀吉」に頼った佐竹氏は無事に領国を維持。
小田原征伐にも加わり、常陸・下野という約二十一万七千石を安堵されました。
さらに国人衆三十三家を謀殺し、まんまと常陸国の支配を強化を成功したのです。


文禄元年(1592)には第一次朝鮮出兵に従軍。
名護屋に参陣した義宣は、その翌年には朝鮮へと渡海しております。
文禄四年(1595)
ここで与力大名として蘆名氏、岩城氏らをつけられた佐竹氏は結果五十五万石を有する、立派な大大名となりました。

豊臣政権下で順調だった佐竹氏。
その律儀な性格からか、佐竹氏の取次役であった奉行「石田三成(※写真)」との仲は大変良かったようなのです。

慶長二年(1597)に起こった下野「宇都宮国綱」の改易事件でも、佐竹家は改易を免れているんですが…
三成の取り成しで自家は安泰
義宣は京都の父義重に、そう書き送っています。

いわゆる武断派らに三成が襲撃された慶長四年(1599)
こちらの際には、わざわざ伏見から大坂に駆けつけ、彼の窮地を救っています。
今彼(三成)が危うきを見るに忍びず、身命を棄てて之を救ひたるのみ
伏見まで護衛して送った行為は旧恩に感じるとして、「律儀者」との評判を受けています。
なお、後にこのことを尋ねられた義宣は…
これまで公命に背いたことのない治部少輔を諸将が討たんとするのは私怨ゆえ、かつて恩をうけた彼を救援した
と答えたそうです。
カッコいいなぁ。

慶長五年(1600) 上杉征伐
秀吉死後に勃発した上杉征伐では、義宣は陸奥棚倉まで出陣しております。
おそらくは専横を強める「徳川家康」に彼も不満を持っており、家康の呼びかけには参加せず、逆に父の代から同盟関係にあった「上杉景勝」に味方したのです。
ここで義宣は関東への侵攻を企てています。
(※なお、上杉征伐の報を受けた父・義重は上洛して家康と会い、出馬見合わせを懇願したらしい)

しかし、この動きは徳川派だった父義重によって、実現しませんでした。
外交や家政を補佐した一族の実力者、東家「佐竹義久」は徳川方への参陣を義重に進言。
結局義宣はこれに逆らえず、やむなく義久を家康の陣へ送っています。

慶長六年(1601)
続く関ヶ原合戦では、ほぼ動かないまま合戦が終結。
義宣個人としては三成に味方したかったようですが、父義重、そして家臣団は東軍を選んで猛反発したようなのです
こうして板ばさみとなってしまった義宣は、思うような行動が取れなかったのでした。
これが残念ですねー。
彼が動いていれば、情勢は大きく変わっていたかもしれないのに…。
(…あ、伊達がいるか)

戦後、義重は義久と共に上洛。
家康に釈明したものの大幅の厳封処分は免れず、秋田藩二十万石へ移封。

慶長十七年(1612)
父義重は死去。
享年六十六。

慶長十九年(1614)
大阪冬の陣にも参加した義宣は寛永十年(1633)に江戸藩邸にて死去。
こちらは享年六十四。

遺言では、殉死を禁じた義宣。
子はおらず、跡目は弟「岩城貞隆」の子「義隆」が二代藩主となるのでした。


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※森繁さんが家康役です。
 佐竹氏は…そんな訳でこちらにも出番ありません。るるる。

秀吉の威を借る義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)8

2009年11月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。

若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」
父の代より勢力を拡大させた義重ですが、北方の伊達氏・南方の北条氏には手を焼き、摺上原合戦の敗北によって東北地方への影響力を失うと、国人衆らが反乱。
この危機を関白「豊臣秀吉」の支援と決死の防衛によって領国維持を成功させたのでした。

さて、時代はちょっと戻って元亀元年(1570)
太田城で誕生した、幼名「徳寿丸」こと義重の嫡男「佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)」
天正十年(1582)に十七歳で元服し、同時に鹿沼・壬生氏(みぶし)攻めにて初陣。

天正十七年(1589)
家督は義宣に譲り、十九代当主となりました。
義重は隠居していますが、多くの例と同じく実権は持ち続けていたようです。
なお、この際に北・南・東という佐竹一門での政治体制を改め、当主の権限を強化する体制としたのでした。

前回書いているように伊達勢に敗れ、また伊達・北条が同盟を結んだことで挟撃されることとなっていた佐竹勢。
後継者となった途端に絶体絶命です。
ここで父・義重は、「織田信長」の死後より着々と天下人への道を進んでいた「豊臣秀吉」に目をつけます。
プライドを棄て、当時関白となっていた秀吉に頭を下げるという、離れ業を演じるのでした

