「落陽のパレルモ」
第二次世界大戦下のイギリス。名門カヴァーレの当主ヴィットリオは恋人を伴いジュディッタを伴い、生活の場のミラノから故郷シシリアに戻る。そこで彼は、自分と同じ名前の曾祖父と曾祖母の恋物語を恋人に聞かせる。
19世紀半ばのイタリア。統一戦争で功績を上げたヴィットリオは、名門貴族カヴァーレ公爵の長女アンリエッタと愛し合うようになる。身分違いに苦しむ二人。果たして、二人の運命は・・・。
ユダヤ人のジュディッタとは、ファシズム政権下のイタリアでは結婚することができない。恋人達はアメリカへと旅立つのだった。
もうねーーー
景子ちゃんの
乙女ドリーム
大爆裂
です。
見ていて、とっても辛かったです。
今日のヒビキのデキなんて問題外になるほどでしたよ。
なんちゅーかねー、自分の「萌え」だけじゃ話が成り立たないので、いろいろ芝居にするために体裁を整えてみました、っていうその部分がね、あまりにも適当なんだわな。キムシン的説教なんだけど、そこが本題じゃないので、ものすごく薄っぺらいのよ。特権階級の貴族を云々とか言うのがオサ・ヴィットリオの言い分で、そのために彼は戦って仲間も死なせたのに、自分が大貴族の御落胤と知ったら、なんの疑問もなくその立場に収まっちゃうのよ。いままでのあなたの戦いはなんだったんだよーーーっっ!と叫びたくなります。いっそ、「山猫」をそのままパクってくれた方が、よっぽど良かったよ。こんな話・・・・・・。ああ、情けなや。
で、その話を挿入しなければならなかったほどの景子ちゃんの「萌え」ポイントですが、おそらく、「白いドレスのクラウディア・カルディナーレ」と思われ。
せめて「萌え」がアラン・ドロンのタンクレディなら、あるいは、オサに各種取り取りの軍服~なら、「ヴィットリオ(という男を)描く」って話になったんでしょう。でも、まず、「白いドレスのクラウディア・カルディナーレ」ありきだから。それを宝塚の舞台に存在させるための話だから。それを中心に話を作っていったので、その女性にまとわりつく男性をうまく創造できなかった、そんな印象を持ちました。
それなのに、ああ、それなのに、、、。景子タンの乙女ドリームだけは炸裂していて・・・。オサの登場場面、マントが風にたなびいているよ。デスラー総統みたいだよ。そして、そして、夜這いシーン。雷が鳴っているよ。開けた窓、白いカーテンがたなびいて・・・。ああ、ついて行けない・・・・。
もしかして、「山猫」を知らなければ面白いのかなあ。でも、ポスターがすでに「山猫」だったからさ。で、オサ・ヴィットリオを平民のまま悩ませて悲恋にしておけばいいものを、やっぱりバート・ランカスターは出さなきゃダメでしょ、とばかりにドンブイユ公爵を出しちゃったから、余計にすっきりしないんだよねえ。
さらに問題点を言うのなら。児玉っちもその傾向があるけど、自分の中では完成品なんだろうけど、見る側に理解させようという配慮をもう少しして欲しい。芝居を見る方はね、脚本は読めないの。だから役名は耳で聞き分けるしかないのよ。貴族に勿体ぶった、お耽美な名前をつけたいのはよくわかるけどさ、だからと言って、「アレッサンドロ・ファブリッツィオ・ディ・カヴァーレ公爵」とか「ヴィットリオ・ファブリッツィオ・ロッシ・ディ・カヴァーレ」とか「マリオ・フランチェスコ・ディ・ドンブイユ公爵」は、ないだろう。聞いてもわからんぞ!自分の中では漫画のように、または、洋画の字幕のように、頭に浮かんでくるんだろうけどさ、耳で聞くだけで、どうしろっていうんじゃーーーーっっ!
そうそう、「萌え」だけで作品を作るところは児玉っち、人間平等と説教になるのはキムシン、これに加えて人質話は正塚、お祭りの風景は中村A、と、いろんな先生を思い出す部分がありました。他にもあったような・・・。
なんていうかねーーー。役者や映画監督っていうのは、一生に一本あたりをだせばイイと思う私ですが、宝塚の演出家だけは別ですなーーー。(大劇場)デビュー作は好きだったんだけど、「ドン・ファン」、そしてコレ、と、萌え優先で、話ができあがっていないよ。期待しているんだけどなあ。「話作り」に「失敗した」ジャジーの方がなんぼかマシだなんて・・・。いやーーー泣きたいよ・・・。
オサは、とにかく矛盾だらけの男だからな。魅力を感じなくても仕方がないわな。軍服はそれほどそそられない。いつもと違うマイクのせいか、歌声が通りにくかった。ふーちゃんはコスプレが良く似合う。ドレスの新調が多くて嬉しいなり。アンリエッタという女性自体は(も、だな)中身がない役だけど、綺麗なドレスをうまく着こなしているから、まあ、よろしかろ。現代物よりずっとイイよ。
ユミコは、「マラケシュ」に続き、本編に絡まない役。演技はいいんだけどねえ。勿体ない。まとぶんはそんなに浮いていない。蘭とむが濃いからか?その蘭とむは黒塗りっぽい役。へへへ、嬉しいなあ。まとぶんと並ぶと意外に若いかも。
「ASIAN WINDS!」
芝居があまりにも辛かったので、相対的に良く見える。「テンプテーション」ほど、「岡田敬二傑作選」にもなっていないし、例の色分けもあまりない。前作「アジアン・サンライズ」からは「エイサ」を使っているぐらいで、あまり被っていない。わりと見やすいショーです。服部先生のコーナーは、唐突な気もするけれど、TCAのノリみたいで、それほど違和感はない。階段の黒燕尾ダンスもあるし、嫌いじゃないよ。ただ、「アジア」を「エイジア」と歌うのは止めて欲しいわ。
銀橋デュエット後のトップコンビ。寄り添っているだけなのが、ちょいとつまらない。リカちゃんならなー、くらりんの背後から腕を回して、ぐわっ!と抱きしめて、頭を引っ掴んで自分のおでこにゴチンとやるのにな~~。アレに慣れていると物足りないっす。エトワールの華城季帆ちゃん(で合っているかな?)が、ものすごく綺麗な声でした。美しい~~っ!
そうそう、フィリピンの「サンパギータ」。どこかで聞いたことがあると思ったら、「イッツ」のリスの歌だったよ!バンブー・ダンスのところ!懐かしかったわ!!歌うはまとぶん。なんか、ぶんぶんに似てきているような気がする・・・。
芝居ではオサ>ユミコ≒まとぶん>蘭とむ、だったけど
ショーではオサ>ユミコ>まとぶん・・・でした。
第二次世界大戦下のイギリス。名門カヴァーレの当主ヴィットリオは恋人を伴いジュディッタを伴い、生活の場のミラノから故郷シシリアに戻る。そこで彼は、自分と同じ名前の曾祖父と曾祖母の恋物語を恋人に聞かせる。
19世紀半ばのイタリア。統一戦争で功績を上げたヴィットリオは、名門貴族カヴァーレ公爵の長女アンリエッタと愛し合うようになる。身分違いに苦しむ二人。果たして、二人の運命は・・・。
ユダヤ人のジュディッタとは、ファシズム政権下のイタリアでは結婚することができない。恋人達はアメリカへと旅立つのだった。
もうねーーー
景子ちゃんの
乙女ドリーム
大爆裂
です。
見ていて、とっても辛かったです。
今日のヒビキのデキなんて問題外になるほどでしたよ。
なんちゅーかねー、自分の「萌え」だけじゃ話が成り立たないので、いろいろ芝居にするために体裁を整えてみました、っていうその部分がね、あまりにも適当なんだわな。キムシン的説教なんだけど、そこが本題じゃないので、ものすごく薄っぺらいのよ。特権階級の貴族を云々とか言うのがオサ・ヴィットリオの言い分で、そのために彼は戦って仲間も死なせたのに、自分が大貴族の御落胤と知ったら、なんの疑問もなくその立場に収まっちゃうのよ。いままでのあなたの戦いはなんだったんだよーーーっっ!と叫びたくなります。いっそ、「山猫」をそのままパクってくれた方が、よっぽど良かったよ。こんな話・・・・・・。ああ、情けなや。
で、その話を挿入しなければならなかったほどの景子ちゃんの「萌え」ポイントですが、おそらく、「白いドレスのクラウディア・カルディナーレ」と思われ。