隠居の父に代わり、関白「豊臣秀吉」に謁見することとした義宣。
北条氏の征伐の知らせを「石田三成」より受け、在陣中の会津を出て下野は「宇都宮国綱」と合流。
小田原に至り、関白「豊臣秀吉」にいち早く謁見したのです。
この戦術は功を奏し、常陸・下野という約二十一万七千石を安堵されました。

天正十八年(1590) 小田原征伐
関東の情勢に疎い秀吉軍の道案内を務めた佐竹勢は武蔵方面へ出陣し、支城の攻略に参加。
さらに奥州征伐にも加わって信頼を勝ち取り、佐竹氏は徳川、毛利、上杉、前田、島津らと並んで、”天下六人の大名”、あるいは”豊臣政権の六大将”などと呼ばれるに至るのでした

こうして、豊臣政権下にて公認領主となった佐竹氏。
当時佐竹氏に属していた江戸氏は一門衆と同等の扱いをされていましたが、水戸城の「江戸重通」は小田原へ参陣せず、わずかな家臣を同行させただけでした。
居城を太田城から水戸城へと移すべくその明け渡しを要求した義宣でしたが、重通はこれを拒否。
関白秀吉の権威を背景とする佐竹勢は”領内統治”の名目で出撃しました。

有力な国人衆であった江戸勢は百あまりの軍勢で迎撃したもののこれに敗れ、下総へと逃れています。
こうして義宣は水戸城を攻略。
続いて、大掾氏「大掾清幹」ほか鹿島・行方郡など国人衆三十三家を饗応の名目で呼び寄せ、これらを謀殺しております
一網打尽という戦国武将らしいエピソードですね。
こうして、疑わしい国人衆を掃討した義宣は常陸国を自身が望む支配体制としたのでした。

⇒ つづく。
  次回は「三成と仲良し義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)」(9/9)

[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
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⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
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⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
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⇒ 本願寺・大谷派  大通寺 (滋賀)
⇒ 坂本城址 (滋賀)
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」


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名将 佐竹義宣
南原 幹雄
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※できれば、ぜひ三成と共に戦ってほしかったです。
また全然歴史が変わったのではないかなぁ。

北方を諦める義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)7

2009年11月12日 | 歴史
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本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。

若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)」
通称「鬼義重」に相応しい活躍を見せ、反乱した国人衆の討伐ほか白河結城氏、小田氏らを圧倒して勢力拡大。
また、早くから「豊臣秀吉」と誼を通じ、積極的に縁組政策を取るなど外交面でも非凡な才を発揮しています。
しかし、北方・南方という二方面での作戦は芳しい成果なく、北条勢には岩井合戦・沼尻合戦で分が悪く、人取橋合戦で伊達勢に勝利したものの戦略的な利はありませんでした。
なかなかうまくいきませんね。


天正十五年(1587)
次男の義広を蘆名氏の養嗣子として入れ、ここで後に重要な役回りとなる「蘆名義広」が誕生。

天正十六年(1588) 窪田合戦(安積表合戦)
義重は息子義広の率いる蘆名勢と共に、安積郡へと侵攻。
当時、大崎・最上氏らと争っていた「伊達政宗(※写真)」は軍を動かせる状況ではなかったのです。

白河氏、二階堂氏らも佐竹氏に呼応し、総勢四千という軍勢であった連合軍に対し、大崎勢との「中新田合戦」に大敗していた政宗は、動員可能であった六百というわずかな軍勢で立ち向かいます。

山王館に陣を置いた政宗。
高所にて徹底した守りの陣を取った伊達勢は兵数差に押されながらも奮戦し、致命的な損害を受けなかったのです
それ以降は、ほぼ対峙するだけで無為に時を過ごす持久戦となっていた頃、蘆名領内にて「猪苗代盛国」「猪苗代盛胤」親子が家督相続の争いを起こしたため、「岩城常隆」・「石川昭光」らによって和議が結ばれました。
こちらでも不利ながら伊達勢が善戦したため、好機を逃してしまったのです。

天正十七年(1589)摺上原合戦
そして運命の一戦。
先の猪苗代家の内乱は政宗にとって有利に働き、「猪苗代盛国」は寝返ってその手引きで伊達勢が侵攻。
父・盛国は蘆名軍の先鋒となった息子・盛胤と戦うこととなります。

ここで戦力的にやや不利であった蘆名勢は良く戦ったものの、他家からの”にわか当主”であった義広は完全に家臣団を掌握できず大敗
どうやら、傍観していた者も多かったようなんですねー。

こうして総崩れとなった「蘆名義広」は、実家・常陸へと撤退。
義重は伊達方の大平城を攻略するなど対抗したものの、敗戦によって陸奥国人衆が一斉に敵となったため、戦線を維持することができず撤退することとなりました。
東北地方への影響力は、こうして失われてしまうのです。

伊達氏は北条氏と連合。
白川氏、額田氏、小田氏らが続いて反旗を翻すなど、一転して猛攻にさらされてしまう義重。
しかし、決死の防衛と、早くから誼を通じていた関白「豊臣秀吉」の支援によって領国を維持し、危機を切り抜けるのでした。

⇒ つづく。
  次回は「秀吉の威を借る義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)」(8/9)

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⇒ 将軍 足利義輝 (京都・等持院)
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佐竹義重(よししげ) 伊達も北条も怖れた常陸の戦国大名 (PHP文庫)
近衛 龍春
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※イマイチ華々しく勝てない義重さま。
 たしかに怖れたでしょうけれど…関連本は多くありません。

伊達勢を圧倒する義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)6

2009年11月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。


若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)」
通称である「鬼義重」に相応しい活躍をし、父義昭の死で反乱した国人衆らを討伐して勢力拡大。
ついに激突した北条勢には岩井合戦で敗れたものの、白河結城氏を屈服させたほか岩城氏、石川氏などを傘下とし、陸奥南部を手中に収めるのでした。

合戦だけでなく、外交にも冴えを見せる義重
主に北方では縁組政策を取っており、三男貞隆は岩城氏、四男宣家には多賀谷氏を継がせているほか、白河結城氏を継いでいた義広は、後に蘆名氏の跡目に送られることとなるのでした。
ほか、遠く近畿にまで目を向け、信長の後継者という地位を固めつつあった「豊臣秀吉」とも懇意になっています。
流石ですね。
こうした彼の卓越した外交感覚が、後に大きな意味を持つこととなるのです。

天正十二年(1584) 沼尻合戦
下野に宇都宮勢と共に出陣した義重はまた北条勢と激突。
当時は「本能寺の変」後の混乱で、より勢力を拡大させていた北条勢がために終始劣勢。
不利な条件での和睦を結ぶこととなりました。

さらに北方戦線でも、蘆名氏の衰退によって伊達氏が勢力を拡大。
出羽米沢より南下政策を取る「伊達政宗」に、佐竹・蘆名連合で対立することとなっていくのです。

天正十三年(1585) 人取橋合戦(※写真)
この年、伊達家では降伏してきた二本松城主「畠山義継」が突如「伊達輝宗」を拉致する大事件が勃発していました。
駆け付けた「伊達政宗」の指揮による鉄砲隊の一斉射撃によって、父共々撃ち殺ししたようなのです。
どうにも怒りのおさまらない政宗は敵討ちのため、二本松城へと進出。
遺児「畠山国王丸」を擁立する畠山氏は固く城を守って籠城し、一時は伊達勢を撤退させるのでした。

こうして、活発な活動を続ける政宗を脅威に感じていた諸将は、義重の呼びかけに応じて連合軍を結成。
会津蘆名氏、岩城氏、白河氏らは政宗を見捨てて佐竹勢につき、二本松城救援のため、奥州に出陣した義重に合流したのです。

連合軍の兵力は三万という大軍であったのに対し、伊達勢が八千と圧倒的有利な戦況
南観音堂山に陣を置いた伊達勢は、その麓にある瀬戸川周辺にて激戦となりました。
兵数に勝る連合軍伊達勢を圧倒。
高倉城を守備していた五百の伊達勢も北上を止められず、城内へと撤退。
本陣にあった「伊達政宗」のもとにまで敵が迫るという有様なのでした。

ここで殿を務めたのが、七十三という高齢であった「鬼庭良直(左月)」です。
彼が討死した場所こそが人取橋なのです。
多数の死傷者が出たことによって、付近を人取橋と呼ぶようになったのだとか。

兵力で優位に立つ義重は合戦の主導権を握り、側面を突いた「伊達成実」、「片倉景綱」らの奮戦によって壊滅までは回避したものの、伊達勢にとってはまさにぎりぎりの状態。
伊達勢を叩きのめした連合軍でしたが、留守となっていた常陸にて江戸氏、安房里見氏らが不穏な動きを示したことで、中心たる佐竹勢は夜に紛れて撤退してしまうのです。