せめて「萌え」がアラン・ドロンのタンクレディなら、あるいは、オサに各種取り取りの軍服~なら、「ヴィットリオ(という男を)描く」って話になったんでしょう。でも、まず、「白いドレスのクラウディア・カルディナーレ」ありきだから。それを宝塚の舞台に存在させるための話だから。それを中心に話を作っていったので、その女性にまとわりつく男性をうまく創造できなかった、そんな印象を持ちました。
それなのに、ああ、それなのに、、、。景子タンの乙女ドリームだけは炸裂していて・・・。オサの登場場面、マントが風にたなびいているよ。デスラー総統みたいだよ。そして、そして、夜這いシーン。雷が鳴っているよ。開けた窓、白いカーテンがたなびいて・・・。ああ、ついて行けない・・・・。
もしかして、「山猫」を知らなければ面白いのかなあ。でも、ポスターがすでに「山猫」だったからさ。で、オサ・ヴィットリオを平民のまま悩ませて悲恋にしておけばいいものを、やっぱりバート・ランカスターは出さなきゃダメでしょ、とばかりにドンブイユ公爵を出しちゃったから、余計にすっきりしないんだよねえ。
さらに問題点を言うのなら。児玉っちもその傾向があるけど、自分の中では完成品なんだろうけど、見る側に理解させようという配慮をもう少しして欲しい。芝居を見る方はね、脚本は読めないの。だから役名は耳で聞き分けるしかないのよ。貴族に勿体ぶった、お耽美な名前をつけたいのはよくわかるけどさ、だからと言って、「アレッサンドロ・ファブリッツィオ・ディ・カヴァーレ公爵」とか「ヴィットリオ・ファブリッツィオ・ロッシ・ディ・カヴァーレ」とか「マリオ・フランチェスコ・ディ・ドンブイユ公爵」は、ないだろう。聞いてもわからんぞ!自分の中では漫画のように、または、洋画の字幕のように、頭に浮かんでくるんだろうけどさ、耳で聞くだけで、どうしろっていうんじゃーーーーっっ!
そうそう、「萌え」だけで作品を作るところは児玉っち、人間平等と説教になるのはキムシン、これに加えて人質話は正塚、お祭りの風景は中村A、と、いろんな先生を思い出す部分がありました。他にもあったような・・・。
なんていうかねーーー。役者や映画監督っていうのは、一生に一本あたりをだせばイイと思う私ですが、宝塚の演出家だけは別ですなーーー。(大劇場)デビュー作は好きだったんだけど、「ドン・ファン」、そしてコレ、と、萌え優先で、話ができあがっていないよ。期待しているんだけどなあ。「話作り」に「失敗した」ジャジーの方がなんぼかマシだなんて・・・。いやーーー泣きたいよ・・・。
オサは、とにかく矛盾だらけの男だからな。魅力を感じなくても仕方がないわな。軍服はそれほどそそられない。いつもと違うマイクのせいか、歌声が通りにくかった。ふーちゃんはコスプレが良く似合う。ドレスの新調が多くて嬉しいなり。アンリエッタという女性自体は(も、だな)中身がない役だけど、綺麗なドレスをうまく着こなしているから、まあ、よろしかろ。現代物よりずっとイイよ。
ユミコは、「マラケシュ」に続き、本編に絡まない役。演技はいいんだけどねえ。勿体ない。まとぶんはそんなに浮いていない。蘭とむが濃いからか?その蘭とむは黒塗りっぽい役。へへへ、嬉しいなあ。まとぶんと並ぶと意外に若いかも。
「ASIAN WINDS!」
芝居があまりにも辛かったので、相対的に良く見える。「テンプテーション」ほど、「岡田敬二傑作選」にもなっていないし、例の色分けもあまりない。前作「アジアン・サンライズ」からは「エイサ」を使っているぐらいで、あまり被っていない。わりと見やすいショーです。服部先生のコーナーは、唐突な気もするけれど、TCAのノリみたいで、それほど違和感はない。階段の黒燕尾ダンスもあるし、嫌いじゃないよ。ただ、「アジア」を「エイジア」と歌うのは止めて欲しいわ。
銀橋デュエット後のトップコンビ。寄り添っているだけなのが、ちょいとつまらない。リカちゃんならなー、くらりんの背後から腕を回して、ぐわっ!と抱きしめて、頭を引っ掴んで自分のおでこにゴチンとやるのにな~~。アレに慣れていると物足りないっす。エトワールの華城季帆ちゃん(で合っているかな?)が、ものすごく綺麗な声でした。美しい~~っ!
そうそう、フィリピンの「サンパギータ」。どこかで聞いたことがあると思ったら、「イッツ」のリスの歌だったよ!バンブー・ダンスのところ!懐かしかったわ!!歌うはまとぶん。なんか、ぶんぶんに似てきているような気がする・・・。
芝居ではオサ>ユミコ≒まとぶん>蘭とむ、だったけど
ショーではオサ>ユミコ>まとぶん・・・でした。