ほぼ伊達勢を追い詰めていながら政宗らを取り逃し、翌年に二本松城が陥落しているなど、局地的には勝利したものの結果的には利の薄い合戦だったようです。

ちなみにこの頃、遥か遠く近畿では「羽柴秀吉」が関白となっていました。

⇒ つづく。
  次回は「北方を諦める義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(7/9)

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※今回は佐竹氏視点で書いているので…政宗の強さが小憎らしいですねー。
 また、さすがに北条氏も関東の覇者。侮れません。

宿敵・北条氏と義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)5

2009年11月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。

若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」
通称「鬼義重」に相応しい活躍をし、父義昭の死で反乱した国人衆を討伐。
手這坂合戦では客将「太田資正」、猛将「真壁久幹(まかべ・ひさもと)」らの活躍によって、小田氏を圧倒したのです。
また、外交面では「上杉謙信」と連携して北条氏に対抗するなど、勢力拡大を狙うのでした。


最終的には下野から会津まで(常陸・南陸奥・東下野)を支配下とし、周辺大名を率いて北条・伊達と抗争を続けた稀代の猛将「佐竹義重」
通称である「鬼義重」というのは、鹿の角をつけた兜をかぶり、陣頭指揮をとって自軍を文字通り率いたところからつけられたのです。
彼は陣頭指揮なんですねー。
腕に相当の自信があったのでしょう。

順調に勢力を拡大させていた義重。
しかし、ここでついに宿敵・北条氏と激突することとなったのです。

元亀二年(1571) 岩井合戦
勢力を拡大させていた義重は関東の雄・北条氏と激突することとなりました。
挟撃を計る「北条氏政」は、会津「蘆名盛氏(あしな・もりうじ)」を誘って出陣しております。
こうして義重は北方・南方という、二方面での作戦を余儀なくされるのでした。
大ピンチですね

各所にて小競り合いとなっていましたが、最も激戦だったのは岩井合戦。
今では温泉地としてお馴染み、鬼怒川を挟んで両軍は対峙。
「北条氏政」・「北条氏照」兄弟は、岩井に陣を置いていました。
義重は果敢にもその本陣へ夜襲を仕掛けるんですが…その動きは北条方に察知されていたのです。
さすが北条氏、伊達に関東でブイブイ言わせてるだけのことはあります。

こうして、あらかじめ密かに配置されていた伏兵によって、逆に不意をつかれてしまった佐竹勢は混乱。
次々と討ち取られ、なんと百あまりの首を取られるという惨敗だったようです。

佐竹勢を破った勢いをもって北条勢は鬼怒川を渡河し、佐竹方である「多賀谷政経」の下妻城へと押し寄せました。
しかし結果として下妻城は落城せず、安房は里見氏の動きが活発化したことにより、北条氏は義重と和議を結んで撤退するのでした。
助かった。

ちなみに、合戦に参加していた百姓は手柄の首を取ったらしく、北条氏から「岩井」の姓と感状を与えられているそうです。


続いて義重は下野まで軍神「上杉謙信」と共に出陣。
同盟相手である上杉勢、そして娘婿「宇都宮広綱」らと連合し、ここでも「北条氏政」と激突するのです。
北条勢との激闘がためか、関東の秩序を取り戻さんとする謙信と行動を共にしているためか、いつしか徹底した北条嫌いになっていたようです。

実際に嫡男である「佐竹義宣」は、「北条とは堪忍できない関係だった」と記しております。

天正三年(1575)
北方戦線では、白河「結城義親」の軍勢を破って天正六年(1578)にはその本拠である白河城を攻略しました。
こうして結城氏は義重の次男義広(※後に蘆名氏の養子となる彼)を養子に迎え、義親は後見人となって隠居。
事実上、佐竹氏に屈服するのです。

なお、内政・外交で活躍し、後に家老となる「和田昭為(わだ・あきため)」はこの合戦にてその勝利に大きく貢献しています。
若いころに讒言を受け、出奔していた昭為。
白河結城氏に身を寄せていたんですが、義重に内応して攻略をサポートし、帰参を許されています。

天正四年(1576)には、北条氏の支援を受けてまたまた登場の「小田氏治」を鬼真壁こと「真壁氏幹(まかべ・うじもと)」ほか、客将となっていた「太田資正」・「梶原政景」親子らの活躍によって撃退。
さらに陸奥では、蘆名氏の羽黒山城、白河結城氏に属していた赤館などを次々と攻略し、北条勢の脅威にさらされながらも領国の拡大に成功するのでした。

⇒ つづく。
  次回は「伊達勢を圧倒する義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(6/9)

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北条嫌いな義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)4

2009年11月01日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。

若くして十七代当主となった「佐竹義昭(さたけ・よしあき)」
一族である佐竹三家の補佐を受け、常陸統一を目指します。
周辺の江戸氏、岩城氏、小田氏などの合戦に勝利して版図を広げた義昭は、一方で大掾氏を懐柔して勢力下とし、常陸国最大の戦国大名となっていました。
陸奥へ侵攻して白川(白河)結城氏を下し、さらに下野では「宇都宮広綱」を支援して那須氏を圧倒。
順調に勢力を広げていた義昭でしたが、なんと三十五歳で夭逝してしまうのです。
こうして、やはり若くして十八代当主となったのが、通称「鬼義重」という猛将「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」なのでした。



天文十六年(1547)誕生した義重は、十五歳となった永禄五年(1562)には当主となりました。
父の代から争っていた小田氏を攻めてその領地を奪取し、白川(白河)結城氏にも大勝。
統一目前だった義昭の突然死で混乱した常陸国にあって、彼は実力をもって諸将を従えていくのです。

永禄十二年(1569)
桶狭間合戦より、衰退していた今川攻略を企てていた武田氏。
相模は北条氏への牽制を含め、どうやら佐竹氏と同盟を結ぼうとしていたようです。
(※武田氏は同じ清和源氏「源義光」を先祖とする家柄で、もともとは同族)
しかし、両者は「どちらが嫡流か?」を巡って揉めたらしく、結局同盟は結ばれなかったのでした。
これは父義昭にあった”関東管領職”の相続と同じく、血統・名跡の重さをうかがわせるエピソードでしょう。
ちなみに、その後「武田勝頼」の代でも同盟を求められましたが、こちらも実現せずに終わっています。
どうにも武田家とは相性が悪いのです。

そうした一方、同じ”北条嫌い”で意見が一致するのか、越後「上杉謙信」とは父の代と同じく蜜月な関係を続けています。
管領職である上杉氏の”関東味方衆”だった義重は謙信と共に下野へ出陣し、共に唐沢山城は「佐野昌綱」を攻めるなど協力。
しかし、度々関東へ出兵する上杉氏は実際のところ北条氏にうまくあしらわれて実利に乏しく、影響力も弱く、佐竹氏としては周辺大名を率いて、ほぼ単独にて北条氏に対抗することとなっていくのでした。

永禄十二年(1569) 手這坂合戦
常陸南部への進出を計っていた義重。
ここで父の代から対立している小田城「小田氏治」と再び相対することとなりました。
義昭が攻略していた同城ですが、二枚腰の氏治は再びそちらをしぶとく奪い返していたのです。

ここで義重は、客将「太田資正」の守る片野城、柿岡城を拠点として、じわじわと圧迫していきました。
それに耐えかねた小田勢は、ついに片野城へと出撃したのです。
作戦通りですね。
この動きを素早く察知した資正は、真壁城「真壁久幹(まかべ・ひさもと)」と連携。
手這坂(てばいざか)での迎撃を選びました。

柿岡城を与えられていた久幹とその子「真壁氏幹(まかべ・うじもと)」
その後の小川岱合戦、沼尻合戦など佐竹氏の主要な合戦に従軍して活躍した戦上手で、特に氏幹は一丈余りの木杖(3メートルくらい)を振り回して敵をなぎ倒したと伝えられています。
物凄いですねー。
こちらの手這坂合戦でもその武勇を遺憾なく発揮し、氏幹の弟義幹(よしもと)も敵将を討ち取るという活躍をみせています。

また、その隙をついて資正の子「梶原政景」はひそかに小田城へと進軍し…
屋形様御帰還!
そう偽って、まんまと本拠を攻略してしまうのでした。

…うわぁ。
これが真実ならば、小田勢はかなりのうっかりさんですね。

こうして、またまた敗れた「小田氏治」
小田城、さらに海老島城をも攻略されています。
勝利した義重はこの際に「太田資正」・「梶原政景」親子を小田城へ入れ、守らせるのでした。

なお、この小田城攻略にはこんな話もあります。
元亀三年(1572)の大晦日のこと。
城内で恒例の連歌会を行っていた小田氏。
そんな時、突如襲ってきた佐竹勢によって、成す術のないまま、瞬く間に攻略されたというのです。
どちらにしろうっかりさんです。
小田氏はこの後も北条氏の支援を受け、度々佐竹勢と対決していますが…ほぼ負け続けてしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「宿敵・北条氏と義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(5/9)

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